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16. 一分咲き (4)

「簡単に言えば、投げる回数をなるべく少なくしましょうってことです」


 悠と莉花が少し離れた場所でディスクを投げる練習をしている中、自分は宣言通り碧依への説明に時間を割いていた。


「投げる回数?」

「そうです。普通のゴルフなら打つ回数ですけど、今回は投げる回数ですね」


 軽く話を聞いてみたところ、碧依はゴルフのルールを一切知らないと判断してよさそうだった。ということで、まずは基本の基本から話を始める。「打つ」と「投げる」という言葉の違いはあるものの、そこは大した差ではないだろう。


「ここに『PAR 4』って書いてありますよね?」


 そう言いながら、最初に見た看板を指差す。ある意味では一番重要と言えるルールだからこそ、何よりも先にそこに言及する。


「『ここからディスクを投げ始めて、四回であのカゴに入れてください』って意味です」


 ようやく用途が判明したそれに指先を向け、再び簡単な言葉で碧依に意味を伝えていく。先程見つけて全員で首を捻った謎の物体は、ディスクゴルフのゴールだった。ターゲットやバスケットとも言うらしい。


「必ず四回で入れなきゃいけないの?」

「いや、必ずじゃないです。決められた回数より少なくても、反対に多くても大丈夫です」

「多くてもいいんだ?」

「なるべく少なくなるように頑張りはしますけど、多くても特に罰はないです」

「そっかそっか。それなら気楽だね」


 疑問顔から意外そうな顔を経て、最終的に碧依の表情が少しだけ和らぐ。ある程度のことは知っている自分とは違って、初めてでルールも分からないとなれば、いくら仲間内でも緊張するものなのだろうか。


「決められた回数通りなら『パー』です。一回少なければ『バーディ』で凄いね、二回少なければ『イーグル』でとっても凄いねって感じです」

「多いとどうなるの?」

「一回多いと『ボギー』で残念だったね、二回多いと『ダブルボギー』でとっても残念だったね、です。多いのも少ないのもまだありますけど、とりあえず今はこれだけで大丈夫なはずです」


 時々湧いてくる碧依の疑問に答える途中で、より少ないもの、より多いものの名前が記憶の底から浮かび上がってくる。こんなところでアルバトロスやコンドル、オーストリッチの説明をしても意味がないのは分かっていても、勝手に浮かんでくるのだから仕方がない。


 もしかすると、トリプルボギーなら必要かもしれないが。そんなことを考えつつ、碧依の理解が追いついているか、その顔を窺って確認する。


「へぇ。一つ一つ名前が付いてるんだ?」

「いちいち『PAR 4のホールを三打で終えた』なんて言うのは大変ですからね。『バーディ』の一言で終わらせる方が楽に決まってます」

「確かに。それで、できるだけ少ない回数で終わった人が勝ち、と」

「ですね。今回は一ホールだけなので、投げた回数が一番少ない人がそのまま勝ちです」


 教わったルールを繰り返すように口にして納得している辺り、しっかりと説明を理解してくれたらしい。教えていた側としても、こういった時の碧依は素直に話を聞いてくれるので話しやすかった。普段からこうあってほしいが、今のところそれは届かぬ願いである。


「よしっ! 大丈夫そう!」


 力強くそう言いながら、碧依が軽く拳を握る。その様子を見るに、もし練習する中で分からないことが出てきても、その都度説明するような形で大丈夫だろう。ルールとしては、特に難しいところはないはずだ。


「じゃあ、僕達も練習しましょうか」

「任せてよ!」


 そこで何故か笑みを浮かべる碧依。一体何を任せたらいいのか分からなかったので、とりあえず自分が浮かべた曖昧な笑みの処理を任せることにした。




 一通りルールの説明を終えて、自分と碧依も何度かディスクを投げてみる。こうして遊ぶこと自体は初めてではないが、もう久しく触れていないので、実質初めてと言ってしまっても過言ではないだろう。


 試しに投げた一投目は、見事に大きく右へと曲がっていった。軌道を意識して投げれば手元がぶれて、ディスクが揺れながら短い距離で地面に沈む。昔はもっとしっかり投げられたはずだが、もはやあの頃の自分は見る影もなかった。


「もしかして、湊君って投げるのは苦手?」

「得意も苦手も意識したことない、です」


 言葉に合わせて三投目。今度は左に逸れていった。


「……」

「……苦手です」


 沈黙に耐えきれず、僅かな逡巡の後に認める。碧依の視線がとても優しい雰囲気をしていて、それもまた耐えきれなかった一つの原因だった。


「教えてあげようか?」

「できるんですか?」

「ほとんどやったことないから分からないけど、湊君よりは上手いんじゃない?」


 そう言いながら碧依が投げたディスクは、距離こそ短いものの、真っ直ぐ綺麗に飛んでいった。その軌道の綺麗さは、自分が投げたディスクとは大違いである。


「ね?」

「よろしくお願いします」


 再度こちらを振り返って首を傾げる碧依に、素直に頭を下げる。ここで変な意地を張っても、逸れたディスクと真っ直ぐ飛んだディスクは誤魔化せない。ルールは自分が教えたが、投げ方は自分が教わる側だった。


「『先生』って呼んでくれたら教えてあげる」

「……」


 素直に頭を下げたのに、碧依はやや強欲だった。自分に対して優位に立てるチャンスと考えたのか、ここぞとばかりに攻勢に出てくる。


「ほらほら」

「……先生」

「『碧依』先生」

「……碧依、先生」

「ふあっ……!?」


 言わないと教えてもらえない雰囲気だったので、若干恥ずかしさを覚えながらもその名を口にする。自分のことをいいように扱えていることに対してなのか、その呼び方に対してなのか、はたまた両方なのか。とにかく、碧依がその瞬間に嬉しそうな声を漏らした。


「可愛いかも……!」


 何故か頬を染めて呟く碧依。自分に向けられる視線がどこか危なげなものに感じられて、今からでも他の二人に教えてもらう方がいいのかもしれないと、そんな考えが頭を過った。


「あ、やっぱり向こうの二人に教えてもら……」

「だめ」


 思わずそう漏らして背を向けかけた自分の手首を、碧依の右手が掴む。普段の穏やかな様子からは想像できない程の俊敏さである。


「湊君は碧依先生から教わるんだよ?」

「何がそこまで琴線に触れたんですか」


 思いがけない接触に戸惑いながらも、それ以上に、「何が何でも自分に教える」という強い意志の方に戸惑って尋ねてみる。尋ねてから思ったが、詳しく尋ねない方が身のためだったのかもしれない。


「可愛い子に『先生』って言われて興奮しない人なんているの?」

「変た……」

「違うよ」


 だが、尋ねてしまったので答えが返ってくる。どう考えても危ない人物の発想が聞こえてきてしまって、思わず頬が引き攣った。それでも、碧依は自分の言葉に被せるようにして否定する。


「とっても真面目だから。真面目に、将来は教師とかもいいかなって思ったの」

「捕まる前にやめておいた方がいいと思いますよ」

「大丈夫。ほんとにちょっと考えただけだから」

「何が……、いや、いいです」


 尋ねたところで、数秒前のやり取りと同じように、ろくなことにならない。目を輝かせている碧依から視線を外し、半ば諦める形でそう呟いた。


「ま、それは置いておいて。碧依先生の初めての生徒は湊君だね」


 問題は、それでも碧依とは関わらなければならないということだった。


「向こう……」

「だめ」


 今度は三文字しか言葉にしていないのに否定された。先程よりも手首を掴む力が強く、最早「逃がさない」と言っているのと同義である。迂闊に頼んで、渋々ながら名前で呼んだ少し前の自分を恨む。もう少し考えて行動するべきだった。


 そうは言っても、自分も諦めるしかない。


「何でそんなに嫌がるの?」

「何でそんなに嫌がられないと思ったんですか?」

「え?」

「は?」


 視線が交錯する。見つめ返してくる碧依の瞳は、何故か純粋そのもの。


「どうしてそんなに純粋な目ができるんでしょうね……?」

「何?」


 碧依には聞こえないように小さく呟いた一言。狙い通り、碧依の耳に届くことはなかった。


「何でもないです。もう諦めたので、教えてもらってもいいですか?」

「妙に引っかかる言い方だけど、任されました」


 結局、不安を抱きつつも任せることしかできない、自分の不甲斐なさを呪うしかないのだった。




「何してるの、二人共」

「湊君に投げ方を教えてるの」

「へぇ。できないんだ?」


 投げる姿を碧依に見てもらいながら練習する様子に気が付いたのか、少し離れたところで練習していた莉花が近付いてきた。碧依の答えを受けて、その目が自分に向けられる。


「できないわけじゃないです」

「できてないよ」

「らしいけど」

「苦手です」

「さっきから、絶対に『できない』って言わないんだよ」


 呆れたような口調で碧依が言う。その言葉を言わないことが、自分にできる最後の小さな抵抗だった。


「でも、そんなところも意地っ張りな女の子みたいで可愛いんだけどね」

「できません」

「綺麗に転がされてるなぁ……」


 言葉通り、本当に小さな抵抗。その抵抗の最期は随分とあっけなかった。


 くるくる回る自分の手の平。自分を転がす碧依の手の平。どちらが優勢かなど、考える必要もない。


「私も教えようか?」

「それはだめ」

「え?」


 恐らくは、話の流れの中で自然に出てきた提案だったのだろう。莉花の提案は、どこにもおかしな部分など存在していなかった。


 それでも、答えは碧依にしては珍しくはっきりとした拒否の言葉。思わず面食らったらしい莉花が、その表情の通りの声を漏らす。


「え、何? 何かあった?」

「湊君は私の初めての生徒なの。だから、横取りはだめ」

「え、何? 何かあった?」


 一字一句違わぬ言葉が、今度は自分に向けられる。この一か月程で何を掴んだのか、碧依のことを見限るのがとても早かった。今の碧依はまともに会話ができる相手ではないと、一瞬でそう見抜いている。是非とも見習いたい慧眼だ。


「僕に『碧依先生』って呼ばせて楽しんでるみたいですよ」

「え、何? 何があった?」


 今度は一文字だけ違った。理由を聞いても分からなかったらしい。実は、言った自分もよく分かっていない。


「え? 何? そういう遊びでもしてたの?」


 莉花の疑問が止まらない。相変わらず碧依は気にしないことにしているのか、視線の向きは自分から逸れることがない。


「遊びだったらよかったんですけどね。あの目、多分本気ですよ」

「『碧依先生』っていいよね……!」

「本気って言うか、『関わっちゃいけない人』の間違いじゃないの?」

「そうとも言います」


 本人の目の前でこれ以上ない程に失礼な会話を繰り広げる自分と莉花だが、今の状況を全力で楽しんでいる碧依は気にも留めていなかった。ある意味精神が強靭なので、教師に向いているのかもしれない。


「まぁ、そうやって遊んでるなら、私は口出ししないよ」

「面倒だからって逃げようとしてません?」

「今の碧依には関わらないのが吉だからね」


 やはり、この一か月程で随分と碧依の扱い方を理解したようだった。この点に関しては、莉花が先生である。


「僕もそっちに逃げたいんですけど、どうです?」

「湊君がこっちに来たら、絶対碧依まで来ちゃうでしょ。だめ」

「聞こえてるからね? 二人共?」


 まさにご満悦といった様子だったはずの碧依が、面倒事の押し付け合いを始めた自分達に釘を刺す。話を聞いていないようで、意外としっかり聞いていたらしい。


「ほらほら、あんまりゆっくりしてる時間はないよ、『葵君』?」

「はい?」


 予想もしていなかった呼び方が碧依の口から聞こえてきて、思わず微かに首を傾げてしまう。アルバイト先ではそう呼ばれているので慣れていない訳ではないのだが、こんな場面でそう呼ばれるなど、予想できるはずがない。


「どうかした? 葵君?」

「いや、聞きたいのはこっちですよ」


 再度楽しそうに自分の名前を口にする碧依。どうかしたのか尋ねたいのは、どう考えてもこちら側である。


「だって、葵君は『碧依先生』なのに、私が『湊君』なのはおかしいでしょ? だから『葵君』」

「別におかしくはないかと……」


 あくまでも想像でしかないが、いちいちそんなことを気にする教師の方が珍しいだろう。しかも、それは強制的にあることを想像させる。


「名前で呼び合う先生と生徒って、それもう……。しかも男女だし……」


 一瞬で思い浮かんで一瞬で消した考えを、莉花がわざわざ口に出してくれた。少しだけその頬が赤い辺り、やはり考えていることは同じなのだろう。


「何? 何かあった?」

「何でもないよ? じゃ、私はあっちで練習してるから。二人で楽しんでね」


 普段と変わらない表情。普段と変わらない雰囲気。なのに、どこか圧がある碧依の言葉に、即座に撤退を決めた莉花だった。そう言うが早いか、そのままそっと離れていく。その背中を追いかけたい気持ちが湧いてくるものの、とてもそれを許してくれるとは思えない相手が目の前にいる。


「よし、決めた!」


 その碧依が、何かを思い付いたように声を上げる。これまでの流れから考えると、間違いなく厄介事を思い付いているはずだ。その辺りは信頼している。


「嫌な感じがしますけど、一応聞いておきますね」

「うん?」

「どんな面倒事を思い付いたんですか?」

「流石にひどくない?」


 本人にとっても嬉しくないであろう信頼をぶつけてみれば、碧依が少しだけ口を尖らせて不満を露わにする。そんな仕草をするくらいなら、普段の言動を少しは見直してほしいものだ。


「でも、思い付いたことはひっくり返してあげないからね。さっきのアーチェリーのお願いなんだけど」


 都合よく記憶から消していた出来事を強制的に思い出すことになり、ますます嫌な予感は増大していく。「お願い」という言葉は至って普通の言葉なのに、何故か不穏な気配が漂ってくる。


「これからは、私のことを名前で呼んでね」

「碧依先生?」

「それじゃなくて。いや、それもだけど。今だけじゃなくてって意味。私もちゃんと『葵君』って呼ぶから」


 そうして願われたのは、碧依の呼び方についてのこと。要は、これからは「水瀬さん」ではなく「碧依さん」にしてほしいということだろう。


 しかも、碧依の方も名前で呼ぶというおまけ付き。「あおい」の名前を持つ人から名前で呼ばれる。そのことに、否応なしに思い出される記憶があった。


「せっかく色々お願いできるのに、そんなことに使っていいんですか? さっきは凄いことをお願いするって言ってましたけど」


 そんなこともあって、どうにかして話を別の方向に逸らそうとする。この際、多少の被害があろうと構わない。


「そっちは羽崎君のお願いが残ってるからいいよ」

「羽崎君の分?」

「うん。羽崎君にお願いしたら、どうせ葵君も巻き込まれるでしょ?」


 だから、自分へのお願いは実質二つあるのと同じ。それが碧依の考えだった。あまりにも独特で、あまりにも的確に自分と悠を捉えた考え方である。


「滅茶苦茶なことを言いますね」

「巻き込まれない自信ある?」

「ないです」

「でしょ? だから、とりあえず葵君への一つ目のお願いはこれ」


 二つ目があることを信じて疑わないからこそ出てくる、「一つ目」という言葉。そして、このお願いを曲げる気がないことも、何となく分かってきた。


「どうしても?」

「どうしても」

「呼び方くらい、そこまで気にしなくてもいいじゃないですか」

「それなら別に名前でもいいよね?」


 頭のどこかで無駄な抵抗と理解しつつ、それでも最後まで足掻く。しかし、苦し紛れの足掻きは、碧依に一つ一つ丁寧に抑え込まれていく。


「毎朝一緒に登校してるんだよ? そろそろ名字で呼び合うのも、他人行儀過ぎるって思わない?」

「それは……。……分かりますけど」

「それとも、そんなに私のことを名前で呼ぶのが嫌?」


 そして、最後に少しだけ寂しそうな表情を浮かべる碧依。こう言われてしまえば、最早断り続けることなどできなかった。ある意味では反則とも言える表情である。


「いや……。どうしても自分の名前を呼んでるみたいで、少し恥ずかしいだけです」


 それでも、口から出てきた理由は嘘を含んでいた。確かに若干の気恥ずかしさは感じるものの、それは理由のほんの一部に過ぎない。本当の理由は、誰にも明かせる訳がなかった。


 これから先ずっと、誰に対しても。


「それくらいだったらすぐ慣れるよ」

「それなら、まぁ……」

「はい! じゃあ、決まり! どうぞ!」


 ようやく自分がお願いを受け入れたことで、碧依の表情が一気に明るくなる。昨日は「口で勝てない」などと言っていたが、感情をも武器にした碧依のお願いの方が、遥かに勝てる気がしなかった。


「……碧依、さん」


 早速といった様子で促されて、どうにかその名を絞り出す。最近はとある後輩の影響で名前を呼ぶことが増えてはいたが、それはそれである。これまでの呼び方を変える瞬間というのは、どうしても恥ずかしさがこみ上げるものだ。


「今は『先生』だけど?」

「絞り出したのに……」


 その呼び方を求めていたはずなのに、即座に否定してくる碧依。今この場においては、やたらと厳しい教師役だった。




「よし、じゃあ、一番手いきます!」


 最初のホールのスタート地点。そう言って莉花が放った鮮やかな橙色のディスクが、空を切り裂いて真っ直ぐ飛んでいった。


 碧依と一騒動らしきものがあった後、さらに少しだけ練習を繰り返しての本番である。投げる順番については誰からも希望はなく、結局じゃんけんで適当に決めた。結果、一番手は偶然にもアーチェリーの時と同じく莉花。その後は、自分、悠、碧依の順番となった。


 四人分の視線を受けて宙を舞ったディスクが、音もなく芝生に着地する。スタートとゴールを直線で結んだ距離の約四割、といったところだ。


「まあまあいいんじゃない? 曲がらなかったし?」

「どうしてこっちを見るんですか?」


 その仕草の意味など考えるまでもない。どうせ曲がるだろうと言わんばかりの視線が突き刺さっているのだから、これで分からない方がどうかしている。


「どうせ曲がるでしょ」


 視線だけで済ませてほしかったが、思わず言ってしまったといった様子で予想を正解に変えてくれた莉花だった。何一つとして喜べることはない。


「葵君だってたくさん練習したし、多分大丈夫だよ」


 そこで反論したのは自分ではなく碧依。「多分」という言葉が付随している時点で、どこか諦めが窺える反論ではあったが。


「葵君?」


 経緯を何も知らない悠が、流れに関係なくその呼び方に疑問を抱く。お互い別々に練習していた僅かな間でそんな変化があれば、誰だって同じ疑問に辿り着くことだろう。反対の立場だったなら、自分もそんな反応になる。


「強制されました」

「矯正しました」

「うん?」


 音の響きが一緒な自分と碧依の言葉。だが、そこに込められた意味の違いに何か違和感を覚えたのか、悠が混乱したように視線を行ったり来たりさせている。


「別に名前で呼ぶのが正しいってわけでもないですって」


 何となく「強制」ではなく「矯正」だということを感じ取り、悠にも伝わるように噛み砕きながら反論する。その言葉を聞いてようやく正解に辿り着いたらしい悠が、視界の端で小さく頷くのが見えた。


「いーや! 正しいね!」

「あ、これ関わったら面倒なやつだね」

「お、羽崎君もよく分かってる」


 そうして何かを察した悠も、素早く撤退の判断を下す。莉花と二人、揃いも揃って判断が的確で素早い。


「何? 二人共?」

「何でもないよ」

「何でも?」


 判断は的確で素早くても、躱し方はひどく雑だった。それで躱せると思われている碧依の方にも、全く問題がないとは言いきれないが。


「そんなことより、次は湊君の番でしょ」

「そんなこと?」

「はいはい、その辺は今度二人で話しておきなさい」


 時間を気にしたのか、それとも単に面倒な状態の碧依から逃げたかったのか、半ば強引に話の流れを断ち切った莉花にそう促される。自分としても今の碧依からは逃げたかったので、これ幸いと言わんばかりに入れ替わりでスタート地点に立つ。


 一度ゴールの向きを確認し、そして明らかにそこから外れた方向を向く。


「どこに投げるつもりなの?」


 そんな光景を見て、ほとんど何も知らない悠が当たり前の疑問を投げかけてくる。


「どうせ真っ直ぐ飛ばないのなら、最初から曲がる前提で投げます」

「あぁ、うん……」


 答える自分に向けられるのは、困惑を含みながらもどこか優しげな眼差し。悠が自分に対して見せる表情の中では、かなり珍しい部類の表情である。


 何故だか心が痛いような気がした。


「諦めたんだ?」

「だって、何をしてもたまにしか真っ直ぐ飛ばないんだもん」

「で、ああなったと」

「うん。どうしてか分からないけど、曲がる方向はコントロールできるようになったから」

「器用なのか不器用なのか……」


 そして、碧依は莉花に練習の顛末を話していた。教えると言い出した碧依が諦める程の出来に、莉花が複雑な感情を露わにする。


 その会話を聞きながら自分が投げた第一投は、綺麗な放物線を描いて飛んだ。問題は、放物線が地面に垂直ではなく水平だったことだ。


「やっぱり曲がるね」

「綺麗だったね」


 曲がった結果、結局ゴール方向に近付くというある意味器用な一投だった。一応はプラスである結果に微かに満足しながら、順番が次の悠と入れ替わる。


「短い距離なら真っ直ぐ飛ぶんですけど、どうしてこうなるのか、自分でも分からなくなりました」

「ま、変なところに飛んでないだけいいんじゃない?」

「変な飛び方はしてるけどね」


 碧依と莉花のところに戻りつつ、自分も諦めの言葉を口にする。いかに諦めたとて、やはり教師役が厳しいことには変わりないのだが。


「……!」


 碧依からそっと目を逸らした自分の前で、悠が短く息を吐き出しながらディスクを投げる。真っ直ぐ地面と平行に飛んでいったディスクは、やがて莉花のディスクを大きく追い越して着地する。


「へぇ。意外」

「これでも男の子だからね。飛距離で負けるわけないよ」

「……」

「湊君以外」


 感心したような声を上げる莉花に、悠が自慢げに返す。その傍では、一人の男の子が流れ弾に当たってさらに目を逸らす羽目になるのだった。




 そんなこんなで、四人目の碧依の番である。


 どのディスクが誰のものか分かりやすくなるよう、様々な色に塗り分けられたディスクの中で、碧依が手にしたのは緑色のディスク。用意されていたディスクは赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の七色と白、黒で合計九色。虹色を揃えたのだろうが、正直青色と藍色の違いが分かりにくかった。


 恐らく四人の中では一番力が弱いであろう碧依が投げたディスクは、それでも白色のディスクの少し先まで飛んで着地する。言うまでもなく、白色のディスクの持ち主は自分だ。カーブしながら飛んだディスクは、その分だけ飛距離が出ていなかった。


 一番ゴールに近付いているのは紫色のディスク。コース全長の約六割といったところだ。


「じゃあ、次は一番遠い湊君だね」


 全員で白色のディスクに近付いての悠の一言。事実であることは誰よりもよく分かっているが、「一番遠い」とはっきり言われると、それはそれで情けなさがこみ上げてくる。


 気にしても仕方がないと自分を納得させつつ、少しだけ土が付いたディスクを拾い上げ、軽く叩いて綺麗にする。土のせいでおかしな飛び方をしてもらっては困る。


「綺麗になるのはディスクだけで、飛び方は綺麗にはならないぞ」

「うるさいです」


 自分の心を見透かしたような莉花の辛辣な言葉に、どこか納得してしまいそうになりながらも反論する。その反論が子供の癇癪にしか聞こえなかったことは、流石の莉花も口には出さなかったようだった。


 そう話している間に土を落とし終わったディスクを持ち直し、次の一投のために軽く構えを取る。当然、体の向きはゴール方向を向いていない。


「今度はさっきと反対向いてる……」


 悠の言葉通り、一投目の自分はゴールに向かって左方向に投げていたが、今は右方向に投げようとしていた。曲げるのは自由自在なのでどちら向きでも構わないのだが、何となく先程とは違う向きを選んだのだった。


 ちなみに、自由自在なのは曲がる方向だけで、その軌道を綺麗に制御できる訳ではない。


 一瞬だけ吹いた風が収まるのを待っての第二投。再び放物線を描いたディスクは、紫色のディスクのすぐ近くまで飛んでいった。


「何でその飛び方でゴールに近付けるの?」

「ね。ある意味コントロールはばっちりだよね」

「オリエンテーリングだけに?」

「は?」

「は?」

「渡井さんがその反応はおかしいでしょ……」


 お互いを威嚇するかのように見つめ合う碧依と莉花に、悠が突っ込みを入れていた。珍しい光景ではあるが、他人の結果を元に漫才をしないでほしい。


「ほら、次は碧依さんですよ」

「あ、やっぱりそっちもなんだね」


 面倒な状態になった碧依から撤退したことで、その先を知ることがなかった悠の呟き。そう言われると無駄に意識してしまいそうなので、是非とも流してもらいたい。


「はーい」


 返事をしながら、碧依が緑色のディスクに近付いて手に取る。構える向きは、自分とは違って真っ直ぐゴール向きだ。何も気負うことなく投げられたディスクは、吹き抜ける風に乗って飛んでいく。橙色、白色をそれぞれ追い越し、紫色の少し先で地面に落ちた。


「結構飛びましたね」


 練習も含めて何度か碧依が投げる姿は見てきたが、その中でも一番飛距離が出た、会心の一投である。


「上手く風に乗ってくれたからね」


 言いながらピースサインを掲げる碧依。思ったよりも飛ばせたことが嬉しいのか、見る者を魅了するような、弾ける笑みが浮かんでいた。そんな碧依とは対照的に、依然として最下位にいるのは自分としては、やや焦りのようなものが生まれてしまう。罰ゲームはないから気楽にと言ったのは自分自身だが、こうなってくると負けたくないという気持ちが強くなってくる。


 悠と莉花は順当にゴールしそうなイメージがあるので、そうなると今の狙いは三位ということになるだろう。そのためにも、どうにかして次の三投目でなるべくゴールに近付けておきたい。


 などと考えている間に、一投目二位の莉花が投げ終える。見れば、橙色のディスクは一気にゴールに近付いていた。既にコースの八割程は通り過ぎていそうだ。


「これなら最下位ってことはないかな?」


 こちらを見ながら言ってくる辺り明らかな挑発だが、実際その通りなので何も言い返せない。この第二投で、莉花の二位以上はほぼ確定したようなものだ。


 その莉花の一歩先を行く悠の二投目。一投目で既に半分を超えているので、同じように投げてしまえば、ゴールを飛び越えてしまうことになる。絶妙な力加減が求められる分、何も考えずに投げられた自分、碧依、莉花の三人よりも難易度は上がっていた。


「……」


 集中しているのか、それとも力加減を迷っているのか、一投目よりも投げるまでに時間がかかっている。午前のアーチェリーでは最下位だったが、ここでは一位も狙えるということで、多少の緊張もあるのかもしれない。


 それから僅かな間を置いて投げられた、悠の第二投。力加減に意識が向き過ぎたのか、その軌跡は少しだけカーブし、ゴール方向からは少し逸れた位置に着地した。それでも飛距離は十分。文句なしにゴールに一番近い位置である。


「ちょっと曲がっちゃった」

「でもゴールには近いじゃないですか」

「そうそう。それに、もっと曲げてる人もいるんだから、そこまで気にしなくていいでしょ」

「それもそっか」


 一体誰のことを言っているのか自分には分からない莉花の言葉だったが、何故か悠は理解して、さらに納得もしてしまったらしい。当然不満はあるものの、最下位に沈んでいる今、やはり何を言っても響かない。


 言葉を飲み込みながら、全員揃って白色のディスクに近付く。一番進んでいる悠と比べると、同じ三投目でも随分と大きな差があった。


「羽崎君の二投目とほとんど同じ位置だね」

「これは厳しいか?」


 碧依と莉花が話す通り、位置だけで言えば悠と同じ。しかし、そこには二投目と三投目という、あまりにも大きな違いが存在している。


「これを直接入れたらいいんですよ」

「言うね。できるの?」

「そんなことができるなら、今こんな位置にはいません」

「あ、できないのね……」

「感情が不安定になってるね」


 自分の心の奥に潜んでいた負けず嫌いが、ちらりとその顔を覗かせる。だが、覗かせたはいいものの、残念ながらそれに伴う技量がない。覗かせただけになりそうなのは、誰の目にも明らかだった。


「……」


 相変わらず自分が投げる方向は明後日の方向。三度目の放物線の終点は、それでも着実にゴールへと近付いている。


「上手いのか上手くないのか……」

「ある意味上手いんじゃない? ちゃんとゴールの近くだし」


 好きに批評する碧依と莉花の声を背に、着地したディスクを眺める。


 練習していた時にはどうなることかと思っていたが、意外とまともにゴールへ向かえている。残った距離くらいであれば練習の時に真っ直ぐ投げられたので、どうにかこうにか四投で終えられそうな雰囲気だった。


「じゃあ、次は私だね」


 緑色のディスクを構え、ゴールだけを見つめる碧依。しっかりと狙いを定めて投げられた三投目は、ぶれることなく、ゴールへ一直線に向かっていく。


「おっ」


 莉花が驚きの声を上げるのと同時。ゴールにぶら下がっているチェーンにぶつかり、緑色のディスクはそのままカゴに吸い込まれていった。


「やった!」


 両手を高く突き上げながら振り返る碧依。今日一番の笑顔がそこにあった。


「上手いぞ碧依!」


 そのまま碧依と莉花がハイタッチ。乾いた音が鳴り響いた。


「凄いね、水瀬さん」

「たまたまだけどね」


 その一投で最下位がほぼ確定した自分がやや気落ちする隣で、碧依が嬉しそうに悠と言葉を交わしている。確かにたまたまかもしれないが、ゴールしたという事実は揺るぎない。顔を覗かせていた負けず嫌いは、日の目を見ることなく引っ込んでしまった。


「今度は私の勝ちだね、葵君」

「参りました」


 身も蓋もないことを言えば、これで何かの勝負をしていた訳ではない。ないのだが、その嬉しそうな顔を見ていると、そんな野暮な考えは頭から消えた。素直に負けを認めて両手を上げる。


「普段なかなか勝てない人に勝つのって、やっぱり楽しいよね」


 降参の意思を示すために上げた両手だったのだが、そんな自分の手にまで何故かハイタッチをされる。意表を突かれ、少しバランスを崩す。


「っと……。罰ゲームとか、そういうのを賭けてなくてよかったです」

「もったいないことをしたよね。せっかく楽しみが一つ増えるところだったのに」


 本気で残念そうにしている碧依の様子を見て、罰ゲームを用意しなくてよかったと本気で思ってしまう。慣れの問題なのかもしれないが、既に若干恥ずかしい「お願い」をされてしまった身としては、これ以上の要求は怖くて仕方がない。


「……ちなみに、何を?」

「んー? バイト先を教えてもらう、とか?」

「何もなくて、本当によかったです」


 詳しく聞かない方がよかったかもしれないと、聞いてしまった後に思う。それこそ、ただ友人の前で接客をするのが恥ずかしいというだけで、何か実害があるようなお願いではなかったとしても、だ。


「そこまで嫌がられると、余計に気になるよね」

「だめです」

「尾行かなぁ……?」


 断られ続けた碧依の発想が徐々に怪しくなってくる。今後アルバイト先に向かう時には、背後に気を付けておいた方がいいのかもしれない。


「何怪しい話をしてるの」

「何でもないです」

「……ふーん。ま、いいけど」


 そんな自分達を見て何かを言いたそうにしている莉花だが、白状すれば莉花も敵に回るだけの話である。隠し通す以外の道はない。


「次、私だから」


 そう告げて、橙色のディスクを拾い上げる莉花。残された距離は、碧依よりも遥かに短い。これならば、この一投でゴールしても何もおかしくはない。


 そう思って眺める自分の先で投げられた莉花のディスクは、ゴールを僅かに外れてそのすぐ近くに落下した。


「あぁ……! 惜しい……!」


 分かりやすく悔しさを滲ませた声が届く。そうなってしまうのもよく分かる、絶妙な力加減の一投だった。


「これで莉花にも勝ちだね」

「今度こそって思ってたんだけどなぁ……」


 午前に続き、再び碧依に後れを取ることとなった莉花。自分が思っているよりも、意外と碧依が器用なのかもしれない。


「残念でした。まだ負けてあげないもんね」

「いつか絶対に勝つし」


 碧依に対して謎の闘志を燃やす莉花を尻目に、悠がゴールのすぐ傍に落ちている紫色のディスクに手を伸ばす。


 残っているのは、外すことはほぼないと言える距離だけである。それこそ、投げた瞬間に突風でも吹かない限りは、悠もこの一投で終わりだろう。


「もう単独一位はないけど、僕も決めちゃおうかな」


 悠にしては珍しく強気な言葉だった。このディスクゴルフの間、普段は見られない悠の姿がちらほらと垣間見えている。


 その自信に溢れた言葉通り、悠の投げたディスクは綺麗にカゴの中に収まった。結果としては、碧依と同じく三投。バーディでのホールアウトだった。


「まさか湊君と最下位争いをすることになるなんて……」


 二位までが確定し、想像もしていなかったとでも言わんばかりの様子で莉花がぼそりと呟く。一体どういう意味で言っているのか、じっくりと問い詰めたい気持ちになる。


 問い詰めずとも、答えはほとんど分かっているのだが。


「あの投げ方を見てたら、普通は負けるなんて考えないでしょ」

「傷付きました」

「口に出してる辺り、思ったより平気そうだね」

「表情も変わってないし」


 既にホールアウトした悠と碧依が、余裕の表情で突っ込みを入れてくる。日常生活であまり目にすることのない、所謂勝者の特権というものだった。


「次は距離的に湊君だよね? 私は次で絶対に入るから、これで入れないと最下位決定だぞ?」


 自分の手元が狂うようにと、わざとプレッシャーを与えるような言葉を選んでいるのだろうか。だが、状況を正しく理解した言葉でもある。


 莉花のディスクは僅かにゴールを外れただけだ。次の一投でゴールを外す方が、難易度が圧倒的に高い程である。つまり、自分はこの一投で上手くカゴに収めて、それでやっと莉花と同点と考えた方がよさそうだった。


「……」


 ディスクを構えながら考える。どうにか四投で終えられそうと考えもしたが、改めてゴールまでの距離を見ると、意外と力加減が難しそうだ。


「初めてゴール方向に構えてる……!」


 そして、集中を削ぐ外野の声。ゴール方向に構えただけで悠に驚かれるという状況に複雑な感情を抱きながら、最後の一投とするべくディスクを放つ。


 風に吹かれ、少しだけ揺れながら飛んだディスクは。


「私の勝ちだね、湊君」


 ゴールのカゴをかすめて、地面にその身を横たえていた。




「最下位じゃなくてよかったー!」


 ディスクゴルフを終え、オリエンテーリングに戻りながらの感想。自分とぎりぎりの最下位争いを繰り広げた、莉花のものだった。


 自分が四投目を外したすぐ後のこと。莉花が危なげなく四投目をカゴに収め、順位が確定した。バーディを奪ってみせた悠と碧依が同率一位。パーをセーブした莉花が三位。ボギーを叩いた自分が四位となった。


「僕はアーチェリーで最下位だったから、お揃いになっちゃったね」

「何でちょっと嬉しそうなんですか」


 慰めなのかどうかが分かりにくい言葉をかけてくる悠。その顔はどこか緩んでいて、すぐ近くに仲間ができたことを喜んでいるかのようだった。


「意外なところで、湊君の苦手なものを見つけられたからね」

「苦手くらい、誰にだってありますよ」


 何やら負け惜しみのように聞こえる言葉だったが、本心からの言葉でもある。苦手なことがない人間など、この世には存在していないはずだ。


「よし、それじゃあ次のコントロールを探そうか」


 意識をディスクゴルフからオリエンテーリングに切り替えるように莉花が言う。時間もある程度過ぎ、これから順調にコントロールを回れば、集合時間の辺りでゴールできそうな雰囲気である。


「次のコントロールって何番だっけ?」


 地図を広げながら碧依が尋ねる。ディスクゴルフに興じている間に、これまでいくつのコントロールを通り過ぎたか曖昧になってしまったらしい。


「五番ですね」


 そう言いながら、碧依が広げた地図の一点を指差す。今の場所から程近い、道が十字に分岐する場所だった。


「じゃあ、こっちだね」


 自分が持っていたコンパスを見てから歩き出す碧依の背中を、自分を含めた三人が追いかける。


 ディスクゴルフで一時中断していたオリエンテーリングもいよいよ後半戦。朝から続いていたスカイブルーの晴れ空には、徐々に暗い雲が増え始めていた。


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