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15. 一分咲き (3)

「それでは、これからオリエンテーリングの説明を始めます」


 昼食の時間も終わり、僅かな移動時間を挟んだ午後一時半。いよいよ、本日二つ目の体験が始まろうとしていた。


 午前とは別の集合場所に集まっている生徒の中には、午前も見かけた顔もあれば、今日初めて見る顔もある。


「細かい注意点は後から話すとして、これから皆さんにしてもらうことを簡単に言うと、ここからスタートして、コントロールと呼ばれるチェックポイントを回り、最後にゴールを目指してもらいます」


 自分達が選んだ二つ目の体験はオリエンテーリング。本来ならば山林の間を駆け抜ける競技だが、そこは流石に高校生の体験活動である。実際に使用するのは、舗装された道だけだそうだ。


「まずは、班ごとに一枚の地図とコンパスをお渡しします」


 その言葉を合図にしたかのように、職員と教師が手分けして各班を回り始める。配布が始まってからしばらくして、碧依が代表して二つのセットを受け取る。


 受け取った地図には赤色で数字が書かれていて、一から七まで書かれている。Sの文字が今いる場所でスタート地点、Gの文字がゴールだろうか。


 コンパスの方は、何の変哲もない、よくある代物だった。碧依の手の中で、赤と銀に塗り分けられた針がゆらゆらと揺れ動いている。


「全ての班に行き渡りましたか? まだの班があれば手を挙げてください」


 そう言って職員が全体を見回すが、どの班からも手は挙がらない。


「大丈夫そうですね。では、細かい説明に移りたいと思います。まずは、受け取った地図を見てください」


 周囲で一斉に地図が広げられたことで、紙が擦れる音が聞こえてきた。自然の中において、人工的な音はよく響く。


「皆さんにお渡しした地図ですが、実は、他の班とは必ず違う地図になっています」


 恐らくは誰も想像していなかった言葉に、何人かが顔を上げる気配がした。隣の悠も、その一員である。


 それはともかくとして、地形は同じはずなのに、他の班とは違う地図である。違いがあるとすれば、それは。


「示されている道は全く同じですが、書かれている数字の色とその数字を囲む記号が、他の班と違っています」


 半ば予想していた通り、そこしかなかった。


「数字の色は、赤、青、緑、橙、紫の五色。数字を囲む記号は、丸、三角、四角、星の四つです。皆さんには、数字の色と同じ色のコントロールを回ってもらいます。」


 説明を受けて、四人で再度地図に目を落とす。数字が赤色なのは確認済みで、次に気にするべきは、その数字を囲んでいる記号だ。


「赤で四角、だね」


 地図を持つ碧依が、確認の意味を込めて呟く。言葉の通り、記号は四角だった。


「ってことは、赤のコントロールとかってのを、この順番に回るってこと?」

「じゃないかな? 多分合ってるはず」


 莉花も自身の理解を深めるように確認する。色と記号で分けられているので複雑そうに思えるが、とにかく赤のコントロールを回るということで正解だろう。記号にも意味があるのだろうが、回る色には関係ないはずだった。


「なので、この周辺にはたくさんのコントロールが設置してありますが、自分達に関係あるのは、その中の一部だけだと思ってください」


 やはり、その認識で間違いないらしい。そこかしこに様々な色のコントロールがあっても、気を付けるのは赤だけである。


「さらに、同じ色の数字が書かれた地図を持っていても、囲んでいる記号によって、その順番が違うものになっています。なので、他のどの班とも同じルートになることはありません」

「なるほど。そうやって分けてるんだね」

「どうかしました?」


 続けて記号の説明を受けたところで、それまで黙って説明を聞いていた悠が、何かに納得したように小さく呟いた。


「こういうのって、皆一斉にスタートしたら、後ろから追いかけるだけの班が出るんじゃないかなって思ってたから」

「そう言われると、よく考えられてますよね。羽崎君とか、まさにやりそうですもんね」

「流石にしないよ……!?」


 そういった事態も見越しての色分け、記号分けなのだろう。もっと単純な話、他の班と同じルートだと面白くないというのもあるかもしれないが。


 小声で抗議するという器用な仕草を見せた悠を受け流しながら、そう考える。


「コントロールには色が塗ってある他に、それぞれの記号の何番に対応しているかが書いてあります。皆さんにお渡しした地図の上の方に、バーコードがありますよね? これをコントロールに設置されている読み取り部分にかざせば、それで通過したことになります」


 一つ説明を聞く度に生まれる疑問が、その次の説明ですぐに解消されていく。こんな山奥には似合わない、デジタルな方法での管理だった。


「そうやって時間内に全てのコントロールを回って、ゴール地点まで辿り着くのが目標です。とはいえ、時間はかなり余裕があるように設定していますし、どのルートも色々な場所を回れるようになっているので、気楽に楽しんでください」


 オリエンテーリングについての簡単な説明を締めくくるようなその言葉で、周囲から微かに安堵の雰囲気が漂い始める。その中にいる自分達も、もちろん例外ではない。


「昨日の散策の時に行かなかった場所なんかも回れそうだね」

「ですね。山の中を駆け回らなくていいのなら、のんびり行きましょうか」


 内心の好奇心が少しだけ漏れ出している碧依に、そう言葉を返す。これから行われるのは、事前に調べていた本格的な競技としてのオリエンテーリングよりも、ずっとゆったりとしたオリエンテーリングになりそうだった。




「では、続いて注意点の説明をしようと思います」


 コントロールの回り方を一通り学んだ後は、午前のアーチェリーの時と同じように注意点の説明だった。どこでも同じような流れで説明されていたのか、辺りに漂っていた柔らかな空気が引き締まる。


「いくら舗装された道しか使わないとはいえ、各班で山の中を自由に動き回ることになります。勝手な行動は、最悪遭難に繋がります」


 恐らくはわざと使われたであろう、「遭難」というインパクトの強い言葉。普段の生活では意識の片隅にも浮かばないその言葉は、さらに空気を引き締めるのに十分な効果を発揮した。


 自分達もそうだったが、それまで必ずどこかから聞こえていた囁き声は、その瞬間から一切聞こえなくなる。


「第一にですが、先程から説明している通り、今回の体験では舗装された道しか使いません。つまり、どのルートでも、必ず舗装された道を通るだけで全てのコントロールを回りきれる、ということです。近道に見えるからといって、山林の中に入っていくことだけは絶対にしないでください」


 最初に説明されるだけあって、これが最も可能性が高い危険なのだろう。その注意を受けてちらりと碧依が持つ地図に目を向けてみると、この瞬間から意識が変わったのか、先程までは見えていなかった地形が徐々に見えてくる。いくらこの地図が手元にあろうと、素人の集まりで山林地帯を正しく踏破する自信はなかった。


「いいですか? 舗装された道です。いくら綺麗に見えても、土がむき出しになっている道も使わないということです。アスファルトの道と土の道があったら、迷いなくアスファルトの道を選んでくださいね」


 口調こそ優しげなものの、とにかく道から外れるな、という注意だった。職員、教師側としても、生徒が行方不明になる事態は絶対に避けなければならないので、当然の話である。


「私達職員や皆さんの高校の先生方があちこちで待機して、なるべく安全に配慮はします。ただ、どうしても目が届かない場所もあります。そこでの安全は皆さんの行動次第なので、どうかよろしくお願いします」


 そこまで説明して、職員が軽く頭を下げる。本来であれば、配慮してもらう自分達が下げるべきところだ。それが反対になっていることで、より一層注意事項が強調されているような気がした。


「続いては、動植物に関してです。この辺りでは大型の動物はまず見かけませんが、それでも絶対ではありません。仮に見かけた場合は、刺激を与えるような行動はしないでくださいね。『悲鳴を上げる』というのは以ての外です。ゆっくりとその場を離れるようにしてください」


 引き続き、別の注意点の説明に移る。遭難の次に思い浮かぶであろう危険といえば大型動物だが、そうして濁して言われると、頭の中にはどうしてもあの動物が浮かんできてしまう。


「熊とか出るのかな……?」


 隣の碧依が思わず漏らした声。それは、この場にいる全員の心の声を代弁したものだった。山の中で出会いたくない大型の動物といえば、真っ先に思い浮かぶのがそれだろう。特に、この時期は冬眠明けの時期に当たるはずだ。嫌でも警戒心が強くなる。


「まぁ、皆さんの警戒心を高めるためにこういった言い方をしましたが、気になっているであろう熊は、この辺りで見たことはありません。出ないとは言いきれませんが、まず気にしなくていいとは思います」


 これまで幾度となくこの説明を繰り返してきたであろう職員が、そんな雰囲気になることは分かっていると言わんばかりに緊張を解す言葉を口にする。最大の懸念材料が薄らぎ、周囲から安堵のため息が漏れるのが聞こえてきた。


「それでも、もし出会って目が合ってしまったら、持っている荷物をその場に置いて、背中は向けずにゆっくり後退りしながら離れてくださいね」


 そうして緩んだ空気を今一度引き締めるように、一応の対処法が語られる。だが、いざという時にそれを上手く実践できるかと尋ねられると、正直あまり自信はない。


「他にも、植物も意外と危険だったりします。皆さんもよく聞くのは、漆でかぶれたり、なんてものだと思います。触れただけで何か害を及ぼすものも、思ったよりも近くに生えていたりするので、迂闊に触らないでください」


 動物だけに注意が向かいかけたタイミングでの、植物への注意。何度も繰り返してきたであろう、よく考えられた説明だった。嫌でも高められた警戒心が、そのまま植物にも向く。


「どれだけ知っているものに似ていても、生っている実を食べる、なんてことも絶対にだめですからね?」


 起こる確率はかなり低そうで、それでも意外と誰かが起こしてしまいそうなトラブルのケアもしっかりしていた。




 長かった説明も終わり、いよいよ出発の時間となった。早くもどこかへ向かって歩き出した班があれば、自分達のようにまだスタート地点にいる班もある。


「最初のコントロールってどこ?」

「ん。ちょっと待ってね……」


 既に後ろ姿しか見えない班を見送りながら莉花がそう尋ね、碧依が再び地図を開く。先程全員で覗き込んだ時は、コントロールの順番はそこまで気にして見ていなかった。


「今がいるのがスタート地点でここだから……」

「結構離れてますね」


 四角で囲まれた一の数字は、Sの文字からはかなり離れた位置に書かれている。その後の流れとしては、スタート地点のすぐ近くにあるゴールに向かって帰ってくるような順番になっていた。


「でも、この辺ってさっき言ってた、まだ行ったことがない辺りだよね?」

「だね。時間があるうちに行けるなら、ちょうどいいんじゃない?」


 最初から大変そうだと考える自分の目の前には、考え方が前向きな女子が二人いた。スタートする前から、意見がすれ違ってしまっている。


「で、そっちの男子二人は、体力大丈夫そう?」


 わざわざそんなことを口にする必要もあるまいと、黙って碧依と莉花の会話を聞いていると、その莉花がそんな形で話を振ってきた。


「僕達の方が水瀬さんよりも先に心配されるの?」

「僕達のことを何だと思ってるんですか」

「女子より体力がないかもしれない二人組」

「ひどい……」


 あまりにもストレートな莉花の言い方に、悠が目に見えて肩を落とす。どうやら、なかなか酷な評価を参考にして話を振ってきたらしい。普段の体育の授業は男女別で、自分と悠の様子は分からないはずなのに、だ。もちろん、体力がない方であるとは分かっているが、それでも女子よりはあると思いたかった。


「少なくとも、運動部の私よりはないよね?」

「……」

「……」

「黙るなって」


 思いたかった。


「大丈夫! 流石に私よりはあると思うし!」

「……」

「……」

「傷口に塩を塗り込んだね、碧依」

「え!? あれ!?」


 女子の中でも体力がない方に見える碧依に「少し上」程度に認識されているという事実が、より自分と悠の心を抉った。碧依の慌て方から察するに、無意識で言っているであろうことが余計に威力を底上げしている。


「ま、何かあっても気合いでついてきてもらおうか」

「あの……、ごめんね……?」


 精神的に前向きな二人と、物理的に下向きな二人。不思議な組み合わせになってしまった自分達四人のオリエンテーリングが、この瞬間始まった。




「フリーゼさん、ちょっといい?」

「ん?」


 四限の授業が終わった昼休み。昼食を終えた自分に、クラスメイトの男子が話しかけてきた。直接話したことがないクラスメイトではあるが、確実に名前は聞いたことがある。この一か月程で、授業中に指名されたことがない生徒はいないはずだ。


「えっと……」


 普段ならそこまで強くは思わないものの、今回ばかりは何が何でも名前を思い出さなければならない。先程あんなことがあったのに、同じことを繰り返す訳にはいかなかった。


 だが、そう思って焦れば焦る程、出てくるはずの名前も出てこなくなる。ふらふらと目が泳ぎ出すのが、自分でもとてもよく分かってしまった。


「島崎春樹君」


 そんな自分を見かねたのか、紗季がぼそりと名前を呟いた。その瞬間、目の前の顔と記憶の中にあった名前が一致する。


「そう! 島崎君! 覚えてたよ!?」

「あぁ、うん……」

「忘れてたね」

「紗季、静かに」


 目の前の顔が苦笑いである時点で手遅れではあるのだが、思い出せなかったという事実を確定させる余計なことは言わないでほしい。


「あの、それで……」


 そんな苦笑いの春樹から、やや控えめに切り出される。話しかけてきてくれたのに、思いがけない形で放置することになってしまった。名前の件も相まって、ひたすら申し訳なく思う。


「あ、ごめん、何?」

「朝、誰かと三人で歩いてるのを見たんだけど、他の二人は知り合い?」

「うん。二人共先輩だよ」


 一体何を尋ねられるのかと思えば、どうやら葵と碧依という、同じ名前の先輩二人についてのことだった。自分のことについて何か尋ねられるのかと思っていたので、やや意外に思ってしまう。


「二人がどうかした?」

「あー、……いや、女子の先輩の方のことなんだけど……」


 対象が分かっただけで、結局何を尋ねられるのか分からないまま、春樹に聞き返す。そんな自分の問いを受けた春樹が、少しだけ恥ずかしそうに目を逸らした。


「へぇ……」

「な、何だよ……?」


 その様子から何かに気付いたのか、すぐ近くにいた紗季が目を細める。対する春樹は及び腰だ。


「何でもないよ?」

「うん?」


 紗季の頭の中を覗けない自分は首を傾げるのみである。一か月も経っているのに、未だにクラスメイト全員の名前を把握できていない自分には、ほとんど関わりがない男子の機微を察することなどできはしなかった。


「それで? どうして碧依先輩?」

「……もう一人の先輩と付き合ってるのかって分かる?」

「葵さんと?」

「は? え?」

「あ」


 何かを意識することもせず、いつも通りに自分が発したその呼び方で、春樹の顔が困惑一色に染まった。自分はもう慣れてしまったものの、初めて聞く人はそうなって当然だろう。思い返してみれば、自分も碧依の名前を聞いた時は驚いた記憶がある。


「えっと、二人共名前が『あおい』なんだ。男の先輩は葵さんで、女の先輩は碧依先輩って呼んでるの」

「あー……、それで」

「それで、二人が付き合ってるのかだっけ? 私はそういうのは聞いたことないかな……?」

「へー……、そっか……」


 名前の疑問を解消してから、本来尋ねられていたことへの返事をする。わざわざ自分に言っていないだけなのかもしれないが、少なくとも二人が付き合っているとは聞いたことがない。そもそも、碧依が転校してきてから一か月程度しか経っていないらしいので、そういった関係になっているとも思えなかった。


 そんなようなことを口にしたところで、これまでどこか緊張の色を含んでいた春樹の雰囲気が、ふっと和らいだような気がした。ここに至って、ようやく気付く。


「あ、そういう……」

「やっと気付いたの?」


 恐らく正解であろう考えに辿り着いた自分を見て、即座に理解していた紗季が呆れ顔を浮かべる。反論したい気持ちも湧いてくるが、流石に今の自分にその権利はないだろう。


「アイリス、そういうのほんとに気にしないよね」

「気にしないわけじゃないけど、自分に関係ないんだったらそんなにかな」

「はー。他人の恋愛ほど面白いものもないのに」

「そんなことを言ってると、いつか自分に返ってくるからね?」


 と言うよりも、これまでの仕返しも兼ねて是非返したい。普段は紗季にしてやられてばかりなので、少ない好機は逃さないつもりだった。


「とりあえず、それが聞けただけでいいや。ありがと」

「何となくライバルは多そうだけど、まあ頑張ってね」


 それだけ聞き出して背を向ける春樹に、紗季が応援を送る。応援になっているのかは、正直微妙なところだったが。


「それにしても、名前が同じって大変だよね」


 春樹の姿が他のクラスメイトの中に混ざっていったところで、たった今困惑の原因となった二人に紗季が意識を向ける。そちらは無意識の行動なのか、今日も宿泊学習でそこにはいないのに、一階上の教室に目を向けている。


「今みたいなことになるしね」

「それもそうなんだけど、もし結婚したらって話」

「結婚?」


 いきなり聞こえてきたあまり身近ではない言葉に、ついそのまま言葉を返すような返事をしてしまう。


「ほら、名前が同じだと、結婚したら夫婦で同姓同名でしょ」

「あ、そっか。葵さんと碧依先輩が結婚したら、どっちも『みなとあおい』か『みなせあおい』になっちゃうんだ」

「ね? 絶対面倒だって」


 葵と碧依がお互いのことをどう思っているのかは分からないが、仮にそうなったとしてその光景を頭の中に思い浮かべる。葵と碧依は気にしないのだろうが、周囲は今以上に混乱するのが簡単に想像できた。その度に、どこか諦めた様子で説明する葵と、楽しそうに説明する碧依の姿まで浮かぶ。


「……」


 よく一緒にいる自分から見て、今のところ二人にそういった気配はないが、可能性がない訳ではない。そうなれば、いずれ着ることになるのは。


「二人共、ウェディングドレスが似合いそうだよね……」

「どうした?」


 いきなり飛躍したことを口走った自分に、紗季の訝しげな視線が突き刺さる。「突然何を言い出すのか」という心情が、これでもかという程に視線に表れている。


「どっちが着るのかな……?」

「アイリスの言う、碧依先輩に決まってるでしょうが」

「いっそのこと、二人共ウェディングドレスで式を挙げるとか……。見てみたいかも……?」

「待て待て待て」


 そんな紗季が何かを言っているのは聞こえるものの、頭の中は葵と碧依のウェディングドレス姿でいっぱいで、反応を返す余裕は一切ない。


「二人でお互いのヴェールを上げるし、ブーケトスのブーケも二つ? ってことは、チャンスも二倍?」

「戻ってこーい?」


 妄想の中で、次々と結婚式のプログラムが進んでいく。目の前で紗季が手を振っているような気もするが、やはり反応する余裕はない。


「あれ? 二人の新婦って何?」

「こっちが聞きたいわ」


 二つのブーケがよく晴れたセレストブルーの空に放物線を描いた辺りで、ようやく意識が現実に戻ってきた。目の前の紗季は、先程よりもずっと呆れ顔である。


「葵さんと碧依先輩の結婚式、ブーケトスまで進んだんだけど、二人共新婦さんになっちゃってた。どこで間違ったんだと思う?」

「最初から間違ってた」

「あれ?」


 特大の違和感の原因を紗季に尋ねてみるも、自分が思っていたものとは全く違った回答が返ってくる。そんな感情を表すかのごとく、自分の首は自然と傾いていく。


「妄想のスタートから、二人にウェディングドレスを着せて楽しんでたよ」

「あれ?」

「首を傾げたいのはこっちだからね?」


 無視し続けた影響なのか、紗季の言葉が普段より少しだけ辛辣に聞こえる気がする。そのじっとりとした眼差しは、普段であれば自分が紗季に向けるようなものだった。


「私は遠目からしか見たことがないから分からないけど、その葵さんって人、そんなに女装が似合いそうなの?」

「『似合いそう』じゃなくて、似合うの」

「あ、はい」


 肝心なところを間違えている紗季の言葉を訂正するように、力強い言葉が自分の口から漏れ出す。そんな自分の様子に気圧されたのか、紗季が随分と素直に頷いた。立場がいつもと反対である。


「そこまで言うんだったら、私も一回会ってみたいかも」

「じゃあ、今度一緒に葵さんの教室に行く?」

「あれ? いいの?」

「何が?」


 特に何も考えずにした提案だったのだが、何故か紗季が意外そうな様子で自分を見つめてくる。そこで紗季が気にするようなことが、何かあっただろうか。


「ん……、何でもない。そこまで言ってくれるんだったら、一緒に行ってみようかな」

「よく分からないけど、会ったら私の言ってることが分かると思うよ」


 そう思ったのも束の間、結局紗季が受け入れて同行が決まる。謎の疑問の正体は気になるものの、今どうしても聞かなければならないものでないので、また今度思い出した時でもいいだろう。


 今はそれよりも、初めて葵を間近で見た紗季の反応の方が楽しみだった。




 昨日バスの中から見ていた常盤色を間近に眺めながら、一つ目のコントロールへ向かって歩いていく。風に乗って届く空気は、街中のものとは匂いすら違うように感じられた。


「今朝思ったよりは寒くないね」


 出発してからしばらく歩いたことで暑くなってきたのか、悠が着ていた上着の前を開けながらそう口にする。雲はやや多いものの、しっかりと太陽が姿を現していて、その言葉の通り少し暑さを感じる程である。


「山の天気ってやっぱり心配だけど、しばらくは大丈夫そうかな?」

「だといいですね。アーチェリーの時は屋根がありましたけど、今降られたら屋根なんてないですし」


 山道なので当たり前のことだが、付近に雨宿りできるような建物はない。施設からもある程度離れてしまった今、雨に降られてしまえば、濡れながら走るしか道はない。


 せめて雨合羽でも持ってくるべきだったかと後悔するが、始まってしまった以上はもうどうしようもない。あとはゴールするまで天気が悪くならないように祈るだけだ。


「ほらほら、ちょっと遅れてるよ?」


 そんな話をしながら悠とのんびり歩いていると、いつの間にか碧依、莉花の二人組が少し先に行ってしまっていた。振り返ってようやくそのことに気付いた莉花が、自分達を呼び寄せるように言う。


 出発前に話していた通り、流石は運動部に所属する莉花である。足取りは自分達の中の誰よりも軽快そうだった。今は問題なく背中を追えているものの、後半も同じようにできるかと尋ねられると、正直はっきりと答えることはできそうになかった。


「遅れてるの、ばれちゃったね」

「少しだけペースを上げますか」


 お互いにお互いを横目で見ながら、そう言葉を交わして歩くペースを少しだけ上げる。碧依と莉花が待っていてくれたおかげで、大した時間もかけずに追いつくことができた。これで再び四人の集団である。


「まだ一つ目にすら辿り着いてないのに、まさかもう疲れたとか言い出さないよね?」


 再度四人揃って歩き出してからの、莉花の第一声がそれだった。悪戯っぽく笑っている辺り、冗談でしかないのがよく分かる。


「山道は流石に疲れますね。背負ってもらってもいいですか?」

「言い出すのが男女逆。そもそも、微塵も疲れてないよね」

「ばれました?」

「それぐらいは誰でも分かるって」


 自分の発言に対して小さく驚きの声を漏らしていた碧依のことは、今は気にしないでおく。莉花曰く誰でも分かるらしいので、きっと何か別のことに驚いたのだろう。


「ま、そんなことが言えるうちは大丈夫そうだね」

「そもそも、山の中って言っても、そんなに高低差がないですからね」

「意外とね。もっとアップダウンが激しいと思って身構えてた」


 今度は莉花の横に並びながら、昨日バスに揺られていた時のことを思い出す。あの時通った道は、ある程度のアップダウンがあった。そのことが頭の中に残っていて、勝手に同じような道を歩くことになると想像していたのだが、現実は意外と平坦な道だった。


「この道だけじゃなくて、他の道も同じ感じなら大歓迎です」

「そう? 私としては、ある程度アップダウンがあった方がトレーニングになっていいかも」

「僕達の中でトレーニングが必要なのは渡井さんだけですよ」


 運動部の莉花と、そもそも部活に所属していない自分、悠、碧依。トレーニングが必要ない人間の方が多数派である。


「でも、湊君もある程度鍛えた方が男の子っぽくなるんじゃない?」

「……」

「黙って本気で考えないでよ」


 ある程度分かっていたことではあるが、やはり、この細い体も女性寄りの見た目を後押ししているのだろうか。だとすれば、莉花の言う通り、ある程度鍛えるのは見た目の改善に効果があるのではないか。


 あくまで冗談で言っているであろう莉花を置いておいて、少しだけ想像する。


「いや……。変わらないと思います……」

「何を考えたのか知らないけど、勝手に落ち込まないで?」


 想像したのは本当に少しだけ。体を鍛えたところで顔が変わる訳ではないので、あまり意味はないという結論に至ってしまった。それどころか、自分の顔で男らしい体格など、似合わないにも程がある。


「よかった。湊君が『体を鍛える』なんて言い出さなくて」


 そこまで考えて落ち込んだところで、碧依が安心したようにそう口にする。雰囲気だけではなく、どこかほっとした表情まで浮かべている。


「湊君の顔で筋肉がしっかりありますって、絶対に似合わないもんね」

「……」

「羽崎君も」

「僕も!?」


 多方面に攻撃をばら撒く碧依。悠に関しては完全に流れ弾だった。


「だってそうでしょ? さっきのアーチェリーの時みたいに、表情のギャップならありだけど、体格がいいですってギャップはなしだよ」

「何? 碧依は傷口に塩を塗り込むのが趣味なの?」


 莉花すら若干引きながらの指摘である。もしそれが本当なら、あまりに迷惑過ぎる趣味なので、是非とも改善を要求したい。


「湊君も羽崎君も、この見た目にこの体格だからいいんだよ?」

「そういうもの?」

「じゃあ、仮に二人共この見た目のまま、身長が百八十センチで、体格もがっしりしてたら?」

「……。……不気味」

「でしょ?」

「自分で『鍛えたら』なんて言い出しておいてあれだけど、そのままの二人でいて」


 悠と二人して慰めあっている間に、碧依と莉花の間では「鍛えるな」という結論が出たらしい。曰く、その顔なら、その体形が正解とのこと。


 何も嬉しくないアドバイスだった。




「あった! あれが一つ目のコントロールじゃない?」


 大して意味もなく傷付きながら、地図に一と記された場所に到着する。碧依が指差す先には、正方形の対角線を境界として、赤と白で塗り分けられたコントロールがあった。


 ここに至るまでの道中で他の色のコントロールも目にしたが、いずれも地図に使われている色と白の二色に塗り分けられていた。どうやらデザインは共通らしい。


 四人揃って、見つけたコントロールに近付く。屋外に設置されて風雨に晒され続けたせいで色褪せたのか、遠目では赤に見えた部分は、どちらかと言うと薄紅色に近い色合いになっていた。


「ここに地図をかざせばいいの?」


 特段「探す」という行為を必要とすることもなく、莉花が説明にあった読み取り部分らしき場所を見つける。デザインも構造もシンプルなコントロール本体とは裏腹に、その部分だけが機械的で、どこか違和感を覚える見た目である。


「試しにかざしてみるね」


 地図を持っていた碧依が、バーコードを読み取り部分に近付ける。一瞬の間があって、短く電子音が流れた。


「……これでいいのかな?」

「音はしましたし、大丈夫だと思いますよ」

「ま、だめだったとしても、何か罰があるわけでもないし。そこまで気にしなくてもいいでしょ」

「それもそうだね。じゃあ、次のコントロールに行こうか」


 自分と莉花の反応で納得した碧依が、かざしていた地図を全員に見えるように広げる。揃って地図に目を落として、二つ目のコントロールの場所を探す。スタートした時に一通り見ていたはずなのだが、流石にある程度時間が経つと記憶が曖昧になっていた。


「あんまり離れてないね」


 悠の言葉通り、見つけた二の文字は、今いる場所からそう遠くない位置に記されている。


 ついでに残りの数字も目で追ってみると、一がスタート地点から離れている代わりに、残りの数字はお互いの距離がそこまで離れてはいなかった。


「えっと……、今来た道がこれだから、次はこっちの道で合ってる、かな?」

「そうですね。大丈夫だと思います」


 地図と現実の道の間で視線を何度か往復させながら、碧依が次に進むべき道を指し示した。その道の方角を預かっていたコンパスで確認し、地図と照らし合わせてみる。指差した碧依は若干不安そうだったが、その道で間違いないはずだ。


「よし、じゃあ出発!」


 莉花の掛け声に合わせて、四人揃って再び歩き始める。オリエンテーリング体験は、まだまだ始まったばかりだった。




 二つ目、三つ目のコントロールも順調に発見して、四つ目のコントロールへと向かう。


 途中、いくつかの班とすれ違ったり同じ方向に進んだりしたが、どの班も順調そうで、どの班もすぐに別の道へと逸れていった。迷い過ぎることはなく、それでいて他の班ともなるべくルートが重ならない、とてもよく考えられたルートだった。


 そんなことを考えつつ、四つ目のコントロールが見えてきてもおかしくない場所までやって来た。悠、碧依、莉花も、辺りを見回してコントロールを探し始める。


 これまでの三つのコントロールは道沿いにあったが、それとは違い、この四つ目はかなり開けた場所に設置されているはずだ。


「あれですね」


 同じように周囲を探していた自分が指差す先に、三人の視線が向けられる。そこには、これまでと同じく少しだけ色褪せたコントロールがあった。


 近付いて、碧依がバーコードをかざす。耳にするのは四度目となる電子音が鳴って、七つあるコントロールの折り返し地点まで辿り着いたことを確認する。


「ねぇ」


 すっかり慣れた一連の作業を終えたところで、莉花が何かを尋ねたそうな声を上げる。その視線は、自分達三人の方ではなく、全く違う方向を向いていた。


「あれ何?」


 その視線の先に、見慣れないものがあった。


 ラグビーボールを縦に置き、真ん中で水平に切った、その下半分のような形。そんなシルエットになるように、等間隔にチェーンがぶら下がっている。その少し下には、こちらも金属でできていると思われるカゴが設置されていた。


 遠くからではっきりとは分からないが、全体の高さはそこまで高くはない。何となくの予想だが、自分の胸くらいの高さだろうか。周囲には同じものが全部で三つあるが、表示されている番号が一~三とばらばらだった。


 近付いて改めて確認してみても、やはり何に使うのか皆目見当が付かない。


「何だろうね、これ?」


 それは悠も同じようで、隣で不思議そうに首を傾げていた。触れても答えが分かる訳でもないのに、チェーンが繋がっている円形のパーツに何となく手を掛けてしまう。


「あれと関係あるんですかね?」


 そうしながら何かないかと辺りを見回し、あるものを見つけてそちらへ向かう。後ろから、三人が追いかけてくる足音が聞こえてきた。


 例の謎の器具から少し離れた場所に立っていた看板。そこには「1H PAR 4」の文字。


「ゴルフ……?」


 その用語で頭の中に浮かぶのはその競技。しかし、普通のゴルフにしてはこの場所は狭過ぎるうえに、離れたところにある謎の器具を使うとも思えない。


「何か書いてあった?」


 追いついてきた碧依が尋ねてくる。看板に書いてあった内容を説明するが、碧依はゴルフにそこまで詳しくないのか、あまり明瞭な反応は返ってこなかった。


「あ、裏にも何か書いてあるけど」


 いよいよ何が何だか分からなくなってきたその時、看板の反対側を覗き込んだ悠の一言で、ようやく謎の器具が何だったのかが判明した。


 これまで見ていた看板の反対側に回る。そこには、「ディスクゴルフ」の文字とその説明、そして何枚かのディスクが用意されていた。


「へー……。ディスクでゴルフするんだ……」


 書かれていた説明に一通り目を通した莉花が、興味深そうに一言呟く。これまでの経験から、この後の流れがほとんど無意識のうちに分かってしまうようだった。


「やってみますか?」

「お? いいの?」


 そうしたから何かが変わるということもないのだが、そんな莉花に向けて自分から切り出してみる。まさか先んじて提案されるとは思っていなかったのか、莉花の目が少しだけ丸くなる。


「三ホールしかないみたいですし、時間はまだありますから」

「碧依と羽崎君は?」

「僕もいいよ。ちょっと楽しそう」

「私、ゴルフのルールって全然知らないけど……」

「その辺は軽く説明しますよ」

「そう? じゃあ、せっかくだしやってみようかな?」


 ルールに関して不安そうにしていた碧依も、自分が簡単に説明するということで参加の意思を示す。


 そうして四人の意見が一致したところで、「色々な場所を回れるようになっている」という職員の言葉を思い出す。自分達のルートにおいては、これがきっとそうなのだろう。半ば誘導されたような形だが、こんな機会でもなければ触れることのない遊びなので、この誘導は「ありがたい誘導」だ。


 こうして、このオリエンテーリング初の、予想もしていなかった寄り道が始まるのだった。


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