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14. 一分咲き (2)

「……」


 自分達の少し前で、葵が弓を引き絞って狙いを定める。つい先程までは自分が立っていた場所である。


(へぇ……)


 その様子を見て、心の中で感嘆の声を上げる。斜め後ろからなのではっきりとその表情が見える訳ではないが、纏う雰囲気が普段と違うような気がした。


 自分や莉花、悠といる時は、どちらかと言うとストッパーとしての役割を果たすことが多い葵は、良くも悪くも普段から落ち着いた印象が強かった。「破顔したような」とまで言える程笑っている姿は見たことがないが、それでも基本は人当たりがよさそうな表情をしている。


 その葵が見せる珍しい表情に、何とも言い難い感情を抱いた末の声だった。


(あんな顔もするんだ)


 集中力の高さを表すような、やや鋭くなった目。男子高校生とは思えない程に柔和な目は、今この時に限っては違った意味で男子高校生には思えない。


 そして、そんな風に思われていることに微塵も気付いていないであろう葵が、一射目を放った。




「……っ」


 少しだけ冷たい空気を裂いて飛んだ矢は、的の中心から少し離れた位置に突き刺さった。三十メートルも先なので詳しい点数までは分からないが、五点か六点辺りだろうか。人生で最初の一射としてはまずまずだろうと、そう自分を納得させる。


 少しだけ狙いを修正した二射目。むしろ矢は中心からさらに外れ、二点辺りに刺さる。


「あれー? 私に勝つんじゃなかったのー?」


 その様子を後ろから見ていた碧依が、ここぞとばかりに煽ってくる。わざわざ振り返ってまで碧依の表情を確認するようなことはしないが、きっとにこにこと笑みを浮かべていることだろう。声音だけで、簡単にその表情が想像できる。


「まだまだこれからですって」


 そう返すものの、正直あまり自信がある訳ではなかった。手元の僅かなずれが、三十メートル先では大きなずれに変わる。思っていたよりも、そして後ろから見ていたよりも、ずっと難しい競技だった。


 三射目と四射目は、どちらも矢を離すリリースの瞬間に狙いがぶれて、的に当たることはなかった。これまでの四射で、合計十点にも達していない。このままでは、本当に最下位になる可能性すらある。


「ふふふ……。アイリスさんが近付いてきてるよ?」


 心は離れたままの気がするが。それでいいなら、止めはしないけれども。


「……」


 口に出すことはなく、心の中で碧依に返事をして黙々と次の準備を進める。 周囲を気にしたところで、自分の結果が変わる訳でもない。


 五本目の矢を番えて引き絞る。改めて狙いを修正して放った矢は、これまでと全く違う位置に突き刺さった。


「お?」


 その瞬間、後ろで莉花の声が上がった。放たれた矢が刺さったのは、これまで空白地帯となっていた的の中心付近。少しだけずれているので九点かもしれないが、それでも一気に点数を稼いだことになる。


「あぁ……、負けそう……」


 たった一射で点数的に肉薄された悠が、悲しそうな声音で呟く。自分がまだ折り返し地点であることを考えると、この一射で悠の最下位はほとんど決まったようなものだ。


 続く六射目は恐らく五点付近。七射目は外れた。残り三射を残して、点数は莉花とほぼ変わらないくらいだろう。あと一本でも的に当てることができれば、莉花を追い抜くことはできそうだった。


「素人同士の勝負なのに、意外といい勝負だね」

「確かに。もっとひどい勝負になると思ってた。あと二本当てたら、碧依ともいい勝負なんじゃない?」


 既に自分に追い越されたであろう悠と、恐らく追い越されるであろう莉花は、もう諦めたのか気楽そうに話している。対して、まだ一位の可能性が残っている碧依は、二人の会話には加わらず黙ったままだった。


 何の気なしに振り返ったところで、その目を捉える。


「何です?」

「一位を渡さないように、プレッシャーかけておかないと……」

「水瀬さんって、発想が時々物騒ですよね」


 昨日の夜然り、だ。そうは言ったところで、大した圧は伝わってきていない。本人としては睨んでいるつもりなのかもしれないが、正直目付きは普段と大差あるようには感じられなかった。


 そんな碧依を視界の外に置き、的に向き直って八射目。心の余裕のためにも、ここは是非当てておきたい。


「……」


 このタイミングで、横方向に吹き付ける風が少し強くなった。この強さなら、これまでよりも矢が少し流されるだろうか。素人が考えても大して意味はないはずなのに、それでも考えがまとまらず、狙いも定まらない。


 そんな中で放った八射目は、的のやや外側に刺さった。外れなかったことに安堵しつつも、低い点数に落胆する。


 相変わらず睨んでいるであろう碧依の視線を感じつつ、九射目。風はまだ収まらない。素人には厳しい条件のままで放った矢は、的にかすりもしなかった。


「これは碧依の勝ちかな……?」

「風が強いのはどうしようもないもんね」


 悠と莉花の二人としては、碧依優勢との評価らしい。そう言われるまでもなく、自分も同じ評価だ。残った一本でかなりの高得点を取らないと、逆転は難しい状況である。


「……」


 勝負が決まる十射目。これまでで一番と言える程に集中する。前の二射で、この距離なら思った程風に流されないことには気付いていた。


 ゆっくりと弓を引き絞り、慎重に狙いを定める。一旦勝負のことも全て忘れ、余計なことを考えずにリリースする。


 十射目にして初めて狙いもリリースする手もぶれずに放たれた矢は、的のほぼ中心に突き刺さる。


「お!」

「おぉ……」

「あぁ!?」


 後ろから三者三様の声が聞こえてくる。驚くような莉花の声に、感心するような悠の声。そして悔しがる碧依の声。詳しい点数の確認はこれからだが、勝負はほぼ決まったと言っても過言ではない結果に、誰にも気付かれないようこっそりと安堵するのだった。




 六点と二点。外れが二本に九点と五点。再び外れがあって、二点とまた外れ。最後に十点。合計で。


「三十四点です」

「意外と結構な差ができちゃったね」


 点数を確認するため、四人全員で的の前まで移動してからの碧依の一言。悔しさを滲ませた様子でのその呟きは、ただ負けたから悔しいというだけではないように見えた。


 実際、最後の一射までは五点も負けていたことになるので、碧依にとって勝利はすぐ目の前まで迫っていたことになる。それがするりと手の平から零れ落ちたのだから、気持ちは分からなくもなかった。


「やっぱり、十点って大きいよね」

「ね。僕なんて、七点よりも内側に当たらなかったし」

「私も、九点のがあとちょっとで十点だったんだけどなぁ……」


 的の真ん中に刺さった一本を見ながら、悠と莉花が話しているのが聞こえてくる。他の班にも十点を獲得した生徒は何人もいたが、自分の一本は勝負を決めた一本ということで、やはり特別に映ったようだった。


「たまたまですけどね。狙ったって言っても、素人の狙いなんてあってないようなものでしょうし」


 謙遜でも何でもなく、実際に十本試してみての感想だった。十本全て真ん中を狙ったはずなのに、その通りになったのは最後の一本だけ。それだけで、素人の狙いなどほとんど意味がないと分かる。もっと早い段階で十点に刺さっていれば、後半ももっと気楽に挑めたというのに。


「ま、何にせよ、湊君が一位ってことで。二位が碧依で、三位が私。で、四位が……」

「僕です……」

「……何て言うか、もうこの四人の中でそういう役回りになっちゃったよね」

「いつか誰かに押し付けようと思います」

「いや、羽崎君が一番似合ってるから、そのまま持ってるといいよ」

「いらない……」


 碧依とは別の理由で落胆した悠が、莉花に煽られていた。個人的には莉花の意見に全面的に賛成である。何かで勝ち誇っている悠など、今はまだ想像ができなかった。


「それじゃあ、湊君から順番に何をお願いするか聞いていくか。何かある?」


 二周目に入るまでの休憩時間の間に、早速その話になる。順位から考えて恐らく最初に尋ねられるのだろうと予想していたので、莉花の言葉を受けてすぐに口を開く。


「一位になったらこれにしようってことは、少しだけ考えてました」

「お? 意外。あんまり興味ないみたいだったから、お願いしないってこともあるかなって思ってた」


 そんな自分の態度が意外だったのか、莉花の目が少しだけ丸くなる。自分が普段からどう思われているのか、その一旦が垣間見えるような仕草だった。


「それも少し考えました。でも、ちょうどお願いしたいことがあったので」

「何?」


 若干興味深そうにしている莉花と、その横で自分を見つめている悠と碧依に向けて、考えていた「願い事」を口にする。


「明日、街中を回る間、十分くらいでいいので寄りたいところがあるんです」

「明日?」

「ですね。予定してるルートの途中にあるので、そんなに迷惑はかけないと思うんですけど、どうですか?」

「んー……? ルートから外れないなら私は別にいいけど、二人はどう?」


 少しだけ考えてから了承した莉花が、そのまま悠と碧依にも話を振る。すぐに否定的な反応が返ってこなかった辺り、二人も受け入れてくれそうではあるが、果たして。


「僕も大丈夫」

「私も。と言うか、そのくらいだったら、わざわざこんな風に言わなくてもよかったのに」


 特に何事もなく、二人からも了承を得る。予定にはないことをするということで、切り出した時は少しだけ緊張したものの、案外すんなりと受け入れてもらえて安心した。


「ね。男子高校生なんだから、『うわぁ……』って感じのお願いだと思ったのに」

「僕に何を期待してるんですか?」

「もっとこう、ドロドロした……」

「するわけがないです」

「どうせお願いされても却下するけどね」

「常識があるのかないのか……」


 冗談と本気が分かりにくいのは、本当に勘弁してほしい。対応に困るのは自分である。


 何はともあれ、これで自分の願い事は終わりだ。となれば、次に尋ねられるのは、二位だった碧依に決まっている。


「それじゃあ、碧依は?」

「その前に!」

「うん?」


 てっきり自分と同じようにそのまま何かをお願いしてくるのかと思っていたが、碧依はそうでもないらしい。何故か自分に目を向け、何かを期待するかのような表情を浮かべている。


「湊君」

「はい」

「的に当たったのは何本?」

「……六本です」


 たったそれだけの会話なのに、碧依が何を言おうとしているのか分かった気がした。


「私は七本だったから、ちっちゃいお願いくらいならいいんじゃないかと思うんだけど、その辺はどうですか!?」

「いや、どうですかって……」


 予想通りの言葉ではあったが、それを言い出すときりがない。あの手この手で誰かにお願いをする碧依と莉花の姿が、簡単に頭の中に浮かんできた。それでも、輝く瞳に押されて、一応勝負を切り出した莉花に目を向ける。


「湊君が決めていいよ。点数では一位なんだし」


 とのことだった。思いの外、莉花は冷静な雰囲気である。


「……あんまり無茶なお願いじゃなければ。血を吸いたいとか」

「あの時は大変失礼しました……。だからもう許してください……」


 その言葉を受けて了承はするが、念のため釘を刺しておく。何でも受け入れると思われて、何か厄介なことを言われても面倒だ。


「あとは、僕でどうにかできる範囲で、です」

「アイリスさんがどうこうっていうのはだめってことだよね?」

「ですね」


 追加の条件に碧依が尋ね返してくるも、そもそも碧依が点数で一位だったところで、それは本人の許可が必要になることには変わりなかっただろう。もちろん、許可が下りるとは思えない。


「んー……。じゃあ、何か思い付いたらってことでいい?」

「何もないのに提案してきたんですか?」


 流石にこの辺りで願い事を言われるのだろうと思っていたのに、またしてもその予想は裏切られた。一瞬考えるような仕草を見せていたのは、願い事をどう伝えるのか悩んでいたのではなく、何を願うか考えていた仕草だったらしい。


「うん。受け入れてもらえたら儲けものって感じで」

「受け入れて損をした気が……」

「ありがとうね」

「……まぁ、いいですけど」


 笑顔を浮かべた碧依にそう言われてしまえば、もうそれ以上抵抗する気は起きない。どんな見た目をしていても、自分もまた男なのだった。




「ちゃんと反省してるの? アイリス?」

「はい……。ごめんなさい……」


 椅子の上で体を小さくしている自分の前で、紗季が机に両手を置いて説教を続けている。


 時間は二限と三限の間の休み時間。教室の中の視線は、自分達と、もう一人別の男子生徒に向けられていた。どちらの視線も、どこか生温かく、話の種になりそうで面白そうという興味に満ちた視線である。


 その視線が向けられたもう一方のクラスメイト。こちらは、何人かの友人に囲まれながら、どこか虚ろな様子でぼんやりとしていた。心なしかやつれているようにも見える。ちなみに、周囲の友人は皆一様に楽しそうな表情で声をかけていた。


「アイリスはもうちょっと周りを見なさい!」

「はい……。反省してます……」


 紗季の言葉に、逸らしていた視線を元に戻してひたすら謝り続ける。こればかりは自分が悪いので、何か反論することもできない。


 教室中の注目を集めることになってしまった、その出来事。それが起こったのは、たった五分程前のことだった。




 二限の授業を終え、食堂前にある自販機で飲み物を買ってきた、その帰り。自分の教室の扉を開いて中に入ると、一人の男子生徒が目の前に歩み寄ってきた。平均よりも少しだけ高そうな身長で、自然と相手を見上げる形になる。


 何度か話したことがあるような気がするが、どうにも記憶が曖昧で詳しく思い出せない。


「フリーゼさん!」

「は、はいっ!?」


 ここ一か月程の記憶を探っていると、いきなり大きな声で名前を呼ばれ、少しだけ動揺する。返事をした時の声が裏返りかけていて恥ずかしい思いをしたが、そんな自分よりも、目の前の男子生徒の顔の方がやや赤い。よくよく聞いてみれば、声もどこか上擦っているような印象を受ける。


 そして、当然のことながら、突然の大きな声で教室中が水を打ったようになって一気に注目が集まる。そんな中で、男子生徒が口を開いた。


「好きです! 付き合ってください!」


 その言葉と共に頭が下げられて、右手が差し出される。静まり返っていた教室中の空気が、一瞬にして沸き立った。


 様々な感情が渦巻く空気の中で、あちこちから向けられる好奇の視線。それを一身に浴びた自分の口から自然と出てきた言葉は。


「えっと……。誰、だっけ……?」


 沸いた空気が、そのまま凍った。




「クラスメイトの名前くらい、覚えておいてあげなよ」

「ごもっともです……」


 こうして紗季から説教を受けることとなった。


 教室の空気が瞬間冷凍された後、いち早く解凍された友人達によって、件の男子生徒は運ばれていった。ちなみに、彼はまだ解凍されていない。


 突然の出来事に混乱してしまったが、周囲から漏れてくる話を聞くに、どうやら友人達に背中を押されて、いきなりの告白に踏みきったらしい。


 その結果が、「はい」でも「いいえ」でもなく、「誰」。認識すらされていなかった男子生徒の心情は、察するに余りある。


 認識していなかったのは自分だが。やはり、どう考えても自分が悪い。


「アイリスもいきなり言われて混乱したんだろうけど、もうちょっと言い方ってものがあるでしょ」

「……」


 返す言葉もない。とうとう頷くだけになってしまった。


「ちなみに、彼は野々宮君です」

「あの、ごめんね、野々宮君?」


 その声に、未だに凍ったままだった野々宮がぴくりと反応する。本当にそうなのかは分からないが、ようやく名前を呼んでもらえて、少しだけ解凍されたようだった。


「で、返事は?」


 その様子を見て、紗季が話を本題に戻す。言われてから思い出した訳ではないが、確かにまともな返事をしていなかった。先程とは違った意味で注目されている中で返事をするのは、それはそれで恥ずかしいものがあるが、自分にそんな贅沢を言う権利はない。どうにか恥ずかしさを押さえて、返事のために口を開く。


「その……、ごめんなさい」

「……」


 再びの謝罪に、融けかけの体が再び凍りついた。


「お、また凍ったぞ、こいつ」

「『一度解凍したものは冷凍しないでください』って言われてるのにな」

「あ、フリーゼさんは気にしなくていいから。いくら背中を押されたって言っても、今行くのは違うって」

「あ、うん……」


 友人達が、その周囲で盛り上がっていた。その様子に少しだけ気圧される。


「よし。ちゃんと返事したね」

「え? うん……?」


 指で突かれても反応がない野々宮の姿に気を取られていると、説教をしていた時とは明らかに声の調子が変わった紗季が、何かを確認するかのように話しかけてきた。思わず振り向いてみれば、その表情は興味で満ち満ちたものに変わっている。


(あ、これだめな顔だ)


 それを見た瞬間、何かを察して心の中で独り言を呟く。逃げ出そうにも、真面目な説教を受けた後では心情的にも難しいところがあった。


「で? 告白されてどうだった?」

「どうって……」


 案の定、話の方向はそれだった。当たり前と言えば当たり前なのだが、告白してきた本人がいる場でそれを聞くのも、随分と酷な話である。


「同じクラスの男の子をそんな目で見たことないし……」

「物のついでに一人二人くらいは刈り取ったんじゃない?」

「え?」

「何でもない。こっちの話」


 紗季が何やら不思議な表現をしていた。生まれてからほぼ全ての時間をこちらで過ごしている自分ではあるが、まだまだ知らない表現があるのかもしれない。


「あ!? 身長を刈り取られたからちっちゃいってこと!?」


 だが、そこで想像したくない意味を思い付いてしまう。


「違う。被害妄想も甚だしい」

「刈り取る程も大きくないって!?」

「いきなり面倒なことになったな」


 言葉通りに紗季が面倒そうな表情を浮かべているが、自分としては大事な問題だった。特に、ここ最近は身長を意識させられる出来事がいくつか起こっていたからだ。


「バイト先でも大変なんだからね! 高いところの物を取ろうとしたら、お客さんがにこにこしだすし!」

「マスコットか?」

「葵さんなんて、もう何にも言わないで踏み台を持ってくるようになっちゃったし!」

「親か」

「無言で足元に置いて、こっちを見て頷くんだよ!? 葵さんだってそんなにおっきくないのに!」

「どうどう。落ち着け落ち着け? 話が逸れてるぞ」

「ふーっ!」

「ほらほら、猫が出てる」


 目の前には紗季しかいないので、ここで髪の毛を逆立てんばかりに威嚇しても意味がないのは分かっている。それでも、一度漏れ出した想像は止まらなかった。


「誰もちっちゃいなんて言ってないでしょ。今は」

「今は?」

「何でもない」

「今『は』?」

「それはいいとして」

「よくないけど?」


 聞き捨てならない発言を問い詰める自分と、「しまった」といった表情で躱す紗季。古今東西、この手の勝負は躱す側が有利と相場が決まっている。今この場においても、強引に話を続ける紗季に軍配が上がった。


「分かったから。アイリスはちっちゃいの。それで……」

「そこは『ちっちゃくない』って言ってくれるんじゃないの……?」


 投げやりに放たれた一言が、自分の胸をざっくりと抉る。セオリーから外れたその言葉が妙に痛い。


「同い年でだめなら、年上か年下はどっちがいいの?」

「ちっちゃい子供の好みなんて、気にしなくていいんじゃない?」

「あれ、最近も似たような言葉を聞いた気がする」

「そうだね。私も言った気がするね。昨日」

「それで? どっちがいいの?」

「押しが強い……」


 先程とは違って話の流れを無視した紗季が、やたらとわくわくしたような眼差しで見つめてきた。どうにか逃れる術はないかと視線を彷徨わせて、最終的に壁に掛けてある時計に目を向ける。休み時間が終われば、強制的に話を終わらせることができると考えてのことだった。


 二限が終わってからある程度の時間は経ったはずだが、果たして。


「残念。まだあと五分あるんだよね」

「な、何のこと?」

「時計。見たでしょ」

「……」


 今日は全てにおいて、紗季が一枚上手だった。


 昼休みを除けば、ほとんどの休み時間は十分である。だが、二限と三限の間だけは、五分長い十五分だった。普段であれば少しだけ長い休み時間をありがたがっていたが、今に限ってはこれほど恨めしいこともない。


「ほれ。白状しろってことだよ」

「えぇ……。それだって考えたことないよ……?」

「じゃあ今考える」

「そんな無茶な」


 いよいよ逃れる術がなくなり、紗季に追い詰められる。それでも「考えたことがない」という言葉でどうにかならないかと画策するも、まさかの無茶振りによって抵抗は空振りに終わる。


「ちなみに、私は少しだけ年下の方が好みです」

「知らないよ」


 知らないが、こう言われてしまえば、話さないという選択肢を選びにくい雰囲気ができてしまった。今日の紗季は、何故か全力で追い詰めてくる。


「さぁ、私は話したんだから」

「勝手に言っただけなのに」

「細かいことは気にしない」

「何でそんなに全力なの?」

「私はこの手の話が大好物です!」

「それ、私は獲物だよね?」

「うん。逃がさない」


 とうとう両肩まで掴まれて、物理的にも逃げ道を塞がれる。


 年貢の納め時だった。


「えー……? 年上か年下か……?」

「……! ……!」


 自分がようやく考え始めたことを察したのか、好奇心が溢れる目をした紗季が力強く頷く。友人だからこそ何とかなっているが、傍から見れば、なかなかの恐怖を感じる程の迫り具合である。


「年……上?」


 上手く回らない頭で少しだけ考え、そして口にする。


 頭を過ったのは、最近よく関わる先輩達。中学生だった頃の先輩、後輩といった関係とは全く違った不思議な関わりで、それに引っ張られたのは間違いなかった。


「ま、アイリスはそうだよね」

「そう?」


 自分からすれば多少は考えての発言だった訳だが、紗季からすればそうでもなかったらしい。最初から分かっていたと言わんばかりに、小さく頷いて納得している。


「うん。最近は毎日先輩と一緒だもんね」

「あれは……、そういうのじゃないけど……」


 毎日一緒となれば、浮かぶ顔は同じ名前の二人。その中で、異性は一人。確かに、最近はその間柄を話題にされることが多かった。


 入学して間もないクラスメイトが、特定の先輩とやたら仲が良い。字面だけを見れば、勘ぐられても仕方がないと分かってはいる。実態がどうであれ、だ。


「いい? 私達くらいの年代の子達は、男女が二人で歩いてると、勝手にそういうものだって考えるの」

「これ以上ないくらい迷惑……」

「でも、アイリスだって考えたことくらいはあるでしょ」

「あるけど、周りに言ったりはしなかったかな。私が周りに色々言われてきたからってこともあると思うけど」

「あぁ……。まあ、それはね……」


 曖昧に呟く紗季の視線が、自分の髪と瞳を行ったり来たり。何を考えているのか、手に取るように分かる。


「噂にならない方が無理でしょ。肌だって、私達と比べてやっぱり白いし」

「だから、私はあんまりそういう噂はしません」

「いい子みたいなこと言って」

「いい子だからね、私」

「は?」

「は?」


 髪と瞳を行ったり来たりしていた紗季の視線が、真っ直ぐ瞳に固定される。その瞬間、視線が交錯して火花が散る。自分がいい子なのかそうでないのか、大事な大事な勝負が始まった。


「いい子だったら、クラスメイトの名前くらいちゃんと覚えてるでしょ」

「すみませんでした」


 勝負が決するのは一瞬だった。




「一回目は練習ってことにしておけばよかった!」

「残念でした。もう遅いもんね」


 アーチェリー体験を終え、昼食の時間に合わせて施設へと戻る道の途中。悔しそうな表情を浮かべる莉花とは対照的に、碧依の表情は晴れやかだった。


「まさか、二回目であんな点数を出せるとは思わないし」

「確かに、結局誰も三十七点は超えられなかったね」


 厄介な願い事を賭けて点数を競ったのは、全員一回目の挑戦。その後、四人がもう一度ずつ十本の矢を放って、体験は終了となった。


 その二回目で一番の点数を叩き出したのが莉花だ。その点数は、四人の中での最高得点となった三十七点。自分は二十六点、碧依は二十五点、悠は二十点だったので、文句なしの一位だった。さらに言えば、一回目の点数を含めても一位である。


「惜しいことしたなぁ……」

「凄かったけど、今回は私のお願いを叶えてもらうからね」

「分かってるって」


 莉花の誤算は、挑戦が一回しかないと勘違いしてしまったこと。二回目も含めていれば、目の前の碧依と莉花の立場も変わっていたはずだ。


「で、結局碧依は私に何をお願いするの? さっきはうやむやになっちゃったよね?」


 だが、もう結果は変わらない。莉花もそのことはしっかりと理解しているのか、潔く中断されていた話題を引っ張り出す。こういった部分は誰よりも潔い、実に莉花らしい切り出し方である。


「あ、それなんだけどね。今度、一緒にデートに行かない?」

「デー……、ん?」


 そうして出てきた碧依から莉花へのお願いは、切り出した側の莉花が一瞬困惑してしまうような、予想もしていなかったものだった。


「学校の近くに、美味しそうな洋菓子屋さんがあるのを見つけたんだ」

「あ、そういう」

「うん。どうかな?」

「いいに決まってるけど。むしろ、そんなのでいいの?」

「いいのいいの。莉花と一緒なら楽しそうだしね」

「嬉しいこと言ってくれるね、この子。絶対に楽しませてあげるわ」

「期待してるよ?」

「任せなさいって」


 後ろで話を聞いていただけだったが、どうやら碧依から莉花へのお願いはすんなり決まったようだった。「学校近くの洋菓子店」ということは、Dolceria pescaとは関係ないだろうと、一人そう予想する。予期せぬ形で自分のアルバイト先がばれる心配はないはずだ。


「水瀬さんのお願い、意外と簡単なことかもね?」


 碧依が正当にお願いをできるもう一人。隣を歩く悠が、碧依と莉花のやり取りを耳にして、少しだけ希望を見出したかのように話しかけてきた。


「油断しない方が身のためですよ。しょっちゅうどこかのねじが外れますから」

「聞こえてるからね?」


 そんな悠への忠告の言葉だった訳だが、それを聞いた碧依が、やけにじっとりとした目で振り返ってきた。


「二人へのお願いはまだ保留ね。すごいのにしてあげるから、忘れないでね?」


 そのままの表情で宣告を受ける。言いようのない恐怖が、ゆっくりと全身を這い回っていく。


「湊君が余計なことを言ったせいで、大変なことになりそうなんだけど」

「まぁ、いざとなれば僕は一位ってことで逃げられますから」

「あ! ずるい!」

「勝った者が偉いんですよ」

「湊君も絶対に逃がさないからね」

「……」


 そう話す碧依の顔には、先程までとは違って軽く笑みが浮かんでいる。だというのに、明らかに表情と心の内が違っているように見えるのは、自分の気のせいなのだろうか。


「だってさ、湊君。一緒に頑張ろうね」

「いや……、こんなはずじゃ……」


 言わなくてもよかったはずのことを言って、自分の身を滅ぼす。まさに「雪仏の水遊び」なのだった。




「さっきの湊君さ、途中で完全に気が抜けてたよね」

「さっき?」

「二周目の時の話」


 施設まで戻っての昼食の時間。これまで通り、四人で一つの机を囲んでいた。


 昼食の時間として用意された時間の半分程度が過ぎた頃になって、それまでは莉花と行くことになった洋菓子店の話で盛り上がっていた碧依が、思い出したように話を振ってきた。


「二周目は何点でも勝負には関係なかったですから」

「その気の抜けた湊君にすら、僕は勝てませんでした」

「そういう意味では、大分気楽にやってましたね」


 隣で一人自虐を繰り出した悠のことは、綺麗さっぱり無視することにした。拾っても誰も幸せにならない。


「言われてみれば、一周目の時はいつもと目付きが違ったもんね。気合いの入り方が凄かったよ?」

「そんなだったの? 私のところからは見えなかったけど」

「うん。あれはギャップの塊だったね」


 そう言われたところで、あの時は目の前に鏡があった訳でもない。意識は全て的に集中していて、自分がどんな表情をしていたかなどということは一切記憶になかった。


「そんなにでした?」

「そんなにでした。あんな顔もできるんだね」


 何やらその時のことを思い出していそうな碧依の口振りである。普段からどんな印象を抱いているのかは知らないが、自分にだって色々な表情はある。


「僕のことを何だと思ってたんですか?」

「何をしても笑って許してくれそうな人」

「既にその言葉を笑って許せそうにないです」


 碧依が言うように、怒りの感情はあまり周囲に見せていないかもしれないが、だからと言って怒らない訳ではない。人並みに感情の起伏はあるはずだ。


「そうは言っても、今も全然怖くないよね」

「……」

「何、その目。もしかしなくても睨んでるつもり?」

「そうですけど」


 目付きが鋭くなるよう、精一杯努力して碧依のことを睨んでみる。効いているのか、はたまた一切効いていないのか。碧依は不思議そうに首を傾げてそれだけを口にする。


「多分だけど、怒るのに向いてないよ、湊君」

「怒るのが向いてないなんて、そんなことってあります?」

「私も今初めてこんなことを言った」


 その様子を横から見ていた莉花からは、一つもありがたくない評価を頂いた。自分としては精一杯睨んだつもりだったが、本当に「つもり」程度だったらしい。


 ついでに先程から黙って話を聞いていた悠に視線を向けるが、無言で軽く肩を竦められただけだった。一体どういう意味なのか、時間がある時にじっくりと確認してみたい。


「ま、そんなどうでもいいことは置いておいて」

「よくないですけど?」


 他人の感情のことを、「どうでもいい」の一言で片付けようとしないでほしい。だが、残念ながら、そんな切なる願いは莉花には届かなかった。


「やっぱり、大事な後輩が賭けられて本気になっちゃった?」


 何か望む答えがあるのか、莉花の表情がにやにやとしたものに変わっていく。だが、残念ながら理想の答えは返せそうにない。


「どっちかと言うと、その後が怖かったです」

「その後?」

「もし負けてたら、水瀬さんは迷いなくアイリスさんに話を持ち掛けますよね?」


 そう話しながら正面を見る。その先には、力強く頷く碧依がいた。あの言葉の本気度が窺える、全力の肯定である。


「真っ直ぐに不純だよね」

「渡井さんもですよ」


 不純具合で言えば、碧依といい勝負だ。既に行動に移しているあたり、少し前を行っているかもしれないが。


「とにかく、そんなことを言われたアイリスさんは、どんな反応をすると思います?」

「絶対に拒否するよね。私なら断られても抱き付くけど」

「そもそも、許可を取ろうともしてないじゃないですか」


 それはもう、了承や拒否といった次元ではない。


「で、水瀬さんを拒否したアイリスさんの矛先は、その後どこに向くと思いますか?」

「湊君」

「……そうなんですけど、そこまで躊躇いもなく即答で名前が出てくるのは、流石にちょっと複雑ですね」

「何を今更」

「……」

「だから怖くないって。むしろ、一生懸命睨もうとしてるのが可愛いくらい」


 あっさり正解した莉花を睨むのは何かが違うような気もするが、だからと言って感情を抑えられる訳でもない。だからこそ無意識に出てしまった仕草だったのだが、もう睨もうとするのはやめた方がよさそうだった。莉花との相性が悪過ぎる。


「とにかくそういうことです。どう足掻いても、アイリスさんに問い詰められるのは僕なので。だったら、最初から勝つしかないです」

「うわ、全力で保身に走ってる」

「あとは、断られた水瀬さんが、それならってことで僕にお願いしてくる内容が怖そうだったからってこともあります」

「そっちは避けられてないよね」

「こんなはずじゃなかったんです」


 あの時の余計な一言は未だに後悔している。小さなお願いなら、ということで了承したはずが、いつの間にか負けた時と同じ状況になってしまっていた。


「楽しみだよね」


 静かに一言呟く碧依が怖くて仕方がない。


「湊君の思惑が上手くいったのかどうかは知らないけど、とりあえず頑張ってね」

「いざとなったら、骨は拾ってください」

「その時は私も骨にする側だろうし、それは無理かな」


 これまた何の躊躇いもなく繰り出された莉花の一言は、あまりにも慈悲のない宣言だった。


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