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13. 一分咲き (1)

「……」


 木製の家具をメインにした、シャモア色からなる部屋。その壁際に置かれたベッドの中で目を覚まし、ぼんやりとした意識のまま時計を探す。


 目こそ覚めたものの、体は未だに横たえたまま。緩くまとめた菜の花色の髪が、体の前に流れているのが視界の端に映った。


 いつもより幾分か細いはずの瑠璃色の瞳で、ようやく時計を捉える。ここ一か月程で、起床時間はこれまでよりも少しだけ早くなった。朝にそこまで強くない自分としては、快挙と言ってもいい。


 とはいえ、今日と明日だけはもう少しだけ眠ることができる。最近いつも一緒に登校する葵達は、昨日からの宿泊学習で不在だ。時間を合わせる必要はなく、そもそも合わせようがない。


「んぅー……!」


 だというのに、体は自然と伸びをして起床の体勢を取る。寝起きで回らない頭で考えるより先に、体が動いてしまった。


「ふぁ……」


 小さく欠伸が漏れる。目尻に溜まった涙が、頬を伝ってゆっくりと流れていく。


 体を起こしただけでは、まだまだ意識ははっきりしない。少しだけぼんやりした後、ベッドから下りて部屋を出る。既にアーロンとレティシアは起きているのか、階下から人の気配がしている。二人がいるであろうリビングを横目に見ながら、まずは洗面所へと向かう。


「……」


 いつものルーティンで身支度を整えていく。特に、髪の手入れは入念に。これまでも大事にしてきた髪だったが、ある時からはより手入れに時間をかけるようになった。もちろん、葵に面と向かって褒められたあの時からだ。照れたのは間違いなかったが、それ以上に褒められたのが嬉しかった。


 いつも通りの姿になったのを鏡で確認してから洗面所を後にし、リビングへと向かう。先程から、パンが焼ける香ばしい匂いが漂ってきていた。


「おはよ、お父さん、お母さん」

「おはよう、アイリス」

「おはよう」


 アーロンはニュースを見ていた目をこちらに向けて。レティシアは朝食の準備をしていた手を一瞬止めて。それぞれが自分に挨拶を返してくれた。どちらの顔にも柔和な笑顔が浮かんでいる。


「今日もこの時間なの?」


 準備の手を再開したレティシアが、不思議そうに尋ねてくる。昨日、二年生の宿泊学習のことを話したからだろう。どうやら、中学生の頃と同じ時間まで寝ているものだと思っていたらしい。


「うん。起きちゃったから」

「そ。まぁ、早起きなのはいいことね」

「中学生の頃は全然起きなかったのにね?」

「もう高校生だもん」


 少しだけ拗ねたような表情をしてみれば、アーロンが両手を上げて降参の意思を示す。自分でこう思うのも何だが、娘に甘い父親だった。


「今日と明日は一人なんだろう?」

「そうだけど、それがどうかした?」


 聞き返しながら、アーロンの斜向かいの椅子に腰かける。目の前のテーブルには、既に何枚か皿が並んでいた。


「いや、誰かと一緒なら安心だけど、一人はやっぱり心配で」

「お父さん、私のことをまだ小学生くらいに思ってない?」

「そんなことはないけど、心配なものは心配だから」


 いつかレティシアが話していた、「いくつになっても子供のことは心配」ということだろうか。それにしても心配性が過ぎると、常々思っているが。


「大丈夫だって。任せてよ」

「任せるのは違うでしょ」


 自分がリビングに来た時点でほとんど終わりかけだったのか、朝食の準備を終えたレティシアがアーロンの隣の椅子に座って、そんなことを言う。その顔が何やら苦笑い気味だったことは、わざと気付かなかったことにした。


「細かいことはいいの! とにかく、心配しなくていいから!」


 少しだけ語尾を強めて強調する。二人が、特にアーロンが心配性なのは、今に始まったことではない。これまで何度も繰り返してきたやり取りを今日も交わしつつ、朝食を食べ始めるのだった。




 人がほとんどいない駅舎を抜け、改札からホームへと向かう。いつもなら駅舎の中で葵を待つが、今日は立ち止まらずに通り抜けてしまう。そのことに少しだけ違和感を覚えつつ、既に停車している電車に乗り込む。


 足は無意識に、いつも二人で、途中からは三人で並んで座っている座席に向く。


 たった一か月、されど一か月。連休があったこともあり、平日だけで考えれば二十日もない。さらに言えば、その中の一日二十五分。冷静に考えてみればかなり短い時間でしかないのに、隣に人がいないことが随分寂しくなってしまっていた。


(早く来週にならないかな……)


 発車までの数分間、変化のない窓の外の風景をぼんやりと眺めながら考える。葵達が帰ってくれば、きっとまた毎日のようにからかわれることは違いないのだろうが、それでも一緒にいるところを想像してしまう。


 やがて、定刻通りに電車がホームを出る。これまでは水が張ってあるだけだった水田に、まだまだ背の低い緑色が混ざり、時折吹く風に揺られているのが見える。


(ちっちゃくないもん……)


 揺れる苗に自分のことを重ね合わせ、誰に言うでもなく心の中で呟く。


(碧依先輩とはほとんど変わらないし、葵さんだってそんなにおっきくないし)


 誰に何かを言われた訳でもないのに、身長の不満は止まらない。ほとんど無意識に口元が尖っていく。


 その後も、今日の授業のことや、もうすぐ訪れる週末のことといった取り留めのないことを考えているうちに、いつの間にか駅をいくつも通り過ぎていた。


「……」


 普段なら天敵の一人である碧依が座ってくるはずの駅を発車しても、その声がすることはない。


 あの手この手で抱き付こうとしてくるが、普通に話す分には親しみやすい先輩だ。葵に関してはもちろんのこと、碧依に対しても、どこか喪失感とでも言えそうな感情を抱いてしまう。週が明ければどうせいつも通りなのだから、大げさと言ってしまえばそうなのかもしれないが。


(違う違う。碧依先輩は天敵……、碧依先輩は天敵……)


 絆されそうになっている自分に気付いて、慌てて気を引き締める。少しでも気を緩めれば、向かう先は碧依の腕の中だ。


 いきなり首を振り始めた自分に、近くに座っていた別の高校の生徒が怪訝そうな顔を向けてくる。周囲から見れば随分と不思議な行動だったと、そのことに気付いてしまって、頬がうっすら赤くなる。もうこれ以上余計なことは考えないようにと、碧依の姿を頭の中から追い出すのだった。




「アイリス、今日は一人だったんだ?」

「ん? うん。葵さんと碧依先輩、宿泊学習に行ってるからね」

「あ、そっか。二年は昨日からだっけ」

「そ」


 教室に着いてすぐのこと。今日も今日とて、真っ先に話しかけてきたのは紗季だった。


「と言うか」

「何?」


 そんな紗季に向けて、気になったことを尋ねてみる。特に意識したつもりはなかったのだが、いつの間にか怪しいものを見るような目付きになってしまっていた。


「もしかして、毎朝私のことを見てるの?」

「あれ? だめだった?」

「認めたね、ストーカー」

「人聞きが悪いな。たまたま廊下の窓から見えた時だけだって」

「ほんと?」

「ほんとだって。たまたま毎日見てるだけ」

「……」

「あ、待って! 露骨に嫌そうな顔しないで!」


 両腕で自分の体をかばうように抱き締めながら、紗季から少しだけ距離を取る。これまで考えてもいなかったが、ここにも天敵がいたのかもしれなかった。しかも、直接的ではない分より身の危険を感じる。


「反省してます!」

「……今度こそほんと?」

「本当です! だからほら! こっちおいで!」

「ペット扱いしてない?」

「してないしてない。撫で回したり、髪の毛をわしゃわしゃってしたいとか、そんなこと思ってないって」

「思ってたんだ」


 そう言いながら腕を広げる紗季だったが、近付くどころか、さらに距離を取った方がいいのかもしれない。


「髪の毛整えるの、大変なんだからね? 紗季も分かるよね?」

「分かるけど」

「じゃあ、だめ」

「ちぇっ……」


 わざわざその音を口に出した紗季が残念そうな表情を浮かべるが、こればかりは流石に譲れなかった。単純な話、再び整えるのは手間がかかるので避けたいというだけだ。


「でもまぁ、確かによくそこまで綺麗にしてるよね」

「でしょ。自慢の髪だからね」


 自らの願望を叶えるのは諦めたのか、紗季の羨ましそうな視線が自分の髪に向く。どうやら幾分か落ち着いたようなので、離していた距離を元に戻す。


「何? 見せたい相手でもいるの?」

「別にそういうわけじゃないけど……」

「へぇ……」

「何?」

「別に?」


 正確に言えば、最近はある人物に言われた言葉を気にして手入れをしているが、それを紗季に話したところで、厄介なことにしかならないのは目に見えていた。紗季のにやにやとした表情が気にはなるが、突っ込めば火傷するのはこちらだ。触らぬ神に祟りなしである。


「ま、そういうことにしておこうか」

「何でわざわざ含みのある言い方をするの」

「気にしない、気にしない」


 やはり明らかに何かを考えている紗季だったが、それを自分に話すつもりはないようだった。




「やっぱり、今日もちょっと寒いね」

「朝方には雨も降ってたみたいですしね」


 隣を歩く悠が、そう言いながら軽く体を震わせる。今日も今日とて、自分が貸した上着を羽織っていた。


 朝食を終えてしばらくして。碧依と莉花も含めた四人で外に出て、とある場所へと向かう。昨日、自由に散策できるタイミングで、その場所の確認だけはしておいた。


「アーチェリーってさ、テレビとかで見たことはあるけど、自分でやるってなったらイメージが湧かないよね」

「ねー。的がやたら遠いことだけは知ってるけど。当たる気がしないって、あんなの」


 少しだけ前を歩く碧依と莉花の声が、風に乗って自分と悠にまで届く。自分達二人が昨日話していたことと、どこか似たようなことを話しているようだった。


「昨日少しだけ見に行きましたけど、的は結構近かったですよ」

「そうなの?」


 昨日の光景を思い出しながら後ろからかけた声に、碧依が振り向く。歩くペースはやや落ちたものの、その足が止まることはない。


「遠過ぎたら、誰一人当てられずにおしまいでしょうからね」

「まぁ、それもそっか」


 合っているのか分からない推測だったが、碧依は納得したように呟いて、正面に向き直った。


「だってさ、莉花」

「ちょっと安心した。当たりもしないのとか、絶対に楽しくないでしょ」

「だね」


 少しだけだが、届く声が明るくなったように感じられる。直接話した訳ではないものの、莉花も自分の言葉で多少は安心したらしい。


「アーチェリーって、弓を引くのに結構力がいるイメージなんだけど、大丈夫かな?」


 そんな莉花とは対照的に、隣の悠はまだ不安そうに言う。その言葉に釣られて悠の腕に目を向けてみるも、確かにその細腕で弓を引き絞っている姿は想像できなかった。自分自身も、他人のことを言える程の自信がある訳でもなかったが。


「気合いで引くしかないですね」

「結局根性論か……」

「情けないところは見せられませんよ?」

「それこそ今更だよ」


 その辺りは何か思うところがあるのか、悠の顔に浮かぶ色は諦めの色が大半を占めていた。


「あ。あれかな?」


 そうしてこれからのことを話しているうちに、体験場所を見つけたらしい碧依が声を上げる。そこには既に何人かの生徒が集まっていて、予定の時間を待っている様子だった。思ったよりも、その人数は少ない。


「そんなに多くないね?」

「みたいですね」


 どうやら碧依も同じ印象を抱いたようで、少しだけ不思議そうにしながらこちらを振り返ってくる。恐らくこれから少しずつ増えてくるのだろうが、今は一旦頷きを返しておく。


「でも、意外と女子が多いかも。私達と一緒で、濡れるのが嫌だから?」


 碧依の隣で集団の様子を見ていた莉花の言葉を受けて、改めて集まっている生徒に目を遣る。そう言われてみれば、女子の割合がやや多いようにも思えた。正確な人数は数えてはいないが、半数以上が女子だろうか。


「あれなら、多少力が弱くてもばれにくいかもしれないですね?」

「それは大分無理があると思うけど……」


 まるで朗報かのように、冗談めかした言葉で悠に告げる。返ってきたのは、見慣れた苦笑いだった。




「それでは、今日はよろしくお願いします」


 体験希望の生徒が全員揃ってから、いよいよ説明が始まった。アーチェリーの指導を担当する職員は、自分達と年齢が近そうな男性の職員だった。自己紹介によれば、大学でアーチェリーをしていたらしい。


「今、皆さんの前に並んでいる弓が、今日使ってもらう弓です。専門的な言葉を使うと、リカーブと呼ばれる種類です。オリンピックで使用されている種類の弓なので、見たことがある人も多いんじゃないかと思います」


 集まった生徒達の視線が、一斉に弓に集まる。体験用に準備された真っ白な弓は、アーチェリーと言われて真っ先に想像する形をしていた。


「まずは持ってみましょうか。実物を触らずに説明されても、なかなか分かりにくいことも多いですからね。皆さん一人一つ、弓を取りに来てもらえますか?」


 その一言を皮切りに、ぞろぞろと生徒達が動き始める。自分達四人も、その流れに乗って列に並ぶ。複数の職員が手分けして弓を手渡しているので、列の進みは驚く程速かった。


「まだ矢はお渡ししていませんが、矢を番えずに空射ちをするようなことはしないでください」


 そう注意されて、慌てて弓を下ろしている生徒の姿がちらほらと見えた。こういったものを手にした時に、思わず試してみたくなる気持ちは自分もとてもよく分かる。もしもっと早く弓を受け取っていたら、きっと似たようなことをしていただろう。


「あれ。意外と軽いね?」

「ですね。もっと重たいイメージでした」


 いよいよ自分達が使う弓を渡されて、最初に出た感想がそれだった。悠も同じことを思ったようで、意外そうに目を丸くしている。


「あくまで未経験の方に向けた弓なので、なるべく軽量のものを用意したんですよ」


 悠とのそんな会話が聞こえたのか、説明を担当していた職員が声をかけてくる。ありがたいことに、腕への負担が少ない弓を用意してくれたらしい。


「これなら使いやすそうです。羽崎君も、これなら腕が震えなくて済みそうですね?」

「ふ、普通の重さでも大丈夫だと思うけど?」

「だったらいいですね」

「大丈夫だって!」


 悠のことをからかっていると、いつの間にか職員の目が生温かくなっていた。今更だが、自分と悠の性別を正しく認識しているのだろうか。普段であれば制服で伝わっているところがあるが、体操服を着ている今は果たして。


 一瞬考えた不穏なことを頭の中から追い出し、悠と二人で碧依と莉花のところまで戻る。二人の手にも、既に弓が握られていた。


「お、やっと来た。何か話してたけど、どうかした?」

「思ったよりも弓が軽いって話です。そういう弓を準備してるらしいですよ」

「そう言われてみれば、そんなに重くないかも……?」


 碧依が弓を持ち上げながら言う。これまでは自分の事を棚に上げて悠の細腕をからかってきた訳だが、それでも悠は一応男子だ。そういう意味合いで言えば、流石に碧依の方が腕は細い。その碧依が簡単に持ち上げられるのなら、まずは不安要素の一つがなくなったと言ってもいいだろう。


「全員弓は受け取りましたね。では、矢を射るまでの一連の流れを練習してみましょうか」


 しばらくして集まっていた生徒全員に弓が行き渡ったのか、説明が再開された。先程自分と悠に弓を手渡してくれた職員も、残っていた弓を手に取って足を開く。


「まずは立ち方からですね。いくつかスタンスはありますが、今回は初心者でもやりやすい、ストレートスタンスという方法でやってみましょう。まずは、両足の爪先を結んだ線をイメージしてください」


 そう言って、職員が自身の足を指差す。その動きに合わせて、自分の目も勝手に爪先へと向く。


「この線の延長線上に、的の中心がくるように立ちます。的に対して、体が真横を向く感じですね。これで完成です」


 自分と同じく、集まった生徒が揃って自身の爪先に向ける。的はないが、自然と職員に対して横向きになっている者までいた。


「いいですね。皆さん上手です。そのまま、体は前後に曲げず、真っ直ぐ立ちましょう。これで基本の姿勢は完成です」

「真っ直ぐ……、真っ直ぐ……」


 指導を受けて、隣の悠が呟く。自分もそうだが、体を曲げずに真っ直ぐ立つのは意外と難しい。悠もふらつきをどうにか抑えるのに集中していて、口から言葉が漏れていることには気付いていない様子だった。


「本格的にやりたいなら姿勢はきちんとした方がいいですけど、今日はあくまで体験なので、ある程度真っ直ぐならそれで大丈夫です。この後の動作からは危険が伴うので、どちらかと言うと、そちらに意識を向けてください」


 スタンスなるものを教わった後も、説明の言葉が続く。まだ矢は受け取っていないが、いよいよ本格的に弓を持っての練習に入っていくのだった。




 一通りの動作を教わってから、射撃場へと移動する。色々と気を付ける点は多いが、何とかなりそうというのが、説明を受けての感想だった。


「どれだけ的に当たるか、勝負でもしようか」

「勝負?」


 集合場所にやって来た時とは反対に、自分と悠の後ろを歩いている莉花が怪しげなことを言い始めたのは、そんなタイミングだった。いきなりで話を飲み込めなかった碧依が、その真意を尋ねている。


「そうそう。的に当たった本数でも、合計の点数でもいいけど、とにかく一番上手かった人の勝ちってことで」

「んー……」


 詳しく尋ねはしたものの、どうやら碧依はそこまで乗り気ではないらしい。やや考えるような声が聞こえてきて、返事をするのを渋っている様子が伝わってきた。


「勝ったら、他の三人に何でもお願いできることとします」

「やります!」

「は?」

「え!?」


 自分達には大して関係がない話だと思っていたのに、いきなりこちらにまで影響が及んできた。何故か、「飛び火」などという優しい表現では済まない予感がする。


 それは、渋っていた碧依の返事が即答に変わったからなのか、それとも勝者へのご褒美とされたからなのか。どちらにしても、まともな未来は訪れないだろう。


「その方が盛り上がるでしょ?」

「いや、絶対にろくでもないことを口走りますって。見てくださいよ、水瀬さんの目」

「輝いてるね」

「輝かせたのは渡井さんですからね?」


 まるで他人事のように言う莉花と、そんな莉花に突っ込みを入れる自分。二人の視線の先では、碧依の瞳が不吉な輝きを放っていた。


 さらに不吉なのは、その輝きが自分と悠の二人に向けられていること。話している相手は隣の莉花なのに、だ。


「ルールの提案をしたいです!」

「お? 何?」


 どう見てもろくでもないことを考えている碧依から、この場の状況がより悪い方向へと転がっていく可能性のある、余計な一言が飛び出す。


「一番上手かった人じゃなくて、自分より順位が低かった人にお願いができるってことにしませんか!」


 案の定、ルール決めの段階ですらろくでもないことを考えていた。とにかく自分の願いを叶えるチャンスを増やそうとしている。


「天才。それ採用で」


 そして、碧依という味方を得た莉花も止まらない。自分と悠が何か言葉を割り込ませる隙もないままに、あっという間に話が進んでいく。


「僕達二人は認めてないですよ」

「そうだよ! 何でもは無理だって!」

「勝てばいいんだよ? 自信ない?」

「うっ……」


 どうにか言葉を差し込んでみるも、莉花に煽られた悠が呻き声を漏らして沈黙する。これまでの経験から考えると、悠が押しきられる兆候のようにしか思えなかった。


「男の子なのに?」

「うぅ……」


 莉花のその言葉は、自分と悠に対するある意味卑怯な言葉だった。その一言を言われてしまえば、悠が抵抗できなくなることをよく理解している。


「ごめんね、湊君……」


 そして、それは三対一で自分の敗北を決定的にしてしまう一言でもあった。


「流石に羽崎君は悪くないです。悪いのは、向こうで目を輝かせてる二人ですから」


 こうなってしまえば、もう自分が何を言っても状況は変わらない。半ば諦めるようにして、悠のことを慰める。


 かくして、負けると何をされるのか分からない戦いが、ここに生まれてしまった。




「では、これから矢を渡しますが、その前にいくつか注意があります」


 負けると何をされるか分からない、恐怖の勝負が開催されることになった射撃場に到着してしまってから少し。一班ごとに一つの的の前に陣取り、説明を聞く。


「皆さんが今持っている弓と、これから渡す矢。この二つがあれば、厚さにも左右されますが、鉄板程度なら貫通させることができてしまいます。それくらい危険なものだということは知ったうえで扱ってください」


 注意の言葉の中でも、「鉄板を貫通」の辺りで騒めきが起こる。身近なスポーツではない分、そういった認識が薄かったのだろう。


「なので、矢を番えた状態で人に向けるようなことは絶対にしないでください。引き絞っていなくても、です」


 安全に関わることだけあって、これまでの温和な話し方ではなく、幾分か厳しさが強くなった口調だった。その変化を感じ取ったのか、たった今起こったばかり騒めきも、あっという間に静かになっていく。


「また、空に向かって矢を射ることも禁止です。どこに飛んでいくか分からないですからね」


 注意することは思ったよりも多いらしい。職員の言葉はまだ続いていく。


「次に、競技をしている人以外の人についての注意です。競技をしている人からは、十分に離れてください。他の人の道具に触れるのも禁止です」


 気を付けないといけないことが増えていく度に、一つ一つを頭の中で反芻する。慣れないことなので、そうしておかないと何か間違ったことをしてしまいそうだった。


「最後に。一人ずつ決められた本数の矢を使用しますが、他の人よりも早く終わっても、全員が終わるまで的には近付かないでください。点数の確認や矢の回収は、私が合図してからでお願いします」


 最後の注意が終わってから、班ごとに矢を受け取る。一人十本、百点満点の勝負だ。


「それじゃあ、順番を決めてもらって、早速一人目といきましょうか」


 注意事項の説明が終わり、先程のように温和な口調に戻った職員の言葉で、周囲の班が一斉に順番決めの話し合いを始める。当然、それは自分達も同じだった。


「誰からにする?」


 莉花が口火を切るも、その後が続かない。素人が四人集まったレベルでは、順番の前後を気にするような段階まで足を踏み入れていないのだった。


「じゃあ、言い出した莉花からで」

「え? 私?」

「うん。どの順番でもよさそうだしね」

「まぁ、いいけど……。二人は?」

「大丈夫ですよ」

「僕も」


 絶対に一番手でないと嫌だという積極的な人間は、この中にはいない。強いて言えば莉花が当てはまるのかもしれないが、その積極性はまた違った種類の積極性のようにも思える。


 それはともかくとして、莉花が断らなかったことで、あっさりとトップバッターが決まった。


「じゃあ、私は準備してるから、他の順番も決めておいてね」

「はーい」


 準備のために、莉花が少し離れた場所で矢を取り出し始める。それを横目に見ながら、自分達三人は引き続き順番決めの話し合いを続けていく。


「二番目はどうする?」

「あ、じゃあ、僕がやりたいかも」


 碧依の問いかけに、こういった場面ではあまり自身の意見を出さない悠が、意外にも控えめに手を挙げる。自分も碧依も、やや驚いたような顔で悠を見つめることになってしまった。


「最初はちょっとあれだけど、後ろの方過ぎるのも、それはそれで変なプレッシャーがありそうだし……」


 ただし、理由は意外でも何でもなく、とても悠らしいものだった。


「あ、それなら三番目は私!」


 悠らしい理由に納得したのか、便乗して碧依が三番手の位置を確保しに動く。悠とは違って、その言葉に控えめさは感じられなかったが。


「いい?」

「いいですよ。僕はどの順番でもいいので」

「ありがと。じゃあ、私が三番目ってことで」


 微かに首を傾げながら尋ねてくる碧依に了承の言葉を返して、何のトラブルもなく順番が決まる。比較的穏やかな人間が集まった班の利点が存分に発揮された、僅か二分にも満たない、あっという間の出来事だった。




「何をしてもらおうかな……?」


 他の班の順番決めを待つ間、隣にいた碧依が不穏な独り言を呟く。何でもない独り言なら気にしなかったが、今回は話が別だった。


「まだ勝ったわけじゃないですよ」

「でも、今のうちから考えておいた方が頑張れそうじゃない?」

「動機が不純です」

「お願いを叶えてもらえるなら、不純でも何でもいいもんね!」


 おかしなところで欲望に素直な碧依だった。そんな素直さは、もっと別のところで発揮してほしい。


「あ、そうだ!」


 じっとりとした目で見つめる自分の先で、間違いなくろくでもないことを思い付いた碧依の顔が輝く。この流れで、笑って流せるような「お願い」を思い付くはずがない。


 例えば、「自分や悠に何か可愛い服を着てほしい」といったものが考えられる。


「アイリスさんって、確か湊君のだったよね?」

「誤解しか招かない言い方ですけど、アイリスさんとしてはそうらしいですね」


 だが、碧依の矛先はアイリスに向いているらしい。あんまりな言い方で隣の班から怪訝な視線を向けられているが、わざわざ対応する気などありはしなかった。


「もし私が勝ったら、アイリスさんを好きにできる権利を貰っちゃおうかな?」

「その本人がいませんよ」

「保護者でしょ?」

「確かに親鳥とは言いましたけど」


 口にはしたが、それはあくまでも比喩でしかない。それを真に受けて、こんな提案をされても自分が困るだけだ。


「とにかく決めた! 絶対に貰っちゃうもんね!」

「……」


 とはいえ、こうなった碧依には、最早何を言っても無駄である。言葉で止められるなら、これまでの一か月であれこれ苦労していない。もっと言えば、アイリスに天敵認定もされていないだろう。止めるには、もう勝つしかない。


(……負けても僕には被害がない?)


 相変わらずじっとりとした視線を送る中で気付いてしまったが、そこは碧依のことだ。途中で何を思い付いて、何を言い出すか分からない。やはり、勝てるのなら勝っておいた方がいいだろう。


「ふふ……」


 一体何を想像しているのか、怪しげな笑みを浮かべる碧依に、少しだけ背中が冷たくなるのだった。




「全然だめでした……」


 十本全てを使いきって戻ってきた悠が、がっくりと肩を落としている。得点は十八点。ここに移動してきて最初に受けた説明では、的までの距離は三十メートルとかなり近くはなっているが、それでも三十五点も取れたら上出来とのことだった。


 悠と同じく、既に自らの番を終えた莉花は二十二点。この結果を以て、悠の敗北は決定した。あとは何位になるかだけであり、四位だった場合は自分も考えたくはない。


「よし、じゃあ、とりあえず二十三点が目標だね」


 そう口にしながら、順番が回ってきた碧依が前に出る。言わずもがな、目下の目標は悠と莉花の前に出ることだった。


「思ったより難しいよ、これ」

「そんなにですか?」

「うん。綺麗に真っ直ぐ飛んでくれなかったりとか、狙いが全然安定しなかったりとか」


 そんな碧依の後ろ姿を見送りながら、十本射ての感想を悠から聞く。順番が最後というのは、プレッシャーはありつつも、こういった感想を参考にできる位置でもあった。


「いいことを聞きました」

「あ……」

「参考にしますね。できるかは別にして」

「僕より点数が低くてもいいんだよ?」

「意地でも十九点は取ります」


 というよりも、碧依次第ではあるが、できれば二十三点だ。碧依も怖いが、それ以上の何かを感じるのが莉花だった。いつもなら嬉々として「お願い」の話をするはずなのに、今日はこれまで何も要求してこないのが不気味だった。嵐の前の静けさ、とでも言うのだろうか。


「僕のことを気にするより、渡井さんに何を言われるかを気にした方がいいんじゃないですか?」

「ぐぅ……」


 本人に聞こえないように、小声で悠の意識を誘導する。今日は悠の呻き声をよく聞く日だ。


「骨は拾ってあげますから」

「散る前提で話を進めないで?」

「大丈夫です。きっと散りますから」

「こんなに嬉しくない断言もないよね」


 莉花の興味が自分にまで回ってこないよう、どうにか頑張ってもらいたい。意外と上手そうな碧依の一射目の様子に戦々恐々としながら、まだ回ってこない自分の番を待つ午前の一幕なのだった。




「二十九点!」


 班の中での最高得点を更新した碧依が、両手でピースサインを形作る。碧依としては喜び一色なのだろうが、自分としては一位が一気に高得点になってしまって、どうしても素直に祝福できない。


「上手かったね、碧依」

「たまたまだけどね」

「でも、これで二位以上は決まりでしょ」

「莉花には何をお願いしようかな?」

「私が碧依にお願いするつもりだったんだけどな……」

「残念でした。別の機会に頑張ってね」


 思わぬ高得点に気持ちがやや沈んでいる自分を尻目に、碧依と莉花が和やかに話している。その別の機会とやらには、是非巻き込まれないようにしたい。


 自分でどうにかできることなのに、それでも自分でどうにかできるのかと考えながら、碧依と入れ替わりで立ち位置まで移動する。


「勝てそう? 湊君」

「流石にやってみないことには何とも言えないですけど、負けるつもりはないです」

「お? やたらやる気ある?」


 背後の莉花が意外そうに言うが、賭けられているのは後輩の身柄なので、嫌でも真剣にならざるを得ない勝負だった。そうでもなければ、当たろうが外れようが気にしない、気楽なアーチェリー体験になったはずなのだが。


「厄介なものを賭けられたので」

「厄介なもの?」


 自分と碧依の会話を聞いていない莉花が、不思議そうに首を傾げながら尋ねてくる。普段なら絶対に面倒なことになるので言わないが、今日はもうこれ以上面倒なことにはなりようがないので、特に隠すこともなく「厄介なお願い」を口にする。


「アイリスさんの所有権が欲しいらしいですよ」

「何それ! 私も欲しい!」

「もう水瀬さんに負けてるので、それは無理ですね」


 即座に食い付いた莉花だったが、そもそもの話、そんな気軽に後輩一人をやり取りしないでもらいたい。アイリス本人も、まさか遠く離れた山の中で自身が勝負のご褒美になっているとは、露程も思っていないだろう。


「あぁ……。それならもっと本気でやればよかった……」


 先程の悠とは違った理由で、先程の悠と同じように肩を落とす莉花を尻目に、矢を射る一連の動作を思い出しながら準備を進める。


 実際に順番が回ってきて的の前に立つと、後ろで見ていた時よりも的が遠く感じられた。これならば、初心者は三十五点でも難しいという言葉も納得できてしまう。


「……」


 素人の自分が集中したところで何か意味があるのかは分からないが、とりあえず呼吸を整えてみる。何故か緊張していたらしく、やや速くなっていた鼓動が、徐々にいつも通りに戻っていくのが自覚できた。


 目標は三十点。真ん中の九点や十点は難しいが、七点や八点辺りに二本刺さってくれると、かなり現実的な点数になる。


「それでは、四人目の皆さん、どうぞ!」


 職員の言葉で、勝負の十射が始まった。


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