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125. 今と未来 (5)

「その時はアイリスさんと一緒に行きたい場所って話じゃなかったですけど、スイスに行きたいって話はしました」

「スイス? また何とも言えないところを……」


 問いかけてきた莉花に、特に何も隠すことなく正直に答える。隠したくなるような理由もないので、当然と言えば当然の話だが。


 対する莉花はといえば、もっとメジャーな国が返ってくると想像していたのか、その後の言葉が上手く浮かんでこないようだった。


「景色が綺麗そうだからとか、それくらいの理由ですよ」

「あぁ……、確かに綺麗なイメージはあるかも」


 そう言って同調を示してくれたのは、その莉花の反対に座る碧依。軽く頷きながらのその言葉は、何となくの景色を頭の中に浮かべていそうな空気を纏っている。


「中学の時に地理の教科書で見た写真とか、言われてみれば綺麗だったよね。僕も何となく覚えてる」

「僕も初めてまともに見たのはそんな感じです。せっかくなら直接見てみたいってことで」

「ふーん……。兄さんはスイスかぁ……」


 何かを考えるような仕草を見せる蒼だったが、特にその後が続く訳でもなく。何故か楽しそうな笑みをうっすらと浮かべ、やや俯き気味で黙り込むだけだった。


「それで? アイリスさんの方は何て言ってたの?」


 そんな蒼の様子に気付いているのかいないのか、莉花が話をすっと前に進める。その辺りに関して色々と話を聞いたわけではないのであまり詳しくは話せないが、それでも国の名前と場所は覚えていた。


「ギリシャに行きたいって話してましたね」

「ギリシャか。ギリシャ……」

「アテネに行きたいとか、そんな話?」

「いや、サントリーニ島だそうです」

「あぁ! そこかぁ!」

「え?」


 碧依の言葉を訂正した途端、何故か莉花の方から納得の声が上がった。単に観光名所の名前を口にしただけのはずだが、一体どこに納得できる場所があったというのだろうか。


「なるほどなるほど……。アイリスさんらしいと言うか……」

「何かあったんですか?」

「もちろん湊君は聞いてない、と。他には何か言ってた?」

「世界一綺麗な夕日が見られるって言ってましたね」


 何かを探るように尋ねてくる莉花に、年末のことを思い出しながら告げる。蒼も悠も、そして碧依も、誰も莉花の言いたいことが分からないのか、皆一様に不思議そうな目で莉花のことを見つめている。


「そこまでは言ったんだ。じゃあ、その先はわざと隠したのか」

「隠すようなことがあるってことですね?」

「今は別に大丈夫だと思うけど、それって付き合い始める前の話なんだよね?」

「ですね。去年の年末のことです」


 未だにその真意が読めない中、微かにヒントらしきものが提示される。「付き合い始める前」だったからこそ、アイリスが隠したがったこと。そうなれば、答えは自ずと絞られてくる。


「そう言うってことは、僕達の関係に関わることを隠してたってことですかね?」

「そんなところは鋭いんだ……」


 呆れるような口調で莉花が一言。そう言われる心当たりがないでもないが、今は脇に置いておく。ここから話を逸らしたところで、自分にとっていいことなど何一つない。


「ま、それはいいとして。サントリーニ島ってさ……」

「はい」


 妙に答えを引っ張っていたが、ようやくそれを口にするところまで来たらしい。右手の人差し指を立てた莉花から、この場の全員に教えるようにしてその答えが示された。


「さっき湊君が言ったみたいに、世界一綺麗な夕日が見られるって話なんだけど」

「けど?」

「それをパートナーと一緒に見ると、ずっと一緒にいられるって話があるんだよねー?」

「……っ」

「あー……」

「それでアイリスらしいって……」

「湊君、顔を真っ赤にして黙っちゃったけど」


 そうして告げられた答えは、思っていたよりも破壊力のあるもので。瞬時に熱くなった顔は、外の景色が見やすいようにと先程よりも若干暗くなった船内にあっても、はっきりと色が分かる程度には色付いているらしい。


「意味さえ知ってたら、ほとんど告白みたいなものってわけ」

「……そういえば、その話をしてる時のアイリスさん、ちょっと様子が怪しかったです」


 答えを知ったうえで思い返すと、確かに少し悪戯っぽい表情を浮かべていたかもしれない。さらに踏み込んで言えば、少しだけ嬉しそうに微笑んでいたような気もする。


「じゃあ、分かって言ってるね、それ」

「で、兄さんはその時何て返したの?」

「……せっかくなので一緒に行きたいって言われて、僕も同じようなことを返した気がします」

「答えだ」


 言われて気付く。だからこそ、あの時のアイリスは嬉しそうに微笑んでいたのだ、と。


 そして、アーロンやレティシアの様子までは見ていなかったが、あの二人なら莉花が教えてくれた話も知っていそうではある。そうなれば、二人もきっと内心でにこにこしながら自分達のことを見ていたことだろう。


 どちらの想像も、その場で気付くよりも数倍恥ずかしさが押し寄せてくるものだった。


「アイリスさんも案外緊張してたんじゃない? 葵君、たまに意味が分からないことを知ってるし」

「いや、あのアイリスさんだよ? 湊君のことを何でも知ろうとする、あのアイリスさんだよ?」

「何で二回言ったの?」

「その方が伝わるかなって思って。とにかく、湊君が恋愛事に疎いって知ってて言ってると思うけど」

「実際、兄さんは知らなかったわけだしね」

「もし知ってたら、しばらくはアイリスさんの顔を見られなかったです……」


 莉花の言う通り、ほとんど告白にも等しいそんな言葉を告げられて、まともにアイリスと接することができるとは到底思えない。しかも、あの時期は特に。


「でも、あれだね。莉花もよくそんなことを知ってたね?」

「私がこういうことを知ってるのはイメージと違うって?」

「そんなことは言わないけど……。何となく、そういうのは蒼とかの方が詳しそうなイメージがあるかなって」

「私?」


 そんなこんなで羞恥に悶えていると、莉花の知識を不思議に思ったらしい碧依から、何やらそんな声が聞こえてきた。蒼の方が詳しそうという意見に関しては、何となくではあるが同意する。


 と言っても、心の中でうっすら同意するだけであって、羞恥で大変なことになっている大部分はそれどころではない。


「そ。葵君と一緒に行きたいとかって考えてそう」

「流石に恋愛的な目で兄さんを見ることはないけど……。でも、ずっと一緒にいられるのはいいよね」

「何て言うか、お兄ちゃん大好きっ子の極みみたいだよね、蒼って」

「色々あったからね」

「私の弟も、蒼みたいにお姉ちゃん大好きっ子に育ってくれたらなぁ……」

「どっちかって言うと、もう莉花が手遅れなくらい弟大好きなお姉ちゃんになっちゃってるよね」

「手遅れって何」


 色々あったと口にした辺りで、碧依や莉花からは見えない角度で蒼が手を握ってきた。今後もその詳細を話すつもりはなさそうではあるが、やはり思うところがない訳ではないらしい。


「色々大変なんだね、湊君」

「……どうして手を見ながら言うんですか」

「何でもないよ」


 碧依と莉花からは見えなくても、悠が座っている場所からなら見ることができる。今日一日繋がれていた手が再び繋がるのを見て、果たして悠は何を考えたのか。その答えも分からないまま、夕食後の時間は過ぎていくのだった。




「お夕飯も楽しみだったけど、デッキに出るのも楽しみにしてたんだ」

「こっちも滅多にない経験ですもんね。分かります」


 船が帰港するまでの残り時間は、当然のことながら自由時間となっている。立ち入り禁止の区域にさえ入らなければ、自由に船内を見て回ることができる時間だった。もちろん、行くことができる場所にはデッキも含まれている。


「碧依達も先にこっちに来たらよかったのに」


 その件のデッキへと続く通路を歩きながら、少しだけ残念そうに蒼が呟く。自分達と同じようにデッキへと向かう他の生徒の姿はあるが、蒼の言葉通り、そこには悠や碧依、莉花の姿は存在していない。


「向こうも向こうで見たいところがあるとかって言ってましたし、しばらくしたらデッキに来ますよ」

「まぁ、それもそっか。せっかく乗ったのにデッキに出ないなんて、そんなもったいないことはしないよね」

「ですね。ってことで、あんまり気にしなくてもいいと思います」

「じゃあ、そうする。後から来たせいで時間が足りなくなって、もっと早く来たらよかったなんて言ってても、私達はちゃんと笑ってあげようね?」

「ちゃんと?」

「ちゃんと」


 既にいい笑顔でそう口にする蒼の心が読めない。たまに不思議なことを考える妹だった。


「何を言ってるのかよく分かりませんけど、とりあえず着きましたよ」


 分からないことを素直に分からないと言いつつ、デッキへと繋がる扉の前に立つ。通路の窓から見えるデッキには、既にいくつもの人影が動き回っていた。自由時間が始まってから少し経つので、真っ先にここへやって来た他の生徒がいてもおかしくなどない。


「もし落ちそうになったら、その時は助けてくれる?」

「手すりに助けてもらってください」


 一部がガラス張りになった扉に手をかけたところで、蒼が本気か冗談か分からないようなことを尋ねてくる。生憎、自分の細腕で人一人を長時間支えるのは難しいので、そこは是非手すりを頼ってもらいたかった。


「その手すり、私が『兄さん』って呼んだりしてない?」

「じゃあ、手すりはずっと黙ったままでいますね」

「わぁっ!? ごめんって! 冗談だから!」


 だと言うのに、蒼は自分に助けてもらう気満々である。わざわざ手すり扱いまでしてくる妹には、親切にする必要などどこにも存在していなかった。


 そんな自分の気持ちの変化に気付いたのか、蒼が目に見えて慌てだす。それまで体の後ろで組んでいた両手は、焦りを表すかのように今度は体の前でばたばたし始めた。


「大丈夫! 大好きな兄さんを手すりなんて呼んだりしないから!」

「全くもう……。他の人も通るんですから、こんなところで冗談を言うのはなしですよ?」

「はーい」


 今扉の前にいるのは蒼と自分の二人だけだが、後ろから歩いてきている他の生徒も、じきにここまでやって来るだろう。こんなところで渋滞を引き起こす訳にはいかない。


「でも、助けるのが嫌だとは思ってないんだね」

「何を当たり前のことを」


 答えるまでもないことを尋ねてくる蒼をよそに、手をかけた扉をそっと開いていく。その途端、これまでも仄かに周囲に漂っていた潮の香りが一気に強くなった。


「わ……!」


 当然そのことには蒼も気付いたようで、驚きとも感動とも取れるような、そんな小さな声が漏れ出す。


 その声を聞きつつ、さらに扉を開けて一歩踏み出せば、船内には存在していなかった風が全身を撫でるようにして吹き抜けていった。その後に残るのは、強くなった潮の香りと、少し乱れた髪だけ。


「おぉー……! 海だぁ……!」


 吹き抜ける風に言葉まで持っていかれた自分とは対照的に、蒼は興奮を隠しきれていない声音でありきたりな感動を口にした。海自体は乗船する時にも見たはずだが、船の上から見るのは、それはそれでまた何かが違うらしい。


「兄さんっ。もっと向こう行こっ!」

「今日三回目ですね、これ」

「そんなのは気にしなくていいから!」


 またもや蒼が右手を取り、そのまま駆け出さんばかりの勢いでデッキの端へと向かっていく。もちろん、手を繋がれた自分もその背中を追う。


「おぉー……!」


 扉を抜けてすぐと同じ反応を見せる蒼。しっかりと手すりを握り締めながら海へ、そしてその向こうの夜景へと目を向けるその姿は、さながら小さな子供がはしゃいでいるかのように見えてしまった。


「夜景だぁ……!」

「結構遠いですけど、思ったよりはっきり見えるんですね」

「あ! ほら! あの高いビル! お昼に行ったところだ!」


 興奮そのままに、蒼が遥か遠くを指差す。その指の先には、確かに一際高いビルが一つ。まず間違いなく、昼の自由時間で訪れた商業施設だった。


 その背が高いビルを筆頭に、数多のビルが装いを夜のものに変え、暗闇の中に色とりどりの光を放っている。その鮮やかさは、きっとビル街の内側では感じられないもの。周囲に明かりの少ない、そして遠く離れた海の上から見るからこそ、広い範囲を一望してこう感じることができるのだろう。


「……」

「……」


 これまで何かを通してみたことがあるような景色も、こうして直接見るのは初めてだった。自然に生み出された光景ではなく、その明かり一つ一つに人の営みが感じられる人工的な光景であっても、それを綺麗だと思うことに変わりはない。だからこそ、こうして二人して黙って夜景を眺めるだけになってしまったのだろう。


「そんなつもりはなかったんだけど、なんか勝手に黙っちゃうね」

「それだけ滅多に見られない景色ってことですよ」


 デッキではしゃぐ他の生徒の喧噪の中にあって、この場だけは空間が切り取られてしまったかのように静かな空気が流れる。ここに辿り着いた時にはあんなに興奮していた蒼も、今は食い入るようにその目を夜景へと向けていた。


「……私さ」

「ん?」


 同じように夜景を眺める中、隣で蒼が小さく呟く。思わず目を向けるも、その本人の目は未だに海の向こうへと向いている。薄暗いデッキを吹き抜けていく潮風が、自分よりも少しだけ長い琥珀色の髪をなびかせていた。


「ほんとはね、転校しようかどうか迷ったこともあったんだ」

「……」

「こっちには兄さんがいるって分かってたけど、向こうにだって、これまでの友達はたくさんいたし」

「僕とは違って、蒼は社交的ですからね。何となく分かります」

「双子なんだし、兄さんだって社交的なはずなんだけどな?」

「こんな感じに成長しました」

「まぁ、どんな兄さんだって大好きなんだけど」


 そこで一旦言葉を区切る。まるでこれまでの出来事を思い出すかのような、そんな空白の時間。ややあってから、再び蒼がその口を開いた。


「でね? とにかく、それまでの生活を一回全部リセットしてまで転校する必要はあるのかなって。一応、前の学校に通ったままでも、兄さんとお話しすることはできるし」

「それはまぁ……。でも、結局転校することに決めたんですよね?」


 一応、その雰囲気から後悔しているような色は感じられない。それまでの関係を惜しむかのような空気はあるものの、最終的には蒼自身が決めた道である。一瞬尋ねるのを躊躇いはしたが、結局尋ねてしまうことにした。


「そうだね。やっぱり、兄さんと一緒に過ごしたいってことが大きかったから。迷ったのはちょっとだけ。……薄情に思ったりする?」


 その答えを自ら口にしながら不安になったのか、夜景から自分の方へと向きを変えた蒼の瞳は、よく見れば微かに揺れ動いているようにも感じられる。


「そんなこと、僕が思うわけがないじゃないですか。どっちかって言うと、そこまで考えてくれてるのが気恥ずかしいくらいで」

「だよね。知ってて聞いちゃった」


 だが、それもほんの数秒のこと。そう言って不安の色を霧散させた蒼が、ふにゃりと頬を緩める。


「まぁ、そんな風に迷ったこともあったけど、今は転校してきてよかったなって思ったってお話。こんな景色を兄さんと一緒に見られたのも、転校してきたおかげだしね」

「また僕が恥ずかしく思うようなことを……」

「これも知ってて言っちゃった」


 悪戯が成功した子供のように喜ぶ蒼の姿を見ていると、自分が多少恥ずかしいくらいはどうでもよくなってくるから不思議なものである。それでも何となく夜景へと目を逸らすと、そこには先程までと何も変わらない光の景色が広がっていた。


「……」


 結局のところ、蒼もいつもと違う雰囲気に流されて、そんなことを思い出したに過ぎないのだろう。こんなことを言い出したから、実は蒼が後悔しているのではないかと勘ぐってしまうような必要はないはずである。


「照れてくれた?」

「照れない方が無理です」

「じゃあ、私の勝ち」

「勝ち負けって……」

「負けた兄さんは、罰としてしばらく私を甘やかさないといけません」

「またすぐそういうことを言い出すんですから」


 やはり、勘ぐる必要はないらしい。こんなことでも勝負に持ち込んで甘えようとするその姿は、とてもではないが後悔しているような姿ではない。隠すためにわざと気丈に振る舞っている可能性がないとは言いきれないが、柔らかな表情を信じるならば、ただ本気で甘えようとしているだけにしか思えなかった。


「よくアイリスさんにも言ってますけど、普段から割と甘えられてるような気がするんですよね」

「兄さんは甘やかし上手だからね」

「少し気を付けますか」

「アイリスが泣きそう」

「……」

「ついでに私も泣く」

「……」


 これも一種の泣き落としと言ってもいいのだろうか。想像の中のアイリスと、目の前でにっこりと笑う蒼。その二人に泣かれるとなると、自分としては身動きが取れなくなってしまうそうである。


「そもそも、兄さんが誰かを甘やかさないなんて無理だよ」

「どうしてそう言いきれるんですか」

「私が小さい頃からずっとそうなんだもん。今更変わらないよ」


 自分のことをよく知っている妹からの、全く反論できそうにない強烈な一言。確かに、この歳まで成長してから性格を変えるのは、到底不可能としか思えなかった。


「これからも、アイリスと私を程よく甘やかしてね?」

「……どこかで聞いたことがあるお願いですね」

「アイリスじゃない? 何となくだけど言いそう」


 言われてそんなこともあったかと、朧げに思い出す。鮮明な光景は浮かび上がってこなかったが、こんなことを言い出しそうなのはアイリスくらいである。きっと、何かの会話の時にそんな話をしたのだろう。


 そんな思い出せそうで思い出せない、どこかもどかしいような感覚で記憶を探っていると、唐突にこれまでで一番強く潮風が吹き抜けた。


「寒……」


 もう五月といえども、夜の海の上を巡る風は随分と冷たい。最近は昼間が暖かいので勘違いしてしまいそうになるが、まだこの時期の夜は肌寒く感じることもある。


 隣の蒼も例に漏れず、一際強く吹いた風に寒さを感じてしまったらしい。空いた右手で左腕を擦る姿は、まさに寒さを感じている人の仕草そのものだった。


「大丈夫ですか?」

「うん……。思ったよりも風が冷たかったなって思っただけ……」


 そう言う割には、仕草は何も変わっていない。もう風はほとんど収まっているが、それでもなお寒さを感じているのは明らかである。


「上着、貸しましょうか?」

「え? 上着?」

「ですね。僕の」

「……」


 だが、この場には防寒具など当然持ってきていない。そもそもこの修学旅行に持ち込んでいないはずなので、どこにいようと持っているはずなどないのだが。


 ならば、今できるのは自分の上着を貸すことくらいだ。そこまで寒さを感じている訳でもない自分が着ているより、はっきり寒がっている蒼が羽織った方がいいのは考えるまでもないことだった。


「どうせ蒼が着てるのと同じブレザーですけど、もう一枚あれば多少はましになるんじゃないですか?」

「そ、それはそうかもだけど……」

「僕はそこまで寒くないですし、蒼が嫌じゃなければ貸しますよ」

「嫌なんてことは……!」


 そこまで言って黙り込む蒼。何やら躊躇いを見せているようだが、少なくとも自分の上着を着るのが嫌だということではないらしい。だとすれば、そんな態度になってしまうような理由など、自分には思い当たる節がなくなってしまう。


「い、いいの……?」


 そうこうしているうちに、やや躊躇いがちにこちらを窺う蒼から、そんな了承を求める声が届いた。


「いいも何も、僕から言い出したんですよ?」

「そ、そっか……。じゃあその……、貸してもらおう、かなぁ……?」


 歯切れが悪いにも程がある言葉ではあったが、これでようやく話が成立した。手を繋いだままでは上着を脱げないので、一旦蒼の手を離す。しばらくぶりに潮風に振れた手の平は、思ったよりもその冷たさを伝えてきた。


「流石に着るのは無理ですもんね。肩に羽織るくらいにしておきますか」

「う、うん。兄さん、そんなに身長おっきくないもんね」

「どうして今そういうことを言うんですか」


 身長が低いことは否定できないが、それにしても言うタイミングというものがあるだろう。あまり訪れることがないであろうタイミングではあるが、少なくとも今ではないのは確かである。


「双子なんですから、身長だってそこまで変わらないんじゃないですか? 詳しいことは何も知りませんけど」


 言いながら、脱いだ上着を蒼の肩にかける。肩にかかる髪が巻き込まれないよう、そっとその髪を持ち上げたその瞬間、潮の香りとは全く違う、この一か月と少しでよく感じるようになった柑橘系の匂いが、仄かに鼻先を掠めていった。


「ん……」

「はい。これでどうです?」


 上着が肩からずり落ちないことを確認してから手を離す。気休め程度にしかならないとは思うが、それでもやはり問いかけずにはいられない。


「ちょっとあったかくなったかも」

「それならよかったです」

「……あと、ちょっとだけ兄さんの匂いがする」

「返してもらいましょうか」

「やだ」


 最初に返ってきたのは望んだ通りの答えだったのに、何故か二言目には怪しげな感想が飛び出してくる。何やらどこかで聞いたことのある感想に、これまたどこかで見たことのあるような反応だった。


「今は私のだもん」


 そう言って上着を押さえる蒼の姿からは、よほどのことがない限りはしばらく返さないという思いがはっきりと伝わってきた。別に余計なことを言わなければ好きなだけ羽織っていればいいと思っていたのに、今の一言で何となく考え直したくなるのだから不思議なものだ。


「だったら、聞いてるこっちが恥ずかしくなるようなことを言わないでくださいよ」

「嫌いな匂いじゃないんだから、そこまで気にしなくていいと思うけど」

「そういうところですって」


 またしても聞いたことがあるような言葉を呟く蒼。去年は碧依で今年は蒼。もしかすると、上着を借りたらその匂いを確かめないといけない決まりでもあるのだろうか。二度も同じ光景を見てしまうと、そんな荒唐無稽な考えすら頭の中に浮かんできてしまった。


「そもそもですけど、兄妹の匂いなんて、普通は嫌うものじゃないんですか」

「遺伝がどうこうってお話?」

「確か」

「私は気にしたことがないけどなぁ……? 小さい頃はよく兄さんに抱き付いて寝てたし」


 小さく首を傾げながら言う蒼の言葉を聞いて、何となく当時のことを思い出す。確かに、お互いの家に遊びに行った日は、ほぼ必ずと言っていい程一緒に寝ていた。


 とは言っても、それはあくまで小さな子供の頃の話。ある程度成長した今もそれが同じとは、とてもではないが思えない。それなのに蒼がこう口にしてしまう辺り、やはり自分達は普通の兄妹の範囲から大きく外れてしまっているのだと実感する。


「それに、気にしてたら毎日傍にいようとはしないと思うよ?」

「それはそうなんですけどね」

「こんなこともできちゃうしっ!」

「ん?」


 その言葉と同時に、右腕に軽い衝撃が訪れる。思わず目を向ければ、満面の笑みを浮かべた蒼が、しっかりと腕に抱き付いていた。


「ほら。こうしてれば上着はずり落ちないでしょ?」

「そうかもしれませんけど、別にわざわざ抱き付かなくても」

「上着を脱いじゃった兄さんだって、ちょっとは寒くなっちゃうかもしれないしね?」

「それこそ別に……」

「いいからいいから。しばらくはこのままで」

「はぁ……?」


 押しきられるようにして状況が進んでいく。いつもなら左腕に感じている誰かの温かさを、今だけは右腕で感じ取る。どこか慣れないそんな状況も、こんな非日常だからこそなのだろうか。


 いきなり蒼と自分以外の声が聞こえてきたのは、そんな答えの出ない問いを頭の中に思い浮かべながら、視線を夜景に戻そうとした瞬間だった。


「まーたこんなことになってる」

「アイリスさんが嫉妬しちゃうよ?」

「やっぱり仲が良過ぎるよね」

「え」

「あれ?」


 聞き覚えがあり過ぎる三人分の声に振り返ってみれば、そこには先程別れた三人が立っていた。碧依と莉花は呆れ顔を、悠は苦笑いを浮かべている。


「しかも、上着まで貸してるし。やることが兄妹のそれじゃないって」

「あ、上着は私も貸してもらったことがあるよ!」

「碧依。違う」

「はい」


 話をおかしな方向に進めようとした碧依が、珍しく莉花から窘められていた。あまり見られない光景ではあるが、だからと言って積極的に巻き込まれたい訳ではない。


「全く……。そんなだから、私達に写真を撮られちゃうんだよ?」

「言いながら構えないでくださいよ」

「証拠写真はきちんと残しておかないと」

「何の証拠だって言うんですか」

「妹を溺愛してる証拠」

「どっちかって言うと、私が兄さんを好き過ぎる証拠になる気がするけど」


 蒼の訂正も何のその。何も気にせずシャッターを切った莉花が、撮影したての写真を見せつけてくる。


「可愛い兄妹だぁ……」

「感想はそれで合ってます?」

「何がしたくて撮ったのか分からなくなっちゃってるね」

「私も撮っておいたから、また蒼経由でアイリスさんに送っておいてね」

「ん。分かった」

「分からなくていいんですよ」


 昼の轍は踏むまいと制止してみるも、蒼と碧依の流れは止めきれない。今止めたところで、ホテルの部屋で別れてしまえば手出しはできない。アイリスに写真が届くのは、最早決定事項と言っても差し支えないだろう。


「あ、もしホテルで電話がかかってきたら、僕のことは気にせず出てもらっていいから」

「余計な気遣い、本当にありがとうございます」


 だめ押しと言わんばかりの悠の言葉。写真が送られてしまうだけでなく、そこから電話がかかってくるのがほぼ確定してしまったような、そんなデッキでの出来事だった。

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