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122. 今と未来 (2)

「うー……」

「何でそんなそわそわしてるの」

「だってぇ……!」


 昼休みを迎えた教室。授業の緊張感から一時解放され、そこかしこから明るい喧噪が聞こえてくる。普段の自分なら、きっとその中に混ざっていたのだろう。あるいは、一つ上の学年の喧噪に混ざっているか。


 だが、今日はそのどちらでもなかった。一つ上の学年の階は恐ろしい程の静寂に包まれており、それが原因で、自分は周囲の喧噪に混ざることができていない。


 不自然な程に落ち着きを失っている様子を見られてしまったのか、二年生に上がっても同じクラスだった紗季が不思議そうに問いかけてきた。


「葵さんがいない……」

「あー……」

「そっか、修学旅行だもんね」


 たった一言の返事だけで全てを察したのか、紗季の口からどこか間延びしたような声が漏れる。隣で同じように聞いていた純奈も、今やっと思い出したかのように得心の声を上げていた。


「でも、さっきまではそんなでもなかったでしょ? 何でいきなり?」


 自身の弁当箱を広げながら、そこは納得できないといった様子で紗季が言う。自分からすればそうでもなかったのだが、確かに、傍から見ればいきなり落ち着きを失ったように見えたのかもしれない。


「充電が切れたの……」

「充電?」

「葵さんバッテリーがぁ……!」

「またよく分からないものを生み出したんだね」

「何だ。いつものアイリスか」

「せめて声が聞きたい……」


 だが、実態はこうである。朝の一幕でたっぷり充電したと思ったのに、今日はやたらと燃費が悪かった。いつもであれば放課後まで十分耐えられるはずなのに、今日は何故かもう残量が底を突きかけている。近くに葵がいないと意識してしまったことが、ここまでの速さで充電を消費してしまった原因なのだろうか。


「それで大丈夫なわけ? 帰ってくるのは明後日でしょ?」

「大丈夫じゃないぃ……! もう会いたいぃ……!」

「重症だね、アイリスさん」


 きっと悲しげな表情を浮かべているであろう自分の顔を見た純奈が、そっと苦笑いを浮かべながら容赦なくそう評する。出会ってから一年も経てば、初めの頃にあった一歩引いたような雰囲気は薄れていく。こと葵と自分の関係に関しては、年相応に興味を抱いているのか、いつもよりもさらに踏み込んでくることも多い純奈なのだった。


「言ったって、土日に会わないことだってあるでしょ。何でこんな時だけ」

「土日に会えなかったとしても、家はすぐ近くだもん」

「だから?」

「近くにいてくれてるなら、少しの間くらいなら大丈夫……、かも」

「言いきりはしないんだ……」

「何だかんだ葵さんが私の家に来てくれるし、土日に全く会わないことの方が珍しいから……」

「極まってるなぁ……」


 紗季が零した何となく理解しにくい感想を聞きながら、どこか緩慢な手付きで自分の弁当箱を開ける。そうして姿を現したのは、もう大半を自分で準備するようになった料理の数々。赤や黄、緑といった色合いまでをも考えるようになった辺り、着実に腕が上がっていると言えるだろう。


「何となくだけど、今日のお弁当は作っててあんまり楽しくなかったかも」

「そういえば、作り始めたって言ってた時から随分成長したよね」

「ほんとに。玉子焼きも綺麗に巻けるようになってるし」

「葵さんに食べてもらうことを意識したら、自然と上手くなりました」

「うわ、自慢だ」


 そんな弁当箱の中身を見た純奈が、半年以上も前のことを思い出しながらそう口にする。純奈自身にそんな意図はなかったのだろうが、葵のことを想って練習していたことが褒められたように思えて、少しだけ寂しさが紛れたような気がした。


「で、そんな湊先輩には追いつけそうなの?」

「……」

「あ、無理そうか」


 そうして寂しさの代わりに押し寄せたのは、何とも言えない複雑な気持ちである。どうにも言葉にするのが難しい、自分だけの感情だった。


「だって、おかしいんだよ? 最近、私の家のキッチンでパフェとか作ってたんだから」

「パフェ……?」

「湊先輩はどこを目指してるわけ?」

「私が知りたいよ」


 付き合い始める前からも、付き合い始めてから後も、自分が葵の一番近くにいると自負している。最近は蒼の登場で立場が揺らぎかけてはいるものの、それでも簡単に譲ってあげるつもりはない。


 そんな自分ですら、葵がどこへ向かっているのかは想像ができない。どこへ行こうと隣に並んでいるつもりだが、目的地が分からないのは、不安と言えば不安ではある。


「パフェを作ってたのは、確か蒼が原因だったと思うけど」


 話しながら思い出す。件の出来事があったのは、ゴールデンウィークの最終日。その前日、蒼が眺めていた雑誌に載っていたパフェを食べたいと言い出したのが、事の発端だっただろうか。店の場所を考えると難しいことが分かった後、何でもないことのように葵が試しに作ってみると言い出したのだった。


「いや、普通それで作ろうかって話にはならないでしょ」

「湊先輩らしいよね」


 そんなような経緯を話した後の、二人の感想がそれだった。若干の諦めが含まれているように感じられたのは、自分の気のせいなのだろうか。


「で、アイリスはそれを眺めてたと」

「流石にパフェはまだ作れないし……」

「まぁ、それはそうだよね」

「あ、でも、最近は二人共好みの味になるようなものを作ろうってことで、よく一緒にお料理はしてるよ」

「やってることが夫婦」

「いや、夫婦でも珍しいんじゃないかな?」

「えへへぇ……! 夫婦なんてそんなぁ……!」

「そう言う割には嬉しそうだけど」


 ただ教えてもらうだけではなく、一緒に一つの料理を作る。最近増えたそんな光景を頭に浮かべながら口にすれば、思った以上に嬉しくなってしまう言葉が返ってきた。今この瞬間だけは、寂しさを忘れて頬を緩める。


「私達くらいの歳でそこまで意識してるのって、相当珍しいんじゃない?」

「確かにそうかも。アイリスさん以外には見たことがないよね」

「もう葵さん以外は考えられないからね!」

「あ、いつものアイリスさんだ」

「よしよし、このまま一日乗りきろうねー?」

「それは無理!」

「おい」


 流れに乗ってそう言ってみるも、紗季と純奈の二人がかりで急に現実へと引き戻される。この後に控える午後の授業を終えれば、待っているのは一番寂しさを感じる、たった一人の下校時間。葵以外は考えられないからこそ、より一層その寂しさが募るのだった。




「これで晴れて自由の身か」


 一日目の目的地である関西最大の都市でバスを降りる。凝り固まった体を解すように伸びをした莉花が、すぐ目の前でぼそりとそう呟いた。


「三時間ちょっとの自由ですけどね」

「わざと意識しないように言ったのに」


 どんな状況を想像してその一言を口にしたのかは知らないが、ひとまず現実へ戻ってきてもらうことにする。何やら自由時間の短さに不満があるようだが、それなら尚更早めに行動できるようにした方がいいに決まっている。


「でも、確かに三時間は短いよね」

「色々できそうで、案外何にもできないくらいの時間だったり?」


 最後に降りてきた蒼と悠も、莉花の意見に賛成のようだった。乗降口の最後の一段を悠が降りきったその背後で、空気が抜けるような音と共にその扉が閉まる。


「ねー。もっと時間があったら、あそこに行ってみたかったなぁ……」

「どこよ?」

「ほら、魔法が体験できそうな場所」

「あぁ……」


 どうやら、碧依は叶えられない願いを抱いていたらしい。それに反応した莉花はもちろんのこと、蒼や悠の色々と思うところがありそうな様子を見るに、それぞれ行ってみたい場所があったのだろう。


 しかし、修学旅行という性質上、そこにはどうしても時間の制約がついて回る。様々な予定があらかじめ決められている以上、自分達がどうこうできることではないのだった。


「流石にある程度時間がないとね」

「行って、入口から雰囲気だけを眺めて、それで帰ってくるってのは?」

「そんなことをしたら、私泣くからね」

「碧依の泣き顔って見たことがないし、それはそれで……」

「みんなー。莉花は一人で雰囲気だけ感じに行くみたいだから、私達は別の場所に行こうか」

「待って待って! 冗談だから!」


 少しだけ残念そうな碧依にどう声をかけようか悩んでいると、いつの間にか碧依が莉花を見限る事態になっていた。いつもと違う環境は、いつもとは違う人間関係を構築するということだろうか。


「可愛い碧依の泣き顔なら、多分それはそれで可愛いんだろうなって思っただけ!」

「みんなー。莉花は先に集合場所に行ってるらしいから、私達だけで楽しんでこようか」

「違うってぇ!?」


 盛大に慌てふためく莉花。碧依が莉花に対してここまで言うこと自体もそうだが、莉花が一方的に攻められる展開も珍しい。どちらも見た目はあまり変わらないように見えるが、その実気分は高揚しているのかもしれない。


「ほら、莉花のことは放っておいて、そろそろ出発しようか。他の班も皆行っちゃったしね」

「ですね。ここでゆっくりしてても、自由時間が無駄に減るだけですし」

「あ、さっき電車の時間を調べておいたよ。もうすぐ来るって」

「へぇ……。やっぱり、田舎と違ってたくさん電車が来るんだね」


 莉花の叫びを無視するようにしてこちらに向き直る碧依。容赦なく自分達に促すその姿からは、莉花に対する優しさが微塵も感じられない。


 そんな空気を肌で感じ取ったのか、蒼と悠も、何も気にすることなくスマートフォンの画面を覗き込む。蒼の言葉から察するに、一本逃しても、すぐにまた次の電車が来るらしい。この辺りは地元とはっきり異なるところだった。


「あの……! 私も一緒に行きたいんですけど……!?」

「知らなーい」

「ごめんってぇ!」


 まるで莉花を空気のように扱って会話を進める自分達に、その張本人が何とかして混ざろうともがいていた。ただし、碧依の対応は依然として素っ気ないもの。何が碧依をそこまでにさせたのかは誰にも分からないが、莉花が修学旅行のスタートダッシュに失敗したことだけは、誰の目にも明らかだった。




「兄さん」

「何です?」

「人が多過ぎて、目がおかしくなりそう」

「知りませんよ」


 悠が調べてくれたルートを辿るように、見たこともない規模の駅の中を移動する。隣を歩く蒼がそう口にする通り、地元では考えられない数の人がそこかしこを行き来していた。


 性別も年齢も、服装から人種まで、それぞればらばらな人々が一か所に集まっている光景は、こういった場所でもないとなかなか見る機会はない。


 だからと言って、目がおかしくなることはないが。


「なので、いつも通りの碧依と莉花の後ろ姿を眺めて落ち着こうと思います」

「いつも通り……、でしたかね?」

「いつも通りだよ」


 蒼の言うことがどうにも理解できないままでいる間に、いつの間にか蒼が前を歩く碧依と莉花の後ろ姿を凝視していた。曰く、いつも通りのものを見ていると落ち着くとのことだが、先程のやり取りを見て、あの二人をいつも通りと言っていいのかは疑問が残る。


「まぁ、蒼がそれでいいなら気にしませんけど」


 ただし、本人がそれで落ち着くと言うのなら、もうこれ以上自分から言うことはない。自分もまた、前を行く悠の姿を追いつつ、周囲の光景に目を向ける作業に戻る。


 駅の中にすら様々な店が立ち並ぶ光景は、地元にいては絶対に見られない光景の一つだ。照明が煌びやかに店頭を照らすその光景は、まるで通路を歩く人々を誘惑しているようにすら思えてしまう。


 田舎から出てきた感が拭えないことは重々承知しつつも、それでもあちこちに目を向けずにはいられなかった。


「兄さん、兄さん」

「はい?」

「はい」

「はい……?」


 そうしてしばらく蒼から目を離していると、またもや蒼の方から声をかけられた。見れば、何やら左手を差し出している。相変わらず意図が読めない。


 困惑を隠すこともなく、蒼が呼びかけてきた以外は、ニュアンスだけが違う一つの単語のみで会話を交わす。それでも会話が成立してしまう辺り、やはり双子なのだと実感する。


「迷子にならないように、兄さんと手を繋いでおこうかなって」

「この歳にもなって迷子?」

「昔はよくしてたでしょ?」

「いくつの時の話をしてるんですか」

「今もまだ子供だからね」


 言いきって、軽く微笑む蒼。読めなかった意図は掴むことができたが、どうしてそうしたいのかまでは、依然として不明のままなのだった。


「アイリス相手ならすぐ腕を組んでるのに」

「アイリスさんがすぐ抱き付いてきますからね」


 浮かべた笑みを微かに引っ込め、代わりにうっすらとした不満を乗せて蒼が言う。だが、どう考えてもアイリスは別枠である。


 そもそもの話、腕を組むのはまず間違いなくアイリスからだ。自分から手を繋ぎにいったことは自体はあるものの、それこそ片手で数えられるくらいしか記憶にない。


「やっぱり、彼女さんだから特別?」

「それもありますけど……」

「私は妹だよ? しかも双子の」

「無理矢理特別感を出さなくていいです」

「出したら繋いでくれるかなって思って」


 悪びれる様子もない蒼なのだった。狙いとしてはとても単純なものだったが、その効果はもちろん絶大で。


「別に、そんなことをしなくても繋ぎはしますよ」

「ほんと? やった」


 言葉通り嬉しそうにする蒼の手を取る。いつもは自由なはずの右手が誰かと繋がっているのは、どことなく新鮮な感覚だった。ましてや、その相手が双子の妹なら尚更である。


「ふふっ……!」

「そんなに嬉しいものですかね?」

「嬉しいよ? 何たって、私は兄さんが大好きだからね」

「……そうですか」


 聞いているこちらが照れてしまうようなことを、一切照れることなくも言葉にする蒼。この辺りのストレートさは、どちらかと言えば自分よりもアイリスに近いものがある。


 そんな蒼の手は、双子といえども、流石に自分のものよりも一回りは小さかった。対して、体温は自分よりも高いような気がする。伝わってくるその熱は、果たしていつも通りのものだったのだろうか。自分のみでは、その答えには辿り着けない。


「照れてくれた?」

「照れないとでも?」

「何でちょっと強気なの」


 自分が疑問を抱いているのを知ってか知らずか、明らかに分かりきったことを尋ねてくる蒼。ここで誤魔化しても形勢が悪くなるだけなので、いっそのこと認めてみる。まさかそんな反応が返ってくるとは想像していなかったのか、蒼が浮かべるのは苦笑い。


「そんなことを言ってくるのなんて、アイリスさんか蒼しかいませんからね。いくら言われても慣れないです」

「彼女は当然として、これくらいの歳の妹から言われるのは珍しいよね」

「自覚してるんですか」

「もちろん。あんまり普通じゃないなって思ってるけど、好きなものは好きなんだから仕方ないでしょ?」

「まぁ、嫌われるよりは」

「素直じゃないなぁ……」

「照れ隠しですよ」

「うん。知ってる」


 今度は予想通りの反応だったらしい。完璧ではないものの、お互いの行動をある程度なら予想できてしまうのも、仲の良い双子ならではのことなのかもしれない。


「そんな兄さんも好きだけど」

「……」

「弱いね」


 今回は完全に不意打ちの形になってしまったせいで、とうとう反応することすらできなかった。どれだけ時間が経とうとも、この方向でアイリスと蒼の二人に勝つのはどうやら不可能らしかった。




「あ、浮気だ」

「人聞きが悪いです」

「禁断の関係ってやつだね」

「蒼も。乗らなくていいです」


 ホームで電車を待つ僅かな時間。前を歩いていた碧依が、同じく電車を待つ人々の後ろに並ぶ。そうしてこちらを振り返って、最初に出た言葉がそれだった。


「お? 浮気だって?」

「どうしてそこで興味を持つんですか」

「兄さんがどうしてもって言うから……」

「湊君から迫ったんだ……」

「アイリスさんみたいな、とっても可愛い彼女がいるのにね?」

「……」


 碧依との関係修復に成功した莉花も、その単語に興味を持って振り返る。その目には、どうからかおうかという気持ちがありありと浮かんでいた。そして、それは碧依も同じ。


「はーい。笑ってー」

「……どうして撮ったんですか?」

「ん?まあまあ」

「いや、『まあまあ』じゃなくて」


 曖昧に言葉を濁した碧依が、スマートフォンで撮影した写真を何やら素早くいじっている。この後ろくでもないことが起こるような気配があるのは、間違いなく気のせいではないのだろう。


「うん?」


 そうして何をしているのかと碧依を見守っていると、突然隣の蒼が何かに反応した。釣られて目を向ければ、蒼も自身のスマートフォンを取り出すところだった。


「あ、今の写真だ」


 どうやらそういうことらしい。端的に言えば、今の写真が碧依から蒼へと渡っていったことになる。


「綺麗に写ってるね」

「蒼はちゃんと笑ってくれたけど、葵君はいつも通りの顔になっちゃった」

「湊君、写真を撮られるのに慣れてないみたいだもんね」

「羽崎君まで」


 傍観していたはずの悠までもが、いつの間にか蒼達側に回ってしまった。人数的には綺麗な四面楚歌である。はっきりと敵になった訳ではないが、形勢としては圧倒的に不利なことには変わりない。


「ほら」

「……確かに笑えてはないですけど」


 送られてきた写真を蒼に見せられる。碧依の言葉通り、そこには綺麗な笑みを浮かべる蒼と、いつもと大して変わらない表情の自分が写っていた。顔はほとんど同じなのに、表情は対照的である。


「いきなりカメラを向けられて、どうしてそんなすぐに笑えるんですか」

「女の子だからね。兄さんもいつかできるようになるよ」

「一瞬で矛盾するのはやめてください」


 さも当然のように言う蒼だったが、二言目には異論しかない。その論法では、自分の性別は今とは違うものになるはずだ。


「で、これを私がアイリスに送る、と」

「ストップです」


 ごく自然な流れの如く、蒼の手が滑らかに動く。誰も何も言っていないのに、最初からそれが狙いだという共通認識があったかのような動きだった。


「もう送っちゃった」

「早い……!」

「そういえば、今ってちょうど休み時間か。電話でもかかってくるんじゃないの?」

「まさかそんな……」


 蒼の動きを止められず、莉花からはそんな嫌な予感がする言葉を受け取った、その瞬間だった。


「……っ!」

「葵君?」

「兄さん?」


 マナーモードにしていたスマートフォンが、突然その身を震わせ始めた。その振動を受けて、自分の体も一度だけぴくりと震える。その光景を目撃した蒼と碧依が、どこか不思議そうな眼差しでこちらを眺めていた。


「……」

「あ」

「あー……」


 黙って震えるスマートフォンを取り出す。その仕草を見た途端、悠と莉花の口からは短い言葉が漏れた。


 つい先程まで消えていたはずの画面に表示されているのは、当然アイリスの名前で。


「どうしてくれるんですか」

「葵君が頑張るしかないよね!」

「兄さんの腕の見せ所だよ」

「何の腕を?」


 若干の現実逃避を含みつつ、元凶である二人に抗議の目を向ける。いつまでも震え続けるスマートフォンを放置することはできないが、それでも二人には何か一言言っておきたかった。


「ほら。向こうで待ってると思うよ?」

「一番の元凶は碧依さんですからね?」

「つい」

「はぁ……」


 何を言っても受け流される現状を諦め、手にしたスマートフォンに目を遣る。そこには、依然としてアイリスの名前が表示されている。


「……もしもし」


 意を決して電話に出る。何となくその第一声は予想できているが、果たして。


『浮気ですか?』

「違います」

『やっぱり禁断の関係ですか?』

「最近また何か読みました?」

『今度は実の兄妹でした』


 予想通りの一言目から、これまたある意味予想できた流れになる。当然、声の調子でしかアイリスの表情は想像できないが、何となく悲しげな顔をしていそうな雰囲気があった。


『だから気を付けてたのに……!』

「多分、その注意は無駄になりますよ」

『蒼も葵さんのことが大好きだって言ってますし!』

「そういえば、さっきもそんなことを言われ……、何でもないです」

『言われたんですね』

「言われてません」

『葵さんは皆そう言うんですよ』

「僕だけじゃないですか、それ」


 悲しげなものから、何故か悔しそうなものへ。感情が流れるように移ろっていく。電話をかけてみたはいいものの、アイリス自身が何を話せばいいのか分からなくなっているのかもしれない。


『とにかく、普通の兄妹は修学旅行だからって、この歳で手なんて繋がないです』

「僕達は普通の兄妹じゃないと思いません?」

『そ、それはそうですけど……』


 そんな考えが正解だったのか、少し説明するだけで、途端にその勢いが削がれていく。次の言葉を探す沈黙が続いている辺り、アイリスも心のどこかでは納得しているのだろう。


『……私だって、葵さんがそんなことをできない人だって分かってるんですよ』

「だったら」

『でも、やっぱり離れてると不安になっちゃうんです。蒼に押しきられてないかとか、碧依先輩に押し倒されてないかとか』

「大丈夫です。まだ押し倒されてはないですし、一応、押しきられたわけでもないので」

「うん?」


 個人的に不穏な言葉だったのか、碧依の表情が微かに動く。どんな話の流れになっているのかは伝わっていないだろうが、言葉の断片から、何か怪しげな雰囲気を感じ取ったのだろう。


『私一筋ですか?』

「一筋ですね」

『……えへへ』


 一拍遅れての、どこか照れくさそうなその声。もう何度も聞いたことのある声ではあったが、声だけを聞くとなると、その表情を自由に想像できる分、幾分かその喜びを強く感じられるような気がした。きっと、電話の向こうでは盛大に頬を緩めているはずだ。


『そんな風に言ってくれるなら、ちょっと安心です!』

「それならよかったです。誤解も解けたみたいですし」

『あ、もうすぐ休み時間が終わっちゃいます……』

「こっちももうすぐ電車が来ますね」

『うー……! 授業を抜け出しちゃだめですかぁ……?』

「きちんと受けないと、いつか嫌いになるかもしれないです」

『全力で受けます』

「よろしい」


 最早ただ会話を名残惜しく思うだけの空気になったところで、お互いに電話を切る理由ができてしまう。アイリスがなかなか電話を切りたがらないのは想像していた通りではあったが、自分の方も似たような感覚になってしまうのは想定外だった。


 そうこうしているうちに、これから乗る予定の電車が、遠くにその姿を現す。流石に電車内でこのまま会話をするわけにはいかないということで、電話を切らなければいけない時間がいよいよ近付いていた。


「夜にまた電話しますから。もう電車が来ましたし、そろそろ切りますね」

『はーい……』


 まだまだ話し足りないという気持ちが分かりやすく伝わってくるような声音で、それでも何とか電話を切ることを認めてくれるアイリス。仮に電車がまだ来なくても、アイリス側の休み時間が終わりそうなこともあって、結局電話は切れてしまうのだが。


『葵さん』

「何です?」


 きっと挨拶か何かだろうと思いながら、アイリスの呼びかけに応じる。しかし、続いた言葉は予想外のもので。


『大好きですよ!』

「……僕もです」

『えへ! それじゃあ、また夜に、です!』


 強烈な一言を残して電話が切れる。その直前、辛うじて言葉を返すことができたのは、面と向かっていない分、いつも以上に言葉にしないと何も伝わらないと意識していたからだ。


 これがいつも通り近くで言われていたら。恐らくは顔を赤くするだけで、そっと目を逸らしていたことだろう。


「何か、最後はいつもの雰囲気だった?」

「僕が顔を赤くするのがいつもの雰囲気って」

「多分、アイリスに『大好き』とかって言われたんでしょ?」

「……まぁ、そうですけど」

「で、葵君はそれに『僕も』って返したんだ?」

「……そうですけど、何か」

「何でも? いつも通りだなって」


 電話が途切れた途端、蒼と碧依が話しかけてくる。近くで聞いていたのだから、何かしらの感想を抱いて当然ではある。それにしても、気にするのがそこなのかという疑問は生まれるが。


「思ったより大変なことにはならなかったね」

「渡井さんは何を期待してたんですか」

「もっと修羅場っぽいの」

「湊君とフリーゼさんの二人で、それはちょっと難しいんじゃないかな?」

「あ、やっぱりそう思う? 期待薄だなとは思ってたんだけど」

「全くもう……」


 何やら物騒なものを期待していたらしい莉花が、微塵も残念そうな雰囲気を見せずにそんなことを口にする。本人の言葉通り、そこまで強く期待していた訳ではないのだろう。


「ほら、もう来ましたよ。電車の中で騒ぐのはなしですからね」

「上手いこと切り抜けられそうでよかったね、兄さん」

「事の発端は蒼ですからね?」

「手を繋ぎたかったからね。仕方ないよね」


 そうはっきりと言いきった蒼の顔には、とても楽しそうな笑みが浮かんでいる。それは、修学旅行に来ているからという理由だけでは到底上手く説明できないような、そんな柔らかな笑みだった。




「純奈。アイリスどうしたの?」

「ん……。今ね、ちょっとだけ湊先輩と電話してたの」

「あ、それで蕩けてるのか」

「えへへぇ……!」

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