121. 今と未来 (1)
「私も一緒に行ったりとか……」
「できるわけがないです」
「アイリス程ばれやすい人もいないよね」
「我慢してお留守番しててね?」
「うぅー……」
ゴールデンウィークが明けてからしばらく経った、五月十五日、水曜日。腕を離してくれないアイリスが、到底受け入れられることのない願いを口にした。
受け入れられることはないので、当然返事は三人分の否定。それでもなお腕を離さないアイリスが、不満と寂しさを隠すことなく口を尖らせる。
「莉花と羽崎君が思いっきりこっちを見てるね」
「あとから大変そうだね。頑張って、兄さん」
「あれくらいの視線なら慣れました」
碧依が言う通り、自分達のクラスに割り当てられたバスの前で、既に悠と莉花が待っている。その視線は、校門を抜けたのにいつまで経っても近付いてこない自分達に向けられていた。
どちらもいつもの光景を眺める眼差しではあったが、悠が労うような目をしているのに対し、莉花は面白いものを見つけたと言わんばかりの目をしているのが大きな違いである。
「ほら、夜に電話するくらいならできますから」
「直接がいいですもん……」
「金曜には帰ってきますから」
「毎日がいいですもん……」
「……」
「私と修学旅行、どっちが大事なのってやつだね」
「そんな面倒なことを言うつもりはないですけど……」
「いや、今のアイリスさんなら言い出しそう」
「う……」
蒼と碧依の一言によって、少しだけアイリスの勢いが削ぎ落とされる。厄介なことを言っている自覚が少しはあったのか、上手く言葉が続かないようだった。
そんな訳で、今日が修学旅行の出発日なのだった。だからこそ、アイリスがここまで腕を離したくないと主張しているのである。
「そろそろ離さないと、アイリスさんの方も遅刻しますよ」
「またそうやって……、あ、ほんとに遅刻しそう……」
「どうして嘘だと思うんですか」
「葵さん、よくそういうことをするので……」
「確かに、去年はよく見たよね」
「前科ありなんだ?」
「人聞きが悪いですよ」
蒼の一言が突き刺さる。ということは、意識はしていなかったが、その辺りの自覚があったらしい。さもなければ、刺さりはしない。
「それにしても、アイリスが兄さんのことを大好きなのは分かってたけど、ここまでになっちゃうのは、流石に想像してなかったよね」
「そう? 私は予想通り」
「そんなところで競わなくていいんですよ」
そんな自分達の様子を見て、蒼と碧依が何やら小さな勝負を発生させていた。これほど勝ち負けの結果が気にならない勝負も珍しい。
「だって……」
「ん?」
「修学旅行とはいえ、葵さんが女の子四人と遠出するなんて……」
「私は妹だよ?」
「突っ込むところはそこじゃないです」
「え?」
不思議そうに首を傾げる蒼だったが、傾げたいのは自分の方である。誰一人として、悠の性別を正しく認識していない。少し離れたところで事の成り行きを見守っている悠本人も、まさかこんな会話が繰り広げられているとは夢にも思っていないだろう。
「しかも、去年の宿泊学習で葵さんを押し倒した人もいますし……」
「まだ覚えてたの……?」
「押し倒した?」
「蒼。余計なことは考えなくていいから」
「え。気になる。兄さんに聞けばいい?」
「お風呂上がりに押し倒されて、そのまま血を吸われそうになっただけですよ」
「だけ……?」
「何でそこまではっきり教えちゃうの!」
アイリスの一言を皮切りに、今度は碧依が羞恥の感情に身を焦がす事態にまで発展した。本人も、まさか一年経っても忘れられていないとは、微塵も考えていなかったらしい。
「私まで思い出しちゃったでしょ!?」
「押し倒した碧依さんが悪いんですよ」
「それはそうかもだけど!」
「そんな危険人物が一緒の班だなんて、心配で仕方ないです」
「心配の仕方が独特なんですよ。その辺は僕の方で警戒しておきますから」
「まるで私が今年も狙ってるみたいな言い方!」
「前科ありだもんね。警戒するよね」
「全員敵……!」
苦々しい表情を浮かべながら、碧依が絞り出すようにそう口にする。これから楽しいはずの修学旅行に向かうというのに、その出発には到底相応しくない表情だった。
「碧依さんは十分警戒するとして。ほら、そろそろ本当に遅刻しますから」
「うぅー……!」
心配を和らげるように言いながら、相変わらず離れない腕を意識してアイリスに告げる。ようやく微かに力が緩みながらも、それでもまだ完全には離れてくれないその姿は、どれだけ名残惜しく思ってくれているのかがはっきりと伝わってくるものだった。
「……じゃあ」
「ん?」
それでも、気持ちを区切るようにして口を開くアイリス。その瑠璃色の瞳には、意図の読めない強い気持ちが宿っていた。何を言い出すつもりなのか分からなくて、少しだけ身構える。
「頭を撫ででくれたら離れます」
「……」
「おぉ……」
「頭なら私が撫でてあげるから! ほら! こっちおいで!」
「はいはい、碧依は静かにしてようねー?」
「あぁ……!?」
甘えるような上目遣いでの願いは、過去の記憶で悶え苦しんでいた碧依を即座に回復させてしまう程の効果があった。蒼が制止していなければ、むしろ碧依の方から撫でに行っていたのかもしれない。
そして、そんなものを至近距離で見てしまった自分が、まともに何かを考えられるはずもなく。返すことができたのは沈黙だけだった。
「頭……?」
「です。優しくお願いします」
「……?」
聞き返したところで、何か要望が変わる訳でもない。それどころか、撫でやすいようにという配慮なのか、そっとその頭が差し出された。いつも以上に菜の花色が近い。
「……」
「……」
そこからお互いに動くことなく、ほんの少しだけ時間が過ぎ去っていく。どうすればいいのか分からない沈黙を破ってくれたのは、いつでも頼りになる妹だった。
「撫でないとどうにもならないよね」
その破り方が自分に寄り添ったものだとは限らないが。
「んーっ!」
「えぇ……? ここで……?」
「このまま放っておくと、ゴールデンウィークの時みたいになるんじゃない?」
「分かりました。任せてください」
「ゴールデンウィークの時?」
蒼の言葉を受けて、さらに近付いてくるアイリス。このまま放っておけば、頬に例の感触が再来しそうな雰囲気が確かにあった。幾人かの視線を感じている今の状況でそれをされることだけは、何が何でも避けなければならない。
「ねぇ、ゴールデンウィークの時って何?」
「それじゃあ……」
「ねぇ?」
唯一その時の出来事を知らない碧依がしきりに尋ねてくるが、最早そこに割くことができる意識の余裕はない。今はただ、勢いに任せて承諾してしまった行為を実行に移すことだけを考える。
「……」
小さな子供を相手にしていた時とは全く違う心境で腕を持ち上げる。相手が変わるだけでここまでの違いがあるものかと実感しながら、差し出された頭にそっと手を乗せる。
「ん……」
「……」
そのまま髪を梳くように、手を何度か往復させる。初めて意識して触れたアイリスの髪は、驚く程柔らかく滑らかで、そして温かかった。
「えへへぇ……!」
そうして少しの間撫で続けるうちに、その顔に微かに残っていた寂しさは消え去り、代わりにじわじわと喜びが広がっていくのが見て取れた。目を細め、嬉しそうに顔を綻ばせる姿が心に刺さる。
「今更だけど、私達は何を見せられてるんだろうね」
「ゴールデンウィーク……」
近くでこの光景を眺めていた蒼が、一瞬だけ正気に戻っていた。深く考えてはいけない出来事を前に、本当に今更困惑したような表情を浮かべている。
ちなみに、碧依はまだ過去から抜け出せていなかった。
「これでちょっとの間は我慢できそうですぅ……!」
「ここまでしてちょっとなんですね……」
割に合わないのは気のせいだろうか。それとも、単純に自分がこんなことをするのに慣れていないだけなのか。
いずれにせよ、二泊三日の期間全てを我慢できる訳ではないらしかった。
「はふぅ……、充電されますぅ……」
「どう見ても過充電だけど」
「葵さんバッテリーの消耗は激しいので……」
「過充電してるから消耗が激しいんじゃないの?」
「葵さんバッテリーに上限はないですもん……!」
抱き締めていた腕を離し、頭の上に乗った手の平を押さえつけるアイリス。確かに腕は離してくれたものの、今度は手が拘束されたも同然である。
先程よりも幾分か抜け出しやすい拘束ではあるが、その満足そうな表情を見ていると、どうにも自分から手をどけることはできそうにない。結局のところ、アイリスがその手を離してくれるまで悠達に合流できないことには変わりなかった。
「ん……! ある程度充電できました!」
「……それはどうも」
「寂しいことには変わりありませんけどね!」
「兄さんがあんなに頑張ったのに」
「私の好き具合を甘く見てもらったら困りますよ?」
「別にそこは甘く見てないよ」
言葉通り、ようやく満足したらしいアイリスがそっとその手を離す。毎朝そうだが、駅でアイリスに会ってから、初めて腕が解放された瞬間だった。
「ほんとは、最近撮った写真みたいなことをしてくれたら、それが一番よかったんですけど……」
「それはちょっと……」
「知ってます。葵さんがこういうところでしないことくらい。なので、帰ってきた時を楽しみにしておきます」
「なので?」
「するの? 兄さん?」
「え?」
腕を解放してもまだ近くにいるアイリスから、何やらとんでもないリクエストが飛んできた。事情を知らない人からすれば何を言っているのか分からないだろうが、蒼と自分は理解できてしまう。
「寂しいですけど、行ってらっしゃいです。……んっ!」
「うぁ……!?」
「あ」
「え!?」
何を言っているのか分からない言葉に混乱している隙を狙ったのか、少しだけ背伸びをしたアイリスが、肩に手を置いて頬に顔を寄せてきた。何をされたのかを考える暇もなく、温かくて柔らかな感触が頬に残される。
「えへ。それじゃあ、また金曜日に、です!」
「え……、あ、はい……」
小さく手を振ってから校舎へ向かっていくアイリスを、何の意味も持たない曖昧な言葉で見送る。それだけ、今の仕草が効いているという証である。
玄関の中へと消えていくその寸前、最後にもう一度振り向いて手を振ってくるアイリスに、ほとんど無意識で手を振り返す。今自分がどんな顔をしているのか、全く想像ができなかった。
「うそぉ……!?」
「まぁ、兄さん、隙だらけだったもんね」
「……」
二人からそんな感想を受け取りつつ、そっと頬に触れる。そこにはまだ自分の体温以外の温かさが残っているような気がして、更なる恥ずかしさがこみ上げてくるのだった。
「もう逃げ場はないぞ」
「……」
「さっきのこと、洗いざらい吐いてもらおうか」
「……」
学校を出発したバスの中。「他の班よりも一人多いから」という理由で宛がわれた一番後ろの座席で、五人横一列に並んで座っている最中の発言だった。
「私達が見てる前であんなことをやってくれるなんてね?」
「……ちょっと記憶にないです」
「衝撃的過ぎて忘れちゃったか?」
二つ隣から問いかけてくるのは莉花。まるでどこにも逃がさないと言わんばかりに真ん中に配置された自分を、にやにやとした笑みを浮かべながら覗き込んでくる。
「びっくりはしたんだろうけど、別に初めてじゃないよね」
「お?」
「余計なことは言わなくていいです」
「何その話。聞きたい」
バスに乗り込む前と同じように誤魔化そうと思っていたのに、今回は思わぬ方向から追撃が入って、それも苦しくなる。こんなことを言えるのは、もちろん五月頭の出来事を知っている蒼しかいない。
莉花が座っている方向とは反対側。普段ならアイリスの指定席となっている自分の左隣に腰を下ろし、からかうようにして莉花の興味を引く言葉を口にする蒼。先程は沈黙を破ってくれる頼りになる妹だったが、今はそうでもなく、むしろ敵に近い存在なのかもしれなかった。
「あ、それって、もしかしてゴールデンウィークがどうこうって話?」
そんな中で、右隣の碧依が何かに気付いてしまう。件の一騒動があった時に聞いた一言を、何故か今思い出してしまったらしい。勘が鋭いにも程がある。
「そうそう。それ」
「余計なことは言わなくていいんですよ?」
「余計なことじゃなかったら言ってもいいってことだよね」
「だめです」
「って言っても、連休でお出かけした時、アイリスが兄さんのほっぺたにキスしたってだけのお話なんだけど」
「言わなくていいのに……!」
願いは通じない。そんな願いなどなかったかのように言いきった蒼に反応したのは、やはり碧依と莉花だった。
「ほーう……?」
「葵君からは? ねぇ、葵君からは?」
そのことが聞きたくて仕方がないのか、繰り返し疑問を口にする碧依。莉花の方は一見反応が薄いようにも見えるが、実際は眼差しが強烈な興味を物語っている。
「……黙秘で」
「流石に兄さんからはなかったね。まだ恥ずかしいのかな」
「やっぱりかぁ……。言っても、葵君がしてるイメージはないもんね」
「いーや、それは分からないね。こんな無害そうな顔をしておいて、意外とその辺は積極的、みたいな可能性も……」
「ないでしょ」
「ないと思うな」
「ないか」
それはそれで聞き流していい発言ではなかったような気もするが、今の三人に迂闊に突っ込むこともできない。どこからどんなところへ話を繋げられるか分からない以上、一番の正解は何も情報を与えないことである。
「まぁ、たまーに積極的になることも、あるにはあるみたいだけど」
ただし、情報源は自分以外にも存在する。再会してからまだ一か月と少ししか経っていないにも関わらず、数多の知らなくていい情報を握っているのが蒼だった。
「あるの? 葵君が?」
「あるの? 葵ちゃんが?」
「二人目。性別」
「せめて名前で言ってよ」
一体どんな流れでそうなったのか、莉花の呼び方が聞いたこともないようなものに変わっていた。そう呼ばれるべきなのは、どちらかと言えば蒼の方である。
「蒼も蒼です。それ以上はだめです」
「えー?」
「この間の『何でもする』発言をなかったことにしますよ」
「ごめん、碧依、莉花。私は何にも知らないんだ」
「兄妹揃ってお互いに弱過ぎるでしょ」
「何にも知らないなら仕方ないけど、葵君の『何でもする』発言も気になってきたかも」
あっという間に手の平を返した蒼だったが、そうさせるために繰り出した一言がよくなかったのかもしれない。今度はそちらに興味を持ってしまったのか、碧依の目が微かに輝きを増す。そのはしばみ色の瞳は、真っ直ぐに自分へと向けられていた。
「僕が一年前の自分のせいで悶え苦しんでいただけなので、その辺は気にしなくていいです」
「もっと気になる言い方。もしかして、わざとしてない?」
「してません」
そう言って、若干身を乗り出す碧依。隣に座っているのだから距離などあるはずもないのに、何故かわざわざその距離をさらに縮めてくる。去年の宿泊学習の時といい、非日常的なイベントでは、気分が高揚して距離感が変わってしまうのかもしれない。
「蒼は知ってるってことだよね?」
「知ってるけど、言っちゃったら何でもしてもらえなくなっちゃうから」
「例えば?」
「ほっぺたにキスしてもらうとか」
「言わなくてもしませんけど?」
海外ならそんな文化も多少はあるのかもしれないが、生憎ここは日本である。蒼にとっては残念ながら、兄妹でそんなことをする文化は薄い。
なので、意味もなく期待を込めた視線を送ってくるのはやめてほしい。ただでさえ異様な状況なのに、その視線を送ってくる相手が自分とほとんど同じ顔をしているなど、心がむず痒くて仕方がない。
「んー……。こうなった時のこの兄妹って、やけに口が堅いからなぁ……」
「分かってるんだったら、大人しく引き下がってもらえると助かります」
「去年みたいに、勝負を挑んで口を割らせるしかないか……」
「どうしてそこまでして聞きたいんですか」
真顔で考え込むようにして口にする碧依だったが、その本気度がいまいち理解できない。当事者からすれば面白くも何ともない話でしかないが、周囲からみれば印象が違うのだろうか。
仮にそうだったとしても、積極的に話したい内容ではないことに変わりはないが。
「葵君の表情が一番動くのが、思いっきり照れてる時だからね。たまに見ておかないと」
「そんな気軽に言わないでもらっても?」
そうは思いつつも、一応は理由を尋ねてみたところ、返ってきたのは認めたくない事実だった。これでは、普段は表情の変化が少ないと言われているのと同義である。
「そんなに表情に乏しいですか?」
「乏しいって言うか、あんまりはっきり変わることがないよねって話」
「あ、それちょっと分かるかも。湊君が大笑いしてるところなんて、一回も見たことないもんね」
「私はちっちゃい頃にたくさん見たよ?」
「蒼のそれは卑怯でしょ」
「そんなことを言ったら、私達はアイリスさんに甘えられて照れちゃう葵君を散々見てきたからね?」
「張り合い方がおかしいですって」
どうして自分の表情一つでそこまで話が広がってしまうのか。もしかすると、三人共修学旅行ということで気分がいつもと違うのかもしれなかった。
とにかく、意味が分からない張り合いを見せる蒼、碧依、莉花の三人なのだった。
「まぁ、二年になったばっかりの時の湊君よりは、流石に表情豊かだとは思うけど」
「誰のおかげなんだろうね?」
「アイリスだね!」
「そこは蒼が言う場面じゃないでしょ」
「あれ?」
分かりやすく自分に言わせようとしていた碧依が、若干の苦笑いを浮かべながら蒼に視線を送る。先走り過ぎてしまった蒼が、その視線を受け、一拍遅れて首を傾げる。
「……」
「……」
目が合う。何を言い出すのか、何となく察することができた。
「誰のおか……」
「もう言わなくても分かりますよね」
「あぁ……!?」
予想通りの言葉を口にしようとした蒼を遮って、その狙いを真正面から潰してしまう。やってしまったと言わんばかりのその表情が、何やらとても珍しいもののように思えた。
「僕の色々な表情が見たかったら、蒼に見せてもらうって手もあります」
「私は表情豊かです……!」
「否定はしないんだ」
「どれだけ兄妹仲が良いのさ」
そんな蒼の顔を見ていて、ふと思ったことを口にする。以前自身のことを鏡と表現していたこともあるくらいなのだから、蒼に様々な表情を見せてもらえれば、それはそのまま自分の表情ということにもなるのではないだろうか。
蒼も蒼で断ってこない辺り、それが嫌だということでもないらしい。やはり、持つべきものは頼りになる妹である。本日二度目の感想だった。
「でも、実際多少は表情豊かになった自覚ならありますよ」
「お?」
「散々からかわれたり、厄介なことを言われたりしてきましたからね」
「知らないなぁ」
「渡井さんにですよ」
「莉花の『せい』ってことだね」
「碧依さんのせいでもありますよ」
「知らないなぁ」
「この二人は……」
一つ右隣と二つ右隣が、揃って窓の外へと視線を逃がす。明らかに惚けている二人に抗議の視線を送るも、どちらとも目が合うことはない。
仕方なく二人が目を向ける窓の外に目を向けると、海沿いを走る高速道路らしく、そこには一面の青が広がっていた。寄せては返す白波の色だけが、変化の少ないその光景の中で際立っている。
「……」
「まだちょっと寒そうだよね」
「どうしてそんな簡単に心が読めるんですか」
「双子だからね」
その様子を見ていたらしい蒼から、そんな一言が投げかけられる。それは、今まさにぼんやりと考えていたことで。何の手掛かりもなしにぴたりと言い当ててしまうところが、流石は蒼だと言わざるを得なかった。
「アイリスの水着姿とか、ちょっとは想像しちゃった?」
「そこまではしてません」
「え、じゃあ私?」
「してません」
「してよ」
「どうしてほしいんですか」
「顔を赤くしてほしい」
「妹の水着姿で?」
しかも、自分とほとんど同じ顔である。これほど複雑な心境もそうそうないだろう。
「やっぱりアイリスじゃないとだめか……」
「何を残念がってるんですか」
「破壊力が凄そうだよね」
「……」
「あ、ちょっと想像した」
「してません」
危うく想像しかけただけだ。断じて思い浮かべてなどいない。そもそもの話として、この話題を広げるには時期が早過ぎる。
「そんなことを言ってるけど、ちょっと顔が赤くなったよ?」
だというのに、からかうようにそう口にする蒼からは、話の舵を別の方向に切ろうとする気配は感じられない。この一か月程の経験上、こうなった蒼に勝てるとは到底思えなかった。
「……」
そんな訳で、指摘されなければ自分でも気付くことができなかった赤い頬を隠すように、蒼から顔ごと目を逸らして再び窓の外の景色を眺めるのだった。
「大分すっきりしたよ」
「ずっと寝てましたからね。当たり前です」
隣を歩く悠が、言葉通りにすっきりとした声で言う。海沿いということもあり、五月にしては少しだけ冷たい風が髪をなびかせる中での一言だった。
「あはは……。どうにもこういうバスの中って起きていられなくて……」
「そういえば、去年もしっかり寝てましたもんね」
「あの時は肩を貸していただいて……」
恥ずかしそうに言う悠の言葉に、ちょうど一年前の記憶が蘇る。二年生の時の宿泊学習でも、悠は今日と同じようにバスの中で眠りこけていたはずだ。確かに、肩を貸した記憶もある。
「今日は窓でしたね」
「流石に湊さんの肩に寄り掛かるわけにはね?」
「素直に恥ずかしいからって言ったらどうですか?」
「恥ずかしいからです」
目の前に見える建物の正面に鎮座する数段の階段を上りながら、そんな何でもない会話を交わす。先程まで巻き込まれていた蒼達の会話とは違い、何も気にすることなく話すことができる、とても穏やかな会話だった。
「湊君は眠くなったりしないの?」
「蒼達のおかげで、眠気とは無縁の時間でした」
そう口にする自分は、果たしてどんな表情を浮かべているのだろう。その変化が少ないと言われたばかりで、妙に気になってしまう自分がいる。
「何があったのかは聞かないでおくね」
「この先は一緒に巻き込まれてくれると助かります」
主に、標的の分散として。
「その言葉だけで何があったのかは大体分かるし、是非とも遠慮させてもらうよ」
「そう言わずに」
標的を増やせる貴重なチャンスなのだ。これを逃す手はない。
「どうせこの先起きてたら、羽崎君も勝手に巻き込まれるんですから」
「……。……僕、こういうサービスエリアって結構好きなんだよねー」
「現実逃避ですか」
「そうとも言うかもね?」
目を逸らしながら答える悠と共に、建物の中へと足を踏み入れる。その途端に、様々な料理の匂いが鼻を刺激する。近くでは色とりどりのお土産が販売されていて、一気に非日常感が増した。
という訳で、長距離移動ではお約束の休憩時間だった。たっぷり三十分も設けられた休憩時間は、勝手なことをしなければ基本は自由行動だ。どこかを散策するも、お手洗いを済ませるも、バスの中で眠りこけるも、全て各自の自由となっている。
そんな中で、先にバスを降りていった蒼達から少し間を空け、悠と二人で散策に出たのだった。
「お土産とかもそうだけど、景色がいいところとかもあるからね」
そう言って、悠が窓の外へと目を向ける。反対車線を挟んださらに向こう側に、先程はバスの中から見た青が広がっている。ずっと眠っていた悠からすれば、本日初めて見る光景なのだろう。
「ソフトクリームみたいな、普段はあんまり食べないものとかを買っちゃうこともあるし」
「……」
「湊君? どうかした?」
その窓の外に何かを見つけてしまったのか、悠の口からその言葉が聞こえてくる。サービスエリアとソフトクリーム。その二つの組み合わせは、自分に特定の何かを思い出させるには十分なものだった。
浮かんでくる記憶のせいで閉口していると、突然会話が続かなくなったことを不自然に思ったらしい悠が、自分に視線を向けながら首を傾げた。
「いや、どうかしたと言うか……」
「思い出しちゃったんだよね、アイリスのこと」
「え?」
「いつの間に……」
その疑問に対する答えは、自分ではなく双子の妹から。いきなり背後から聞こえてきた声に振り返れば、そこには後ろで手を組んだ蒼が一人で佇んでいた。
どこから話を聞いていたのかは分からないが、にこにこと笑みを浮かべる様子から察するに、自分が何かを思い出した部分の話は聞いていたのだろう。
「思い出したって? 今ので?」
「うん。私も知ったばっかりなんだけど、アイリスの家族って、遠出する時には必ずサービスエリアでソフトクリームを食べるんだって」
「へぇ……?」
「で、兄さんも一緒にお出かけしたことがあるって言ったら、もう何があったかは分かるよね?」
「あー……」
答えから教えるのではなく、そこに辿り着くための手掛かりを口にする蒼。その結果として悠が何かに気付いた辺り、誰かに何かを教えるのに向いているのかもしれない。
教える内容が何なのかは置いておくとして。
「食べさせてほしい、食べさせてあげたいってこと?」
「せいかーい。ま、いつものアイリスだよね」
「そっか。それで思い出しちゃったってことかぁ」
「まぁ、大体合ってますけど……」
大体も何も、ほぼ正解である。ついそんな曖昧な言い方をしてしまったのは、単に悠にすら心を読まれたような気がしてしまって、どこか恥ずかしかったからに過ぎない。
「湊君も、大概フリーゼさんのことが大好きだもんね」
「露骨に離れたがらなかったのはアイリスだけど、案外兄さんもそうだったり?」
「それは……」
自分を挟むようにして立つ蒼と悠が、からかうようにそんなことを言う。どうにかして逃げ出そうにも、こんな限られた空間では逃げ場などほとんどない。バスの中よりはましという程度だ。
「言ってあげたら喜ぶんだろうな、アイリス」
「今朝言ってたら、もう絶対に離してくれなそうだよね」
「その方が、兄さんも嬉しかったりするかも?」
「……」
そうしてあるはずのない逃げ場を探している間にも、旗色はどんどん悪くなっていく。いつもは一緒にからかわれる側にいることが多い悠も、今ばかりは蒼側。味方もおらず、どう足掻いても流れの変わらない会話に、今はただ、沈黙で以て答えを返すことしかできなかった。




