120. 咲き誇るもの (2)
この場所に来たもう一つの目的を目指し、五人でゆっくりと歩いていく。その最中にも、それぞれのエリアに咲く色とりどりの花が視界を鮮やかに染め上げる。
「あっちの緑のお花って何なんですか?」
「あれは……。ビバーナム・スノーボールだと思います」
「ビ、ビバ……? ……あっちの緑のお花って何なんですか?」
「ビバーナム・スノーボール」
「ビナー……」
「ビバー」
「何をしてるの?」
アイリスが指差す先には、やや珍しい印象である緑色を、これまた珍しい印象である球状に咲かせた花が咲き誇っていた。
「アイリスさんが言えてないみたいだったので」
「バビーナム!」
「ビバーナム」
「惜しいのか惜しくないのか……」
一瞬気付かない程度に間違って言いきったアイリスを、蒼が苦笑いを浮かべながら優しく見つめている。その眼差しは、たった一歳とはいえ、それでも年上であるということを印象付けるものだった。
「いいですもん。私が言えなくても、葵さんが解説してくれますから」
「だって。解説できる?」
「咲き始めは緑色の花なんですよ。ちょうどあんな風に」
「もう始まったし」
やや呆れたように言う蒼だったが、この辺りは自分の得意分野である。要求の倍を返すことすら容易い。
「でも、咲き終わりの頃には白い花に変わっていくんです。その辺から、『年齢を感じる』なんて面白い花言葉もあったりします」
「へぇ……。色が変わるんですか?」
「ですね。白いのも白いので可愛いですよ」
「全然日焼けしてないアイリスが白くて可愛いってこと?」
「ちゃんと話を聞いてました?」
「可愛いってこと?」
「可愛いですけど」
「えへ」
流れるように話を逸らした蒼のおかげで、アイリスが嬉しそうに微笑む。逸らし方が絶妙だった。
「他にも、『茶目っ気』と『誓い』って花言葉もあったと思います」
「茶目っ気?」
「枝に小さな花がたくさん咲くのが可愛いからって理由です」
「アイリスが小さくて可愛いってこと?」
「可愛いですけど。そればっかりですか」
「えへへ……」
再びの笑み。「花が咲いたような」という表現があるが、今のアイリスはまさにその言葉がぴったり似合う。周囲に咲いているどんな花よりも、一番近くの花が綺麗に咲き誇っていた。
「『誓い』の方は?」
「よく結婚式で使われるからだそうです」
「自分達の時も使おうって?」
「……っ!」
「えへへ……!」
まるで自然な流れかのように口にした蒼だが、流石にその一言は衝撃が大き過ぎる。これまでと同じように返すこともできず、ただ頬を染めて目を逸らすだけ。
もちろん、逸らすのはアイリスがいない方向である。声の調子からして未だに嬉しそうに微笑んでいるはずの姿を見てしまうのは、どう考えても悪手だ。
「否定はしないんだ」
「……まだそこまで考えたことがないってだけです」
「私はしょっちゅう考えてますよ!」
「あー……。アイリスはそういうのが得意そうだよね」
「妄想が得意ってなんですか」
何かに納得したように言う蒼だったが、流石のアイリスもそこは聞き流すことができなかったらしい。蒼を覗き込むようにして前のめりになったアイリスの髪が、視界の端でふわりと揺れる。
「私が考えるのなんて、葵さんとお付き合いしたらとか、葵さんと一緒の家で暮らしたらとか、葵さんと結婚したらとか、葵さんが可愛いコスプレをしたらとか、そんなことくらいですよ」
「十分だって。それを得意って言うんだよ」
「最後」
詰まることなくすらすらと口から出てきたのもそうだが、やはり何より最後の言葉が気になって仕方がない。未だにあれやこれやと画策しているのか、発言に一切の淀みが存在していなかった。
「でも、あれだね。もう兄さんとお付き合いしてるし、一緒の家で暮らすのもお泊りはあったし、コスプレもしてるみたいだし、あとは結婚だけ?」
「はいっ! 夢がどんどん叶っちゃってます!」
「『妄想』から『夢』に変わってるところはどう思います?」
「願わないと叶わないですからね」
「まぁ、全部そうだけど、残りのは兄さんが特に頑張らないとね?」
「……」
「やっぱり、照れてる葵さんが一番可愛いですねっ!」
そう言って、自分の方も覗き込んでくるアイリス。自分から目を逸らすことはできても、向こうから視界に入ってこられてはどうしようもない。今はただ、赤く染まった頬を楽しそうなアイリスの前に晒すことしかできなかった。
「私、やっぱりこのお花好きです」
そうして辿り着いた目的地。先程のウスベニアオイよりもずっと背丈の低いアイリスの花が咲き誇る中、その前にしゃがみ込んで間近で眺めていたアイリスが、そっとそう呟いた。
「前まで自分の名前の理由なんて知りませんでしたけど、知ってから見ると全然違いますね」
杜若色に菖蒲色、アヤメ色。アイリスの花に関連する色の名前は種々あるが、目の前にあるのは菖蒲色に近いものだろうか。それよりもほんの少しだけ赤みが強いような気もするが、とにかく目にも鮮やかな紫色であることには変わりなかった。
「だってあなた、名前の由来なんて聞いてこなかったじゃない」
「そういうものだって思ってたからね。わざわざ聞いたりはしないって」
「せっかく綺麗な花なんだから、僕達の方から教えてもよかったかもしれないね」
同じく近くにしゃがみ込み、自身の娘の名前にした花を眺めるアーロンとレティシア。名付けの際の話は軽くしか聞いたことはないが、教えてもらったもの以外にも、きっと紆余曲折あったのだろう。他の花を眺めている時よりも、幾分か眼差しが優しいもののように思えた。
「結局、何でも葵君がきっかけなのね」
「……そう言われると照れますね」
「今の私は全部が葵さんでできてます!」
「それはもう兄さんだよ」
「僕達の娘はどこに?」
喜ばしいことのように言うアイリスだったが、その中身は聞いていて若干恥ずかしい。少なくとも、周囲にアーロンやレティシアがいる時に口にしてもらいたい言葉ではない。
「それにしても、実物も可愛いですね」
「ん? 実物って?」
再び視線を花に戻したアイリスが、感慨深そうにそう口にする。いつもよりも目が細くなっているように見えるのは、そうして目の前の花と何かを重ね合わせているからだろうか。
そんなアイリスの言葉と仕草に、事情を知らない蒼が首を傾げる。知っている側からすれば何でもないような一言も、蒼にとっては初めて聞くもので。
「あ、ですよね。蒼は知らないですもんね」
「うん? 何を?」
アイリスもまた、そんな蒼の様子を見て気が付いたのか、自身の言葉の意味を説明するために口を開いた。
「ちょうど一年くらい前でしたけど、葵さんが宿泊学習に行った時に、お土産を買ってきてくれたんです」
「お土産」
「で、それがアイリスのソープフラワーだったんですよね」
「ふーん……」
「今もお部屋に飾ってます。丁寧にお手入れすれば、一年くらいは飾ることができるみたいですよ?」
その話を聞いて、確かに部屋に飾ってあったことを思い出す。ただし、その部屋に入ったのは眠り姫を起こしに行った時だけなので、すぐにその記憶は別に浮かんだ光景に上書きされてしまったが。
「……」
「蒼? どうかしました?」
「いや……、ちょっとね……」
「はい?」
アイリスが「実物」と表現した理由は理解できたであろう蒼が、それでもまだ何かの疑問を抱いているかのように歯切れの悪い言葉を漏らす。微かに眉間に皺を寄せたその表情は、おおよそこんな景色の中で浮かべる表情ではない。
「アイリスってさ、兄さんに初めて会ったのはいつ?」
「え……。去年の四月ですけど、それがどうかしました?」
「で、五月頃にそのお土産を貰ったんだ?」
「はい」
「ふーん……」
「え? え?」
尋ねるだけ尋ね、再び思案に沈む蒼。何を考えているのか分からずに困惑するアイリスの目が、ちらちらと何度か自分の方を向く。だが、生憎自分にも今の蒼の考えは読めない。できることといえば、蒼が再びその口を開くのを待つことだけだった。
「兄さんさ」
「はい」
やや間を空けて開かれたその口。しかし、その向かう先はアイリスではなく何故か自分。
「出会ってから一か月くらいしか経ってない後輩の女の子に、いきなりそんなお土産を渡したりしてたの? 距離感がおかしくない?」
「ぐぅっ……!?」
「葵さん?」
「あ、これ、自覚はしてたね」
放たれた言葉は、急所とも呼べる心の弱い部分を的確に突いてくるものだった。とにかく痛い。
「しかもこれ、渡した時は何にも思ってなかったけど、後から思い返して恥ずかしくなってるタイプの自覚の仕方だ」
「あぁ……!?」
「葵さん!?」
最初の指摘だけでも十分急所を抉ってきたのに、さらに追撃まで用意されていた。蒼自身にそこまでの意図はないのだろうが、それにしても破壊力が高過ぎる。
そんな二撃を受けて平常心など保てるはずもなく。しゃがみ込んだまま膝に顔を埋め、周囲から隠れるのに全力を注ぐ。真っ暗になってしまった視界の中、一緒にしゃがみ込んでいたアイリスの驚く声だけが聞こえた。
「そっかそっか。ま、兄さんは昔から親しい相手には距離が近かったからね。それも仕方ないか」
「あぁぁ……!」
「親しい……!」
「その時の兄さんがどんなだったかは分からないけど、何でもない風に装って、実はその頃からアイリスのことばっかり見てたりとか?」
「ほんとですか!?」
「もう許してください……! 何でもしますから……!」
顔を上げられないまま、絞り出すような声で蒼に懇願する。アイリスからは何かを期待するような声が届いているが、今の自分ではまともに反応することもできない。自分がまずするべきなのは、双子の兄の心を簡単に見透かす妹を止めることだ。
「何でもかぁ……。そう言われると迷っちゃうよね」
「あっ!? ずるいですよ! 私だって甘えたいのに!」
「だーめ。今のは私に言ってくれたんだから」
「むぅー!」
「うぅ……」
自分の更なる犠牲を代償に、とりあえずは蒼の暴露が止まる。だが、それはアイリスの嫉妬の始まりでしかなく。恐らくは抗議の意味があるであろう左腕の感覚が、ひたすらに鼓動を速めていく。
「アイリスの花と真っ赤なアオイが今だけ共演中」
「期間限定もいいところだね」
一連の流れを黙って見守っていたアーロンとレティシアがそんなことを言うのにも、何も反応することができなかった。
「ひどい目に遭いました」
「全部過去の兄さんのせいだけどね」
過去の自分を散々突かれてから少し。ようやくある程度の落ち着きを取り戻し、まともに顔を上げられるようになった。なっただけで、負ったダメージが回復したとは言っていない。
「でも、そのおかげで私は何でもしてもらえることになったわけだし、別に悪いことなんてないよね」
「アイリスさんがちょっと不満そうです」
「不満です!」
そんなことを言う蒼への反論の意味を込めて、アイリスの方へと話を振ってみる。返ってきたのは、誰が聞いても不満を抱いていることが分かる声だった。そもそも、そう口にしているが。
「『何でもする』なんて、私だってほとんど言われたことないのに……!」
「妹の特権だよね」
「彼女の特権はどこですか?」
「こうしてるところじゃないですか?」
答えながら、抱き付いているアイリスの腕を指差す。この仕草は、流石に蒼といえどもそう簡単に真似できない、アイリスの特権と言っても過言ではない仕草だった。
「ま、まぁ、それはそうかもしれませんけど……」
「あ、ちょっとだけ溜飲が下がった」
「確かに、蒼がこうしてるところは見たことないですもんね……」
特別が見つかって嬉しいのか、不満そうだったアイリスの表情が徐々に和らいでいく。少し前にアイリスの花を眺めていた時と完全に同じとまではいかないものの、それに近いくらいは気分が戻ってきたらしい。
「特権……。私だけ……。えへ……」
「うわ。嬉しそう」
「小さなことでも幸せを感じられる娘に育ってくれて嬉しいよ」
「何でも勝手に妄想に繋げて幸せになってそうな気もするけど」
「腕に抱き付いてるアイリスと目の前に咲いてるアイリスだったら、兄さん的にはどっちの方が好き?」
「腕に抱き付いてる方ですけど、それが何か?」
「……っ!」
「迷いがないね」
からかうような蒼の問いに、一瞬も迷うことなく即答する。当然、周囲で咲いているアイリスの花も可愛らしくて好きではあるが、いかんせん比較する相手が悪い。アイリスに対して迷うことができる相手など、それこそ目の前の蒼くらいのものだ。
「わ、私も、アオイのお花より葵さんの方が好きです!」
「見れば分かるよね」
「僕は見なくても分かります」
「ん? 嫉妬?」
「そうじゃなくて。物理的に分かります」
「あぁ……」
自分が何を言いたいのか理解した蒼が、視線を腕に向けながら小さくそう零す。感情の正負までは分からないが、抱き付く強さでその大きさだけなら感じ取ることができる、まさにバロメーターのようなものだった。
「大変だね、兄さんも」
「そう思うんだったら、むやみやたらとアイリスさんのことを煽らないでもらえます?」
「えへー……」
「こうなるんですから」
「大変だね、兄さんも」
「録音ですか」
今回の感情は正の方だった。一度負の方向に振れてからその反動を利用して戻ってきたせいなのか、先程の上機嫌さを超える勢いで絶対値が増えていく。肩口に頬を寄せる仕草は、この上なく喜んでいる時の癖のようなものだ。それこそ、頬にキスをされたあの時と同じレベルにまで向かおうとしているのではないだろうか。
「写真、撮っちゃいましょうか」
「そうだね。娘の可愛い姿を残すのも、親の立派な役目だ」
「どうして今言い出すんですか」
「シャッターチャンスかなと思って」
「まぁ、今に限った話でもないんだけど。葵君と一緒にいると、アイリスのいい顔が見られるからね」
「ってことで、はい一枚」
アーロンが話している間に素早くシャッターを切ったレティシアが、早速次のアングルを探し始める。どうせもう止まらないので好きにすればいいとは思うが、一枚目のアングルではアイリスの花が写っていないように思えるのは、果たして自分の勘違いなのか。
「後ろ姿でも、案外いい写真になったりするわね」
「あとから見返して、この時はどんな表情だったんだろうって想像するのも面白いかもね?」
アイリスと蒼、そして自分の周囲をぐるぐると回りながら、何枚も写真を撮っていくレティシア。この公園の中に入ってからずっとそうだが、基本的にレティシアのシャッターを切る手が五分以上止まることがない。撮った枚数は、きっと恐ろしいことになっているのだろう。
そして、風景を写した写真と人を写した写真の比は、一体どうなっているのか。こんな場所に来ているのに、自分達子供三人組を写した写真の方が圧倒的に多いような気がした。
あるいは、こんな場所に来ているからか。
「葵君の方は想像する余地があるとして、アイリスの方にそんな余地はなさそうね」
「らしいよ? アイリスにそんな顔をさせてる張本人として、何か言うことはある?」
「……喜んでくれるのが一番じゃないですか」
「好きぃ……!」
「うん、ありがと。お腹いっぱい」
今のやり取りで何に満足したのか、何故か蒼まで嬉しそうな笑みをこちらに向けてきた。屈託のない笑みは、それだけで見ている側の気持ちを和らげる。
そんな柔らかな表情も、レティシアが漏らすことなくしっかりと写真に収めていた。
「そういえば、もうすぐアイリスさんの誕生日なんですよね」
「ですね。また少しだけ、葵さんと同い年になっちゃいます」
別の場所でも写真を撮ろうということで、揃って紫色に彩られた小道を歩く。そんな中、先程の会話で思い出したことを振ってみる。
その中身は、もう一か月後に迫ったアイリスの誕生日のこと。もちろん忘れていた訳ではないが、誕生花の話で頭の中に浮かんできたのもまた事実だ。そして、浮かんでしまったからには、話さない訳にはいかなかった。
「え? そんなに近いの?」
隣で話を聞いていた蒼が驚いたように言う。これまで蒼の前でアイリスの誕生日の話をしたことがなかったので、その反応も当然と言えば当然である。
「えぇ。六月六日です」
「ちゃんと覚えてくれてるって思うと、やっぱり嬉しくなっちゃいますよね」
「好きな相手の誕生日なんですから、当たり前の話じゃないですか」
「またそうやって私を喜ばせるんですから! 何を狙ってるんですか!」
「不意打ちで頬にキスをするのは遠慮してもらえると」
「や! です!」
「……」
「残念だったね」
この願いが叶わないことなど、願う前から分かっていた。
それでも一縷の望みを賭けて口にした自分は、果たして間違っていたのだろうか。この問いに答えをくれる相手は、どこにもいない。
「でも、そっか。もう一か月くらいしかないんだね。何かプレゼントを用意しないと……」
「え。くれるんですか?」
「当たり前でしょ? どうして意外そうな顔してるの?」
「いや、何となく……」
気まずそうに蒼から目を逸らしながら頬を掻くアイリス。出会ってからの月日の短さがそうさせたのか、蒼から何かを貰えるとは思っていなかったらしい。
「まぁ、いいけど。ちゃんと考えておくから」
「ありがとうございますっ」
「で、兄さんは何を用意するつもりなの?」
「まだ考えてます。色々悩んでて……」
そこまで言って、言葉を切る。去年はそこまで深く悩まずに渡せたはずのプレゼントも、一年経って関係が変わったことで、難易度が急激に変化していた。様々な候補が頭の中に浮かんでは消えを繰り返し、未だにこれといったものが定まらない。
「アイリスさんは何か欲しいものってあります?」
「葵さんで!」
「普段から自分のだって言ってるのに」
「そうでした。冗談です」
「絶対に冗談じゃない言い方でしたよ」
悪びれる様子もなく、そっと目を逸らして言う。少しだけ前のめりになって言っていた辺り、間違いなく本気で言っていたはずだ。
「そういう言い方だと、何をするつもりなのか気になるよね」
「一日全力で甘えます!」
「今と何か変わります?」
「葵さんに拒否権がないくらいですかね?」
「今でも大してありませんよ」
正確には、甘え方が上手くて拒否権を使うのが難しい、だ。一応、拒否権と呼ばれるものを手にしてはいる。
ただし、今後も使用できる目途は立っていない。
「抱き付いたりするのも、お布団に潜り込んだりするのも、ほっぺたにキスしちゃうのも、全部認めてくれないとだめなんですよ?」
「今でも全部拒否できてません」
「じゃあ、何をプレゼントしてくれるって言うんですか!」
「それを聞いてるんですよ」
何故アイリスが攻め立てる側に回っているのか、これが何も理解できない。何も意識していないのに、いつの間にかこうなっていた。
口を尖らせている相手は大抵不満を抱いていると相場が決まっているが、今のアイリスは声が明るい。単にポーズとして口を尖らせているだけで、実際不満は抱いていないのだろう。もしかすると、これも甘えの一種なのかもしれない。
「具体的なものじゃなくてもいいので、こんな感じのものが欲しいとか」
「んー……? 葵さん以外で欲しいものですか……?」
「その修飾は絶対につくんだね」
「大事なことですもん。一番は葵さんです」
「娘の愛が大き過ぎる」
「誰譲りかははっきりしてるね?」
「あら、何?」
「何でも?」
少し前を歩いていた夫婦が、何やら怪しげな会話を交わしていた。どう考えても自分達の影響である。
「あ、じゃあ、何かお部屋に飾るものが欲しいです」
そんなアーロンとレティシアの様子に何となく意識を向けていると、それを引き戻すかのようにアイリスからそんな提案があった。
「飾るもの?」
「はい。ソープフラワーもそうでしたけど、眺めてると嬉しくなっちゃいますから。何か形に残るものがいいなって」
「インテリアってことですか……」
「余計難しくなっちゃった感があるね?」
「眺めてると、葵さんからの愛情が感じられるので!」
「ソープフラワーの時はありませんでしたけどね」
「あったって言ってくださいよ!」
懇願するようにアイリスが腕を引いてくるが、残念ながら自分の気持ちに嘘を吐くことはできない。当時の自分は、何も考えずに例のお土産を渡していたはずだ。そうでもなければ、出会って一か月の後輩にいきなりあれを渡すことはない。
「とにかく、形に残るものですね。何か考えておきます」
「一番形に残るのは葵さんですよ?」
「その件は終わりました」
「むぅ!」
「諦めないなぁ……」
今度は本当に不満がありそうな声音で、むっと口を尖らせるアイリス。隣で軽く笑う蒼の言う通り、妙なところで諦めの悪いアイリスなのだった。
「宣言通りしっかり寝る、と」
「宣言通り肩で寝てますからね。綺麗な有言実行です」
「はーい、一枚」
「どうして撮ってるんですか」
「いい写真になったよ」
「そういうことを言ってるんじゃないんです」
何やら色々なことがあって異様に疲れたような気がする小旅行の、その帰り道。向こうに到着した時に話していた通り、肩に寄り掛かったアイリスが小さく寝息を立てていた。
「……んぅ」
「可愛い」
「知ってますけど」
「ちょっと恥ずかしそうにしてる兄さんも」
「そっちは知りません」
その様子を写真に収め、出来を確かめるようにスマートフォンの画面を覗き込む蒼。漏れ聞こえてきた感想は、アイリスの寝顔に対するものだと思っていたのに、どうやら自分も対象に含まれていたらしい。そちらは何も知らない。
「それでも、ソフトクリームを葵君に食べさせてもらったり食べさせたりするまではしっかり起きてた辺り、とにかく願いが単純よね」
「さっきの葵君は大変そうだったね。味はしたかい?」
「辛うじて」
「したって嘘を吐かないところが素直だよね。兄さん以外誰も気付かないのに」
それこそ、今更だからである。アイリスは食べさせたい、自分は恥ずかしいという攻防を間近で眺めていた三人に嘘を吐いたところで、何か得られるものがある訳でもない。それならば、素直に認めてしまった方がまだ楽だ。
「それにしても、兄さんって誰かに食べさせてもらう時、あんな恥ずかしそうな顔をするんだね」
「冷静に分析しなくていいです」
「今度、私も食べさせてあげようか?」
「アイリスさんが嫉妬するので遠慮しておきます」
「そこは兄さんが恥ずかしいからじゃないんだ?」
「それもあります」
面白いことを聞いたとでも言いたそうな顔の蒼だったが、言った側からすれば何も面白くない。仮に実現してしまったとして、その先にあるのは少し不満そうなアイリスの顔である。普段の会話の中でそんな表情をするのならまだしも、自分の行動でそうさせてしまうのは、避けられるのなら避けたい出来事だった。
「何て言うか、アイリスの方が分かりやすいからそっちに目が行きがちだけど、兄さんも大概アイリスが基準だよね」
「どう振る舞うのが正解なのか分からないってこともありますから。初恋ですし」
「すぐそういうことを言うから、アイリスがしょっちゅう壊れるんだよ」
「アイリスのことを大事にしてくれるのは嬉しいけど、もう少し自分のことを考えてくれてもいいんだよ?」
「それでなくても気を遣っちゃうタイプだものね、葵君」
「はぁ……」
三者三様の答えが返ってくるが、いまいちぴんと来るものがない。きっと、自分で無理をしている感覚がないからだろうとは思う。今の性格がこうなので、照れて大変なことはあっても、嫌な思いをしたことは一度もないのだった。
「それなら頑張ってはみますけど……」
「頑張らないとできないんだ……」
「しかも、できるとは言ってないね」
「葵君らしいと言えばらしいのかしら」
ぴんと来ないので、どうしても返事は曖昧なものになる。若干諦めたような三人の感想を聞きながら、肩に寄り掛かるアイリスへと目を向ける。
これだけ近くで色々と話しているのに、一向に目を覚ます気配がない。向こうであれだけはしゃいでいればそれも頷けるが、それにしても警戒心の薄さは気になるところだ。場所が場所だけに、薄れてしまうのも無理はないが。
「兄さん? どうかした?」
その様子を見ていたのか、蒼が不思議そうに首を傾げながら尋ねてきた。その瞬間、何があった訳でもないが、とある記憶が蘇る。
「いや、図書館でも前にこんなことがあったなと」
「図書館?」
「えぇ。テストに向けて勉強をしてる時、確かこうやってアイリスさんが寝てました」
「あぁ……。去年の今頃だっけ」
「そうね。帰ってくるなり、寝顔の写真を撮られたって騒いでたわ」
「撮ったのはアイリスさんの友達ですけどね」
このままでは自分が撮ったと蒼に勘違いされそうだったので、とりあえず訂正しておく。別の機会に撮ったことがあるのは、当然秘密である。
「ふーん。その頃から懐かれてたんだ」
「アルバイト先が同じで、高校も一緒だってことが分かった後でしたから」
「案外、その頃からそれだけじゃなかったりしてね?」
「……それは分かりません」
「あ、照れた」
「放っておいてください」
蒼が何を言いたいのかなど、わざわざ問い質さなくても理解できる。理解できてしまったからこそ、少しだけ恥ずかしくなって窓の外に目を向けてしまった。
余計なことを口にする蒼に一言だけ返しつつ、見慣れない景色が流れていくのをぼんやりと眺める。先月までは綺麗な花を咲かせていたであろう桜の木も、今やすっかり浅緑色。もうしばらくすれば緑はさらに濃くなり、その装いを夏のものに変えるのだろう。
「……」
車が走る音に混じって聞こえるのは、アイリスの小さな小さな寝息。肩に寄り掛かっているからこそ聞こえるそれは、何も憂うことがなさそうな、とても穏やかで幸せそうな寝息だった。




