12. 賑やかな花 (3)
明日の予定について、一通りの説明が終わって解散となった。この後は入浴の時間があって、そのまま就寝の予定である。入浴に関しては、午後八時半から十時半までの間で自由に行えることになっていた。
「覗く?」
「どうしてそっちから話を振ってくるんですか」
ホールを出た後、男子棟と女子棟の境界であるエントランスまで向かう間に、莉花がにこにこしながら厄介な話題を持ちかけてきた。あくまでも想像に過ぎないが、そういった話は男子だけでするものではないだろうか。
「え? 覗かないの?」
「そこで驚かれるのが心外なんですけど」
「大丈夫? ほんとに男子高校生?」
「嫌な心配のされ方ですね」
何故か意外そうに目を丸くした莉花が、覗くのが当たり前であるかのように口にする。莉花の中で男子高校生のイメージがどうなっているのか気になるが、下手に尋ねるとさらに厄介なことになりそうなので、ここはあえて気にならなかったことにした。
「そもそも、入口で先生が待機してますよね」
「それもそっか。お風呂も天井に隙間があるわけじゃないみたいだし、難しいか」
「そうなんですか?」
「お? 興味ある?」
「今なくなりました」
迂闊な発言をしてしまったことで、莉花の笑顔が再び怪しく輝き出す。それを見た瞬間に撤退を選択するような、そんな笑みである。
「ごめんって。来る前にホームページを見て知っただけだから」
「あぁ、それで」
「そ。だから、楽しみは湯上り姿だけだね」
「さっきから僕をどうしたいんですか」
「秘密」
先程はにこにこ。今はにやにや。効果音が少しだけ変化していそうな口元に人差し指を立てながら、莉花が一言口にする。やたらと綺麗なウインクのおまけ付きだった。自分から聞いておいて何だが、特に興味はない。
「何? 何のお話?」
そんな自分と莉花の会話に興味を持ってしまったのか、碧依がすぐ後ろから会話に加わってくる。この流れはよくないと、頭のどこかで警鐘が鳴った。
「湊君が碧依のことを覗こうか考えてるって話」
案の定だった。自分が思っていたよりも、やたらと具体的にはなっていたが。ついでに言えば、濡れ衣もいいところである。
「って言って、莉花が湊君で遊んでるってお話?」
「あれ。ばれてる」
「ばれるよ。湊君はそんなこと言わないでしょ」
「お、その辺は結構信用してるんだ?」
「うん。だって、湊君はアイリスさんのことしか覗く気ないもんね?」
「ストップです」
口振りからして碧依はこちら側だと思っていたのに、盛大に予想が裏切られてしまった。それこそ、碧依の言葉に若干被せるように制止の言葉が出た程だ。
「もしかして、今朝のことをまだ根に持ってます?」
「え?」
「あ、素ですか」
首を傾げている碧依の様子を見るに、今朝の出来事は関係ないらしい。それどころか、覚えているのかも怪しかった。
「そっか……。確かにあの子もいいよね……」
碧依に対応している間に、莉花が失われた勢いを取り戻しかけていた。僅かに俯いて、頭の中にアイリスの姿を思い浮かべているかのようにして呟く。こうなると、この先は面倒なことになる予感しかしない。
「ほら、そんなことを言ってると、どんどん時間がなくなりますよ。二人は時間がかかるんじゃないですか?」
「湊君、逃げ方がいっつも強引だよね」
「放っておいてください」
どうにかそれらしい理由を見つけて話を逸らそうとしてみるも、結局は碧依に見抜かれて、話ではなく目を逸らす羽目になる。上手く撤退できたかどうかは、絶妙に判断が分かれるところだった。
厄介な二人を振りきってからしばらくして、悠と二人で脱衣所に足を踏み入れる。予想通り、男女隣り合わせの入口の前には、三人の教師が待機していた。
広々とした脱衣所には、ちらほらと人影が見える。時刻は既に午後九時半を回っていて入浴時間の後半に入っていることもあり、その数は思った程多くはない。
「細……」
「湊君には言われたくないよ」
隣で服を脱いでいた悠を何となく横目で見てみれば、随分と薄い体が目に入る。見た目の期待を裏切らない体格だったが、それは自分自身も同じことだった。
「羽崎君よりはましですよ」
「いや。僕の方がましだね」
「……」
「……」
「……やめましょうか、この話」
「……そうだね。何か悲しくなってきたよ」
自分の方が少しはましだと言い争う中で、お互いの体格を改めて認識して、この争いが無意味なものだと気付く。こんなことをしているくらいなら早くお風呂に入りたいという気持ちで一致して、今回は痛み分けという結論に落ち着いた。
「行こうか……」
「ですね……」
もし誰かが自分達のことを見ていたなら、何故か意気消沈したまま大浴場へ向かう、小さな二人組の不思議な姿が目に映っているはずだった。
「ぷぁー……」
湯船に沈みながら、悠が疲れを虚空に溶かすように声を漏らす。乳白色のお湯に体が隠れてしまい、今は首から上しか見えていなかった。
「こうして見ると……」
「ん?」
そんな悠を見ていると、とあることがふと頭の中に浮かぶ。体が温まって口が緩んだのか、その言葉が頭の中からするりと滑り落ちていく。
「制服の影響って大きいんですね」
「何の話?」
「顔しか見えてないと、もう女の子にしか見えなくて心臓に悪いです」
つまりはそういうことだった。普段は男子用の制服を見ることで辛うじて悠のことを男子だと認識しているが、こうなってしまうと性別を疑うなと言う方が無理である。上気した頬も相まって、見た目は完全に女子だ。
「鏡って知ってる?」
一瞬複雑そうな表情を浮かべた悠が、まるで反撃するかのように口にする。
「知ってますけど、見たことはないです」
「脱衣所にあるから、見てくるといいよ。多分、女の子が映ると思う」
「え……? 怖いんですけど……」
「湊君だよ!」
怪談話でもしているのかと思ったら、どうやらそうでもないらしい。それなら、そこに映るのは男の姿のはずだ。
「どうして僕の前だと自分の見た目のことを認めないの……?」
「目の前の相手よりはましかなって、何となく思ってしまうんですよね」
「またその流れにするの?」
「……やめましょうか」
悠に指摘され、つい先程同じことをして、二人揃って傷付いただけの記憶が鮮明に蘇る。この短時間で似たような流れにしてしまった辺り、残念ながら、何の教訓にもなっていないようだった。
「今日はあんまり忙しくなかったはずだけど、意外と疲れてるっぽいかも……」
あれからしばらくして、未だに湯船に浸かったままの悠がどこかぼんやりとした声音でそう呟いた。その様子が気になって顔を見てみれば、いつもよりもやや目が細くなっているような気がする。
「ちょっと眠くなってきた……」
「絶対にここで寝ないでくださいよ?」
「もし寝ちゃっても、すぐ傍に湊君がいるから……」
「この細腕を見て、それでも同じことが言えますか?」
危険極まりないことを言う悠に対して、乳白色に隠れていた腕を持ち上げて晒す。お湯から出したのに白い、男にしては華奢な腕だった。
「……ちょっと目が覚めたかも」
「それはそれで傷付きますね」
「自分で言い出したことだからね?」
それを狙っての行動だった訳だが、実際その通りになってみると、思いの外心に刺さる一言だった。もっと違った方法で目が覚めるように仕向けた方がよかったのかもしれない。
「そもそも、羽崎君が『眠い』とか言い出さなければよかったんですよ」
「『責任転嫁』って言葉の例として辞書に載せたいくらいの発言だね」
「知らない言葉ですね」
「知らないこと多いね……」
最近よく口にするようになった一言で、適当に悠を受け流す。やはり心地よい温かさで気が緩んでいるのか、我ながら随分と適当な受け流し方である。
「真面目な話、眠いならそろそろ出た方がいいと思いますよ」
このまま無意味な会話を続けていても仕方がないので、軌道を修正して話の雰囲気を真面目なものに戻す。いくら自分が近くにいるとはいえ、湯船の中で寝てしまうのは避けた方がいいに決まっている。
「んー……? それもそっか……。湊君はどうする?」
「僕はもう少しのんびりしていきます」
「分かった。じゃあ、先に部屋に戻ってるね」
「無理して起きてなくてもいいですからね」
少しだけ考える素振りを見せ、そして一足先に入浴を終えることを決めた悠。立ち上がる悠と最後にそう言葉を交わし、脱衣所へと消えていく姿を見送る。
「……」
脱衣所へ繋がる扉が閉まってから視線を戻し、目を閉じてゆっくりと息を吐く。そうして吐き出した息すらも熱を帯びているような、そんな気がした。
悠が出ていってから五分程が経った。その間、特に何かを考えることもなく、ただただ空中を見つめてぼんやりとしていただけ。お湯の温度がそこまで高くないこともあり、油断していると思った以上に長風呂になってしまいそうだった。
ゆらゆらとその身を躍らせる湯気の向こうに、黒く染まった磨りガラスが見える。自分が住んでいる町も街灯が少ない方だが、山の中はその比ではない。磨りガラスの向こう側は、日常生活では体験することがない程の暗闇が広がっていることだろう。
(そろそろ出ますか……)
久しぶりに頭の中に意味のある言葉を浮かべ、湯船から出る。日が落ちてから大分時間が経って建物全体の気温はどんどん下がっていたが、これだけ温まれば風邪を引くこともないだろう。
それでも冷えることには変わりないので、行動は早い方がいい。バスタオルで手早く水を拭き取り、これまた手早く持ってきた服に着替えてしまう。他の男子生徒と比べれば少し長い髪も、乾かすのにそこまで長い時間がかかる訳でもない。
自分が鏡の前に移動したタイミングで髪を乾かし終えた悠が、そっと手を振って先に出ていく。そんな悠に手を振り返してから、ドライヤーで髪を乾かしていく。
当たり前の話だが、目の前の鏡に映るのは、見慣れた男子高校生の姿だった。
大浴場から程近い、けれども奥まったスペースでなかなか見つけにくいその場所を見つけたのは、ただの偶然である。何の気なしに足を向け、何かの光が視界の端に映ったのがきっかけだった。
そこには、二人掛けのソファが四台と、自販機が三台置かれていた。分かりにくい場所にあるが、入浴後の休憩用として設置されたのだろう。
周囲の気温は少し肌寒いくらいだが、ここは狭いスペースなうえに、熱を発する自販機が三台もあるおかげで、寒さは感じなかった。入浴直後で喉が渇いていて、他に人がいなくてゆっくりできるとなれば、利用しない手はない。
「……」
三台の自販機を順番に眺めていく。湯上りの定番、牛乳系の飲み物も豊富にあった。その中からコーヒー牛乳を選び、出てきた瓶を取り出してソファに腰かける。最近はなかなか飲む機会がなかったそれが、一口、また一口と、ゆっくり喉を通っていく。甘さと微かな苦みが、渇いた体に染み渡るようだった。
そうして五分程が経った頃。それまで自分以外の気配がなかったその場所に、新たな足音が近付いてきた。分かりにくい場所にある休憩スペースだが、どうやら他の誰かも見つけたらしい。
お互い気まずい思いをしないように立ち去ろうかと考える中で、ひょっこり姿を見せたのは。
「あれ? 湊君?」
碧依だった。
「かんぱーい!」
「乾杯、です」
碧依が掲げた瓶に、中身が半分程まで減った瓶をぶつける。自販機が低く唸る音に混ざって、小気味いい音が一瞬響いた。
「ふあー!」
一気に中身を三分の一にまで減らした碧依が、随分と気持ちよさそうな声を上げる。そんな声音に違わず、顔も若干緩んでいた。
「やっぱり、こういうところのお風呂上りはこれだよね!」
自分と同じココアブラウンが彩る瓶を軽く掲げながら、碧依がそう口にする。
「湊君もコーヒー牛乳派?」
「そこまで言う程じゃないですけど、大体これですね」
「仲間だ」
自分のことを同じ派閥だと見なしたのか、碧依が嬉しそうに笑みを浮かべる。莉花に言われたことを意識している訳ではないが、湯上りで少しだけ上気したその表情は、いつもとは違って大人びた印象が強くなっていた。
「莉花は普通の牛乳派なんだって。そこは仲良くできないね」
「そういえば、その渡井さんは?」
一緒に行動しているものだと勝手に思っていたが、莉花の姿はここにはない。そうなれば、悠のように先に部屋に戻ったか、あるいは自分のように長風呂だったかのどちらかだ。
「ん? まだお風呂に残ってるよ。自分で長風呂派だって言ってた」
「あと三十分もないですけど、あの髪の長さで乾かす時間はあるんですかね?」
「それくらいは先生も許してくれるんじゃない?」
どうやら、自分と同じ長風呂派だったらしい。再び瓶に口を付けながら答える碧依の姿を見て、自分も思い出したように自らの瓶を傾ける。
「それもそうですね」
「髪って言えば、湊君も男の子にしては長いよね」
「たまに言われます」
碧依と同じくらいまで瓶の中身を減らしたところで、こちらを見ていた碧依がふと思い出したようにそんなことを言う。言われた通り、流石に碧依や莉花程ではないが、確かに自分の髪も長めではある。
「何かこだわりでもあるの?」
「何も。ただ、この顔だと短い髪型は似合わないですから」
「あー……。いや、でも意外と……?」
「目が泳いでる時点で説得力はないですよ」
髪の長さを気にしたことはほとんどないので、説得力の有無は大した問題ではないのだが。それでも、そんなことなど知らない碧依は、若干申し訳なさそうに口を開く。
「ごめんね。正直、それくらいの長さが一番似合ってるかも」
「見慣れてるってこともあるんだと思いますよ」
「女の子っぽくて可愛いと思う」
「女の子……?」
「女の子」
予想もしていなかった評価に、思わずその言葉を繰り返してしまう。それを受けて、何故か碧依が力強く頷いた。
「それは羽崎君みたいな人を言うんです」
「違うの!」
「うわ……!」
適当に受け流すつもりだったのに、何か気になる部分に触れてしまったのか、碧依が勢いよく身を乗り出してきた。一気に距離が近付いて、揺れる飴色の髪から届く甘い香りが強くなる。
普段であればまずないと断言できる程に近いはしばみ色の瞳は、間違いなく自分にとって厄介なことを言い出すと、そう予感させる輝きに満ちていた。
「どう考えても女の子っぽいのに、まだちょっとだけ諦めてないってところがいいの!」
「ちょっとだけじゃないですって」
「羽崎君もそうかもしれないけど、湊君はその具合がちょうどなの!」
「聞いてます?」
意味はないと思いつつも一応尋ねてみるが、恐らく聞いていないはずだ。好きなことでヒートアップした碧依が他人の話を聞かないのは、今朝の出来事でよく分かっている。
自分の視線に気付いていないのか、まだまだ身を乗り出し足りないと言わんばかりに、碧依がさらに近付いてくる。背中を反らして逃げるのは、そろそろ限界が近付いていた。
「羽崎君は諦めがちょっと大き過ぎるの! でも、湊君は諦めつつ、それでも頑張って抗ってるのが可愛いの! どうしたって無理なのに!」
「無理なのに……」
そんなつもりは一切ないであろう碧依の、何気ない一言が突き刺さる。
「今の格好なら、百人に聞いたら七十人くらいは『女の子』って答えるんじゃない?」
「生々しい数字……」
全員ではない辺りがあり得そうで恐ろしかった。ヒートアップしているのか冷静なのか、せめてどちらかだけにしてほしい。
「いいなぁ……。肌も綺麗だし、髪は柔らかそうだし……」
「それは水瀬さんもじゃないですか」
平常時ならかなり怪しい発言だが、今は緊急事態なので許してもらいたい。ここで碧依を止めなければ、さらに厄介なことになるのは目に見えていた。
「私は頑張ってこれなの! 湊君はそういうことをしてないでしょ!」
「それはまぁ……、そうですけど」
そこまでし始めたらいよいよである。その場合、自分が何かを踏み越えた可能性がある。
それは一旦置いておくとして、結局碧依は止まらない。
「素でそれなのがずるいの!」
「ずるいって言われても……」
「ちょうだい!」
「無理です」
「そう言わずに!」
「引き下がらない……!」
どんどん迫ってくる碧依から逃げ続けるうちに、とうとう背中がソファの肘掛けに着地してしまった。これ以上逃げ場はなく、最早碧依に押し倒されたのと同じ格好だ。自分の瓶も碧依の瓶も、危うく中身が零れそうになっている。
「血……?」
「いやいやいや……」
瓶に一瞬気を取られている間に、碧依が何やら恐ろしいことに思い至る。夜も遅くなって気温が下がっているのは間違いないが、明らかにそれ以外の理由で、背筋に冷たいものが走る。
「お願いですから現代に戻ってきてください」
「現代にだって吸血鬼はいるよ!」
「お風呂上がりの吸血鬼ですか?」
「現代の吸血鬼だったら、流れる水くらいなら克服できるって!」
止まる気配を見せない碧依は、もう何でもありだった。
「銀、杭、日光……」
「何が何でも滅ぼそうとするね?」
「どうして滅ぼされないと思ったんですか?」
「湊君って優しいし、血くらいなら許してくれるかなって」
「それはきっと優しさじゃないです」
何故かにこにこしながら言う碧依だったが、そこまでになってしまうと、それは恐らく性癖か何かである。常人が気軽に踏み入るべき領域ではない。
「ちなみに湊君、血液型は?」
「O型ですけど……」
「あ、一緒だ。じゃあ大丈夫だね」
「何も大丈夫じゃないです」
輸血の確認のようだが、実態は一方的な吸血だった。貧血になっても止めてくれるとは限らない。
相変わらず混乱しているのではないかと思わせる碧依だったが、今はそれよりも先に気にするべきことがあった。
「これ以上はだめです」
空いている手で、碧依の肩を軽く押し留める。ともすればいきなりにも見える自分の行動に、すぐ近くまで迫った碧依の目がぱちくりと瞬きを繰り返す。
「何で?」
「近過ぎます」
「え? ……あ」
そこでようやく正気に戻ったらしい碧依が、一瞬はしばみ色の瞳を揺らす。頬がやや赤くなっているのは、お風呂上がりという理由だけではないのは明らかだった。
そんな碧依が、目を逸らさないままゆっくりと離れていく。
「えっと……、その……。……ごめんね?」
十分体を離した後に目を逸らし、恥ずかしさを隠しきれないといった様子で小さく呟く。
「大丈夫です。気にしてませんから」
それに対して自分の口から出たのは、真っ赤な嘘だった。あれだけ近付かれて、平常心でいられる訳がない。それでも動揺を心の奥底に隠しながら身を起こす。
「気にされてないのは、それはそれで複雑……」
「どうしてほしいんですか」
「もっと慌ててほしかったかな」
「血を吸われそうになって慌てました」
「そこじゃないの!」
恥ずかしさはあるものの、どうやら碧依にはそれ以外の感情もある様子だった。再び身を乗り出さんばかりの勢いで抗議の声を上げている。意外でも何でもなく、やはり碧依も混乱しているのだろう。
「あんな体勢になったのに、全然照れてくれないのはおかしいよ! 女の子としてのプライドに関わるね!」
「プライド」
「そう! 湊君にもあるでしょ!?」
「ないです」
「何で!」
しているのだろう、ではなく、混乱していた。男子高校生に「女の子としてのプライド」を求めるのは、どう考えても間違っている。そんな思いが、自分の頭の中を満たす。
「こんなのでも、一応は男ですからね」
「それは嘘」
「だったら、あの体勢で照れなくてもおかしくないですよね」
「あ、違う、湊君はちゃんとした男の子だよ?」
混乱具合を表す、見事なまでの手の平返しだった。
「うー……。湊君に口で勝てない……」
「これくらいなら、まだまだ負けるつもりはありません。アイリスさんに鍛えられてますから」
「アイリスさん、可哀想に……。強く生きてね……」
碧依がこの場にいない後輩を思い、少しだけ目を細める。その目に映るのは、すぐ傍の自販機の光だけだった。
何でもない話をしながら、二人して瓶の中身を空にする。そのタイミングで時計を見てみれば、思ったよりも時間が過ぎてしまっていた。
そろそろいい時間だろうと、自販機の光に囲まれた空間から離れ、碧依と二人で薄暗い廊下を歩いていく。先程まで情緒不安定だった碧依も、今はもう普段と変わらず落ち着いた様子だった。
「……あふ……」
もう少しでエントランスホールに差し掛かるというところで、碧依が小さく口を開けて欠伸をする。漏れ出た吐息が、少しだけ肌寒い空気の中に混ざっていく。
「やっぱり疲れました?」
「そうかも……。お風呂に入ったら、一気に眠くなっちゃった」
滲んだ涙を拭うように目を擦りながら、碧依がそう零す。心なしか、言葉の速さもいつもより遅く感じられた。先程までのどちらかと言えば大人びた印象が強かった碧依は消え、代わりに年相応か、それよりも幼い印象を受ける碧依が現れている。
「ちゃんと部屋まで戻れます?」
「んー……? そうやって部屋の場所を知ろうとしてるんだぁ……?」
「そんなことが言えるなら大丈夫そうですね」
そもそも、全員の部屋割りは配られた資料に載っているのだから、探るも何もない。
そうこうしているうちに、男子棟と女子棟に分かれるエントランスホールに辿り着いた。眠そうにしているものの、足取りはしっかりしていて、部屋に戻るくらいなら問題はないだろう。
何より、この時間に男子が女子棟をうろつくのも、印象はあまりよくないはずだ。
「それじゃあ、僕はこっちなので。……本当に大丈夫ですね?」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ……。お母さんは心配性だね」
「本当は起きてませんか?」
眠気が襲ってきている割には、夕食の時の会話を鮮明に思い出している。あるいは、無意識に思い出してしまう程に、自分がそれらしい姿をしているのかのどちらかだ。どちらであっても、自分からすれば嬉しくはない。
「……ばれた?」
「やっぱり」
予想した通り、どうやらからかわれていたらしい。先程までよりも幾分か開いた目は、しっかりと自分のことを見つめていた。
「でも、眠いのはほんとだよ?」
「だったら、僕で遊んでないで、早く部屋に戻ってください」
「はーい。おやすみ、お母さん」
「いや、だから……。あぁ……、もうそれでいいです。おやすみなさい」
自分が何か抗議する前に、碧依が手を振りながら歩き出してしまう。ここでこれ以上何かを言っても意味がないので、仕方なくその呼び方を受け入れる。ここで受け入れたとて、恐らく明日には忘れているだろう。
少しだけ碧依の後ろ姿を見送ってから自分も背を向け、先に悠が戻っている部屋への道を辿っていくのだった。
悠がいるはずの三〇七号室は、本来灯っているはずの照明が消えていて真っ暗だった。扉を開けても反応がない辺り、悠は既に夢の中へ旅立ってしまったのだろう。
規則正しく寝息を立てる悠を起こさないよう、そっと机に近付いてデスクライトを点ける。悠は壁側を向いて眠っているので、この程度の明るさで起こしてしまうことはないと思いたい。
時刻はもうすぐ午後十一時。普段ならそろそろ寝るという時間だった。
この宿泊学習では、特に就寝時間は決められていない。遅い時間に施設の中を歩き回ることはあまり認められていないが、部屋の中にいるのであれば、細かいことは言われないだろう。明日の朝、しっかりと起きられるのならの話だが。
普段と環境が異なることで気分が昂っているのか、訪れるはずの眠気はまだやって来ない。確かに疲れているはずなのだが、どうにも目が冴えてしまっていた。
「……」
部屋に戻ったらすぐに寝てしまおうという考えは、残念ながら実現することはなさそうだった。だからと言って、何かするべきことがある訳でもなく。仕方なく、念のため持ってきていた文庫本を取り出してから、ゆっくりと椅子に体を預ける。
「……」
こうしていれば、そう遠くないうちに眠気が訪れてくれることだろう。
部屋全体を包む暗闇の中、デスクライトが放つ柔らかな光だけを頼りに、静かにページを捲っていく。
紙が擦れる音は不規則に、悠の寝息は規則的に。色彩がほとんど失われた部屋に、二つの音が吸い込まれていった。
翌朝。カーテン越しに差し込んできた光で目を覚ます。
いつもの部屋にはあるはずのないアップルグリーンが目に入って、一瞬だけ混乱する。だが、それも本当に一瞬のことで、まだほとんど眠ったままの頭で、すぐに宿泊学習に来ていることを思い出した。
「んぅ……!」
起床の時間まではまだ余裕があるが、もう一度寝直す程の眠気は残っていなかった。ゆっくりと体を起こして反対側のベッドに目を向ければ、まだ悠は夢の中にいた。自分が寝る直前に見た時よりも、少しだけ掛け布団が乱れている。
なるべく音を立てないようにして簡単に身支度を整え、これまたなるべく音を立てないように廊下に出る。朝の空気は、昨日の夜よりも若干冷えているような気がした。
「……」
誰もいない廊下を、特に意味もなく静かにしながら歩いていく。
ふと外に視線を向けてみると、寝ている間に雨が降ったのか、窓のすぐ近くにある木々には数多の水滴が付いていて、水晶のように光を反射して輝いていた。遠くの方はうっすらと靄がかかっているが、しばらくすればこれも晴れるだろう。
施設の中へと視線を戻し、昨日の夜、お風呂上がりに見つけたあの場所へと足を向ける。色々と思い出すことがあって気まずいが、それはそれである。あそこなら、ペットボトルのお茶くらいは手に入るはずだ。
身支度をしている間にある程度時間は経ったはずだが、どこまで行っても廊下に人の気配はない。
結局、休憩所まで行って帰ってくる間、誰ともすれ違うことはなかった。
部屋に戻って、昨日の夜に読んでいた本を再び開く。そうして時間を潰していると、隣のベッドから布が擦れる音が聞こえてきた。見れば、悠がほぼ目を閉じたまま体を起こしている。
「おはようございます」
「んー……? おはよ……」
その見た目通り、まだ目は覚めきっていないようだ。悠の言葉遣いが、いつもよりもふわふわしていた。
「まだ時間はありますし、準備はゆっくりで大丈夫ですよ」
「うん……」
そう呟いて頷く辺り自分の言葉は聞こえているようだが、まだ動き出しはしない。ベッドの上に座ったまま、体を僅かに前後に揺らしている。どうやら今日は寝起きが悪いらしい。
「……」
何やら微笑ましい様子の悠に、思わず口元が微かに緩んでしまう。これでは、早く起きた方がいいとは、間違っても強くは言えない。
幸いにも、今話した通り朝食の時間までは余裕がある。しばらくそのまま揺れていても、十分間に合うだろう。そう考えて、視界の端にゆらゆら揺れるスノーホワイトの髪を収めながら、意識を再び活字の世界へと戻すのだった。
「お待たせ」
しばらくして起き出した悠が準備を終える。ベッドの上でゆらゆらと揺れていた時の姿は既になく、すっかりいつも通りの姿だ。
「じゃあ、行きましょうか」
「とりあえず食堂の前で待ち合わせだっけ?」
「ですね。多分、僕達の方が先だと思いますけど」
「女の子の方が、どう考えても準備は時間がかかるもんね」
昨日の夜、碧依と莉花と解散する前に交わした約束を思い出す。あの二人が早起きなら、既に食堂の前で待っている可能性もあるにはある。ただ、申し訳ないが、特に莉花にはそのイメージが湧かなかった。
二人して廊下に出る。先程一人で歩いていた時とは違い、今はちらほらと他の生徒の姿があった。整然と並ぶ扉の向こうからも、たくさんの生徒が朝の準備をしている気配が伝わってくる。
窓の外に目を向ければ、かかっていた靄はすっかり消え、空には鮮やかなスカイブルーが広がっていた。所々に浮かぶ雲は卯の花色。山の天気は変わりやすいとは言うが、それでもしばらくは快晴が続くと思ってもいいだろう。
「晴れてよかったね」
「ですね。雨の中であれこれするのは流石に嫌ですから」
「ほんと。僕達はやらないけど、カヌーとか大変そうだよね」
「まぁ、雨で濡れるか、水飛沫で濡れるかだけの違いかもしれないですけど」
「確かに。僕なんて、多分ひっくり返ると思うし」
若干恥ずかしそうに言う悠だったが、確かにその姿は容易に想像することができた。特に怖がっていないことを考えると、恐らく泳ぐことはできるのだろうが、いきなりずぶ濡れになって慌てていそうだ。
「もしそうなったら、近くで無事を祈ってあげますね」
「いや、助けてよ……?」
戸惑った表情を浮かべた悠が、隣で肩を落としていた。
待ち合わせ場所だった食堂の前までやって来たが、やはり碧依と莉花の姿はまだなかった。
「やっぱり僕達の方が先だったね」
「約束した時間より少し早いですし、ちょっとだけ待ちましょうか」
「だね」
出入りの邪魔にならないよう、食堂の入口から少し離れた場所で二人を待つ。
「……」
何の気なしに、食堂の入口を眺める。
朝食の時間が始まってから少し経っていることもあり、出入りする生徒の数は思ったよりも多かった。行き来するその表情は千差万別だ。まだ少し眠そうに目を擦っている生徒もいれば、反対に元気そうな笑顔を浮かべている生徒もいる。
それぞれの表情から、昨日の夜の様子が目に浮かぶ。眠そうな生徒はいつもと違う環境に気分が昂って、夜更かしをしてしまったのだろうか。対して、元気そうな生徒は疲れてすぐに眠ってしまったのだろうか。
そんな物思いに耽っていると、その往来の中に碧依と莉花の姿を見つけた。
「あ、来たね」
そのタイミングで、隣の悠も二人の姿に気付いたらしい。
「お待たせー」
「ごめんね、ちょっと待たせちゃったかな?」
少しだけ移動して二人と合流する。碧依が申し訳なさそうに謝ってくるが、そもそもまだ約束の時間にはなっていない。
「おはようございます。まだ時間になってないですし、気にしなくていいですよ」
「そうそう。僕達が早過ぎただけだし、昨日は反対に待たせちゃったしね」
「いやぁ……、碧依が全然起きなくてさ……」
「しーっ!」
「もごっ……!」
挨拶からの流れで、莉花が何やら裏事情らしきことを口にする。慌てた様子の碧依が咄嗟に莉花の口を物理的に塞ぐが、残念ながら言葉は自分と悠に届いてしまっていた。何かを確認するように、碧依の目が自分達二人に向く。
「へぇ。水瀬さんの方が遅かったんだ? 意外だね」
「ううん? 違うよ?」
「まごいももむがおもかっままむ」
「何ですか?」
しっかり聞いてしまったことを、悠が端的に伝える。明らかになった事実が意外に思えたのは、自分も同じだった。本当に何となく、碧依は朝に強いイメージを持っていたが、案外そうでもないらしい。
一方、莉花は何かを言っているが、碧依に口を塞がれているせいで、何を言っているのか全く分からなかった。
「何でもないよ?」
「遅かったんですね」
「違うね」
「本当に誤魔化せると思ってます?」
「……」
今までこちらに向いていた碧依の目が、ふいっと逸らされる。莉花の最初の一言を止められなかった時点で、碧依に勝ち目はない。それが分かっていながら抵抗していたようだったが、とうとう諦めたのだろう。
「ぷあっ……。……何するの、碧依」
「ごめんね……。何か、思ったより恥ずかしくて……」
「時間には間に合ってるんだから、別に気にしなくていいでしょ」
「そうなんだけどね。何となく早起きしてるイメージを持たれてそうって言うか」
「それは分かるけど。……ところで」
碧依の拘束を抜け出し、一通り抗議を終えた莉花の視線が、何故か悠の方を向く。明らかに標的が変わった雰囲気だった。
「碧依の方が遅いのが意外って、どういうことかな? 羽崎君……?」
「あ、いや、別に……」
そんな雰囲気を悠も感じ取ったのか、若干慌てながら気まずそうに莉花から目を逸らす。その態度と曖昧な言葉が、何よりも分かりやすく悠の心の中を表していた。
「私は寝坊してそうって? 失礼な」
「いやいや! そうじゃなくて!」
朝から元気な二人だと、すぐ傍でその騒動を眺めながら思う。莉花は楽しそうに悠を追い込んでいて、悠はさらに慌てふためいている。場所が変わっても、いつもの二人のやり取りだった。
「あーあ……。今までしっかりしたイメージを作ってきたのに……」
「え?」
「え?」
その二人を一緒に眺めていた碧依がぼそりと呟くが、自分がそんなイメージを持ったことはない。「朝に強そう」というイメージは持っていたが、それは「しっかりしている」とはまた違うだろう。
思わず漏らした声に、碧依が意外そうに反応する。こちらを見つめる瞳は、まさに「きょとんとした」という表現がぴったり当てはまりそうな様子だった。
「え? しっかりしてそうじゃない?」
「いえ、別に……。そもそも、自分で言いますか、それ?」
「嘘!?」
「割と抜けてるところがあると思いますよ」
「そんな……。私の転校生イメージ戦略が……」
どんな人物像を作り上げようとしていたのかは分からないが、その抜けているところも親しみやすさに繋がっているのだから、悪いことではないはずだ。はずなのだが、それを本人がよしとするかは、また別問題である。
「そんな失敗したイメージ戦略は放っておいて、そろそろ朝にしませんか?」
「今日の湊君は優しくない……」
落ち込む碧依、相変わらず慌てふためいている悠、そんな悠から元気を吸い取ったかのように生き生きとした莉花、そしていつも通りの自分。非日常特有の、どこか奇妙な空気を漂わせているであろう自分達が食堂の入口へと足を向けたのは、そのしばらく後のことだった。
「部活で朝練があったりするから、朝は強かったりするんだな」
「そっか、たまに私達よりも先に来てることもあるもんね」
「そういうこと。だから、意外でも何でもないの。分かった?」
「はい……。僕が悪かったです……」
「よろしい」
先程自分と碧依が話している間に何を言われていたのか知らないが、悠が随分と従順になっている。「従順」と表現するには、やや恐れが強いような気もしたが。
「ま、それは置いておくとして……」
「ん? 何?」
悠のことについては一通り満足したのか、続いて莉花の意識が碧依に向く。昨日の夕食時と違って自分の隣に座った碧依が、莉花へ不思議そうな眼差しを向けた。
「寝起きの碧依は可愛いかった……!」
「なん……!?」
意識が向いたと言うより、からかいの矛先が向いたと言った方がいいのかもしれなかった。予想もしていなかったであろうことを言われた碧依は、上手く言葉が出てこなくなる程に慌てている。
「髪の毛、ぴょこぴょこ跳ねてたもんね」
「それも言っちゃだめだって!」
「写真撮ったけど、見たい?」
そのまま碧依をからかい続けるのかと思いきや、何とも反応しにくい問いが自分の方に飛んできた。既に自身のスマートフォンを取り出していて、莉花は準備万端である。
「どうしてもって言うなら見ますけど、そこまで興味は……」
「だめ!」
「え?」
曖昧な言葉で答えを濁そうとしていると、視界がいきなり真っ黒に染まった。いきなり照明が消えた訳でもなく、目の周りに柔らかな感触があり、さらには直前に碧依の焦ったような声が聞こえた。
これらが合わされば、何が起こったのかは明白である。どうやら、隣の碧依が目を塞いできたらしい。
「絶対に見せちゃだめだからね!」
「イメージ戦略には失敗してるので、もう今更ですよ」
「それもよくないけど! 寝起きの姿なんて、見せたくないに決まってるでしょ! 湊君も女の子なら分かるよね!?」
「何も分からないです」
真っ暗で何も見えない中、最後の言葉だけは即座に否定する。視覚が奪われている分、聴覚が鋭くなって反応の速さはいつもの二割増しだった。
「そこまで嫌がるなら見せないけどさ……」
莉花としてもあくまで冗談のつもりだったのか、そこであっさりと引き下がる。未だに視界が暗いのでどんな表情をしているのかは分からないが、鋭い聴覚で何かを言いたそうな雰囲気だけは感じ取る。
「碧依さ、何か距離感おかしくない?」
「え? あ……」
やや驚いたように言う莉花の様子で自身の行動に気が付いたのか、そこでようやく目の周りを覆っていた碧依の手が離れていった。しばらく押さえられていたせいなのか、視界は未だにぼやけたままだ。
「ご、ごめん……」
「いえ……」
輪郭がぼやけて見える碧依の手が暴れている。何となくだが、頬がほんの僅かに赤くなっているようにも見えた。
「何、だろうね? 確かに、気付いたら近くなってるかも……」
「珍しいよね? 他の人にはそうじゃないでしょ?」
「うん。やっぱり、あんまり男の子って感じがしないからかな?」
「あぁ……」
「どうして納得したんですか」
非常に不本意な理由に、莉花がしきりに頷きながら納得したような声を漏らしている。一体どこに納得できる部分があったのだろうか。
「それなら、羽崎君にも近くなってるはずじゃないですか?」
「僕?」
「だって、羽崎君はいつの間にか引いてることが多いから」
「自覚はあります……」
薄々気付いていたことではあったが、悠は碧依や莉花が会話に加わると、あまり積極的に前に出ることがない。苦手という訳ではないようだが、そもそも異性というところに、さらに人見知りであることが響いているのだろうか。
「その辺、湊君はあんまり気にしてないよね」
「来るもの拒まず、ですから」
「それって物理的な話だっけ?」
斜向かいで莉花が首を傾げているが、それこそ気にしないことにした。迂闊に突っ込んで、話がおかしな方向に転がってしまうのは避けたい。
「昨日だって気にしてくれなかったもんね」
「昨日?」
「あ、違う。何でもないよ?」
「お? 何だ? 隠し事か?」
自分は気を付けることができたが、結局迂闊な発言をしたのは碧依の方だった。ちょっとした失言程度のものだったが、そういったことには敏感な莉花の好奇心をすり抜けることはできなかったらしい。碧依が首を横に振って何とか誤魔化そうとしているが、こうなった莉花はもう止まらない。
「私の知らないところで何かあったな?」
「何にもなかったよ?」
「私の目を見て言え?」
「な、何にも……、なかったよ……?」
「おーい、どうした?」
莉花と目を合わせた途端にしどろもどろになる碧依。そもそも、あちらこちらを自由に泳ぎ回っている目を、「合わせた」と表現してもいいのかは疑問が残るが。
「押し倒されました」
「あ!?」
「へぇ!」
このままでは埒が明かないのは分かりきっていたので、いっそのこと自分から打ち明けてしまうことにした。あまり隠し続けても、この様子ではいつか碧依が白状しそうだった。それならば、早めに話してしまった方が傷は浅い。
そんな思いでの暴露だった訳だが、思わぬ方向から隠し事が露呈した碧依は驚きの、格好の獲物を見つけた莉花は楽しそうな声を上げる。
「何で言っちゃうの!?」
「僕は隠せますけど、水瀬さんは隠しきれました?」
「無理だと思う!」
「だったら、さっさと白状した方が楽ですよ」
「白状した結果がこれなの!」
そう言って、碧依が正面を指差す。そこには、もう夜は明けたというのに、瞳に星を宿しているのではないかと思える程に目を輝かせた莉花がいた。
「絶対大変なことになるよ!?」
「頑張ってくださいね」
「逃がさないからね!」
力強い宣言と共に、がっしりと腕を掴まれる。「逃がさない」とのことだが、どう考えても莉花の興味の矛先は碧依なので、そもそも自分が逃げる必要などない。
「碧依ー?」
「は、はい……?」
「詳しく話してくれるよね?」
「拒否権は……」
「あるわけがないでしょ。洗いざらい、全部吐き出しなさい」
「うぅ……」
躱せるはずもない攻めをどうにか受け流そうと碧依が抗うが、それをそう易々と許す莉花ではなかった。
それは碧依自身もよく分かっているのか、縋るような目で見上げてくる。縋られたところで特に話せることがある訳ではないが、やはりその目にはどうしても弱い。
「何でもないですよ。たまたまそうなっただけです」
「たまたまで押し倒される、なんてことある? まだ何か隠してるよね?」
「血を吸われそうになったってくらいです」
「碧依……? 何してるの……?」
「違うの!」
仕方なく昨夜の出来事を簡単に説明した結果、莉花の表情が興奮から困惑に変わっていった。流石の莉花も、「血を吸われそうになった」という言葉はなかなか受け入れられないらしい。
「湊君の髪とか肌が綺麗だから、血を吸ったら私も、みたいな悪ふざけだったの!」
「いや、それを聞いてもまだよく分からないけど……」
碧依が必死に説明するも、残念ながら莉花の心には響いていない。机を挟んでいるのに、莉花が心なしかさらに距離を取ったような気がした。
「出来心だったの! 許して!」
「いや、まぁ、うん。碧依がそれでいいなら、いいんじゃない?」
「そういう優しさはいらないよ!」
何があったのかを根掘り葉掘り聞き出そうとしていたはずの莉花の勢いが、急速に萎んでいくのがはっきりと見て取れる。どんな感情なのかは分からないが、若干引いていることだけは間違いないだろう。
何か大事なものと引き換えにからかいの手から逃れた碧依の悲しげな声が響く中、いよいよ宿泊学習の二日目が本格的に始まろうとしていた。




