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119. 咲き誇るもの (1)

 世間がゴールデンウィークで賑わいを見せる、五月四日、土曜日。高校生であるアイリスや蒼、自分もその例に漏れず、四連休となった、その二日目のこと。


「一緒に見られるところがあってよかったですね!」

「見頃の時期は確かに近いですけど、まさか本当に見られるとは思ってなかったです」

「二人はそんなところまでお揃いなんだよね。いいなぁ……」

「えへ!」

「そこまで羨ましがる程のことですかね? 名前が一緒なのに」

「それとこれとはまた別なの」


 いつも通りアイリスと蒼に両隣から挟まれ、一人開けた視界で前を走る車の後ろ姿を追う。その最中、ルームミラー越しにこちらを窺うレティシアと目が合った。


「確かに誕生花から娘の名前を付けたけど、付き合うことになる男の子まで同じ名前の付け方なんて、あの時は想像もしてなかったわね」

「誰だってできないよ。男の子で花の名前ってところからして珍しいしね」


 感慨深そうに呟くレティシアに追随するように、ハンドルを握るアーロンがそう口にする。


「そうねぇ……。花の名前ってなると、どうしても可愛いイメージになっちゃうものね」

「でもでも、葵さんはとびっきり可愛いですよね?」

「それを僕に聞くんですか」

「鏡が必要なら、こっちを見てもいいよ?」

「目の前にルームミラーがあります」

「じゃあ、可愛いかどうかはすぐ分かるわね」

「曇って見えないです」

「さっき目が合ったでしょ?」

「……」


 ぐうの音も出ない程の正論だった。何なら、今も目が合っている。一点の曇りもない、とても綺麗なルームミラーである。


「毎回すぐには否定しない辺り、葵君自身も可愛い顔立ちって自覚はあるんだね」

「……色々な人から散々言われてきましたから」

「私もずっと言ってますもんね!」

「一番多いのは間違いなくアイリスさんですよ」

「どんなことでも、葵さんの一番って嬉しいですよね」

「……」

「照れるくらいなら言わなかったらいいのに」

「……こんなのが返ってくるなんて、一切想像してませんでした」

「ほんと、アイリスには弱いよね」

「葵さんは素直な私に弱いんですよ」


 楽しそうに笑いながら言う蒼に、自慢げな雰囲気を漂わせるアイリスがそう返す。全く以てその通りなので、言い返せることが何もない。車の揺れに合わせて、腕に抱き付くアイリスと共にただ体を揺らすだけだった。


「私達の育て方は間違ってなかったわけね。おかげで、こんなに可愛い未来の息子が見つかったんだから」

「け、結婚はまだ早いと言うか……! えへへ……!」

「うわ、ほっぺたゆるゆる……」

「今まで散々妄想しておいて、今更何を言ってるのかしら」

「どうしてレティシアさんがそれを知ってるのかは聞きませんし、何を聞いたのかも聞きません」

「私が妄想させるようなことを話すからよ」

「思ってた答えと違いました。何をしてるんですか」


 悪びれる様子もなく、レティシアがはっきりとそう口にした。てっきり、アイリスが妄想の内容を積極的に話しているのかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。


 アイリスが自ら話すのも、レティシアに唆されて妄想するのも、どちらも状況としては意味が分からないことに変わりはないが。


「葵君に好意を持ってるのは前から気付いてたから、ちょっと意識させるようなことを言ってみました」

「結果がこれですけど」

「枕は一つでいいですよね……!」

「それは流石に狭いんじゃないかなぁ……?」

「ちょっと効き過ぎた感はあるわね」

「ちょっと……?」


 個人的には、「かなり」の間違いではないかと思う。少なくとも、自身の親がいる場でここまでの妄想を口にできるのは、「ちょっと」という表現では足りないような気がした。


「大丈夫ですよ。私は葵さんの胸元に顔を埋めて寝るので」

「あ、それは見たことある」

「これは妄想じゃなくて現実ね?」

「まだ現実であっていいはずがないんですよね……」


 幸せそうに話すアイリスを横目に見ながら、どう考えても早過ぎる展開に頭を抱える。もう潜り込まれてしまったのはどうしようもない事実だが、それがこんなに早く実現してしまうなど、本気で考えてはいなかった。


「一回潜り込んじゃったから、もう躊躇いはなくなってるはずよ? これからは毎朝大変なことになるわね」

「寝る前に何か罠でも仕掛けておかないといけなくなりますね」

「じゃあ、最初から一緒に寝ます! どうせ潜り込むんだったら、それでも同じことですもんね!」

「アーロンさんとレティシアさんの前で何てことを」

「今はただ一緒に寝るだけだろう? それなら、僕達から何かを言うことはないよ」

「そんなに信用されることをした覚えがないです」

「信用っていうのは、特別何かをしたからどうこうってものじゃなくて、普段からどうしてるかで築かれるものだからね」

「あと、こう言っておけば、葵君は私達を裏切ることはできないでしょ?」

「……元々裏切るつもりはないですけど」

「だったら安心ね」


 そう言って、片目を閉じるレティシア。何やらとんでもないことをアーロンとの二人がかりで言いくるめられた気配があるが、最後の一言は自分の言葉を利用されてしまったので何も言えない。それすらも狙っての会話の流れに思えるのだから、やはりこの二人はまだまだ計り知れない部分がある。


「上手く丸め込まれちゃったね?」

「お父さんとお母さんの公認ですね! えへへ……!」

「……僕が何かをされたら、その時はよろしくお願いしますね」

「未来のお姉ちゃんの邪魔はできないかな」

「……」


 仕草としては肩に頬を寄せて甘えるような可愛らしいものだったのに、これまでの流れを知っていると、途端に気まずさが倍増する。そんな自分の気持ちを知ってか知らずか、アイリスはただ幸せそうに頬を緩めるだけ。頼みの綱になりそうな蒼も、今回はどちらかと言えばアイリスの味方らしい。


 元々安眠できていたのかと言われるとあまりそんな気はしなかったが、これから先、アイリスの家で安眠できる日は訪れないのかもしれなかった。




「着きましたぁー……!」


 両腕を空へと伸ばし、軽く伸びをしながらアイリスがそう零す。自分も同じく自然と伸びをしてしまったことから察するに、思ったよりも体が凝り固まっていたようである。途中で休憩は挟んだとはいえ、三時間程の行程は流石に長いということか。


「帰りは葵さんの肩で寝ちゃうかもしれないです」

「帰りは蒼を真ん中にしましょうか」

「お姉ちゃんのお願いは叶えてあげないと」

「やっぱり、持つべきものは優しい妹ですっ」

「あと、私も兄さんの肩で寝てみたい」

「昔はしょっちゅう寝てたじゃないですか」

「今がいいの」


 まだ目的地に到着したばかりなのに、もう帰りのことを話す二人。何やらまた受難が待ち受けていそうな願いが聞こえてくるが、ひとまずは何も考えないことにした。今何を言ったところで、結局なるようにしかならない。


「ほら、いつまでもそこで話してないで行くわよ」

「結構混雑してそうだし、なるべく離れないようにね」


 そんな少し先のことを話す自分達に、やや遅れて車から降りてきたアーロンとレティシアが声をかけてきた。駐車場に並ぶ車の数から予想はできていたが、確かにアーロンの言葉の通り、ここから見えるだけでも随分と人影が多い。保護者としてはやや心配になるのも無理はなかった。


「やっぱり、連休は人が多いですね」

「まぁ、そういう時期だからね」

「こんな時、はぐれないようにするにはどうしたらいいと思います? はい、葵さん」


 一緒に人混みを眺めていたアイリスと蒼も同じようなことを話していたが、その途中、その流れが突然自分へと向かってきた。そう言いながら、ちらちらと視線を腕へ向けている辺り、どう考えても答えは一つだ。


「……」

「正解ですっ!」


 黙って左腕を差し出した途端、嬉しそうな声と共に、アイリスがいつも通りの場所に飛び込んできた。要は、はぐれないよういつも通り腕に抱き付いてきたということである。


「好きだよね、それ」

「葵さんは私のだって言ってるみたいな気がして、とにかく幸せです」

「だってさ」

「わざわざ言い触らさなくてもいいと思うんです」

「あと、私は葵さんのだって思えるのもいいですよねっ」

「だってさ」

「それってそんなに嬉しいですか?」


 アーロンとレティシアの背中を追うようにして三人で並んで歩きながら、何度か聞いたことがあるような言葉に耳を傾ける。何度聞いても、アイリスのその感覚は馴染みの薄いものだった。


「嬉しいですよ? そういうことに興味がなさそうだった、あの葵さんが選んでくれたんですもん。喜ばないでどうするんですか」

「可愛いことを言うよね。刺さった?」

「急所です」


 聞かない方がよかったのかもしれない。非の打ち所がない、どこまでも綺麗な笑みを浮かべたアイリスの言葉は、心の一番弱い部分を真っ直ぐ射抜いてきた。最近、こんなことがやたらと多いような気がするのは何故だろうか。


「臆面もなくそういうことを言えるのがアイリスだよね。何となく分かってきたかも」

「思ってることは言葉にしないと伝わらないって、葵さんが言ってましたからね。葵さんが大好きだってことは、とにかく押し出していきますよ?」

「なんだ。兄さんのせいか」

「それを僕のせいにされるのはちょっと……」


 言った時には、まさかこんなことに利用されるとは露程も考えていなかった。予想できたのなら、きっと言葉はもっと慎重に選んでいたはずである。素直に気持ちを伝えてくれること自体は嬉しいが、その度に赤面する羽目になる自分のことも、少しは考えてみてほしい。


 考えたうえでの言動であれば、もう自分にはどうしようもないのだが。自分の照れた顔が見たいと、そう願ってわざとそうしている可能性も否定はできなかった。


「大好きですよ!」

「分かりましたから……。今はもう許してください……」

「ほんと、アイリスには弱いね」


 まるで周囲に主張するかのように、そう口にするアイリス。宣言した通りに気持ちを前面に押し出しているのか、元々密着していた体をさらに寄せてくる。


 多少の歩きにくさは何のその。それ以上に大切なことがあると、そう言いたそうな笑みが印象的だった。




「思ったより背が高いんですね」

「冗談抜きでアイリスさんが埋もれます」

「その時はちゃんと見つけてくださいね?」

「そもそもの話、多分離れる気はないですよね」

「ですね。一番大好きなアオイは腕の中ですから」

「……」

「きっちりカウンターを貰う、と」


 躊躇う様子すら見せずに言いきったアイリスを見て、思わず言葉に詰まってしまう。そして、そんな隙を見逃す蒼ではなかった。


 そもそも、車で三時間もかけて一体どこに来ているのか。その答えは単純で、今目の前に広がっているウスベニアオイの花畑と、もう一つある花を見るために、普段暮らしている県から二つ隣の県まで小旅行に来ているのだった。


 事の発端は、過去のアイリスの一言。いつかその時期が来た時、アオイの花が咲いているところを見に行きたいと願った、あの一言である。


 ちょうどゴールデンウィークに入ったこともあり、それならばと調べてみた結果、この山間の自然公園が見つかったのだった。さらに偶然は重なるもので、広大な敷地の中にはアイリスの花も咲いているとのこと。


 そこで何かの運命を感じてしまったアイリスたっての希望によって、あれよあれよという間にこの五人での小旅行が決定し、そして今に至っている。


「どこにいても、話の流れは変わらないのね」

「この辺はアイリスの方が一枚上手かな?」

「私の方が先に葵さんのことを好きになったからね! 先輩だもん!」

「何? アイリスは五分に一回兄さんを真っ赤にしないと気が済まないの?」

「可愛いですよね! 普段は落ち着いてる葵さんが、隠しきれずに照れてくれるんですよ?」

「厄介な目の付けられ方をしてない? 大丈夫?」

「この赤さで大丈夫だと思いますか?」

「思わない」


 首を横に振りながら言いきる蒼。その表情には、どこにも迷いの色が見つけられなかった。


「いや、それにしても、実物を見ると本当に大きいね」

「えぇ、ほんと。このくらいの背丈で可愛い花って、まさに葵君と蒼さんみたいなイメージね」

「そう言われると、流石に照れちゃいますね。まぁ、私の名前はお花由来じゃないんですけど」

「細かいことは気にしなくていいの。可愛ければ何でもよし」


 そう言って笑うレティシアが、何故かウスベニアオイの花ではなく、アイリスと自分にカメラを向けてシャッターを切る。花が可愛いと言っていたのに、行動は全く伴っていなかった。


「何で私達を撮ったの?」

「ほら。ここに咲いてるのは薄紫の花でしょ?」


 レティシアが指差したのは、目の前の花畑の一角。アイリスの背丈を超えるものすらちらほらと見受けられる背の高い茎に、白と薄紫の二色から成る五枚の花弁がいくつも咲き誇っている。まさに写真で見るような、それでいて写真よりも色鮮やかなウスベニアオイの花だった。


「綺麗に咲いてるんだから、そっちを撮ったらいいのに」

「でも、こっちには一輪しかない真っ赤なアオイの花があるのよ?」


 指がそのまま自分までスライドする。どうやら、「真っ赤なアオイの花」とは自分のことを指しているらしかった。


「む……! 確かにこっちも捨てがたいかも……」

「お願いですから捨ててください」


 頬を染めて照れているところを見られるだけでも恥ずかしいのに、それを写真という形で残されてしまうのは色々と厳しいものがある。そうは言っても、撮られてしまったものはどうしようもないのだが。


「ってことは、こっちのお花を背景にして、兄さんとアイリスが一緒に写ったらいいんじゃない?」

「それです!」

「赤みが引いた後ならいいですよ」

「今すぐです!」

「あ……、はい……」


 そんな些細な願いも空しく、アイリスに腕を引かれたままウスベニアオイの花畑を背にする。カメラを持つレティシアに顔を向ける直前でちらりと見た別名ブルーマロウは、悔しくなるくらいに可愛らしい姿を披露していた。


「なんだ、結局もう赤みは引いてるんじゃない」

「どうして残念がられてるのか分かりませんけど、ある程度は落ち着きましたから」

「え、じゃあ、もう一回赤くなってもらえばいいってことですか?」

「いいってことじゃないです」


 自分の言葉をどう解釈したのか、アイリスがそんな恐ろしげなことを口にする。わざわざ宣言してから起こす行動な辺り、威力は凄まじいことになっていそうである。


「普通に撮ればいいじゃないですか。せっかくの写真なんですから」

「……。……じゃあ、そういうことで」

「絶対に何かを企んでるじゃないですか」

「大丈夫ですって。悪いことは何にもしませんから」

「いつもならアイリスさんのことは信じてますけど、こういう時のアイリスさんは信じられません」

「あ、もう撮るみたいですよ! ほら! カメラを見てください!」

「聞いてないですし」


 明らかに何かを企んでいる間があったアイリスを問い詰めるも、のらりくらりと躱されて真相は闇の中。そうこうしているうちにレティシアの準備が整ったのか、スマートフォンが再び自分達へと向けられていた。


 こうなってしまえば、これ以上足掻いても無駄なことは誰にでも分かる。これからアイリスが何をしでかすのか、言いようのない不安を抱えつつ同じ方向を向く。


「はーい。それじゃあ撮るわよー?」


 自分達二人が意識を向けたことを確認してから、レティシアが定番の合図を送ってくる。仕方なく、それに合わせて多少ぎこちないながらも笑みを浮かべようとした、その瞬間だった。


「んっ!」

「え……?」


 そんな小さな声と共に、頬に柔らかな何かが触れた。


「お?」

「あら……」

「へぇ……」


 それが何なのかを認識する前に、見ていた三人からそれぞれ意外そうな声が漏れる。ちなみに、驚きの中でもシャッターを切るレティシアの手は止まっていなかった。


「何を……!?」


 そこまでの反応を見てから、ようやく自分が何をされたのかに気付く。一度は引いたはずの顔の赤みが、少し前よりも明らかに大きな熱量を伴って再来する。


 頬だけと言わず、顔全体が熱を持って思考が茹で上がる。何かを考えようとしては、即座に全てをアイリスが上書きしていった。


「何って……。ほっぺたにキスしちゃいました。えへへ……!」

「なぁ……!?」


 嬉しそうにはにかむアイリスが、とうとうその言葉をはっきりと口にした。その途端、もうこれ以上熱くなることはないと思っていた頬が、さらに一段熱くなる。それこそ、アイリスに口付けられた場所など、触れると火傷しそうな程である。


「人前で大胆ねぇ……」

「誰譲りなんだろうね?」

「私ね」

「親子なんですね」

「もちろん。あ、今のもちゃんと写真に撮っておいたわよ。葵君にもあげるわ」

「何てことを……!」


 見ていた側は案外冷静なのか、狼狽に狼狽を重ねる自分とは違って、随分と穏やかな会話が繰り広げられていた。ただし、レティシアから告げられた事実は、穏やかさの欠片もない。


「い、いくら照れさせるためだからって……!」

「別に、そのためだけじゃないですもん。いつかしたいと思って、ずっと狙ってたんですから」

「でも、流石に今は……」

「気持ちが溢れちゃいました」

「そんな素振りはどこにもなかったのに……!」


 何でもないことのように言うアイリスだが、その結果は何でもないとは到底言えない。蒼やアーロン、レティシアだけではなく、周囲にいた観光客も興味深そうにこちらを見ている辺り、アイリスが与えた影響は非常に大きい。


「もしかして、嫌……、でした……?」


 まともに目を合わせられず、ただ視線を泳がせるだけの自分を見て、一体何を思ったのか。嬉しそうな笑みから一転、どこか不安そうな表情を浮かべてアイリスが見上げてくる。揺れる瑠璃色の瞳には、微かに涙が溜まり始めているように思えた。


「い、いや……、それは……」

「……」


 無言。何かに耐えるように左腕を強く抱き締めるその姿は、自分がアイリスにさせていいものではなかった。


「いきなりで恥ずかしかっただけで、その……、嫌ではない、です……」

「……っ」


 そんな思いから、言葉に詰まりつつも何とかそれだけを口にする。相変わらず目を合わせて言うのは恥ずかしくて、明後日の方向を見ながらぼそりと呟いた一言。


 それでも、その効果は絶大で。アイリスの反応が気になってちらりと目を向ければ、沈んでいたはずの顔が、じわじわと輝きを増していくところだった。湛えられた涙がきらきらと光を反射し、次いで、口元がゆっくりと弧を描いていく。


「ほ、ほんとですか……!?」

「い、一応は……」

「んぅーっ!」

「うっ……」


 まるでそれが喜びを表す仕草だとでも言うように、肩口に頭を押し付けてぐりぐりと力を込めるアイリス。これまでも何度かされたことのある仕草ではあったが、今回が一番心臓に悪かった。


「好き……! 好きですぅ……!」

「……」

「私達は何を見せられてるんでしょうね」

「娘が成長してるところを見られて嬉しいのか、手元を離れていくような気がして寂しいのか、よく分からなくなってきたよ」

「いつまでも子供だと思ってたけど、案外大人っぽいところも出てきたのね」

「不意打ちでほっぺたにキスするのが大人っぽいかは、ちょっと微妙なところがあるような気がしますけどね」


 当然、そんな仕草を今の自分が直視できるはずもなく。再度アイリスから目を逸らし、三人の何やら恥ずかしい話に意識を向ける。そうでもしていないと、とてもではないがアイリスの猛攻に耐えられる気がしなかった。


「でもさ、アイリス」

「何ですっ?」

「うわ、嬉しそうな顔」


 意識を向けた先の一人である蒼が、ひたすら嬉しそうにしているアイリスに問いかける。自分はその表情を見ていないので何も言えないが、どうやら思わず声が出てしまう程に嬉しそうにしているらしい。


「ま、それは置いておいて。さっき、あんまり躊躇ってなかったみたいだけど、もしかしてこっそりしたことある?」

「は……?」

「ありますよ!」

「は!?」


 何を尋ねるのかと思って聞いていれば、まさかの爆弾発言が飛び出してきた。そして、何よりも信じ難かったのは、それに対するアイリスの答えである。


「あるんですか!?」

「はいっ! 葵さんが寝てる時に!」

「なんっ……!?」

「初めてはお付き合いする前でしたね」

「……!?」


 とうとう言葉も出なくなった。こんな場所でさらりと暴露すべきではない事実の羅列に、いよいよ以て頭が追いつかなくなる。恥ずかしくてアイリスの方を向くことすらできなかったはずなのに、それも忘れてその瞳を見つめ返す。


「葵さんの寝顔を眺めてたんですけど、ちょっと我慢できなくなっちゃいまして」

「……」

「あ、でも、流石にほっぺただけですよ? それ以上は……」

「あ、当たり前です……!」


 それすら寝ている間にされていたとしたら、これからしばらくはアイリスの顔をまともに見られなくなってしまうだろう。それだけは絶対に避けたい出来事だった。


「私の知らないところで、いつの間にか兄さんが襲われてた」

「これから大変ね。一回ハードルを越えちゃったら、もう躊躇うこともないはずだから」

「妙に説得力があるのはどうしてだろうね?」


 気持ちが若干前のめりになっている蒼とレティシアに対し、一歩引いたところから眺めるアーロン。その言葉には、得も言われぬ回顧の色が漂っていた。


「こんなに嬉しくなれるなら、もっと早く踏み出しておけばよかったです」

「反省する場所はそこじゃないです……」

「あ、葵さん。あれ……」

「え?」


 きちんと反省しているようで、実は全くしていないアイリスが、何かに気付いたかのようにとある一角を指差す。釣られて振り向けば、そこには何の変哲もないウスベニアオイの花。特に気になるようなことなど、何も見つけることはできなかった。


「何か……」

「んっ!」

「うぁ……!?」

「あ」

「ほら」

「なるほど」


 一体何が気になったのかを尋ねようとしたその刹那、再びあの感覚が頬を襲う。今度は間を空けることなく理解が追いついた。


「癖になっちゃいそうですね! えへ……!」

「ぜ、絶対にだめです……」


 だからと言って、耐えられるはずもないが。頬は毎秒最高温度を更新しているかのような熱さで、頭の回転は毎秒最低速度を更新している。そうかと思えば、鼓動の速さは間違いなく過去最高。体のあちこちがちぐはぐな記録を叩き出していた。


「これ、放っておいたら学校でもしそうじゃない?」

「するかもしれないです」

「逃げます」

「なんでですか」


 不服そうに頬を膨らませて言うアイリス。これまでは可愛いとしか思わなかった仕草なのに、今では嫌でもその頬に視線が向かってしまう。意識して考えている訳ではないが、勝手に頭の中にある光景が浮かんでしまうのも、また事実。


 それもこれも、全てアイリスが悪い。あんなことをするから、自分の頭の中にもイメージが強烈に刷り込まれてしまったのだ。


「あ、誰もいないところでならいいってことですか?」

「それはもっとだめです」

「そっちの方が、ね……? 何かちょっと……」

「どきどきしちゃいますか?」

「……」

「葵さんが可愛いですぅ……!」


 そんなイメージが残ったままの自分に、悪戯っぽいアイリスの笑みは効果があり過ぎた。何も言えずに顔ごと逸らしてしまった自分を見て何を考えたのか、抱き付く力がより一層強くなっていく。その感覚も、何故かいつもよりずっと温かいものなのだった。




 とんでもないことが起こってしまったウスベニアオイの花畑から少し離れた、次の目的地へと向かう遊歩道の一角。相も変わらず腕を組んだまま歩くアイリスから、やや寂しそうな声が届いた。


「もうそろそろこっちを見てくれてもいいと思いません?」

「……さっき以上のことをされそうで、ちょっと怖いです」

「大丈夫ですって。あれ以上はありませんから。……今日は」

「……」


 最後に付け加えられた一言に、一度だけとくんと心臓が跳ね上がる。言ってのけたアイリスが何を考えているのかは分からないが、あれ以上となると選択肢はほとんどない。仮にそれだったとして、それならそれで思うところはあるので、ひとまずは気持ちを抑えてもらいたい。


「それにしても、ほんとに寝てる時にしちゃってたんだね。冗談のつもりで言ったのに」

「何て言うか、最初は意識しましたけど、その後は自然にしちゃうようになりました」

「も、もしかして、前に顔が近かったのって……」

「ですね。あの時はばれたかと思いました」

「……っ!」

「自分で自分の首を絞めてどうするの」


 探らなくてもいい事実を探った結果、知らない方がよかったかもしれない事実を掘り起こすことになった。


「まぁ、もしばれたら、その時は突き進むしかなかったですね」

「可愛くて積極的な彼女さんだね? 好き?」

「好きですけど……。心臓は大変なことになってます……」

「でも、葵さんがたまに積極的になってくれるのもいいですよねっ。私もどきどきします!」

「もっと見せてあげたらいいんじゃない?」

「よ、余裕があったらってことで……」

「楽しみにしてますねっ」


 なかなかに厳しいお題を突き付けてくるアイリス。ただ、純粋な笑みを浮かべて楽しみにしているその姿を見ていると、得意なことではなくても努力してみようかと、不思議とそう思えてしまうのだった。

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