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118. 三輪の花 (2)

「まぁ、こうなるよね」

「他の班でも上手くやっていけそうな気もしたんですけどね」

「何? 兄さんは私と一緒なのは嫌?」

「そういう意味じゃ……」

「あーあ、傷付いたなぁ……? どうやって慰めてもらおうかなぁ……?」


 何やら不穏なことを口走る蒼。面倒な事を考えているのが丸分かりの表情を浮かべている。


 四月十七日、水曜日。五月の下旬に予定されている修学旅行に向けて色々と準備をしているホームルームの、その中で起こった出来事だった。


「今日はアイリスと反対側の腕に抱き付いて帰っちゃおうかなぁ……?」

「僕が悪かったです。蒼と同じ班で嬉しいです」

「弱……」

「いつもの葵君って感じだね。平和」

「そこで謝られるのも複雑だけど。まぁ、いいや」


 予想通り厄介なことを考えていた蒼に、即座に降伏を告げた。まず間違いなくアイリスは抱き付いてくるので、蒼の言葉が実現してしまった暁には、自分から一切の自由が失われることになる。


 それ以外にも見た目の問題も当然あるので、どうしても避けねばならない事態だった。とにかく精神的にダメージが大き過ぎる。


「これで、私達は女の子五人組だね?」

「今『兄さん』って呼んでましたよね?」

「何で僕まで巻き込まれてるの……」


 さりげなさが一切感じられない一言を呟く蒼に、自分も含めて二人から突っ込みが入る。当たり前のことだが、もう一人は久しぶりに口を開いた悠だった。


「ホテルのお部屋は、兄さんと私で一部屋ってことでいい?」

「よくないです。僕は羽崎君と一緒に穏やかに過ごすんですよ」

「まるで昼間は穏やかには過ごせないって言ってるみたいだな?」

「過ごせます?」

「無理だね。諦めて」

「やっぱり」


 蒼の訳が分からない発言から連なる、莉花の無慈悲な宣言。ここに、穏やかさとは無縁の修学旅行が誕生した。当然、嬉しくはない。


「と言うか、蒼は葵君と同じお部屋でいいの? 恥ずかしかったりしない?」

「兄妹で同じお部屋ってくらい、別に普通じゃないかな?」

「小さい頃ならね。私達くらいの歳でそれって、多分珍しいと思うけど」

「でも、私って兄さん大好きだし……」

「知ってる。愛情が若干行き過ぎてるところも」

「そんなに褒めなくても……!」

「褒めてないよ」


 微かに呆れを含む声で、碧依が突っ込みを入れる。だが、蒼には大して効果がないようだった。両手で頬を押さえて喜ぶ姿に変化はない。


「とにかく、そんな部屋割りになるわけがないじゃないですか」

「まぁ、僕と湊君だよね」

「女子部屋?」

「男子部屋」

「いやいや、湊君と羽崎君で男子部屋って……。それは無理があると言うか……」

「どこにも無理なんてないよ」

「……」


 自分のことを棚に上げて申し訳ないが、悠は無理があると言われても仕方がないように思えた。自分はそこまででもないはずだが。


「そこまで言うなら仕方ないかぁ……。 昼の間、存分に兄さんに甘えておくことにするね」

「甘えない選択肢は?」

「ないね」

「あぁ、はい……」


 清々しいまでの即答だった。それこそ、思わず自分が頷いてしまう程に。


「よし、決着はついたね。昼間はべったり甘えるといいよ。ねぇ? 『お兄ちゃん』?」

「……」


 からかうようにその言葉を口にした莉花から、そっと目を逸らす。慣れない相手からそう呼ばれるのは、思った以上に気恥ずかしいものがあった。


「で、今更だし、他意はないんだけど」

「何?」

「蒼はほんとにこの班でよかったの? 湊君も言ってたけど、他の班も欲しがってたと思うよ?」

「ほんとに今更だね。私はこの班がいいの」

「やだ、可愛い。こんな妹が欲しくなってきた」

「残念。私は兄さんの妹だから」

「妹さんを私にください!」

「男子部屋と女子部屋の区別もできない人には渡せません」

「あぁ……!?」


 よく分からない懇願をしてきた莉花を跳ねのける。何故か絶望に打ちひしがれる莉花 の姿を見る蒼は、どう反応すればいいのか分からないとでも言いたそうな苦笑いを浮かべていた。


「でも、僕達だけ五人ってなっちゃうと、それはそれで色々言われそうではあるよね」

「そこは気にしてもどうしようもないと思うけど。人数的にこうなっちゃうのは、別に私達のせいじゃないし」


 そう言いながら、碧依が教室の中を見回す。釣られて同じように目を向ければ、そこかしこで四人班が寄り集まって何かを話しているのが見て取れた。一つ一つは意味を持っているはずなのに、集まると途端に意味がない音になってしまった喧噪が、午後の教室に満ちている。


「羽崎君は相変わらず不思議なところを気にしますよね」

「あはは……。何でも気になっちゃう性格なもので……」


 困ったように笑う悠の姿は、この一年で散々見てきた姿である。どうやら、三年生になってもその辺りは何も変わっていないらしい。実に悠らしい考え方だった。


「ほらほら。気にしても仕方ないって分かったんだし、そろそろどこに行くか決めないと」

「ですね。去年と違って、今年は選択肢が多いですからね」


 話がひたすら逸れていたところで、碧依が一言で以て軌道を修正する。本来なら、この時間は班決めと自由行動の行き先決めの時間である。また後日続きの時間が取られているとは言っても、この時間に色々と話しておく方が楽に決まっていた。


「所謂古都に行くわけですけど、歴史ある建物に一家言ある羽崎君は希望があったりします?」

「たくさんあって困っちゃうよね!」

「おぉ……。羽崎君が見たことないくらいに目を輝かせてる……」

「碧依さんが見たことないだけで、たまにこうなったりしてますよ」


 碧依が言う通り、悠のコバルトブルーの瞳がきらきらと輝きを放っていた。確かに珍しい光景ではあるが、これまで一度も見たことがないという訳ではない。単に、碧依や莉花と一緒にいると、からかわれてそれどころではないことが多いだけの話だ。


「神社とかお寺が好きってこと?」

「みたいです。去年は遠慮してましたけど、今年は行く場所が場所ですからね。多分大活躍ですよ」

「まぁ、京都ってそういうところだもんね」


 去年の宿泊学習の件を知らない蒼のために説明する。見た目からはそんな印象を受けなかったのか、少しだけ意外そうに悠を眺める蒼が、そこにいた。


「そうは言っても、皆が行きたいところもあるかもしれないし、とりあえず僕は最後でいいよ」

「興奮してるように見えて案外冷静だな。流石、何でも気になっちゃう性格」

「これはまたちょっと違うような……?」


 そうして蒼に意識を割いている間に、何やら三人の間で話が進んでいた。


「何です? 羽崎君が完璧なルートを考えてくれるって話ですか?」

「え? ほんと?」

「何にも聞いてなかったでしょ。湊さんも乗っからないで?」

「期待してます。僕達が考えるより、ずっと面白いルートになるでしょうから」

「話を聞いて?」


 やたらと可愛く首を傾げる悠に諭される。この辺りが引き時なのかもしれなかった。


「冗談ですよ」

「湊君って、真顔でそういうことを言うから、たまに分からなくなるんだよね……」

「私は分かるよ?」

「妹さんが張り合ってくるんだけど。どうにかしてよ」

「無理ですね。こうなった蒼は止まりません」

「諦めが早いよ」


 再会してからまだ半月程しか経っていないにも関わらず、蒼のこんな部分は身に沁みて理解できている。自分のことで楽しそうに張り合っている蒼は、何人であっても止められはしない。ただ静かに受け入れるのが最適解である。


「ほら蒼、そこまで。葵君が大好きなのは分かったから、今は話を進めさせて?」

「はーい……」

「その言い方はどうかと思いますけど、助かりはしました」

「その分、後で葵君に甘えていいから」

「任せて!」

「どうして?」


 今、何やら碧依に一瞬で売られはしなかっただろうか。こんな仕打ちに遭う理由はどこにもないはずなのだが。


「楽しみにしててね、兄さん」

「……何を?」


 だが、そんなことを言っていても結末は変わらない。自らが一番楽しみにしていそうな笑みを浮かべながら言う蒼に、うっすら戦々恐々としながら言葉を返すことしか、今の自分にはできなかった。




「それで蒼の距離がやたらと近いんですか」

「割と普段から近いような気もしますけど」

「ふふー……」


 そんなことがあった日の放課後。この四月からは恒例となった三人で駅へと向かう道すがら、先程のホームルームであった出来事をアイリスに話す。


 というのも、蒼の雰囲気がいつもと違うことに気付いたアイリスが、不思議そうな目付きで見上げてきたからだ。些細な違いでしかないのに、本当によく気が付くものである。


「放っておいたら、そのまま腕に抱き付きそうな感じがします」

「それもさっき言ってましたよ。逃げました」

「そこは私の特権ですもんねっ」

「妹だって抱き付いてもいいと思うんだけどなぁ……?」


 アイリスの言葉に対して、少しだけ不満を滲ませるようにして口にする蒼。あれだけ即座に撤退したのに、どうやらまだ諦めてはいないらしかった。


「そもそもあれですよね。甘えるってなって最初にすることが距離を近付けるって、可愛い甘え方ですよね」

「アイリスさんは何をしでかすか分かりませんからね」

「じゃあ、そう言うアイリスはどうするの?」

「ベッドに潜り込みます」

「あれって甘えるってことだったんだ……」

「段階を飛ばし過ぎなんですよ」

「あと、膝の上……、だとちょっと身長差ができちゃいますから、葵さんの足の間に座って、後ろから抱き締めてもらいます」

「できる?」

「相変わらず無理です」

「なんでですか!」


 その口からすらすらと語られる甘え方に、蒼と二人して圧倒される。ここまで具体的な話がすぐに出てきたということは、やはり普段からこんなことを考えていると思っておいた方がいいだろう。


 それはつまり、いつでも実行に移す準備ができているということでもある。期せずして恐ろしいことに気が付いてしまった。


「それなら、葵さんが私のベッドに潜り込んでくるし、私が後ろから抱き締めるってことでいいんですか?」

「何もよくないですね」

「兄さん大胆」

「しません」


 何を想像したのか、頬を少し赤らめた蒼が横から見上げてくる。実際にそんなことをするはずもないのに。後者はともかく、前者は絵面が犯罪である。


「まぁ、やっぱりこうやって抱き付いてるのが甘えてるってことなんですけどっ!」

「そのおかげで、兄さんはいっつも大変な思いをしてそうだよね」

「いつまで経っても慣れません……」

「えへー……」


 抱き付いたまま歩くのにもすっかり慣れたらしいアイリスが、頬を擦りつけながら口元に笑みを浮かべる。どこまでも幸せそうなその笑みは、見ている側の頬まで強制的に緩ませてしまうような効果があった。


「アイリスはいつまで経っても幸せそうに笑ってそうだよね」

「当たり前ですっ! ……まぁ、葵さん達が修学旅行に行ってる間は……、はい……」

「……」


 言葉の中で感情の起伏が激しかった。それだけ思うところがあるという証拠である。何を思っているのか、これは誰でも考えるまでもなく理解できることだろう。


「あと、私が宿泊学習に行ってる間も……」

「来月多いね?」

「そればっかりはどうしようも……」

「分かってますけどぉ……」


 口元に浮かべるのを笑みから不満に変え、残念そうにアイリスが一言呟く。眉まで若干下がっているように見える辺り、もう既に寂しさを感じているのかもしれない。


「お付き合いを始めてからは、ほとんど毎日会ってたので……。二日以上も会えないなんて、禁断症状が出ちゃいます……」

「怖……。何をするつもりですか……?」

「押し倒して、抱き付いて、そのまま一日中葵さんにくっついてます」

「耐えられる?」

「無理です」


 何をどうすれば耐えたという判定になるのかは知らないが、どんな基準にせよ耐えられる未来が見えなかった。甘え方が全力過ぎる。


「とにかく、帰ってきたら覚悟しておいてくださいね?」

「……」

「頑張るしかないね、兄さん?」


 おおよそ一か月後、自分は無事に過ごすことができているのだろうか。そんな不安が頭を過る、恐ろしい放課後の一幕だった。




「京都ですか」

「それ以外の場所も行きますけど、自由に回っていいのはそうですね」

「アイリスが行ったら、外国からの観光客にしか見えないよね」

「日本語でお話しして、周りを驚かせてあげますよ」


 朝よりもさらに乗客の数が少ない、夕方の電車の中。修学旅行の行き先の話になったところで、アイリスが謎の悪戯を画策していた。


「私達はもう慣れちゃったけど、この見た目から流暢な日本語が出てきたら驚くよね」

「ギャップってやつですね。葵さんも心に刺さっちゃいました?」

「そこのギャップは別に……」

「刺さったって言ってくださいよ」

「どんな好みをしてたら刺さるんですか」

「金髪で、目が瑠璃色で、でもお話しするのに困らない外国の女の子、です」

「ピンポイント……」

「つまり、アイリスが好みってこと?」

「好みですか!?」

「好みですけど……」

「えへ」


 嬉しそうに微笑むアイリスだったが、二人がかりでの誘導尋問感が半端ではなかった。その条件に当てはまる人物など、世界中を探してもそうはいないだろう。


「それでそれで? どこに行くかは決めたんですか?」

「何となくは。羽崎君がそういうことに詳しかったので」

「へぇ? 羽崎先輩がですか?」

「ですね。こういうのをギャップって言うんですよ」

「分かりました。膝の上がお望みですね?」

「違いますね。僕の勘違いでした」

「脅し方が独特……」


 隣から蒼の呆れるような声が聞こえるが、今構うべきはそちらではない。訂正してもなお虎視眈々と膝を狙っているアイリスがいる限り、安心して過ごすことはできない。


「まったくもう……! 葵さんはすぐそうやって余計なことを言うんですからっ」

「好きな子に構ってもらいたくて悪戯しちゃう子供みたいだね?」

「そう言われると複雑ですね」

「そんなことをしなくても、私の方から葵さんを構っちゃいますもん」

「だって」

「どう反応するのが正解なのか分からないです」


 喜ぶのも何か違うような気がすれば、突っぱねるのも明らかに違う。とにかく、反応に困る一言なのは間違いなかった。


「あ、ちなみにだけど、行くのは十円玉のところと、お狐様のところだよ」

「うん?」


 また話が逸れ始めようとしたところで、蒼がそっと元に戻してくれた。やはり、持つべきものは軌道修正ができる妹である。


 ただし、その言い方はどうかと思うが。


「あぁ……、そういうことですか」

「分かった?」

「最初から素直に言ってくれたらよかったのに」

「それじゃあ芸がないよ」

「芸じゃなくて、分かりやすさを求めてください」


 一瞬考えて答えに至ったらしいアイリスから、小さく納得の声が漏れる。ただし、後に続いた言葉は蒼への苦言。聞いている自分からしても、ごもっともとしか思えない一言だった。


「でも、そうですか。平等院と伏見稲荷大社ですか」

「何か?」


 それでも、そこからさらに苦言が続くこともなく。何かを考えるようにして自分に目を向けてくるアイリスが、そう具体的な名前を口にした。その場所に、一体何を思うのだろうか。


「葵さんの総本宮ですね」

「総本宮?」

「また懐かしい話を……」


 何を考えているのかと思えば、また随分と前の話を持ち出してきたものだ。確かに自分は狐っぽいと評されたことがあるが、まさかこんなところに繋がるとは夢にも思っていなかった。


「何? 何のお話?」

「あ、そっか。蒼は知らないんですよね」

「うん? 前に何かお話ししてたってこと?」

「です。葵さんは、動物に例えたら狐っぽいですよねって」

「玉藻前?」

「どうしてそこでその名前が出てくるんですか」

「絶世の美女だったって聞いたことがあるし……」

「そもそも妖怪ですって」


 いきなり蒼の口からとんでもない名前が飛び出してきたが、流石にそれを認める訳にはいかなかった。第一、それでは兄が最終的に殺生石になる訳だが、果たしてそれでいいのだろうか。蒼の思考回路がよく分からない。


「なるほどなるほど……。それで総本宮か……」

「今の説明で納得されるのも釈然としませんね」

「いやいや、どうせあれでしょ? 見た目が女の子っぽくて他人を騙してるみたいだし、アイリスをからかったりするのが好きだからってことでしょ?」

「……」

「大正解ですね。やっぱり葵さんは狐なんですよ」

「……」

「こんこん!」

「あ、可愛い!」


 詳しいことは何も話していないはずなのに、あっという間に寸分違わず正解へと辿り着かれてしまった。蒼が妹で自分のことを見抜くのに長けているとはいえ、これは流石の洞察力としか言いようがない。


 そして、いきなりそんな正解ど真ん中を投げつけられてしまえば、上手く反応することができるはずもなく。隣でアイリスが狐の鳴き真似をしているにも関わらず、そちらにすら反応できない有様だった。


「あ、アイリスの可愛さに固まっちゃったかな?」

「……私の方見てませんけど」

「声だけでも可愛いってさ」

「ほ、ほんとです……?」

「え……? あぁ……、はい、可愛いと思います」

「今の言い方は嬉しくないですっ」

「う……」


 やっと再起動を果たした途端、今度はアイリスのしがみ付く力が強くなって再度フリーズしてしまう。落ち着く暇すら与えてもらえない。


「いつもの葵さんはもっと本気で言ってくれるのに、今のはとっても適当でした!」

「あらら……。未来のお姉ちゃんがご立腹だよ? どうするの?」

「どうするも何も……」


 今の自分にできることなど、そう多くはない。その中で、アイリスの機嫌に効きそうなものは。


「じゃあ、今度アイリスさん用の狐耳も買いますか。それなら可愛さも増しますし」

「え……?」

「あ、これ本気で可愛いって思ってたやつだね。兄さんがちょっと壊れてる」

「お、お揃いでいいんですか……!?」

「いいも何も、僕だって可愛いアイリスさんは見たいですし」

「ひゃあぁ……!?」


 今更どこに照れる要素があったのか、顔を真っ赤にして俯いてしまうアイリス。狐耳はなくとも、その仕草だけで十分な可愛さがあった。


「あれ? お揃いってことは、もう兄さんの分はあるってこと?」

「あ……」

「へぇ……。そっかそっか……」


 そうしてアイリスにばかり気を取られていたせいなのか。気付かなくてもいい事実に気付いてしまった蒼の口元が、ゆっくりと弧を描いていく。


 いずれまた一騒動起こりそうな、そんな笑みだった。




 それからやや時が流れて、四月二十日、土曜日。何でもない休日だったはずの一日が何でもなくなったのは、先週とある出来事があったからである。


「似合う?」

「それは先週も言いました」

「何回聞いてもいいものだからね。で、似合う?」

「似合ってはいます」

「やった」


 では、今日は一体何の日なのか。


 その答えは単純で、蒼の初めてのバイトが今日から始まるのだった。この日に合わせて作られた自らのウェイトレス服に身を包み、その場でくるりと一回転してみせる蒼。ウェイトレス服と共に琥珀色の髪がふわりと舞う様子は、その柔らかさを存分に見せつけているかのようだった。


「兄さんのでも着られないことはなかったけど、やっぱりサイズが合ってる方がいいよね」

「まずは『僕の』ってところに疑問を持ちましょうね?」

「……?」

「今じゃないんですよ」


 タイミングが盛大にずれている。疑問を持つべきは今の自分の発言ではなく、その前の蒼自身の発言のはずだ。控えめに首を傾げる姿を見せられたところで、そう都合よく騙されたりはしない。


「うん、やっぱり可愛い」


 騙そうとしているのかそうでないのかよく分からない蒼を咎めていると、隣で一緒にその姿を眺めていたアイリスからそんな感想が聞こえてきた。見れば、どことなくラピスラズリが輝きを増しているように思える。


「これで看板娘が三人になっちゃいましたね」

「そのうち二人が同じ顔ですけど」

「『看板娘』ってところは否定しなくていいの?」

「……お客さんからそう呼ばれてるのは知ってますから」

「そっか。色々公認なんだね」


 非常に不本意だが、ウェイトレス姿が好評であることも知っている。この店は一体どこへ向かっているのだろうか。今から不安で仕方がない。


「みんなー? 準備はできたー?」

「あ、はいっ。ばっちりです!」

「そ。じゃあ、蒼さんのお世話は任せたわね、アイリスさん」

「任せてください! しっかり面倒を見ちゃいますよ!」


 カウンターに繋がる扉から顔を覗かせた柚子から、改めて教育係を任されたアイリス。その表情は、いつも以上にやる気に満ち溢れたものだった。


「よしっ! じゃあ、行きましょうか!」

「はーい。よろしくお願いします、『先輩』?」

「先輩……!」


 恐らくわざと強調するようにして蒼が口にしたその言葉に、アイリスの顔が一気に綻んでいく。これまでずっと後輩だったことが影響しているのか、年上ではあっても一応後輩ということになる蒼の存在が嬉しくて堪らないらしい。


「その顔で『先輩』って言われるのもいいですね……!」

「……」

「兄さんと私をまとめて一人みたいに見てない?」

「見てないですよ? なので、葵さんにも言ってほしいです」

「さ、行きましょうか」

「あぁ!?」


 奇妙な願いをぶつけてきたアイリスを受け流し、一人先にカウンターへと向かう。いつまでもバックヤードで遊んでいる訳にもいかない。そろそろ労働の時間だった。


「……いつか言ってもらえるように頑張りますもん……!」

「頑張りどころを間違えてるような気がするなぁ……」


 そんな自分に続くようにしてカウンターに出てきたアイリスが、何かを画策するような一言を漏らす。これからしばらくの間、アイリスに対する言動は気を付けておかないといけないのかもしれなかった。




「ふっ……!? ふたっ……、二人……!?」

「えっ!? えぇっ……!?」

「どういうことですかっ!?」


 蒼がカウンターに姿を現した直後から、露骨に店内の騒めきが大きくなった。突然もう一人同じ顔が現れたのだから、それも無理からぬことだろう。


 中でも特に反応が大きかったのが、カフェスペースにいた女子中学生三人組。近くの中学校に通っていることだけを知っている、たまに来店してくれるご一行だった。


「何かありました?」


 アイリスは蒼の面倒を見なければならないので、とりあえず自分が対応する。カウンターを出てカフェスペースに向かうだけなので、十秒もかからない。


 大して待たせることもなくテーブルまで辿り着いて、まずは一言。どんな時でも、状況の確認は大事なことだ。


「何かじゃないですって! 何で葵さんが二人もいるんですか!?」

「しかもウェイトレス服を着てますし!」

「ぶ、分裂……?」

「誰が単細胞生物ですか」


 流石に最後の一言は受け流せなかった。


「妹です。今日からこのお店で働くので、よろしくお願いしますね」


 一度蒼を振り返ってからそう告げる。いかに信じられなかろうが、これだけ似た顔を見せられてしまえば、嫌でも信じるしかないだろう。


「も、もしかして、双子だったんですか……?」

「ですね」

「まずいぃ……! 頭がおかしくなるぅ……!」

「どこまで混乱してるんですか?」


 目の前で三人が頭を抱える。そんな様子を見ていると、名前を告げた時にどんな反応を見せてくれるのか、無性に気になってきた。


 そんな訳で。


「ちなみに、名前は蒼です」


 告げてみた。効果は抜群だった。


「何で?」

「同じ顔で同じ名前って……」

「終わった……」

「何がですか」


 何故か若干の絶望すら感じられる表情で、蒼と自分を見比べる三人。いい反応ではあるが、まさかここまでになるとは予想していなかった。


「そんなに……」

「はーい。そこまでです」

「うん?」

「葵さんは向こうに行ってましょうねー?」

「え?」


 そんなようなことを口にしようとした瞬間、蒼の傍にいたはずのアイリスが隣から割り込んできた。口調こそ穏やかなものの、その顔に微かな不満の色が浮かんでいるように見えたのは、果たして自分の気のせいだったのだろうか。


 何にせよ、いきなりアイリスがやって来て、カウンターへ戻るように言ってきた事実は変わらない。物理的に背中を押され、その場から強制的に退場となった。


「まったく……、油断も隙もないんですから……」

「ん?」


 その場を後にする寸前、背中から聞こえてきたその言葉の意味を理解することは叶わなかった。


「おかえり、兄さん」

「よく分かりませんけど、とりあえず戻ってきました」


 カウンターで一人待っていた蒼に出迎えられ、その隣に並ぶ。アイリスがこの場にいない以上、何かあった時の対応は自分がしなければならない。何かを教えるにしても、近くにいた方がいいのは明らかだった。


「分かってなかったんだ?」

「何がです?」

「それなら何も言わないでおくね。あ、でも、アイリスが可愛いねってことだけは言っておくよ」

「それは知ってますけど、どうして今更……?」

「内緒」

「はぁ……?」


 人差し指を口の前に立てて微笑む蒼。今のアイリスに関する何かを知っているのは誰の目にも明らかだったが、どうやらそれを教えてもらうことはできないらしかった。




「思ったより疲れた!」

「緊張してたんでしょうね。お疲れ様です」

「たくさん注目されてましたしね」


 いつもより少しだけ遅い帰り道。月明かりが夜道を煌々と照らし出す中、初めてのアルバイトを終えた蒼が、そんな感想を零した。


 軽く伸びをしながらの一言で、確かな疲れを感じさせる仕草ではあったが、その表情は満足そうなもの。心地よい疲労感とでも表現するべきだろうか。


「来る人来る人、皆驚いてたもんね」

「当たり前ですよ。同じ顔が二つあるんですから」

「葵さん、違います。『可愛い』顔が二つあるんです」

「アイリスさんと蒼のことですかね」

「む……、そう来ましたか……」

「その理屈だと三つになるけど?」

「余計なことは言わなくていいです」

「はーい」


 朝夕の登下校と同じように、左にアイリス、右に蒼の並びで河川敷を歩く。誰も何も言わなくてもこの並びになった辺り、新たないつもの位置として確立されつつあった。


「で、そういうのはいいとして、上手くやっていけそうですか?」

「うん。その辺は大丈夫そう。元々あんまり心配してなかったけど」


 尋ねた問いに、嘘偽りのなさそうな顔で頷く蒼。あの日約束した通り、その内面までしっかりと考えてみるものの、それでもやはり誤魔化しは見当たらない。


「やっぱり、兄さんとアイリスがいるのは大きいよね」

「私達、二人共ちっちゃいですよ?」

「今それを言う必要ってありました?」

「小さくて可愛い恋人さんだよね!」

「乗る必要もないです」


 真面目な話をしていたはずなのに、あっという間に話が逸れていく。それでも嫌な気持ちが一切湧いてこないということは、心のどこかではこんな流れを好いているのだろうか。


「二人して……」

「兄さん、昔から年下の子に好かれやすかったよね」

「小さいってそういう意味ですか?」

「そういう意味もあるかな」

「じゃあ、やっぱり油断も隙もないじゃないですか」

「何の話です?」

「葵さんは知らなくていいです」

「はぁ……?」


 何やらアイリスの表情が若干険しくなったような気がした。迂闊に突っ込むと自分が火傷をしそうな気配があるので、ここは素直に引いておくのが吉か。


「ほら、私からも好かれてるし。生まれた時間にあんまり差はないけど、一応年下みたいなものでしょ?」

「それなら一番は私に決まってますもん!」

「どうして張り合ってるんですか」


 蒼の一言でヒートアップしていくアイリス。張り合う相手が妹である時点で、根本から何かを間違えている。その辺りの感情は種類が違うだろう。


「そんなことを言ってる兄さんの好みは? 慕ってくれる後輩とか?」

「アイリスさんですけど」

「うわぁ!?」


 明らかに特定の一人を想像していそうな、そんな悪戯っぽい笑みを浮かべる蒼の問いに、何の躊躇いもなくその一言を返す。


 結果、アイリスから謎の悲鳴が上がった。


「い、いきなりでびっくりしました……!」


 そんな感情を表すかのように、手で胸元を押さえていた。確かに不意打ち気味に言いはしたが、そこまで驚くようなことだっただろうか。それこそ、付き合っているというのに。


「予想はできたんじゃないですか?」

「そこまでストレートに言ってくれるとは思ってませんでした!」

「兄さん、たまにそういうところがあるよね」

「これからはさらに磨きをかけていこうかと」

「私が大変なことになるのでだめです」

「慌ててるアイリスさんも可愛いので、本音を言うともっと見たいんですけど」

「そういうところですってぇ!」

「楽しそうだなぁ……」


 悪ふざけで少しだけからかってみると、それはもう面白いくらいに望んだ反応が返ってきた。色味がやや失われた夜の闇の中にあっても、その色付いた頬は全く隠せていない。


「そんなことばっかり言うなら、私にも考えがありますからね!?」

「何をするつもりです?」

「葵さんのコスプレ写真を一枚一枚見ながら、どこが可愛いポイントなのかを解説してあげます!」

「すみませんでした」

「楽しそう、なのかなぁ……?」


 もう少しすれば深夜と呼べるような時間帯でも、その賑やかさは昼間と何も変わらない。そんな自分達の様子を見て、ただの感想から疑問へと変わっていった蒼の一言が、暗い夜の空にそっと溶けていった。

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