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117. 三輪の花 (1)

 蒼を取り囲む喧噪もようやく落ち着いてから迎えた、四月十三日、土曜日。三年生として通学を始めてから最初の休みとなった今日、一体何をしているのかというと。


「似合う?」

「似合いはしますけど……」

「新鮮味はないですね! 蒼は全く悪くないですけど!」

「見たことある感が拭えないわね」

「見たことある方がおかしいんだけどね?」


 目の前でウェイトレス姿を披露する蒼に対して、四人揃って感想を投げかけていた。


 この一年、アイリスが着ているのを何度も目にしてきたウェイトレス服は、適度にフリルがあしらわれていて、見た目と機能性を両立させている。そんな服を自慢の弟だと思っていた自慢の妹が着ているのだから、似合っているのは間違いない。


 だが、素直にそう口にできない理由もあった。


「何でちょっと言いにくそうなの?」

「それは……、ほら……」


 以心伝心ともまた少し違う気もするが、蒼がまさにその一点を突いてきた。理由すら言えずに目を逸らすだけでは何も伝わらないのだが、それでも何となく言葉にしにくいものがある。


「蒼さんのウェイトレス姿を可愛いって認めちゃったら、自分のウェイトレス姿も可愛いって認めるのと同じ意味になっちゃうものね?」


 そうして言葉を濁していると、まさに心の中で思っていたことをぴたりと言い当てる声が聞こえてきた。言うまでもなく柚子である。


「そんなことを考えてたの?」

「大丈夫ですよ! 葵さんもちゃんと可愛いですから!」

「全面的に認めてほしいわけじゃないんです」

「もうそろそろ諦めたら? あと少しで一年よ?」

「少しは受け入れましたけど、諦めるのはちょっと……」


 こんな見た目のおかげでアイリスが自分に興味を持ってくれたという点では、確かに受け入れている部分もある。だが、だからと言って「可愛い」という言葉を全面的に受け入れることができるかと問われると、それはまた別の話だった。


「それにしても、こうしてウェイトレス服を着てもらうと、本当にそっくりだね」

「えぇ、ほんと。雰囲気は流石に違うけど、見た目はほとんど変わらないわね」

「葵さんもウェイトレス服を着て並んでみますか?」

「お断りです。どうせいつかそうなるんですから、今やる意味はないです」

「あ、そこは受け入れるんだ……」


 苦笑いを浮かべる蒼がぽつりと零す。非常に残念ではあるが、近い将来、確実に二人して同じ格好で接客をする日が訪れる。意味のない前借りはしないに越したことはない。


「でも、あれですね。葵さんと蒼だと、流石に胸の……」

「それ以上は言わなくていいです」

「小さいからって、そんなに恥ずかしがらなくてもいいんだよ?」

「大きくなって堪りますか」


 別の受け入れにくい現実を憂いていると、真面目な顔をしたアイリスから唐突に爆弾を投げつけられた。考え事をしていたせいで反応が遅れてしまったのが悔やまれる。


「まぁ、そんなことを言ってるアイリスの方が……」

「その辺も言わなくていいです」

「兄さんもよく分かってるからってこと?」

「知りません」


 およそ恋人と妹を相手にする話ではなかった。話題の選択を間違え過ぎている。


「知らないはずがないでしょ? 毎日抱き付かれてるのに」

「知りません」

「もっと抱き付かないとだめだってさ、アイリス」

「分かりました! 任せてください!」

「……知ってます」


 嬉しそうに笑みを浮かべて立ち上がったアイリスの姿を見て、そっと手の平を返すことになった。これほど認めて口に出すのが恥ずかしいことも、そうそうない。


「えいっ!」

「……」


 それなのに、丁寧に椅子をぴったり隣に寄せたアイリスが、小さな掛け声と共に腕に抱き付いてきた。最近のいつもの仕草ではあったが、この流れで抱き付かれると、どうにも落ち着かない。


「ほっぺた、ちょっと赤いよ? 兄さん?」

「……放っておいてください」

「目が幸せ……」

「仲が良いのはいいことだ」


 当然、他の三人にもしっかりと目撃されている。あれやこれやと聞いている自分が恥ずかしくなるような感想を向けられながら、どうしてこんな事態になってしまったのか、数日前の出来事を思い出すのだった。




 三年生二日目となる四月九日、火曜日。その日の夜。今日も今日とてクラスメイトに囲まれていた蒼と途中の道で別れ、アイリスと二人でDolceria pescaへとやって来た、そのしばらく後のことだった。


「葵君」

「はい? 何です?」


 ピークの時間を過ぎ、一気に客足が遠のいたところでアイリスと二人揃って休憩を取っていた、まさにそのタイミング。


 柚子の方も手が空いたのか、バックヤードに姿を現して、いきなり真面目な顔で話しかけてきた。


「アイリスさんも」

「私もですか?」


 そうかと思えば、アイリスも巻き込まれる。どうやら個人的な話ではないらしい。


「何かあったんですか?」


 話を振られると思っていなかったのか、少しだけ意外そうな声でアイリスが聞き返す。対する柚子は、机を挟んで向かい側の椅子に腰を下ろしてから、ゆっくりとその口を開いた。


「人が一人増えるのは嫌?」

「うん?」

「増える、ですか?」

「そう。ありがたいことに、最近はお店も繁盛してるし、バイトの子を一人くらい増やしてもいいかなって話してたの」


 そうして語られたのは、何やら去年も聞いたことがあるような提案。あの時は決まってからだったが、今回はその前からの確認だった。


「ある程度人数がいた方が、シフトの融通も利きやすいし」

「柚子さんと太一さんが決めたことなら、僕は特に反対しませんよ」

「私も大丈夫です」

「そう言ってくれると助かるわ。意外と忙しくてね」

「意外でも何でもないですけどね」


 謙遜でもしているのか、柚子の口振りはやや控えめ。だが、ある程度実情を知っている自分達からすれば、その忙しさは周知の事実である。そもそも、店の内側にいる人間に謙遜は必要ない。


「でもね、そうなると厄介な問題もあるの」

「アイリスさんよりも厄介なんですか?」

「何を言ってるんですか?」

「厄介かも」

「大問題じゃないですか」

「むぅー!」


 一度目の抗議を無視した結果、二度目は物理的な抗議に変わった。頬を膨らませながら思いきり手を握ってくるが、そこは結局アイリスの握力。大して痛みがないどころか、ただ柔らかくて温かい手の感触が生まれただけだった。


「こうなったら、今日の帰りはとことん甘えちゃいますもん……!」

「……で、何が厄介なんです?」

「聞かなかったことにしたわね」

「聞いても聞かなくても、どうせ結果は同じですから」


 今はわざわざ宣言しているだけで、普段から甘えられていることに変わりはない。その度合いが強くなるなら心の準備は必要だが、こうして前もって言ってくれるのなら、多少は準備もできる。


 まとめると、向かう先が同じなので気にしても無駄だということだ。


「じゃあ、その辺は葵君がどうにかするってことで。厄介なのは、どんな子を入れるかってこと」

「はぁ……?」

「自慢じゃないけど、今のお店の雰囲気はいい方だと思うの。でも、そこに誰か一人入れちゃったら、嫌でも関係は変わるじゃない?」

「変わりますね。でも、仕方がないことじゃないですか?」

「そうは言っても悩むの。迂闊に男の子を入れちゃったら、アイリスさんと二人になったことを想像して葵君がもやもやしちゃうし」

「……まぁ、しますけど」

「……!」


 言い方に若干の恥ずかしさを感じるものの、言わんとすることはよく分かる。普段のアイリスの様子を見る限り、大丈夫だとは思いつつも嫉妬は隠せないだろう。自分でもここまで重たいことを考えるのは意外ではあったが、心に浮かんでしまうのは止められない。


「そんなことなんて心配しなくて大丈夫ですよ! 私は葵さんしか見てませんから!」

「……」

「何か赤色のお菓子でも作ろうかしらね。春だから」

「……今言い出した理由が気になります」

「言わないと分からない?」


 柔らかに笑む柚子。これに関しては、言葉にしなくても伝わることだった。


 それだけ、今のアイリスの一言が刺さったということでもある。屈託のない、その笑顔も。


「で、それなら女の子を入れたらとも思ったけど、結局反対にアイリスさんが嫉妬するだけだし」

「します! まぁ、何があっても葵さんは絶対に渡しませんけど!」

「……」

「新作の形はハートがいいかしら?」


 これもまた、言葉にしなくても意図が伝わることだ。


「ま、何はともあれ、そんな感じでまだ悩んでるの」

「なるほど……。葵さんも私も安心できる人じゃないとだめなんですね……」

「えぇ。アイリスさんが安心できるってところが一番難しいけど」

「でも、とりあえずは女の子ですよね」

「あら、いいの? 葵君と二人きりになることもあるのに?」


 アイリスのこの発言は流石に意外だったのか、柚子がやや目を丸くして問いかける。その仕草だけで、柚子がアイリスのことをどう考えているのかが分かってしまう。


「そこは結局私が頑張ればいいですもん。葵さんが他の女の子に目移りしないくらい」

「愛されてるわね」

「……それはもうひしひしと感じてます」

「腕からも伝わってますもんね!」


 そう言って、最早そうするのが当たり前かのように腕に抱き付いてくるアイリス。想いと共に、鼓動すら伝わってきそうな勢いである。


「あとあと、私のことをそういう目で見るのは、葵さんだけの方が嬉しいなーって……」

「どう反応したらいいんですか……」

「まぁ、アイリスさんと一緒にいる男の子がいたとして、そういう目で見るなって方が無理だものね」

「どうしてこっちを見ながら……?」

「無理だものね?」

「無理ですかっ?」

「……無理です」

「えへ……!」


 押しきられるようにして零した一言に、これ以上ないくらいに嬉しそうなアイリスが頬を緩める。見ている自分の顔が熱くなる程に、真っ直ぐ心を撃ち抜いてくる笑みだった。


「お互い幸せそうなところ申し訳ないんだけど、話を続けてもいい?」

「あ、はい! どうぞどうぞ!」

「これで落ちない男の子がいるのかしらね……?」


 そのまま満面の笑みを向けられた柚子までもがそう呟く。まさに落とされた身としては、一切反論することができない一言である。


「それは置いておくとして、二人は誰かちょうどいい人とか知らないかって聞きたくて」

「ちょうどいい人、ですか?」

「えぇ。二人と一緒にいても、おかしな雰囲気にならない人。友達でバイトをしてみたいって言ってる子とかはいない?」

「んー……? 私の周りにはいないと思いますけど……。葵さんはどうです?」


 柚子が口にした願いに、アイリスが考え込むような仕草を見せる。ただ、上手く当てはまる友人がいなかったのか、話は自分へと向かってきた。


 撃ち抜かれて大変なことになっている自分に。


「大丈夫? きちんと考えられる?」

「何を心配されてるのかは聞きませんけど、考えるだけなら何とか」

「それでも『何とか』なのね」

「いつかは何も考えられなくなるくらいにしてみたいですよねっ!」

「許してください」


 笑顔で恐ろしいことを言うアイリスに、一切間を空けることなく懇願の言葉が口を衝いて出た。完全に無意識である。


「で、考えるだけなら何とかなる葵君はどうなの? 誰かいい人はいたりする?」

「考えたところで、そもそも友達が少ない僕は力になれないんですよね」

「女の子みたいな見た目をしてるけど、女の子の友達はいないの?」

「いるにはいますけど……」


 そこでちらりとアイリスに視線を送る。たったそれだけで何を考えているのか察したアイリスが、はっきりとした口調で否定の言葉を口にした。


「碧依先輩と渡井先輩はだめです」

「ですよね。そう言うと思いました」


 予想通りとしか言いようがない。この程度もアイリスのことを理解できていなくて、一体何が恋人か。


「いつもは葵さんがいるから何とかなってますけど、二人きりになるなんて、怖くて仕方がないです」

「何とかなってますかね?」


 この一年、あの手この手でからかわれ、可愛がられを繰り返していたような気がするが、あれは自分の幻覚だったのだろうか。


「なってるんですよ。なってるって言ってください」

「あ、はい……」


 アイリスからも懇願が飛び出した。どうやら、どうにかなっていると思いたいだけのようだった。精神の安定は大事だ。


「葵君にも女の子の友達はいるけど、アイリスさんの許可が下りないってことでいい?」

「ついでに言うと、僕の許可も下りません」

「その二人は何をしたの……?」

「去年、僕の例のあの日に店に来た二人組です」

「あー……。何となく覚えてるかも」


 数多くの客を相手にしてきたであろう柚子が、朧気であっても碧依と莉花のことを覚えていた。その事実だけで、二人が残したインパクトの大きさが窺い知れるというものである。


「確かに、ちょっと大変そうだった気がするわ」

「ちょっとどころじゃないんですけどね」

「町ごと出禁にしましたもんね!」

「嬉しそうに言うことじゃないですよ」


 間違っても、明るい声で言うことではない。


「んー……。じゃあ、二人もいい人は知らないかぁ……」

「そもそも、バイトをしたいって言ってる人を知らないですからね」

「そうなのよね……。こんな田舎じゃ、葵君とかアイリスさんくらいの歳でバイトをしてる子の方が珍しいものね」


 残念そうにそう呟き、暗礁に乗り上げた印象がある話を打ち切りの方向に向かわせようとする柚子。今の人数でも何とかなってはいるので、そこまで本気でもう一人増やそうとしていた訳でもないのかもしれない。


「あ」


 何事もなければ、この話はこのまま立ち消えになっていくのだろうと、そう予感させる空気が流れかけたところで、突然アイリスが小さく声を漏らした。


 それはまるで、条件にぴったり当てはまる人物に思い至ったとでも言いたそうな声で。


「うん?」

「どうかしたの?」


 そんな声に釣られて問いかけた先で、アイリスの口からその名が飛び出してきた。


「蒼はどうです?」

「……」


 そうして提案された人物は、とても身近な人物だった。近過ぎて、頭の中に思い浮かびすらしない相手だった。と言うより、友人を考えていたのだから、妹である蒼が浮かぶはずがない。


「……え? 蒼?」

「はい。蒼です」


 提案されてから数秒の空白の後、ようやく理解が追いついた頭が導き出したのは、ただ名前を繰り返すだけの行為だった。そんな自分の言動が、一切考えてもいなかった、意識の外側からの提案だったことを示している。


「いやいや……。蒼って……」

「そんなにだめですか? 葵さんと変な関係にはならないはずですし、葵さんも親しい相手だから気が楽って、いいことが多いと思うんですけど……」

「気が楽なんですかね……?」


 おかしな関係にならないことは間違いないが、妹と同じ店で働いていて気が楽なのかは微妙なところだ。いつもとは違う、何か余計な気を遣う未来もあるような気がした。


「ちょっと話が見えないんだけど、二人が話してるのは誰のこと? ウェイトレス服を着た葵君のことを『あおい』って呼び捨てにしてる?」

「誰がそんなややこしいことをしますか」

「どっちかって言うと『葵ちゃん』ですよね!」

「そういうことを言ってるんじゃないです」


 喜々として恥ずかしい呼び名を口にしないでもらいたい。入ってはいけない耳にその呼び名が入ってしまえば、ことあるごとにそれ関係でからかわれることになってしまう。


 具体的には、碧依や莉花だ。最近で言えば、蒼も若干怪しい。


「柚子さんは知らなくて当然ですけど、葵さんの妹さんですよ」

「……妹?」

「です。それも双子の」

「……双子の?」


 突っ込みを入れるのに忙しい自分に代わり、アイリスがとても簡潔な説明をしてくれる。情報を小出しにして柚子の反応を楽しんでいる節が若干見受けられたが、必要な情報は出しているので、その辺りを特にどうこう言うつもりもない。


 対して、小出しにされた柚子はといえば、難しい言葉は何も使われていないのに、鸚鵡返しを繰り返していた。情報を処理しきれていないのが、分かりやすく伝わってくる。


「一卵性なのでそっくりですよ」

「……一卵性でそっくり?」


 三度目の鸚鵡返しだったが、その質が微かに変わった。一瞬ではあるが、その目が輝いたような気もする。


 嫌な予感がした。


「葵さんと同じで可愛いです」

「採用」

「まだ本人に聞いてないですって」


 案の定、柚子が暴走を始めた。こうなるといささか厄介なことになる。


「可愛いのは大事なことよ? 特にこういう小さなお店だと、看板店員がいるかいないかで、結構違うんだから」

「そう言われると複雑なんですけど……」

「そろそろちゃんと自覚を持ちましょうね? 葵さんはとっても可愛いんですよ?」

「アイリスさんの方が可愛いです」

「ひゃぁ!?」

「照れた顔が可愛いわねぇ……」

「当たり前です」

「うぅ……!」


 迂闊なことを言ってきたアイリスにカウンターを決め、改めて柚子へと向き直る。


「柚子さんが望むなら聞いてはみますけど、どんな答えが返ってくるかは分かりませんよ?」

「まぁ、そこは妹さん次第って分かってるから。もちろん、強制なんてできないしね。でも、来てくれたら嬉しいわね」

「どうなんでしょうかね……? 蒼が……?」

「来てくれたら嬉しいわね!」

「圧が強いんですよ」


 二度も言わなくてもきちんと伝わっている。頭の中では、既に自分と同じ顔をした女の子にウェイトレス服を着せていることも。


「無理はしなくてもいいけど、いい返事を貰えたら嬉しいわね? いい返事を貰えたら!」

「分かりましたから。聞くだけ聞きますって」

「是非お願いするわ」

「……」


 この場に蒼が加わったとして、自分が押しに押される未来しか見えない。アイリス、蒼、柚子の三人組など、自分が太刀打ちできない相手だけを集めた、ある意味最も恐ろしい三人組である。


 そんな組み合わせを自ら生み出してしまってもいいのか、今一度じっくりと考える必要がありそうだった。


「葵さん!」

「何です」

「好きです……!」

「……」


 アイリスへのカウンターの方法も、じっくりと考える必要がありそうだった。




「バイト?」

「ですね。興味あります?」


 そんな話があった翌日、四月十日、水曜日。朝の電車の中で、早速蒼に話を切り出してみた。


「興味があるかないかで言ったら興味はあるけど、どうしていきなり?」

「葵さんと私がバイトをしてるお店があるじゃないですか」

「あぁ……。兄さんがたまに可愛くなってる、あのお店?」

「認識の仕方が嫌ですけど、そのお店です」


 どうしてこのタイミングでそんな話をされているか見当が付いていないのか、何度かぱちくりと瞬きを繰り返した蒼が反対に聞き返してきた。結果、蒼が何やら複雑な認識を持っていることが判明してしまったが、今はそこを問い詰める場面ではない。


「元々可愛い葵さんがもっと可愛くなっちゃうそのお店で、できたらバイトの人数を増やしたいってお話があったんです」

「……」

「それで私が誘われてるってこと?」

「はい! 色々あって、蒼ならぴったりってことで!」

「ぴったり?」


 アイリスの余計な修飾に言葉を失っていると、その言葉を奪っていった本人が話を繋いでくれた。どうしても自作自演感が否めない。


「葵さんのことを男の子として好きにならなくて私が安心できる、女の子だから私と二人でも葵さんがもやもやしないってことで、蒼がぴったりです」

「へぇ……? そんなことを考えてるんだ?」

「……悪いですか」

「別に? 何だかんだ、兄さんもアイリスのことが大好きだよねって」

「う……」

「大好きですかっ?」


 面白いことを聞いたとでも言いたそうな表情の蒼に、何かを期待するアイリスの笑み。そんな二人に挟まれ、思わず言葉に詰まってしまう。


「大好きなの?」

「……好きですけど」

「『大』好きなの?」

「……大好きです」

「えへへ……!」

「あ、アイリスが蕩けた」


 本心ではあるが、どこか言わされた感がある言葉。それでもアイリスはその本心を見抜いたのか、蒼の言葉通りに体から力を抜いて寄り掛かってきた。ただでさえ密着しているのに、より一層隙間がなくなってしまう。


「私も大好きですぅ……!」

「可愛いね。耐えられる?」

「……耐えられてないから顔が熱いんですよ」


 付き合い始めてもうすぐ二か月になるのに、未だにアイリスの仕草一つで顔が赤くなる。自分が不意打ちに弱過ぎるのも原因だろうが、それ以前にアイリスの攻勢が強過ぎることも原因の一つなのだった。


「で、どうなんですか」

「逃げるのが早いよね、兄さん」

「今のアイリスさんをまともに相手してたら、心臓がいくつあっても足りません」

「それは確かに。見てるだけの私もちょっと照れちゃうし」


 そう言って、蒼がアイリスへと目を向ける。腕に抱き付いたまま肩に頬を押し当てているその姿は、同性の蒼ですら感じるものがあるらしい。若干頬を染める様子が見て取れた。


「で、バイトだっけ。してみてもいいかなって気はするね」

「へぇ。ちょっと意外でした」


 自分の蒼に対するイメージが昔に引っ張られているからだろうか。いつも自分の後ろに隠れていた蒼が、積極的に人前に立って接客をしているところが想像できなかったと言えば嘘になる。


 だからこそ、そんな肯定的な答えが返ってきたことは予想外だった。


「ほら、兄さんも一人暮らしだから分かると思うけど、自由に使えるお金は多少あった方が安心するよね?」

「ですね。僕もそれが理由ですし」

「そんなわけだから、いつかはバイトをしてみようかなって思ってたんだ」


 言いながら、窓の外を見つめる蒼。その横顔には、小さい頃のような人見知りの色は残っていない。


「でも、やっぱり慣れないことって始めにくいなってことで、ずっと考えるだけだったんだよね。バイト先の人がどんな人なのかも分からないし」


 表面に出ていないだけで、根の部分には残っているのかもしれない。うっすらとだが、昔の蒼が姿を現したような気がした。


「ってことで、兄さんとアイリスがいるなら興味はあります。ちょうどいい機会だし、よかったらお店に行ってみたいかな」

「そういうことなら、僕の方で太一さんと柚子さんに伝えておきます。多分、普通にお店に来るんじゃなくて、裏口から入ってもらうことになると思います」


 所謂顔合わせである。太一や柚子が蒼のことを雇うのか、蒼がその店で働きたいと思うのか。その辺りが焦点になるのだろう。


「そこで詳しい話をしましょうか。……穏やかに話せたらいいんですけど」

「え、何? 怖い……」

「大丈夫ですって。大変なことになるのは、多分僕ですから……」

「わぁ、悲壮感……」


 自分の顔から何かを感じ取ったのか、蒼の眼差しが優しそうなものに変わる。まだ何も起こってなどいないのに、早くもその目に慰められる兄の図が完成したのだった。




 そして、顔合わせと相成ったのだった。


「で、どうかしら?」

「すっごくいいお店だと思います! バイトをするならこんなお店がいいです!」

「そこまで言ってくれるとなると、むしろこっちがちょっと照れるね。期待を裏切らないようにしないと」


 軽く店内を見て回っただけで、すっかり雰囲気を気に入ってしまったらしい。普段から落ち着きのある太一すらも照れさせる感想を口にした蒼が、続いて視線をこちらに向けてきた。


「兄さんとアイリスがいるのも、緊張し過ぎなくていいですし」

「確かにそうね。やっぱり、働く人の雰囲気って大事だから」

「です! なので、もしよかったら、採用してもらえると嬉しいです!」

「あら。別にわざわざお願いなんてしなくても、私達二人の答えは決まってるわよ?」

「あぁ。あんな風にお店を褒めてくれた人を邪険にするなんて、そんなことはできないからね」

「じゃあ……」

「えぇ。これからよろしくお願いします」

「はいっ、よろしくお願いします!」


 落ち着かない気持ちをどうにか落ち着かせようとしている間に、隣でとんとん拍子に話が進んでいた。お互いに頭を下げ合う蒼と柚子の姿を見て、従業員として蒼が増えることをいよいよ実感する。自分から話を切り出しておいて何だが、やはり感覚としては不思議なものがあった。


「それにしても、葵君と蒼さんが並んで接客するのが楽しみだわ」

「間違いなく、お客さんは一瞬固まるだろうね」

「たまに服を入れ換えちゃっても面白いかもしれないですね」

「それいいわね。ちょっと考えてみましょうか」


 言いながら、柚子が思案に沈み込む。採用したばかりの少女にウェイター服を着せようと画策しているのはどうかとも思うが、言い出したのが蒼本人というところがどうしようもない。


 そして何より、この店の特殊な状況に慣れ過ぎて、今の提案に何も言えなかった自分が一番どうしようもない。どうせ自分はウェイトレス服を着ることに変わりはないのだから、色々言ったところでどうにもならないということもあるが。


「ま、何にせよ、まずはシフトを決めるところからだね。しばらくの間は、葵君かアイリスさんと一緒に入ってもらうことになるから」

「分かりました。よろしくね、兄さん、アイリス」

「こちらこそ。よろしくお願いします」

「色々と教えちゃいますよ!」


 兄妹といえども礼儀は大事。二人で簡単に挨拶を交わす傍ら、アイリスは初めてできた後輩に胸を躍らせているらしかった。


 そんな年下の先輩の様子を見て、蒼が小さく笑みを零す。何を思っているのかまでは想像できないが、笑みの柔らかさから察するに、間違いなく負の感情は抱いていない。あるとすれば「微笑ましさ」だろうか。


 とにかく、一年と少し前まででは考えられない程、これからの店内は明るく、そして賑やかなものになりそうだった。

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