116. 新たな出会い (2)
「……」
「……」
碧依と二人で顔を見合わせる。
二年生の教室に向かうアイリスと、まずは職員室に向かう蒼と階段の途中で別れ、三年生の教室が並ぶ階に辿り着いた頃には、碧依と二人だけになっていた。
そうして二人で各教室の前に貼り出された名簿を眺め、お互いのクラスを確認している最中の出来事だった。
「……同じクラスだけど」
「……みたいですね」
「さっきの話は何だったの?」
「さぁ……?」
もう一度二人して名簿を眺める。三年五組の教室の前に貼り出された名簿には、確かに「水瀬碧依」と「湊葵」の名前が記されている。それだけなら何事もなくまた一年ということになっていたのだろうが、そうは問屋が卸さない。
自分の名前の一つ下。そこには、「湊蒼」の文字が燦然と輝いていた。
「兄妹で同じクラスにはならないんじゃなかったの?」
「僕に言われても……」
「もしかしたら、兄妹だとは思われなかったのかもしれないけどね? 名前が同じなんて」
「でも、顔も同じですよ? 家族構成だって知ってるはずだと思いますけど」
「それこそ私に言われても……」
「ですよね」
お互いに困惑を隠しきれないまま、一体どういう振り分けなのかと考えを巡らせる。答えなど見つかるはずもない疑問であることくらい分かってはいたが、それでも不思議に思わずにはいられなかった。
「莉花と羽崎君も一緒のクラスだね」
「そこは素直に喜べますけど、やっぱり気になるものは気になります」
そんな問いから逃げるように、碧依が話題を変える。その言葉通り、名簿には去年特に親しくなった二人の名前も載っていた。どうやら、二年生の終わり際に希望として出した例のあれが上手くいったらしい。
「羽崎君はどうか分からないけど、莉花が大変なことになりそうだね」
「あんまり想像したくないですね」
「頑張って捌くことになるのは葵君だよ?」
「だから想像したくないんです」
今はまだ蒼はいないが、間違いなくこの後教室までやって来ることになる。それも、去年もあった、転校生の紹介という一番目立つ形で。そこで自分と同じ顔の少女が登場すると教室の中がどうなるのかなど、最早考えるまでもなかった。
「ま、このままここにいても仕方ないし、とりあえず入ろうか」
「……そうですね。多分、先に来てる羽崎君が寂しい思いをしてるでしょうし」
「言えてる」
その様子が想像できたのか、碧依の顔に小さな笑みが浮かぶ。三年生になっても、悠の印象は大して変わっていないらしかった。
「それじゃあ、殴り込みってことで!」
「物騒なんですよ」
およそ教室に入る時に使うものではない言葉を口にして、碧依が教室へと足を踏み入れる。自分もその後に続けば、既に教室の中にいた生徒達が一斉に視線を向けてきた。去年も経験した、新しいクラスメイトの確認の儀式である。
「やっぱり慣れないね、この感じ」
「こんなに注目されることなんて、そこまで多くはないですからね」
そうは言いつつ、碧依なら注目を浴びる機会も多いのではないかと考えてしまう。もちろん、その見た目故に。
「で、その中で一際安心してる羽崎君」
「予想通りでしたね」
徐々に向けられる視線が減っていく中、誰よりも自分達二人の到着を待ち侘びていたであろう視線だけは逸らされない。
「おはようございます」
「おはよ」
「おはよう、二人共。ずっと待ってた……!」
とりあえず近付いて挨拶を投げかける。返ってきた挨拶には、何やらやたらと安堵したような一言が付け加えられていた。
「他にも知ってる人はいるじゃないですか」
そんな悠の様子をある意味微笑ましく思いながら、ぐるりと教室の中を見回す。名簿でも確認はしていたが、当然去年のクラスメイトもちらほら同じクラスになってはいる。まだ全員来てはいないものの、それでも見知った顔は数人いた。
そもそも、文系は文系、理系は理系でクラスが分かれているのだから、クラス替えをしても見知った顔は多くなる。それでもなおここまで自分達を待ち侘びていたのは、悠の性格の成せる業だったのかもしれない。
「それはそうなんだけど……」
「何て言うか、羽崎君らしいよね」
「そんならしさはいらないかなぁ……!」
「じゃあ、もっと頑張りましょうね」
「うっ……!」
言葉に詰まる悠を尻目に、自分に宛がわれた席へと腰を下ろす。名前の関係上、今年もまた最初は悠の隣。
ついでに言えば、名前が一文字しか違わない碧依はまたもや一つ前の席で、どういう並べ方にしたのか、一文字も変わらない蒼は一つ後ろだった。その蒼が一番後ろの席で、自分達三人が廊下から二列目。悠がその隣で三列目。相変わらず出席番号順で一番後ろの莉花が蒼の右隣。
名前の関係上そうなることは分かっていたが、今年も賑やかな一角になりそうな席順である。
「これであとは莉花が来たら、ひとまず勢揃いだね」
「本当にひとまず、ですけどね」
「……?」
何の気なしに零したであろう碧依の言葉に、何も事情を知らない悠が小さく首を傾げる。何もおかしなところがない、至って普通の反応だった。
「あ、そうだ。一つ気になることがあるんだけど」
そんなタイミングで何かを思い出したのか、悠がそのコバルトブルーの瞳を向けてくる。そこには、疑問と言うより微かな興味。そして、さらに微かな戸惑いの気配が宿っていた。
「何かありました?」
「ほら、入り口に貼ってあった名簿」
「……」
その流れで気になることなど、ほとんど一つと言ってしまってもいいのではないだろうか。後に続く言葉が簡単に予想できる。
「湊君と同じ名前の人がいなかった? 二年の時はいなかったと思うし、もしかしてまた転校生が来るのかな?」
大当たりである。案の定蒼のことを尋ねてきた悠の視線が、一瞬碧依の方を向く。大方、「転校生」という言葉で、無意識にそちらを見てしまったのだろう。
何はともあれ蒼のことだ。どうせこの後説明を求められる事態になるのだから、今説明するのは果たして正解なのだろうか。さらに言えば、莉花にも同じことを尋ねられるような気もしているので、何度も同じ説明を繰り返すくらいなら、一度にまとめて説明してしまいたいのが本音だった。
「うん。転校生だって」
「そう言うってことは、水瀬さんは何か知ってるの?」
「知ってるも何も、さっき一緒だったから」
「へぇ!」
どうするのが正解なのかを悩んでいる間に、碧依から徐々に情報が漏れ始めていた。まだ核心に迫るような情報は口にしていないようだが、それも時間の問題だろう。止めておくならこの辺りが確実である。
「偶然会ったってことかな。どんな人だった?」
「しばらくしたら来るはずだけど、とにかくびっくりすると思うよ」
「びっくり?」
「うん。びっくり」
そう思っていたが、重要な部分は小出しにする派のようで。意外にも、蒼に関することが碧依の口から出てくることはなかった。
「まぁ、今考えたって仕方ないと思いますよ。どうせ席は近くなんですから、いくらでも話す機会はあるでしょうし」
「ちょっと気にはなるけど……。それもそっか」
「……本当にいくらでもあるでしょうし」
「ん?」
「何でもないです」
ぼそりと呟いた声に、上手く聞き取れなかったであろう悠が不思議そうに疑問符を浮かべる。ただし、その疑問を解消するのは今ではない。
「おはよー。ほんとに四人一緒になっちゃったねぇ!」
なおも何かを尋ねたそうにしている悠の動きを止めたのは、そのタイミングで響いた四人目の声。振り返ってみれば、後ろの扉から入ってきたらしい莉花が、これ以上ない程嬉しそうに笑いながら手を振っていた。
「おはよ、莉花。もう一年もよろしくね」
「任せて! 全力で可愛いって言ってあげる!」
「おはようございます」
「おはよう、渡井さん」
「二人も! 全力で可愛いって言ってあげる!」
「いりません」
「いらないよ」
学年が変わっても、莉花は何も変わらない。相変わらず自分と悠のことをどう見ているのか分からなくなるような一言が、今年度最初の会話だった。
「いやぁー……、それにしても、湊君と同じクラスってことは……」
「そう! いいところに気が付いたね、莉花!」
「当たり前でしょ! また一年、これでもかってくらいに愛でることができるって意味だからね!」
「……」
「彼女さんが大変なことになりそうだよ?」
「できる限り頑張りますけど、基本あの二人は止められません」
暗に「頑張って」と言われているかのような悠の一言。頑張りたいのは山々だが、一年経ってもこの二人を抑え込むのは至難の業としか言いようがない。この辺りに関しては、アイリスと共同戦線を張るしか生き残る道はないと思っている。
「ついでに湊君も愛でるから覚悟しろ?」
「おまけ感覚で愛でるくらいなら、最初から無くていいです」
「僕としては、全部湊君に向かうんだったら、それはそれで別にいいかな?」
「あっさり葵君を売ったね?」
「同盟関係はここまでですね。あとは一人で頑張ってください」
「言う程湊君が助けてくれたことはないよ」
「……気のせいじゃないですか?」
「目が合わないけど?」
あまり助けた覚えがなくて目を逸らしたからだ。
「で、そんなあっさり売られた湊君は、春休みもべったりだったのかな?」
「何のことか分からないです」
「春休みもって言うか、さっきもべったりだったよ」
「よし、いつも通りか。じゃあ、今日も来るね」
「どんな判断方法をしてるんですか」
「ほれ、早いところクラスを教えてあげなって」
「まぁ、後で伝えはしますけど……」
そこまで言われると、この三人の前では連絡を取りにくいように感じるのは自分だけなのだろうか。ひとまず昼休みまでには連絡をするとして、少なくとも今はその時ではなかった。
「教えなくたって、勝手に探して入ってきそうだよね、アイリスさん」
「確かに。去年もそうだったような気がするし」
「積極性の塊みたいな人だもんね」
三者三様のアイリス評。全く否定する部分がないのは、この一年で少なからずアイリスのことを理解し始めているから。
改めてそんなことを実感しつつ、どのタイミングでアイリスに連絡をするのか、二年生の教室で待ち侘びているであろうその姿を想像しながら、機会を窺うのだった。
「転校生が一人来ます」
時は流れて、朝のホームルームの時間。こちらは偶然今年も担任となった平原先生から、いきなりの宣言があった。まだお互いの距離感を探って遠慮したような雰囲気が広がっていた教室の中に、それとは違う色の空気が立ち込める。
一言で言えば興味。クラス替え直後の微妙な空気を上書きするためにこのタイミングで宣言したのなら、十分策士と呼べるだろう。
自分としては、あまりにも唐突に訪れた瞬間に、微かに緊張を走らせる羽目になったが。
「あんまり待たせても気まずくなるだけだと思うので、早速どうぞ!」
流れも何もあったものではない呼びかけの少し後、やや控えめに扉が開かれる。全員の注目を浴びながら姿を現したのは、当たり前のことだが蒼だった。
「え……?」
「はぁ!?」
その途端、左右から驚きの声が上がる。莉花の方は特に驚きが大きいらしかった。
もちろん、反応はそれだけではない。
純粋に転校生たる蒼を見つめる者。
去年同じクラスで自分の顔を知っていて、莉花と同じく驚きを以て自分の方を振り返ってくる者。
そんな異常な反応が理解できず、蒼を眺めつつもクラス全体の雰囲気を窺っている者。
その他大小様々な反応が巻き起こる中、教壇まで辿り着いた蒼が自己紹介を促される。複雑な色で描かれていた教室内の騒めきが、不思議な程一気に静まっていく。後に残ったのは、凪という言葉ですら生温い程の静寂だけ。
「初めまして、湊蒼です」
自分と似たような、それでいて少し高めの声でまず紡がれたのは、自分と全く同じ名前。それが自分と同じ顔から聞こえてきたのだから、教室に広がる衝撃は計り知れない。
再び騒めきが広がっていく中で、教壇に立つ蒼と疑いようもなく目が合った。この上なく嬉しそうな、それでいてどこか悪戯を企んでいるような、そんな薄茶色の瞳である。
「後ろの方に座っている兄さんの、双子の妹です」
そうして放たれた自己紹介の続きは、教室中を混乱の坩堝に叩き落すには十分な一言だった。
「おうおうおうおう。説明してもらおうか」
「妹です」
「妹です」
「同じ顔をして同じことを言うんじゃないよ。混乱する」
ホームルームが終わり、始業式へと向かうまでの僅かな時間。そんな短い時間でも、教室中の視線を全て集めてしまっているのをひしひしと感じていた。
どことなく気まずい思いをする中で、疑問だらけになっているはずのクラスメイトを代表するかのように説明を求めてきたのが莉花だった。大抵いつもこんな役回りである。
「そんなことを言われても……」
「何をどうお話ししたらいいか分からないですから……」
教室の前とは違い、今度は蒼と顔を見合わせる。着ている服以外は、相変わらず鏡が置いてあるかのようだった。
「全部! ちゃんと全部話して!」
「最近、妹と再会しました」
「今は兄さんの隣のお部屋に住んでます」
「何も分からない!」
頭を抱えて唸る莉花。見ている分には面白い仕草ではあったが、本人からすれば堪ったものではないだろう。何せ、ここまで何一つ疑問が解決していない。
「ってか、碧依は!? 何でそんなに落ち着いてるの!?」
「私ですか?」
「あぁ……!? そうじゃなくてこっちの碧依で……! 三人もいるぅ!?」
「何愉快なことをしてるんですか?」
「そっちのせい!」
懸念していた名前問題が、早速こんなところで影響を及ぼしていた。混乱に混乱を重ねる莉花だが、少なくとも、周囲でここまではっきりと混乱を表に出しているクラスメイトは見受けられなかった。
単に会話に加わっていないからということも大きいのだろうが、それを差し引いても、例えば悠や碧依は随分と落ち着いているように見える。
「あ、私か」
「何で碧依の反応が遅れるの」
「いや。だってずっと蒼と話してたから。まさか私のことだとは思わなくて」
「初対面でいきなり呼び捨てになんかしな……」
「莉花?」
ようやく会話に参加してきた碧依に莉花が苦言を呈する中、唐突にその言葉が途切れた。不思議そうに何度か瞬きを繰り返す様は、まさに理解が追いつかない時に見せる反応そのもの。もちろん、その視線の先には碧依。
「あ、さては……」
やがて、何かの結論に至ったらしい。過剰に繰り返されていた瞬きが、正常の範囲まで戻っていく。
「知ってたな? 転校生が来るってこと」
「うん。今朝一緒に登校してきたし」
「だからか! そんなに落ち着いてるのは!」
ご名答である。恐らく碧依が蒼を呼び捨てにしたところから推測が進んでいったのだろうが、妙に勘の鋭い莉花ならば、もう少し早く気が付いてもおかしくはなかった。それこそ、蒼が自分の隣の部屋に住んでいると言った段階で気付くことができた事実だ。
「一通り説明もしてもらったし」
「おかしいと思ったんだよね。あの碧依が、こんなことがあって落ち着いてるはずがないって知ってるのに」
「それどういう意味?」
「羽崎君なんて、驚き過ぎて何も言えなくなっちゃったんだからね?」
「ん?」
その言葉に釣られて悠を見る。
「……? ……?」
「……」
コバルトブルーが蒼と自分を行ったり来たり。分かりやすく理解できていない人間の動きだった。つまり、落ち着いているように思えたのは気のせいで、内心の驚きが外まで出てくることができない程の衝撃を受けてしまったらしい。
「まぁ、羽崎君ならそうですよね」
「それどういう意味?」
「聞こえてはいるんですね。安心しました」
「確かめ方が嫌過ぎる……」
目は往復に忙しそうだったが、耳はいつも通りに働いていた。それが分かっただけで十分である。仮に何かを説明するとして、二度手間にならずに済む。
「ねぇ、兄さん」
「ん? 何です?」
「『類は友を呼ぶ』って諺、知ってる?」
「……知ってますけど」
そんな中で、しばらく黙っていた蒼から発せられた一言。何故このタイミングで脈絡のないその一言が出てきたのか。そして、何故視線が悠の方向を向いているのか。その辺りはなるべく考えたくはなかった。
考えなくても理解できてしまったのが悲しいが。
「凄いね。現実で体験できると思ってなかった。辞書に載せたいくらい」
「……」
「やっぱり、兄さんが女の子みたいだから、仲良くなる人も女の子みたいな男の子なんだね」
「やっぱりって何ですか?」
「え? 僕?」
悠の方は予想できなかったのか、まさかの方向から話を振られたことで目の往復運動がようやく収まっていた。ただし、その先に待つのは望んだ未来ではないだろうが。
「羽崎さん、で、合ってますか?」
「あ、うん。羽崎悠です。湊君とは去年から同じクラスです」
「さっきも自己紹介をしましたけど、湊蒼です。兄さんがお世話になってます」
「あ、うん、よろしくね。……最近はお互いに売り合ってる気がするけど」
「何をしてるの? 兄さん?」
「生き残るためには仕方ないんですよ」
「はぁ……?」
よく分からないとでも言いたそうな表情で首を傾げる蒼だが、よく分からなくて正解である。理解できる方がおかしい。
「あっ! ずるい! 渡井莉花です! よろしく!」
「はい、よろしくお願いします」
「お淑やかな湊君だ! 可愛い!」
「お淑やか……?」
「首を傾げるところじゃないよ」
そう言って微かに不満げな表情を浮かべる蒼だったが、ここで首を傾げずして、一体どこで首を傾げるというのだろうか。少なくとも、アイリスに負けず劣らず甘えてくるようになった時点で、「お淑やか」からは程遠い存在である。
「今は丁寧に話してるかもしれませんけど、どうせしばらくしたら僕と話す時みたいになりますから」
「むしろ、私はそっちの方が嬉しいかも。仲良さそうだし」
「私はもうそんな感じになっちゃったもんね。羨ましい?」
「うわ。何か碧依が煽ってくる……」
「碧依だけに?」
「は?」
「は?」
「……」
「……」
「あ、久々に見た」
「別に楽しむものじゃないですよ」
目を細めて何やら懐かしむように口にする悠だったが、目の前で繰り広げられている会話は、そこまで感慨深く感じるものでもない。その感情はもっと別の何かのために残しておいた方がいいのは明白だった。
「何となく、兄さんの立ち位置が分かった気がする」
「交代してくれてもいいんですよ?」
「やだ。私も兄さんに構ってもらう方が好きだから」
「こんな方法じゃなくてもいいと思いません?」
「どんなことでも喜んじゃう、簡単で素直な妹だよ?」
「……」
「頑張って?」
そんな一言と共に蒼が柔らかく微笑むと、それとほぼ同時に体育館へ移動するよう伝える放送が流れた。蒼に話しかけたがっているクラスメイトはまだ何人もいそうではあったが、この時間はこれでおしまいである。若干後ろ髪を引かれるような表情で席を立って、そのまま教室を出ていく。
「そんな、妹をたくさん可愛がってくれる兄さんにお願いが」
「……何です」
「体育館までの案内、頼まれてくれる?」
言葉の繋がり方が不穏で一体何を言い出すのかと思えば、願い事とやらは随分とまともなものだった。一瞬身構えて損をした気分になる。
「言われなくても」
「やった」
「あ! 私も一緒に行く!」
「じゃあ、私も。いい? 蒼?」
「もちろん」
どうせそうなるだろうとは思っていたが、案の定碧依と莉花の二人も加わる。となれば、残りは一人。
「羽崎君も。行きましょうか」
「よかったぁ……。置いていかれるかと思った……!」
「そんなことしませんって」
何やらそわそわしていた悠も加えて、全部で五人。今年の三年生組は、これまでよりもずっと賑やかになりそうな、そんな気がした。
「同じクラスじゃないですか」
「同じでしたね」
「あんなに思わせ振りなことを言ってたのに」
新学期初日だからという理由だけではない喧噪に包まれる教室内。誰も彼もが興味を向ける蒼の周囲には、放課後になっても幾人ものクラスメイトが集まっていた。
「さっき聞いたんですけど、別に兄妹だから必ず別のクラスにしないといけない決まりはないらしいです」
「それにしたって、ですよ」
「それよりも、碧依さんと一緒の方がって判断だそうです」
「同じクラスに同じ名前の同じ顔って、色々都合が悪いと思いません?」
「そこは周りに頑張ってもらうってことで」
「それはそうかもしれないですけど……」
これまでの休み時間にも散々囲まれていたにも関わらず、未だにこれだけの人を集めるのだから、その話題性は抜群ということだろう。
そんな蒼の様子を見ながら、放課後になってすぐにやって来たアイリスがぽそりと呟く。
「油断するとすぐ葵さんに甘えるんですもん、蒼」
「自己紹介ですか?」
「アイリスって言います! 葵さんの彼女です!」
「知ってます」
「何をしてるの?」
何でもない茶番に対して、碧依の呆れたような視線が突き刺さる。人に囲まれている蒼に意識を向けているのかと思っていたのに、意外とそうでもなかったらしい。
「と言うか、後ろに人が集まってるのに、よくそこまで何事もなくいられるよね」
「気にしても仕方ないですから」
「私は葵さんしか見てないですし」
「私も見て!」
「……」
「あれ!?」
懇願するような碧依の一言を受けたにも関わらず、無情にもアイリスの瞳は明後日の方向を向いてしまった。驚いたような、悲しんでいるような、どこか複雑な声を上げた碧依が不憫である。
「あ、そうだ。葵さん」
「なになに!?」
「碧依先輩じゃないです」
「はい……」
「……」
出会ってから一年が経ち、碧依に対するアイリスの切れ味がさらに鋭くなっていた。真正面から否定された碧依の頭が下を向く。
「で、何です?」
「葵君まで……!」
「あ、はい。さっき『自己紹介』って言ってましたけど、あれ、ちょっと違いますよ?」
「違う?」
「私は周りが警戒してても葵さんに甘えます」
「そこの訂正はいらないんですよね」
「そんなわけで、とりあえず膝の上に座っていいですか?」
「よくないですけど?」
先程は近くに人だかりができていることを気にしても仕方がないと言ったが、今の発言は話が別である。これだけの衆人環視の中、いきなりそんなことをする勇気は自分にはない。
「学年が変わっても絶好調だね」
「こんなところが絶好調でどうするんですか」
これまで静かに事の成り行きを見守っていた悠も、今の一言には思わず感想を零さずにはいられなかったらしい。その感想の是非は置いておくとして、少なくとも楽しそうに言うようなことではなかった。
「それじゃあ、絶好調の私が失礼して……」
「……」
「無言でブロックするのはやめてくださいよ」
机の上に置いていた鞄を膝の上に落とし、鉄壁の守りとする。アイリスが残念そうに抗議してくるが、この鞄は自分が立ち上がるまで動くことはない。
「傷付いちゃいましたっ! この傷は、もっと甘やかしてもらえないと治りません!」
「そんな顔で言えるんだったら大丈夫ですね」
満面の笑みだった。単に甘える口実を探していただけだろう。
「一日三回は葵さんに甘えないと……!」
「一日三食みたいだね、湊君?」
「朝だけで達成してそうです」
「朝昼晩、それぞれ三回は甘えないと……!」
「増えたね」
「これが暴飲暴食ってやつですか」
何かを決意するかのように、胸元で両手を握り締めるアイリス。その内心を知らなければ、ある程度は様になる仕草だったのかもしれない。だが、残念ながら内心を知っている自分にとっては、行動と言葉に乖離があるように思えてならなかった。
「そうは言いますけど、腕に抱き付いてるのとか、あんなのも甘えるってことですからね?」
「だったら三回で済んでませんよ」
「えへ……!」
「どうして嬉しそうな顔?」
とろとろに頬を緩め、とにかく嬉しくてたまらないといった笑みを浮かべる。どう考えてもその表情が出てくる場面ではなかったのに、それでも最初に「可愛い」という感想が浮かんでしまう辺り、間違いなく自分も末期だった。
口から出たのは、二番目に浮かんだ疑問だったが。
「葵さんに褒められちゃいましたから……!」
「今のって褒めたの?」
「そんなつもりは一切ないですけど、とりあえず可愛いのでそれでいいです」
「あれ? 湊君も壊れてる?」
毒のある言葉が悠の口からさらりと漏れてきた。見れば、まさかそんなことを言うとは思わなかったと言わんばかりに目を丸くしている。
「今みたいなことを言ってくれるなら、壊れたままなのもそれはそれで……」
「言っても、普段からたまに言ったりしてるけどね、葵君」
その声は前の席から。アイリスに否定された傷がようやく癒えたらしい碧依が、久方ぶりに発した言葉だった。
「じゃあ、普段から壊れてるってこと?」
「多分ね。そうじゃなかったら、あんなに分かりやすいアイリスさんの好意に気付かないはずがないし」
「……それとこれとは話が別ってことで」
「苦労しました!」
「……」
あっという間に三面を敵に囲まれる。残る一面は蒼がいる背後だけだが、状況を知れば蒼も敵に回りそうで恐ろしい。
「……もういい時間ですし、そろそろ帰りますか」
「逃げるの?」
「戦わないのが一番傷は少ないです」
「葵君らしいと言うか、何と言うか……」
そんな訳で、選択するのは逃げの一手。不要な戦いは挑まない方がいいに決まっている。
「どうせ蒼も一緒に帰るんですし、まだ逃げられませんよ?」
「うっ……」
だが、その手を一瞬で打ち砕く一手がアイリスから放たれた。特に何かを意識した訳でもなさそうな、純粋な眼差しがより心に刺さる。
「膝を狙う時間は続きそうですね!」
「……」
諦めることを知らない瑠璃色の瞳が、より一層輝きを増していた。




