115. 新たな出会い (1)
「ふふー……」
「……」
そして、こうなった。
蒼が自身の感情を曝け出してから、散々お互いのことを話した結果、春休みが終わる頃には昔の蒼が戻ってきたような状態になっていた。
新学年が始まる四月八日の朝でもこうしてお構いなしにべったりくっついてくる辺り、本当に昔の姿を思い出す。ただし、あの時とは違って、今は隣に並んでいるが。
「……やっぱり近くないですか?」
「そう? 兄妹なんだから、別にこれくらい普通だと思うけど」
「いや……」
心底嬉しそうに笑みを浮かべながら、腕が触れ合う程の距離で蒼が言う。その距離は、やはりどう考えても普通の兄妹の距離ではない。
そんな蒼は今、当然自分達と同じ高校の制服に身を包んでいる。もう二年間も見続けてきた制服ではあるが、それを蒼が着ているとなると、やはり目には新鮮な光景として映る。二人で家を出てからあれこれと感想を聞かれたことが、まだ頭の中に鮮明に残っていた。
「アイリスに嫉妬されちゃうかもね?」
「分かってるなら、少しは離れてもらえませんか?」
「やだ。離れない」
「……」
清々しい一言だった。ここまではっきり言われてしまうと、むしろこちらの反論する気持ちが霧散していくようである。
「そういえば、アイリスで思い出したけど、朝は一緒じゃないんだ?」
「えぇ。いつもここで待ち合わせをしてます」
「あんなに家が近いのに? あんなにべったりなのに?」
「今の蒼がそれを言いますか」
随分と不思議そうに口にする蒼だが、家の距離は蒼の方が近いうえに、べったり具合もアイリスと似たようなもの。表現の仕方はどうかと思うが、そんな表情を浮かべる権利は有していないはずだ。
「細かいことは気にしない。じゃあ、もうすぐアイリスも来るんだ?」
「もうすぐと言うか、後ろにいますよ」
「います」
「ひゃあ!?」
背後から唐突に聞こえてきた声に、蒼が目に見えて肩を跳ねさせながら悲鳴を上げる。そこまで驚くような声でもなかったのにこの驚きようということは、恐らく蒼も怖がりに分類されるのだろう。
何はともあれ、二年生になったアイリスの登場だった。
「おはようございます」
「おはようございます! 葵さん!」
「び、びっくりした……!」
「あと、最近やたらと葵さんにべったりな蒼も。おはようございます」
「お、おはよう……。気配を消すのが上手いね……?」
「私は嫉妬してるらしいので、蒼の邪魔をしてみました」
明らかに途中から話を聞いていた答え方である。蒼の背後から近付いてくるアイリスの姿を見ていた自分は知っていたことだが、蒼は聞かれているとは夢にも思っていなかったはずだ。その証拠に、アイリスの言葉を聞いた途端に目が泳ぎ始めている。
「き、聞いてたんだ……」
「だって、全然気付かないんですもん。葵さんだったら一瞬で気付くのに」
「アイリスさんは気配を消すのが下手ですからね」
「それは兄さんがアイリスのことを好き過ぎるからでしょ」
「私が葵さんのことを好き過ぎるからでもありますっ」
「そういうことは言わなくてもいいです」
隙あらば二人がかりで攻めてくる。今のは隙らしい隙でもなかったように思えるが、妙なところで連携が上手い二人にとっては、最早どんな言葉も隙になり得るらしい。全く以て油断できない二人組なのだった。
「……」
「アイリスさん?」
「アイリス?」
そんな言葉と共にいつものように腕に抱き付いてきたアイリスが、何故かそこで黙り込む。その目は、何やら蒼のことを凝視しているような気配があった。
「何? 何か変なところでもあった?」
蒼もそのことには気付いているようで、自身の制服姿におかしなところでもあるのかと不安になっている。全身をくまなく見回して、それでもなお何も見つからずに困惑しているようだった。
「いや……、おかしいどころか……」
「うん?」
「可愛くて、私がどうにかなっちゃいそうです」
「兄さん、この子怖い」
「何を今更」
「それどういう意味です?」
そっとアイリスの視線を切るように動いた蒼と、それでも覗き込もうとするアイリス。自分一人を挟んで、とても平和な争いが繰り広げられている。
「まるで葵さんが女の子の制服を着てるみたいで、すっごくわくわくします!」
「何でも兄さん基準なんだ」
「わくわくするのもおかしくないですか?」
「可愛いですっ」
「それは嬉しいけど、褒められ方が複雑だよね」
言葉通りに複雑そうな苦笑いを浮かべる蒼が、結局隠れるための抵抗をやめる。どうやら、アイリス相手には何をしても無駄だと判断したらしい。結果、アイリスの瞳が輝きを増す事態になった。この世で一番綺麗な瑠璃色ではないだろうか。
「夢だったんですよね……! 葵さんに女の子の制服を着てもらうのが……!」
「蒼」
「何?」
「アイリスさんが怖いです」
「兄さんこそ今更だよ」
救いの手はどこにもなかった。
「と言うか、どんな夢を抱いてるんですか」
「えへへ……。つい……」
「絶対照れる場面じゃないのに、照れた顔がびっくりするぐらい可愛い」
「でもでも、私の制服じゃサイズが合わないですし……」
「自分の制服を着せようとしてたの? 大胆だね?」
「……」
何でもない朝の一幕で、とんでもない構想が暴露されてしまった。仮にそんな機会が訪れてしまったとして、アイリスの制服だけは絶対に着ることはないと断言できる。想い人の制服を着るなど、状況として特殊過ぎて頭がついていかない。
それでも、人知れずそんなことを考えていたアイリスの口は止まらない。
「そうしたら、葵さんとおんなじ顔の蒼が制服を着てくれちゃったじゃないですか! これはもう夢が叶ったのと同じことですよね!」
「兄さんと同じ顔だって。ふふ……!」
「何でそこで喜ぶんです?」
何故か嬉しそうな笑みを浮かべ、頬を赤く染める蒼。そんな表情を浮かべる発言など、どこにも存在していなかったように感じるのは、果たして自分だけなのか。
「アイリスさんも。複雑過ぎる夢を複雑過ぎる方法で叶えるのはやめてください」
考えていても詮無いことなので、ひとまず意識の方向をアイリスに向ける。元凶を止めることができれば、この状況も自然と落ち着いていくはずだ。
問題は、アイリスを止めることができるのか、という一点だが。
「じゃあ、葵さんが女の子の制服を着てくれるってことですか?」
「その辺は蒼に任せます」
「葵さんが着るのもいいと思いますよ?」
「どうして」
「蒼にはない、恥ずかしそうな表情が生まれます」
「望みが特殊過ぎる……」
よく分からない好みを語るアイリス。近い将来、蒼と二人並んで制服姿を見比べられる機会が訪れてしまうような、そんな恐ろしい幻覚が見えた気がした。
「私の願いはずっと同じですよ?」
「……」
「可愛い葵さんがたくさん見たいです!」
「あ、それは私も見たい!」
「……」
またもや二人がかりだった。当然、勝ち目はない。
そんな訳で。
「……そろそろ改札の時間ですね。行きましょうか」
「あ、逃げた」
「まあでも、学校に着くまでずっと一緒なので、逃げようと思っても逃げられないんですけどね」
「……」
選択できる手は、問題を先送りにする一手だけだった。
「途中から四人になっちゃいますけど、どう座ったらいいんですかね?」
「そう言いながら兄さんの隣は確保してる辺り、ほんとに大好きだよね」
「もちろんです!」
いつもの電車の、いつもの席にて。その後の展開はともかく、アイリスが切り出した話題は当然の疑問と言えるもの。
今はひとまず三人で並んで座っているが、これまで碧依が座っていた場所には既に蒼が腰を下ろしている。そうなれば、碧依の座る位置がよく分からなくなる。
「とりあえず本人に聞くしかないと思いますし、今はこのままでいいんじゃないですか?」
「まぁ、それもそうですね」
今考えていても仕方がないというニュアンスを込めた一言だったが、どうやらアイリスも納得してくれたらしい。腕も肩も触れ合う距離で、一度だけ小さく頷いてくれていた。
「いざとなったら、私が葵さんの膝の上に座れば解決ですし……! えへ……!」
「何も解決してませんけど?」
何かを期待するように照れながら微笑むアイリスだったが、この電車の中でその未来が訪れることはないだろう。こんなに空いている電車の中でそんなことをしてしまえば、数少ない乗客の注目の的だ。
というより、既に何人かは視線がこちらに向いたのは確認している。他校の生徒であったり社会人であったりと、その年齢層はばらばらではあるが、皆一様に驚いたような目をしていた。
無理もない。アイリスだけでも目立つのに、さらに異性で同じ顔という組み合わせが追加されたのだ。目を疑うなと言う方が酷である。
「前に膝の上に座って恥ずかしそうにしてた人とは思えませんね」
「あの時はあの時、今は今、です」
「あとは、兄さんが後ろから抱き締めてあげたら完璧だね」
「いいですね! それ!」
「僕がよくないです」
そんなことをすれば、きっと朝だけでその日一日分の体力を使い果たすことになる。終点に到着しても電車から降りず、そのまま折り返しで帰宅する羽目になるのだろう。
「お腹の辺りをぎゅってしてくれたら、多分そのまま折り返しで帰っちゃいます!」
「少しでも長引かせようとしてるなぁ……」
「……」
二日分の体力を使い果たすことになるのかもしれない。次の日は休みだ。
「あれ? でも、お腹なんて触られても大丈夫なの? 女の子的に」
「健康的に細身を維持してますから。くすぐったいのはあるかもしれないですけど、今なら恥ずかしいことはありません」
「へぇ……」
自信たっぷりに言いきったアイリスを見て、蒼が感嘆の声を上げる。視線ははっきりとアイリスの腰へ。
「いいなぁ……。腰は細いのに……」
そう呟きながら、視線がどこかへとスライドしていく。意識するとよくないことは分かりきっているので、その先は追わないことにした。
「葵さんもたくさん恥ずかしがってくれました。えへ」
「……」
「悪魔みたいなことをされてたんだね」
同情するような目を向けてくる蒼。今のアイリスの一言で、ある時からは意識的にそうされていたことが確定してしまった。実に恐ろしい一言である。
「これからも、やめてあげるつもりはありません」
「だって、兄さん。頑張るしかないね?」
「……何を」
「色々」
同情してくれていたはずの蒼が、あっという間にからかう側へと立場を変えてしまっている。
「……」
「えへ」
「可愛い」
やはり相性がよさそうな二人を前にして、ただただ押されること以外、今の自分にできることなどありはしなかった。
そして、問題の駅に到着した。
大げさに言えばそんな表現になるが、要は碧依が乗ってくる駅というだけである。それだけではあるが、今日に限っては大きな騒動が巻き起こるのは目に見えている。それをいかにして捌くのか。一言一言が大事になりそうな時間が、もうすぐ訪れようとしていた。
「いよいよその碧依さんって人とご対面か……」
「私の傍にいる人が全員『あおい』になる瞬間でもあります」
「今だって全員『あおい』ですよ」
「そうですけど、もう一人増えるって何なんですか」
「僕に言われても……」
先頭の車両から碧依が乗り込んでくるまでの間、三人でそんな会話を交わす。どこをどう切り取っても、世界中でここにしか存在しないであろう会話だった。
「あ、来ましたよ」
「え、ほんと?」
そんな中で、前の車両に繋がる連結部分に目を向けていたアイリスが知らせてきた。どうやら、件の碧依がその姿を現したらしい。
アイリスの言葉に釣られて、蒼もまたその方向に目を向ける。
「で、そのまま固まりました」
「それは見たら分かります」
どうやら、異常事態を素早く察知したらしい。そもそもの話、同じ顔二つに見つめられたとなれば、誰でも困惑して固まるだろうが。
「碧依さんがああやって通路の真ん中で固まっていられるのも、乗ってくる人が少ない田舎ならではですよね」
「都会だと、こうはいかないんでしょうね」
明らかに場違いな感想をアイリスと話しながら、碧依が再起動するのを待つ。それが果たされたのは、電車が駅を出た、その揺れを感じた瞬間だった。
「えっ……!? えぇっ……!?」
分かりやすい戸惑いを顔に浮かべながら、碧依が徐々に近付いてくる。やがて、すぐ近くまでやって来た碧依が、控えめにこちらを指差して口を開いた。
「私の座る場所がない……!?」
「混乱してますね」
「はい。間違いなく混乱してます。混乱してますけど、いつもの碧依先輩っぽいです」
「いつもなの……?」
混乱一人、冷静二人。さらに困惑一人を加えて、新たな四人組の完成だった。
「どこ……? 葵君の膝の上に座ったらいいの……?」
「やめてください」
「そこは私の場所ですもんね」
「それも違います」
「あれ?」
さりげなく膝の領有権を主張するアイリスを封じ込め、改めて混乱の渦に巻き込まれている碧依に向き直る。
「気にする場所はそこじゃないと思うんですけど。とりあえず、おはようございます」
「ほんとだ!? 葵君が二人いる……!? あとおはよう!」
「忙しいんですよ」
その驚きと挨拶は一まとめにしていいものではない。ただそれも、この状況を目の当たりにした碧依に言うのは無理があるのかもしれないが。
「そ、その……? どちら様で……?」
何も理解できていなそうな目を蒼に向ける碧依。そこには、混乱だけでは隠しきれていない、確かな興味の色も宿っていた。
そんな言葉を受けて、いよいよといった面持ちで蒼が話し始める。
「初めまして、湊蒼です。この四月から転校してきた、兄さんの双子の妹です」
「……」
自己紹介があったからといって、それで全てを納得できるのかと言われるとそうでもなく。目の前の碧依が、まさにその証拠である。本当に簡潔な自己紹介の一文でも、そこに込められた情報量は思ったよりも遥かに多い。
結果、ほとんどまともに処理しきれていない碧依が生まれたのだった。
「碧依さん? ちゃんと理解してます?」
していないだろうと思いつつも、一応尋ねてみる。放っておいたところで、碧依の中で何かが解決する訳でもない。
「……え」
再度の再起動を果たした碧依が、そう小さく声を漏らす。果たして、それに続く言葉は何なのか。三人揃って耳を澄ませる。
「う、浮気……?」
「どうしてそうなるんですか」
「う、浮気をしてるんですか……!?」
「アイリスさんまで乗らなくていいですって」
「私の方から迫っちゃって……」
「ここは地獄か何かですか?」
一気に忙しくなった。仮にここが地獄だったとして、突っ込み役である獄卒の負担が大き過ぎる。むしろ、責め苛まれているのが獄卒側だったが。
「蒼の話、ちゃんと聞いてました?」
「う、うん……。葵君が迫られた側だって……」
「そこじゃないです」
何故冗談の部分だけしか聞いていないのか。これでは進む話も進まなくなる。
「アイリスさんみたいに尋常じゃないくらい可愛い彼女がいるのに、それでも浮気をしちゃうって……」
「た、確かに、普通の兄妹よりも距離が近いなって思ってましたけど……!」
「大好きだからね、兄さんのこと」
「分かりました。地獄か何かじゃなくて、ここがこの世の地獄です」
ただでさえアイリスと碧依の組み合わせだけでも厄介な事態になることが多かったのに、そこに蒼が加わるとどうなるかなど、あらかじめ予想できてもおかしくなかった。今の状況は、その準備を怠った自分に責任がある。
「と、冗談はこれくらいにしておいて」
「初対面で冗談なんていらないんですよ」
「本当に兄さんの妹ですよ、双子の」
ようやくまともに自己紹介をするつもりになったのか、蒼が最後の一言をやたらと強調しながら碧依を見つめる。どんな目をしていたのかまでは見えなかったが、口調だけを聞けば随分と穏やかなものだった。
「絶対嘘だよ……! 兄妹で同じ名前って……!」
「聞くところはちゃんと聞いてるじゃないですか」
扉近くの手すりに掴まりながら、それでもなお信じられないものを見るような目で蒼と自分を見つめる碧依。言動が怪しかったのは否定できないが、重要な部分はしっかりと理解していた。
「色々と事情があるんです。詳しくは話せませんけど」
「それに、これだけ顔がそっくりだったら、双子ってところも信じてもらえませんか?」
「た、確かにそっくりだけど……」
見ても、聞いても、それでも混乱から抜け出せない様子の碧依。この短時間で全てを受け入れて納得しろと言う方が無理ではあるが、それにしてもそろそろ多少は落ち着いてくれてもいいのではないだろうか。
「何なら、小さい頃の兄さんのお話をしましょうか? それで兄妹だって納得してもらえると思いますけど……」
「じゃあ、それで」
「『じゃあ、それで』じゃないんですよ。どうして一瞬で落ち着いてるんですか」
一体何が碧依の心に響いたのか、見た目はあっという間にいつもの碧依に戻っていた。
「蒼も蒼です。兄妹の証明で、気軽に昔の話をしないでくださいって」
「えー? それが一番分かりやすいと思うんだけどな……?」
「そうでしょうけど。相変わらず、大抵僕の恥ずかしい話しかしないじゃないですか」
「しないね」
「自信満々で言う場面じゃありません」
「聞かせて!」
「碧依さんは静かにしててください」
「え……? 私が置いておかれるの……?」
まさか置いてけぼりにされると思っていなかったであろう碧依が、その言葉通りの寂しそうな声音で一言零す。だが、今は蒼を止めるので忙しいので仕方がない。
「それなら、僕だって蒼が小さい頃の話をしますけど」
「別に私は気にしないよ?」
「……」
反撃が反撃になっていない。怖がりではあるのかもしれないが、恥ずかしがり屋ではないらしかった。
「ねぇ! ちゃんとした説明が欲しいなって!」
「ほら。呼ばれてるよ?」
「呼ばれてるのは蒼もですよ」
そんな軽く受け流されるような会話を交わす中、結局本当に置いてけぼりにされた碧依が縋るようにして説明を求めてくる。この状況で放置しておいたのは、流石にひどかったかもしれない。
そう思って碧依に向き直るも、どこから説明すればいいのか、なかなか難しいところがあった。そもそもの話、どこまでなら話していいのかという問題もある。
「どこからお話ししたらいいのか考えてるみたいなので、もう少し待ってもらってもいいですか?」
「それはいいけど……。葵君のこと、よく分かってるんだね」
「双子の妹ですから」
頭を悩ませている間、蒼が場を繋いでくれていた。自分にはもったいないくらいに、気遣いに優れた妹である。
そうして稼いでくれた時間を使って頭の中を整理していくが、今度は別の方向からその思考を止められる。
「むぅー……」
「……」
言わずもがな、アイリスだった。しばらく黙って様子を窺っていたようだが、とうとう我慢ができなくなったらしい。話が途切れたタイミングで、微かな力で以て体を引っ張られる。
「浮気……」
「してませんって。アイリスさん一筋です」
「あぅ……」
「あ、アイリス、顔が真っ赤」
「い、いきなりはずるいです……」
蒼の冗談を未だに引きずっていたアイリスも、たった一言で頬を染めて俯いてしまう。軽々しく口にしたように聞こえる言葉も、紛れもない本心からの言葉だ。アイリスが一瞬で頬を染めたのも、それを分かってくれたからだと思いたい。
「何だったら、もっと言いましょうか?」
「だ、大丈夫です……! 私だって、そこまで本気で言ってたわけじゃないので……!」
そんな言葉と共に、赤くなった顔を隠すかのように肩口に押し付けてくる。もう何度も見た光景ではあるが、何度見てもその照れた顔が可愛くて仕方がなかった。
「よかったね、兄さん。ちゃんと信じてもらえて」
「……蒼が悪乗りしたせいでもあるんですけどね」
「……また放置されてる」
「あ……」
「あ……」
どうにかこうにかアイリスの不安を取り除いた、その代償。またしても何も分からないまま放っておかれた碧依が、どこか悲しそうに目を伏せながら口にする。
そんな目に見えて落ち込んだ碧依に回復してもらい、それでいてこの状況を納得してもらうためには、それ相応の労力が必要になりそうだった。
「じゃあ、おんなじ名前だけど、ほんに双子の兄妹なんだ?」
「えぇ。ここまで同じ顔なのに、他人のわけがないですしね」
駅を出て少しして。話しても問題がない部分を選んで色々と説明したところで、ようやく碧依がある程度の納得を見せてくれた。そこに、落ち込んでいた様子はもう見られない。
「そっか……。葵君が女の子の制服を着たらどうなるのかと思ってたけど、こうなるんだね」
「納得して最初に言うことがそれですか」
「着る? 兄さん?」
「着ません」
「着ましょうよ!」
「蒼で我慢してください」
「我慢って言われるのも複雑だけど」
どことなく雨が降り出しそうな鈍色の雲が広がる中、一層賑やかになった四人組で通学路を歩いていく。
一年前、一人でこの道を歩いていた時とは、随分と周囲の様子が変わったものだ。もちろん、変わったのは自分もだが。
「たまに入れ替わられたら、私達じゃ気付けないかもね?」
「私は分かりますけど?」
「アイリスさんは別格でしょ。どんな状態でも葵君を見つけそうだし」
「体格で分かりますよね」
「体格って言われると、何かちょっと恥ずかしいよね……」
「本音は?」
「素直に『胸』って言わなかった辺り、その辺は兄さんもちゃんと恥ずかしいんだなって」
「……」
「妹には勝てないね? お兄ちゃん?」
今のは迂闊な一言だったのかもしれない。蒼だけならいざ知らず、碧依まで加わってからかわれるとなると、途端に状況が悪くなる。同じ名前で全く違う二人の顔が、何故か同じように悪戯に成功した子供のような笑みを浮かべていた。
「兄さんはいっつも私に優しいから」
「甘やかしは昔からだったんだね」
「私で培った経験で、今はアイリスを甘やかしてる、と」
「程よく甘やかされてます! 幸せです!」
「何なんですか、これ」
蒼一人加わるだけで、ここまで分が悪くなるものなのか。何も反論できないまま、三人の間でどんどん話が進んでいく。むしろ、これまでアイリスと碧依の暴走を止められていたこと自体が奇跡だったのかもしれない。
「どれだけ葵君が頑張ろうと、女の子三人は止められないよ」
「『女三人寄れば』って言うでしょ?」
「別にうるさくはないですけど……」
「見た目は四人みたいなものですけどね!」
「アイリスさん?」
最後にしっかり落とされる。それを担当したのが自分の恋人なのだから、もう何が何だか分からない。分からないが、少なくとも満面の笑みで言うことではなかった。
「まぁ、葵君がいつも通り可愛いって話は置いておいて」
「碧依さん?」
「蒼が葵君の妹で、しかも転校してくるってなるなら、三年のクラスはどうなるんだろうね?」
「あ、私、ちょっとだけ知ってる」
「え?」
電車の中で放置された仕返しなのか、今度は碧依が自分のことを放置する番だった。とはいえ、碧依が口にした疑問は、この場の誰もが気になるところではある。当然、自分の新しいクラスも含めて、だ。
「三月に一回学校に行ったんだけど、その時に軽く教えてもらって」
「何を?」
「二年から転校してきた人がいるから、その人と同じクラスにしておいたって。その方が色々相談できるかもってことで」
「あ、じゃあ、私と一緒?」
「うん」
「やった! 可愛い子一人獲得!」
その喜び方はどうかとは思うが、これでこれからの蒼の一年を心配し過ぎることはなくなりそうだった。たまに暴走することがある碧依ではあるが、基本的に頼りになる友人であることには違いない。
安心して任せられるかと言われると、それはそれで別の問題が発生しそうな気もしたが。
「そうなると、僕は違うクラスになってそうですね」
「あー……。まぁ、そっか。普通兄妹で同じクラスにはしないもんね」
「えー……? 同じクラスがよかった……」
「こればっかりはどうしようもないですって」
「そうだけど……」
冗談で言っている訳でもなく、心の底から残念そうに呟く蒼。そんな風に思ってくれるのは嬉しいが、学校側の采配に口出しすることはできない。黙って受け入れるより他はなかった。
「そんなことを言ったら、私だって葵さんと同じクラスがよかったです」
「学年が違うことには気付いてます?」
「もちろんですよ。来年こそは同じクラスになれるといいですねっ!」
「勝手に留年させないでください」
そんな未来は絶対に訪れない。訪れさせてはならない。
「葵君とアイリスさんが同じクラスだったら、もう毎日大変なことになってそうだよね」
「毎日べったりです!」
「それ今もだよ」
「えへー……」
柔らかい笑みと共に、腕の力が微かに増す。一体何を想像しているのか、誰が見ても容易に見抜ける分かりやすさだった。
「まぁ、その辺のクラス分けは行ってみないと分からないか」
「ですね。何を言っても、今は想像でしかないですから」
「同じクラス……」
「同じクラス……!」
「……この二人はそうでもないみたいですけど」
「大変だね、お兄ちゃん?」
「……」
妹でもない碧依からそう呼ばれると、不思議なむず痒さが全身を駆け巡る。そう呼ばれるのは慣れているはずなのに、碧依がそう口にするというだけでここまで感覚が変わるものなのかと、少しだけ意外に思う。
高校最後の一年は、そんな奇妙な感覚と共に幕を開けたのだった。




