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114. 踏み出した先 (2)

 こんなタイミングで目を覚ましたのは、間違いなく蒼と自分が近くで話していたからだろう。目が開くところは見えないものの、何となくの雰囲気でアイリスの起床を知る。


「んぅー……?」


 いつもなら誰よりも早く起き出して部屋に忍び込んでくるのに、今日はそうでもなかったらしい。ただ、ある意味では、誰よりも早く起きたと言えるのかもしれないが。


「起きた?」

「みたいですね」

「その割には冷静だね、兄さん」

「もうどうにでもなれです」

「諦めたんだ……」


 今更慌てたところで、アイリスが潜り込んできて一緒の布団で寝てしまった事実は変わらない。アイリスが寝ている間はどうしたものかと慌てはしたものの、起きたとなれば妙に気持ちが落ち着いてしまった。蒼の言う通り、色々と諦めたのかもしれない。


「あぇ……?」

「起きました?」

「葵……さん……?」


 少しだけ見上げるようにして目を合わせてきたアイリスに、そう声をかける。瑠璃色の瞳はまだ眠そうに半分程閉じたまま、どこかとろんとした表情を浮かべていた。そんな表情に、心の奥底が何かの反応を示したのは秘密である。


「……」


 あるいは、じっと見つめてくる蒼にはばれているのかもしれないが。


「やってくれましたね」

「ん……」


 意識を再び目の前に戻し、自ら潜り込んできたのに状況を理解していなそうなアイリスに一言。


「まさか本気で潜り込んでくるなんて……」


 あくまで冗談だと思っていたのに。そんなニュアンスを込めて、寝惚け眼のアイリスを見つめる。


「あったかいですぅ…」


 けれども、返ってきたのはそんな言葉と更なる密着だった。


「……っ!?」

「わぁ……。大変そう……」

「そう思うんだったら助けてくださいよ……!」

「やぁー……、もうちょっと見ていようかなって」

「んふー……」

「うぁ……!」


 まだ理性の方が覚醒しきっていないのか、本能に押されるままに動いているかのようなアイリスが、額をぐりぐりと胸元に押し付けてくる。理性が働いていても同じことをしてきそうだと思ってしまったのは、きっと日頃の様子をよく知っているからだろう。


 とにかく、不意打ちでそんなことをされてしまっては、心が耐えられない。自分ではどうすることもできない状況をどうにかしてもらえないかと蒼に助けを求めるものの、無情にも観察の継続が決定しただけだった。


「だめですって……! ちゃんと起きてください……!」

「起きてますよぉ……。最高の目覚めですぅ……!」

「寝惚けてそうだね」

「葵さんの心臓が大変なことになってるって気付けるくらいには起きてます」


 口調が急にはっきりしたものに変わった。額を押し付けている間にでもしっかり目が覚めたのだろうか。何にせよ、それに気付いているなら多少は手加減してほしいと願ってしまうのは、果たして自分のわがままなのか。


「兄さん。無事に起きられそう?」

「今日一日の体力を使い果たしそうです……」

「使い果たすって言うか、吸い取られてそうだね」

「引っ越しはアイリスさんに手伝ってもらってください……」

「だーめ。兄さんも引っ張っていくから」

「……」


 無情で、そして慈悲はなかった。


「むぅー!」

「ん?」


 そんな仕打ちに打ちひしがれていると、胸元から最高の目覚めとは程遠い声が聞こえてきた。昨日何度か聞いた声でもある。


「おんなじお布団で恋人が寝てるのに、他の女の子とお話しするのはどうかと思いますぅ!」


 流石にもういつも通りに開かれた瑠璃色の瞳が、そんな抗議を込めて再び見上げてくる。最早深く考えるまでもない、声を聞いただけでも理解できる嫉妬の感情だった。


「嫉妬だ」

「妹なんですけどね」

「彼女さんと一緒のお布団で寝て、同じお部屋で妹が寝てるって、それどんな状況?」

「こんな状況です」


 実演である。


「んむぅー!」

「うわぁ!?」

「あ」


 嫉妬していると分かっているのに、それでも蒼と会話をしていたからなのか。不満を爆発させたアイリスが、思いもしない行動を見せた。


「大胆」

「落ち着いて見てないで助けてくださいって!」

「えー? 助けちゃうと、それはそれでまた何かありそうだし」

「えへー……!」

「っ!」


 その小さな体のどこにそれだけの力があったのか、くるりと体を回転させられて、あっという間に仰向けに。それだけならまだしも、回転の勢いそのままにアイリスがのしかかってきた。傍から見れば、アイリスに押し倒された形である。


 小柄なアイリスがのしかかってきたところで、それを重たいと感じることはない。けれども、重要な部分はそんなところではない。


「幸せそうな顔で頬ずりまでしちゃって……。見てる分にはいい景色だよね」

「うぅ……!」


 今度は額ではなく頬が。すりすりと胸元に擦りつけられる感覚もそうだが、それよりも更によくない感覚もある。自分から言い出すことは絶対にしないが、本人は気付いているのだろうか。気付いたうえでの行動であれば、これほど恐ろしいこともない。


「辛そうにしてる割には抱き締めてるんだよね」

「落ちていきそうで怖いからです……!」

「私は葵さんに落とされましたけどね!」

「……」

「上手い、のかな?」


 しっかり抱き付きながらの、自信満々の一言。聞いている自分の方が顔から火が出そうだった。


「これいいですね……! 全身でくっつける感じが最高です……!」

「無理……」

「無理ってなんですか。重たいって言いたいんですか」

「そうじゃないと思うけどな……」


 呆れたような蒼の声。助けてはくれないものの、突っ込みはしてくれるらしかった。


「と、とにかく、僕の心臓が大変なことになってるので、できれば控えてもらえると……」

「それはちょっとできない約束ですね」

「どうして」

「葵さんが照れてるのが可愛くて好きだからです!」


 言い放たれた一言は、朝から元気に満ち溢れたもの。その元気は、きっと自分から吸い取ったものなのだろう。返してほしい。


「朝から何騒いで……、あら……」

「あ」

「おはようございます」

「おはよう、お母さん」


 そうして押し倒されたまま騒いでいるうちに、その騒がしさを感じ取ったレティシアが部屋の様子を見に来てしまった。色々な意味でタイミングが完璧である。


「……」

「……」


 レティシアとしっかり目が合う。その目には、自身の娘が付き合っている先輩を押し倒してのしかかっている姿が、これ以上なくはっきりと映っているはずだ。


 そんな場面を目撃して、親として何を思い、何を口にするのか。いずれ開くであろう口の動きが、今から怖くて仕方がなかった。


「葵君」

「……はい」


 やや間が空いて、とうとうその口が開く。


「重たかったら、ちゃんと重たいって言わないとだめよ?」

「重たくないもん!」

「……」


 まさかの自分の心配だった。


「葵君、華奢な体をしてるんだから。迂闊に押し倒すと怪我をしちゃうわよ?」

「アイリスが忍び込んで押し倒したことは確定してるんですね」

「それはそうよ。葵君が連れ込むとは思ってないもの」

「だって、兄さん。信頼されてるね? ……男の子として、それはそれでどうなのかって思うけど」

「放っておいてください」


 味方のようでいて、案外そこまで味方でもないような蒼の感想が突き刺さる。その辺りの性格は自分でも理解しているので、あまり触れないでもらいたかった。


「で、いつ頃潜り込んだの?」

「時間は分からないけど、多分夜中。まだ真っ暗だったし」

「そう。とうとうそこまで踏み込んじゃったのね」

「これは癖になっちゃうね! 毎日潜り込んじゃうかも!」

「体の上で会話を始めないでください」


 何事もなかったかのように母娘の会話が繰り広げられているが、娘の方は押し倒した相手の体にのしかかったままである。到底普通の会話を始めていい体勢ではない。普通の会話でもないが。


「葵君はどう? 私達の自慢の娘が布団に潜り込んできたわけだけど、何か思うことはあった?」


 後ろ手に扉を閉めてから、蒼が体を起こしたベッドに腰かけるレティシア。どう見ても、根掘り葉掘り聞き出そうとしているようにしか思えなかった。


「……釘を刺したりはしないんですか」


 聞かれていることとは違うと認識しつつも、そのことを尋ねずにはいられない。いかに同じ家の中にいるといえども、万が一のことを心配したりはしないのだろうか。


「刺すならアイリスの方でしょ? 今のところは」

「どういう意味?」

「葵君はむしろストッパーだと思うし」

「……」

「ねぇ? お母さん?」


 またよく分からないレベルで信頼されているが、落ちないようにと言い訳をして抱き締めたままの自分には、その言葉に返事をする資格はないように思えた。


「ま、今も抱き締めたままって辺り、案外葵君も嫌じゃないのかもしれないけど?」

「……」

「それに、いくら葵君が華奢だからって言っても、アイリスをどけるくらいのことはできるでしょ?」

「……もう、その辺にしておいてもらえると……」

「照れちゃってまぁ……。こんな可愛い子が将来息子になってくれるかと思うと、今から楽しみで仕方がないわね」


 冗談のようなことを本気の笑みと共に口にするその姿は、結局どの程度本気で言っているのか判断に困ってしまう。自分にできることといえば、ただ顔を赤くして目を逸らすことだけだった。


「さて。結局言ってくれなかった葵君の感想は後から聞くとして」

「え……」

「アイリス」

「何?」

「あなたも程々にしておきなさいね。葵君が困ってるのは分かるでしょ?」

「えー……? あったかくて最高の寝心地だったのに……?」


 意図的に感想を逃れようとしていたのに、結局逃れられていなかったことへの絶望を感じている傍ら、アイリスはアイリスでレティシアから一応の釘を刺されていた。「程々」というところに違和感はあるものの、これで潜り込んでくるのを抑えられるのなら、それはそれでいい。


 そう思っていたのに。


「誰も潜り込むのをやめなさいとは言ってないでしょ? 押し倒すのを程々にしなさいって言ってるだけで」

「違います。そうじゃないはずです」

「やった! じゃあ潜り込む!」

「それも違います」


 事態は思ってもいない方向に転がり始める。


「私だって、あなたと同じくらいの時はひたすら押してたもの。そんな私に止める権利はないわ」

「遺伝……!」


 前々から知ってはいた、アイリスの押しの強さのルーツ。それがこんなところでも顔を覗かせていた。


「お母さんの許可も出ちゃいましたし、これからは遠慮なく潜り込めちゃいますね!」

「遠慮は僕に対してするものでは?」


 未だ自分の上にいるアイリスの笑みが眩しい。思わず自分の方が間違っているのではないかと、そう錯覚してしまう程度には。


「えへー……」

「笑って誤魔化そうとしても無駄ですよ」

「そう言ってる兄さんも満更でもないみたいだし、多分本気で止めはしないよね」

「……」


 心の内を簡単に見透かしてくる妹がいるのは、自分にとって都合が悪い面もあると思い知った瞬間だった。




「本当に隣ですし……」

「こんなところで嘘は言わないよ?」


 午前中に引っ越し業者に荷物を運びこんでもらっている時から信じるしかなくなっていたが、本当に蒼の引っ越し先は自分の隣の部屋だった。半信半疑だった蒼の言葉も、結局全て本当のことだったということになる。


「これからはいつでも遊びに行けるね?」

「私の方が先ですけどっ」

「分かってるって。そんなに心配しなくてもいいから」


 お手伝いという名目でついてきたアイリスが、昨日の話を思い出すかのようにして蒼を牽制する。実際、お手伝いは本当に隠れ蓑で、蒼のことを見張るのが本当の目的だったのかもしれない。


「と言うか、そもそもどうして僕が住んでる場所を知ってたんですか」


 そんなアイリスを横目に見ながら、昨日話を聞いた時から気になっていたことを蒼にぶつけてみる。何となくまともな答えは返ってこないような気もするが、いつまでもアイリスが蒼を警戒し続ける会話よりはましだろう。


「え。聞きたいの?」

「そう言われると、怖くて聞きたくなくなってきました」


 引っ越し先が隣の部屋だと告げられた時に尋ねたくなる質問最上位のはずなのに、まさか尋ねられるとは思っていなかったとでも言いたそうに、蒼が若干目を丸くする。


 その反応は、本当に予想していなかったからだけなのか、それとも積極的に話すような内容ではないからなのか。声の調子からして後者に近い印象だが、果たして。


「ほとんどストーカーみたいなことをしたから、あんまり言いたくないんだけどな……」

「それが答えみたいなものじゃないですか。もう言わなくていいです」

「お休みの日、バイト先から帰る兄さんを尾行しました!」

「言わなくていいって言ったのに」


 予想通りのことをはっきりと言いきった蒼。どう考えてもそんな表情をする場面ではないはずなのに、妙に誇らしげな表情が印象的だった。


「意識はアイリスに向けられっぱなしだったから、気付かれないように追いかけるのは簡単だったよね」

「……どうしましょう、葵さん。何だか普通じゃないことを言ってるはずなのに、嬉しいことも言ってくれるので反応に困ります」

「それを言われた僕こそ反応に困ります」


 間違いなく正しい反応はない。そんな時は、とりあえず困惑しておけばいい。


「ま、とにかくそんな感じでここに引っ越すことに決めました」

「……経緯はどうかと思いますけど、一応は歓迎しておきますね」

「うん。よろしくね」


 自分と同じ顔が微笑みながら小さく首を傾げる姿は、こうして成長してから見ると本当に不思議な光景だった。思わず無言でその顔を見つめてしまったのも、そんな単純な理由から。


 だが、同じく蒼を見つめていたアイリスが無言だったのは、どうやら自分とは違う理由のようで。


「葵さんも普段からこんな感じで笑ってくれたらいいのに……」

「……」

「え?」

「こんな風に、屈託なく笑ってくれたらいいのに……!」

「僕に何を求めてるんですか」


 少なくとも、引っ越しの手伝いに来た、その玄関先で扉を開けたまま話すことではない。だというのに、アイリスの顔は真剣そのもので。心の底からそう思っているのがはっきりと伝わってくる顔だった。


「無邪気な笑顔を!」

「人は成長すると無邪気に笑えなくなります」

「そんな切ないお話はいらないです」

「……」


 一刀両断だった。切ない。


「頑張るしかないね、兄さん」

「頑張ってどうにかなることなら頑張りますけど、これは……」

「大丈夫ですっ。葵さんならできますっ」

「だってさ」

「えぇ……?」


 自分ですら想像できない無邪気に笑う姿を、アイリスは既に頭の中に描いているらしい。その予想図が現実のものとなる日はいつ訪れるのか。全く読めない未来を垣間見ようとした、そんな昼下がりの会話なのだった。




「あ、兄さん。その箱は触っちゃだめ」

「え?」


 いつまでも玄関先で話していても、引っ越しの作業は終わらない。暗くなるまでにある程度片付けてしまわないと、またしても蒼の寝る場所騒動が巻き起こることになる。


 そんな共通認識の元で運び込まれた段ボール箱を開封していく中、これまで何も言わなかった蒼が唐突にストップをかけてきた。


「何かありました?」

「その箱、何が入ってると思う?」

「その聞き方で分かりました。絶対に触りません」

「察しが良過ぎるのも面白くないよね」


 何故か残念そうに言う蒼を無視して、件の段ボール箱から距離を取る。


 やたらと心を許してくれている蒼が、それでも開けるのはだめだと言う中身。移動させる時に見た目とは違って軽かったことも加味すれば、中身は容易に想像がつく。想像すること自体が罪のような気もするが。


「兄さんが想像した通り、下着が入ってます」

「どうしてわざわざ言ったんですか?」


 開けられることは恥ずかしがるのに、中身を教えることは恥ずかしくないとでも言うのだろうか。いかに双子といえども、性別が違えばその辺りの感性はよく分からない。


「興味があるのかなって思って……」

「そこでちょっと恥ずかしそうに言うのは腹が立ちますね」

「なんで」


 うっすらと頬を染めたうえでの、身長差を利用しての上目遣い。相手が相手なら効果は抜群だったのだろうが、兄相手には効くはずもなく。不満そうに抗議されたところで、文句を言われる筋合いはない。


「うん?」


 理不尽な蒼の抗議を受け流していると、全く別の方向から袖を引かれる感覚があった。この場にいるのは、自分も含めて全部で三人である。袖を引く人物が誰かなど、考える必要もない。


「アイリスさん?」

「……」


 呼びかけてみるものの、無言で袖を引いたまま見上げてくるだけのアイリス。その目は何か聞きたいことがありそうな色をしていたが、流石にその内容までは読み取ることができない。


 ならば、アイリスが口を開くのを待つしかない。ということで、しばらく待ってみる。


「葵さん」

「はい」

「興味……、あるんですか?」

「は?」


 予想できるはずもない問いだった。


「何を……」

「やっぱり、葵さんも興味があるんですか? 女の子の下着」

「……」

「凄いことを聞いてきたね」


 自分は今、一体何を聞かれているのだろうか。言葉の意味なら理解できるのに、その真意は一切汲み取ることができない。


「だって、蒼が言ったことにちゃんと返事をしてなかったので……」

「いや……、それは……」


 そう口にするアイリスの頬が赤く染まっているのは先程の蒼と同じだが、そこから受け取る印象は全く別。からかいが感じられないその問いは、だからこそ答えに窮するものでもある。


「……」

「えっと……」


 黙り込んだアイリスにじっと見つめられ、思わず目を逸らして頬を掻く。その行為が既に悪手を極めているような気がしないでもないが、真っ直ぐ見つめ返すことなど、とてもではないができなかった。


「目を逸らしたってことは、ちょっとは興味があるんだ?」

「あの……」

「そうだよね。兄さんも男の子だもんね」

「だから……」


 余計過ぎる合いの手は、当然蒼から。自分が何かを言う前に、何故かどんどん話が進んでいく。


「や、やっぱり……!」

「やっぱりって何ですか」


 そんな勝手な進行を真に受けたのか、少しだけ頬の色を濃くしたアイリスがそう口にする。妙に納得されているような言葉で、個人的にはなかなか受け入れがたい。


「じゃあ、全く興味がないって言いきれる?」

「そっ……、れは……」


 まるで追撃を入れるかのような蒼の一言に、即座に返すことができずに言葉に詰まる。実際に心の中ではどう思っているのか、そっくりそのまま口にしてしまったのと同じことだった。


「言えないよね。だって、男の子なら少なからず興味はあるもんね?」

「……お願いですから、もうこの辺りで許してください」

「でも、さっきの反応を見る限り、誰にでも興味があるってわけじゃなくて、彼女さんのに興味があるって感じなのかな?」

「っ!?」

「……!」


 ぴくり、と。蒼の言葉に、二人分の肩が小さく跳ねる。もちろん、その理由も二人分。


「合ってる?」

「ぼ、僕は何も聞いてません……」

「き、気になるんですか……!?」

「ち、違っ……、わないかもしれないですけど……! そうじゃなくて……!」

「……っ!」


 あたふた。お互いに混乱を極めながら会話をすれば、こんな風に隠しておくべき言葉も思わず零れてしまう。どう考えても余計だった一言で、アイリスの顔が一気に桜色に染まっていく。


「あ、満開」

「そんなことを言ってる場合じゃないです……!」

「だ、大丈夫ですっ! ちゃんと可愛いのを選んでますからっ!」

「言わなくていいですって……!」

「あぁ!?」


 何故か決死の覚悟を決めたような顔で告げられた一言に、一瞬何かが頭の中に浮かぶ。その先は踏み入ってはいけない場所だと本能的に悟ったのか、すぐにその何かは暗闇に掻き消されていったが。


 だが、一瞬でも浮かんでしまったという事実は消えない。


「っ!?」

「あ、想像した」

「してませんけどっ!?」

「その反応じゃ誤魔化せないって」

「ぐぅ……!」

「だだっ、だめです! まだ想像しちゃ……!」

「まだ?」

「あぅ!?」


 二人揃って墓穴を掘ったところを、二人揃って蒼に咎められる。できることといえば、お互いに顔を桜色に染め、目も合わせられずにあちこちを眺めるだけ。そして、当の蒼はにこにこ微笑むだけ。


 今日中にある程度片付けないといけないことは分かっているのに、それでもしばらく作業が進むことはなさそうだった。




「蒼の服って、どっちかって言うと可愛い系のものが多いんですね」

「綺麗系の服はあんまり似合わないからね。全く買わないってわけじゃないけど」


 間違いなく今日一番の大騒動があってから少しして。どうにか気持ちを立て直したアイリスと、立て直さなければならなくなる原因を作った蒼がそんな会話を交わしていた。


 ちなみに、自分はまだもやもやしている。


「そういう意味で言ったら、アイリスは間違いなく可愛い系だよね」

「そうですか?」

「うん。多分、兄さんの好みにぴったり」

「そこ。余計なことは言わなくていいです」


 もやもやしながら片付けを進めている間に、またしても勝手に話が進められそうになっていた。


「でも好きでしょ?」

「好きですけど。そういうことは本人の口から言うべきじゃないですか?」

「じゃあ、どうぞ」

「アイリスさんが普段着てるような服が好きです」

「ひゃぁ!?」


 不思議な流れではあったが、この手のことを直接伝えるのは吝かではない。その結果、アイリスが奇妙な声を上げることになろうとも。


「い、いきなり何なんですか!?」

「そこまでいきなりでもない気がしますけど……」

「十分不意打ちでしたよっ!」


 怒っているのか、それとも照れているのかよく分からない口調で言いきるアイリス。何となくだが、怒りが一割、照れが九割のような印象だった。


「割と躊躇いなく言ったね」

「自分が恥ずかしくなるようなことは言いづらいですけど、アイリスさんが照れるだけならいくらでも」

「いくつ心臓があっても足りないぃ……!」


 そう小さく呟いて、アイリスが顔を両手で覆い隠してしまう。隠しきれていない耳が赤くなっていて可愛かった。


「ま、可愛い服が似合うのは兄さんもだけど」

「その一言は必要でした?」


 そんなアイリスを観察していると、蛇足を極めたような一言が蒼から飛んできた。しかも、「似合いそう」ではなく「似合う」と言っているところが、さらに芸術点を高めている。


「小さい頃は女の子の服を着たりもしてたもんね?」

「……覚えてたんですか」

「忘れるわけがないよ。あれで兄さんのことがもっと好きになったんだもん」

「ちょっと理解できないです」


 ちょっとと言うよりも、ほとんど理解できない。昔を懐かしむように穏やかな表情で口にする蒼だったが、内容は懐かしんで言うことではなかった。


「そう? じゃあ、今の私が持ってる服も似合うって思ってるのも分からない?」

「分かりたくないです」

「見たいですっ!」

「嫌です」

「なんでですか!」


 照れて何も言えなくなっていたはずのアイリスが復活した。何故復活したのかは、この際深く考えないことにする。


 ともかく、そんな無茶振りである。新品のコスプレ衣装ならいざ知らず、蒼の私服を着るなど、とてもではないができるはずがない。できることなら、新品のコスプレ衣装も積極的に着たくはないが。


「蒼だって嫌がるだろうからですよ」

「私は別に嫌ってこともないけど。でも、そもそもちょっとサイズが合わないよね」

「流石に僕の方が少し大きいですからね」

「少しね?」

「あんまり強調しないでもらえると」

「ってことは、勝手にスカートの丈が短くなるってことですかっ!?」

「僕に求めることじゃないと思いません?」

「じゃあ、アイリスに求めるの?」

「え?」

「失言でした。忘れてください」


 正確には、「失言にされてしまう言い方」である。何の気なしに口にした言葉も、蒼の手にかかればとんでもない要求に早変わり。一瞬何を言われたのか理解できなかったであろうアイリスも、時間が経てばその言葉の意味を理解してしまう。


「あ、あの……!?」

「何も考えなくていいですよ」

「あ、葵さんが望むなら、もう少しくらいは短くしたり……、とか……」

「望んでませんから」

「アイリスの下着が他の人に見えちゃったら嫌だもんね。見るなら自分だけがいいってこと?」

「ふぇ!?」

「言ってません」


 悪戯っぽい笑みを浮かべながら、蒼が爆弾のような言葉を繰り出す。それは、時間が少し巻き戻ったかのような一言で、アイリスの顔はすっかりあの時の色に染まってしまっていた。


 そんなアイリスに見つめられつつ、努めて冷静を装って言葉を選ぶ。ここで自分まで過去に戻ってしまえば、またもや収拾のつかない大騒ぎが繰り返されてしまうことだろう。それだけは絶対に避けなければならない。


「蒼の冗談ですから。気にしないでください」

「じょ、冗談……」

「僕が本気でそんなことを考えると思います?」

「だ、だって、葵さんも男の子ですし……」

「……」


 最高に返事がしづらい一言だった。恥ずかしそうに顔を俯けているというところも、そんな雰囲気に一層拍車をかけている。


「黙っちゃったってことは……、やっぱり……!」

「いや、そうじゃなくて……」


 そんな沈黙をどう受け取ったのか、アイリスの中でするすると解釈が進んでいく。その解釈があまりよくない方向を向いているような気がするのは、果たして自分の勘違いなのだろうか。


「大変だね、兄さん」

「蒼のせいですからね?」


 困った解釈をどう訂正したものかと頭を悩ませ始めた途端、元凶たる蒼から他人事のような感想が届く。この場でただ一人、何も困ることなく状況を楽しめる蒼は、いっそ憎らしい程に綺麗で清々しい笑みを口元に浮かべていた。




「……」


 時間は過ぎて夜。ある程度の片付けを終え、あとは一人で大丈夫だと言う蒼を部屋に残して解散した、そのしばらく後のこと。


 夜九時を過ぎた頃に、いきなりスマートフォンに蒼からメッセージが届いた。内容は、『部屋に来てほしい』という、至ってシンプルなもの。あまり緊急性のあるような雰囲気でもなかったが、とりあえず受け取ってすぐに部屋を出て、今に至るのだった。


「……」


 ひとまずインターフォンを鳴らし、自分の部屋からたった数歩の距離にある扉の前で蒼を待つ。こんな時間にいきなり用事ができるとは考えにくいが、一体何があったのだろうか。


 そんなことを考えながら待つこと数秒。小さく鍵の開く音がして、次いでそっと扉が開かれた。


 顔を覗かせたのは、微かに伏し目がちな蒼。


「こんな時間にごめんね、兄さん」

「それは別に気にしてませんけど。何かありました?」

「うん、ちょっとね……。とりあえず、入ってもらっていい?」

「えぇ」


 やや歯切れの悪い蒼が背を向けたのを見て、そっとその後に続く。ほとんど音がしない静かな部屋に、扉の閉まる音がやけに大きく響いた。


 自分の部屋と鏡映しになっている間取りに相変わらずの違和感を覚えながら、昼に荷解きをしていたメインの部屋へ。あとは一人で大丈夫だと言っていた通り、最後に見た時よりも随分と綺麗に片付けられていた。


「何かあるようには見えませんけど……」


 妹といえども、そこは間違いなく異性の部屋。あまりじっくりと見回すのもどうかと思って軽く眺めるだけにしたが、少なくとも何か目立って気になるようなところはない。こうなると、蒼が何を思って来てほしいと願ったのか、いよいよ以て分からなくなる。


「何の用事で……」


 不思議に思って尋ねようとしたものの、そこから言葉が続くことはなかった。


「蒼……?」

「……」


 いきなりの小さな衝撃。真正面から抱き付くようにして飛び込んできた蒼の頭は、アイリスよりも少しだけ高い位置にあった。


「……」

「……」


 名前を呼んだきり何も言えないまま、沈黙の時間が流れる。


 そうして他に意識を向けるものがなかったからこそ、背中に手を回してしがみ付く蒼が微かに震えていることに気が付く。


「いきなりごめんね……」

「別に謝る必要はないですけど……。そんなことより、大丈夫ですか?」

「え……?」

「ちょっと震えてますよね?」


 耳元で囁かれる申し訳なさそうな言葉も、今の蒼を前にすれば気にもならない。本人も気付いていなかったらしい何かに怯えるような震えは、徐々にその強さを増していた。


「ほ、ほんとだ……。何でだろうね? あはは……」

「……」

「……」

「……何か、言いたいことがあるんじゃないですか」


 困ったように笑うその声を聞きながら、ゆっくりとそう問いかける。何かを隠している声なのは誰が聞いても丸分かりだが、そこから一歩踏み出すのに躊躇わなかったのは、自分が双子の兄だったから。


「用事っていうのも、多分それですよね」

「……うん」


 反対に、やや躊躇うようにして頷く蒼。そんな動きに合わせて揺れた琥珀色の髪が、頬をそっと撫でる。


「話しにくいことなら、落ち着くまでしばらくこうしてますけど」


 それは、小さい頃の記憶。同じように何かに怯えて抱き付いてきた蒼を落ち着かせるため、何度も何度も背中を撫でていたことを思い出す。今もそれが効くのかどうかは分からないが、何もしないよりはずっといいはずだ。


 そう思い、自分の中ではあの頃とは何もかもが変わってしまった蒼の背中をそっと撫でる。


「大丈夫……。あんまりずっとこうしてると、それはそれでお話ししにくくなっちゃうから……」

「嘘ですね。見抜けないとでも思いましたか」

「う……」


 未だに震えが止まらないのに、その言葉に納得できるはずがない。分かりやすいにも程がある嘘だった。


「そのまましばらく撫でられていればいいんです」

「……いいの?」

「よくなかったら離してます」

「そっか……」


 やや力なくそう呟いた後、そのまま蒼の言葉が途切れた。代わりに、しがみ付く力が少しだけ強くなる。


「……っ」

「……」


 そんな蒼を前にして、今できることはたった一つだけ。蒼が少しでも安心できるようにと、相変わらず何かに怯えるように震えるその背中を、優しくゆっくりと撫で続けるのだった。




「少しは落ち着きました?」

「ん……」


 お互いしばらく無言で過ごした後、様子を窺うようにして尋ねてみれば、そんなか細い声と共に頷きが返ってきた。


「ごめんね。ありがと」

「さっきも聞きましたよ。気にしなくていいです」


 するりと腕を離した蒼が、少しだけ距離を取る。お互いの顔を見て話せる、その程度の距離。


「やっぱり、小さい頃から変わらず優しいんだね」

「今のは誰だってそうすると思いますけど」

「細かいことは気にしなくていいの。私が優しいって思ったんだから、兄さんは優しいの」


 照れたように頬を染める蒼が言う。その顔に浮かぶ怯えの色は、先程までよりも随分と薄くなっているような気がした。


「で、いきなりで戸惑ったよね?」

「それは、まぁ……。何の前触れもありませんでしたし」

「ほんとに何でもないの。ただ、ちょっと怖くなっちゃって……」

「怖い?」


 この場面で出てくるとは思えない一言。部屋の前で見た時と同じように伏し目がちになった蒼の口から出てきたのは、そんな言葉。


「うん。昨日兄さんと会ってからさっきまで、ずっと一緒にいたでしょ?」

「ですね。何故か寝る部屋まで同じでしたから」

「そ。だからね、このお部屋で一人になったのが、久しぶりに兄さんと離れたタイミングだったの」

「……」


 何が言いたいのか、何となくその輪郭が掴めてきた。普通ならばそんなことは思わないのかもしれないが、生憎自分達は普通の兄妹ではない。その生まれも、過去の出来事も。


「そうしたら、つい考えちゃって……。また兄さんがいなくなっちゃったらって」

「……」

「普通じゃないのは分かってるけど、一回あんなことがあったから」

「まぁ……」


 予想は的中。だが、的中しない方がよかったと考えてしまうのは、果たしてこの場では間違ったことだったのだろうか。今の自分では、正解がよく分からなかった。


「ほんとはね、昨日会うつもりはなかったんだ。もっとちゃんと心の準備をして、それから会う予定だったの」

「でも、偶然会ってしまった、と」

「うん。考えただけの予定なんて、何にも役に立たないね」


 そう言って困ったように微笑む蒼。言う割に嫌な感情が浮かんでいるようには見えないのが、唯一のよかった点か。


「何の準備もできてないのに会っちゃったから、その分反動も大きくて……」

「……」

「もうそんなことはないって思いたかったし、無理矢理言い聞かせたりもしたんだけど、やっぱりだめだったみたい。あはは……」


 困ったような笑みが、より一層深くなっていく。昔見たことがある表情ではあったが、大人びた今の蒼が浮かべるその笑みは、どこか儚い印象が強くなっていた。


「……こんなことを言ってるけど、ほんとはそうじゃないのかもね」


 微かに間を空けて続いた言葉は、一瞬前の自分を否定するかのようなもの。


「そうじゃない?」

「私さ、去年まで何も思い出せなかったって言ったよね?」

「えぇ。聞きました」

「ってことはね? あの事件のことも、全部忘れてたんだよ?」

「……」

「思い出した時、ほんとに怖くて。お部屋でうずくまって、泣きそうになるのをとにかく我慢してたんだ」


 その当時のことを思い出すようにして話す蒼。気のせいか、その目にはうっすらと涙が浮かんでいるようにも見える。


「自分がどうして色々忘れちゃったのかとか、納得することも多かったんだけど、最初に思い浮かんだのは兄さんのことなんだよ?」

「僕……?」

「うん。もしかしたら、大好きだった兄さんが死んじゃったんじゃないかって」

「……っ」


 その言葉を聞いた瞬間、この二日間の自分の至らなさに気が付いた。


 思えば当然のことである。自分が蒼のことをそう思っていたのと同じように、蒼も自分のことをそう思っていてもおかしくはない。そのことで自分が色々と思うことがあったのだから、蒼だって思うことがあって当然である。


 だというのに、自分は何をしていたか。ただ状況に流されるままに蒼と言葉を交わして、一人で勝手に納得しようとしていなかっただろうか。


「そんなはずないって。きっと無事でいてくれてるって思ってたけど、でも心のどこかで、じゃあどうして傍にいてくれてないんだろうって考えちゃって……」

「……」

「そうしたら、どんどん悪い方向にばっかり考えるようになってね……? 兄さんのことを探してる間も、助からなかったってことだけが分かっちゃったらどうしようって……」


 この二日間を後悔している間にも、蒼の言葉は続いていく。堪えきれなくなったのか、とうとうその瞳から一粒の涙が零れ落ちた。蛍光灯の光を受けて煌く雫は、頬に一筋の跡を残して床へと落ちていく。


「そんなことばっかり考えてたから、見つけた時はほんとに嬉しくて……! でも、そんなことばっかり考えてたから、またいなくなっちゃったらどうしようって怖くて……!」

「蒼……」

「昨日今日で思ったことじゃないの! ずっとずっと、怖くて仕方なかったの!」


 一度溢れ出した雫は止まらない。次から次へと頬を伝い、足元に小さな跡を刻み付ける。


「一人になったら、余計にそのことばっかり考えちゃって……! 誰かに助けてほしくて……!」


 震える声を必死に絞り出すようにして、その一言を口にする。もう涙を堪える余裕すらないらしかった。


「助けてよぉ……!」


 その言葉と共に、自ら離したはずの距離を再び詰め、縋りつくようにしてすすり泣く声を漏らす。


「……何も気付けなくてすみません」


 首筋が微かに濡れるのを感じながら、辛うじてそれだけを口にする。


 もっと考えるべきだった。昨日会った時から随分と明るく振る舞っていたので忘れそうになっていたが、元々蒼はそこまで活発な性格はしていなかったはずだ。記憶の中の蒼は、いつでも自分の後ろ。そんな人間の根本が簡単に変わるはずもないのだから、今も心の奥底には昔の蒼がいると、いくらでも想像できたはずなのに。


 改めて、何も考えずに蒼の言葉を受け取るだけだった自分を恨むばかりだった。


「もう絶対、勝手にいなくなったりはしないですから」

「……」

「もっと蒼のことも考えますし、あの頃以上に大事にします」

「……ほんと?」

「えぇ。本当です」


 だからこそ、最初に告げるべきはこの言葉。何をどう言葉にするよりも、蒼の不安を取り除くのが最優先。その他のことは後回しでいい。


「ほんとに、どこかに行ったりしない……?」

「蒼やアイリスさんに嫌われたりしない限りは」

「……そんなこと、絶対しないもん」

「じゃあ安心ですね」


 まるで昔に戻ったかのような幼い口調。場違いであることなど分かってはいるが、それでも懐かしく思ってしまうのは止められない。


「そもそも、隣の部屋に妹がいるんですから、ばれずにいなくなるなんてこと、そう簡単にできはしませんよ」

「毎日確認してもいい……?」

「方法にもよりますけど」

「……呼び鈴を連打する」

「絶対にやめてください」


 それが原因で出ていくことになりかねない。


「でも、そんなことが言えるなら、多少は回復したってことですかね」

「昔からずっと、兄さんは私の精神安定剤だったから……」

「言う程不安定でもなかったじゃないですか」

「今は不安定だから」

「そうかもしれませんけど」


 そう言われてしまうと何も拒めなくなる。事実、微かに落ち着きを取り戻してなお、蒼の腕はしっかりと背中に回されたままだった。


「……蒼」

「なに……?」


 再びその背中を撫でながら、意を決してそっと呼びかける。そんな流れではないことくらい分かっていたが、それでも今言っておかないと、今後はどんどん言い出しづらくなるだろうと思ったからだ。


「今、とにかく後悔してるんです」

「……」

「昨日からずっと、蒼は明るく振る舞ってくれましたよね? 内心は今みたいに怖くて仕方がなかったはずなのに」

「うん……」

「それなのに、僕は何も知らずにただその明るさを受け取るだけで、何も返してませんでした。ただ妹の優しさに甘えてるだけだったんです」

「そんなことは……」

「ありますよ」


 それもまた気遣ってくれた結果であろう言葉に、即座に否定の言葉が口を衝いて出る。いかに蒼の言葉といえども、そこまで甘えてしまう訳にはいかなかった。


「僕達が余計なことを考えなくて済むように、ずっと気遣ってくれてたじゃないですか。……まぁ、それに気付いたのはついさっきですけど」


 本当に情けない話である。たった一人に不安を全て押し付けてしまうなど、双子の兄としては失格もいいところだ。


「つくづく痛感しました。僕は蒼のことを何も知らないって」

「……」

「だから、教えてほしいんです」

「え……?」


 そこまで話したところで、蒼からは困惑したような声が返ってきた。いつの間にか、背中に回った手の力が緩んでいる。


「一緒にいなかった間、蒼がどこで、どんなことをしていたのか。何を見て、何を思ったのか。今の蒼がどういう妹なのか。色々なことを知りたいんです」

「それは……」

「話すのが恥ずかしいことがあれば、それは別に隠してくれたっていいんです。でも、蒼が話したいと思ってくれたことなら、どれだけ時間がかかってもきちんと聞きます。一人が怖いって感覚を忘れてしまうまで、どれだけでも一緒にいます」

「……」

「それが、今の僕にできる精いっぱいですから」


 言いきった。途中でやたらと恥ずかしい言葉を並べ立てたような気もするが、何とか最後まで辿り着いた。


 こんな場面で嘘など口にできるはずもなく、最初から最後まで本心からの言葉である。蒼には見えていないはずの顔が若干熱くなっているものの、蒼のためにも、そして自分のためにも言わなければならない言葉だった。


「……私、お話長いよ……?」

「構わないって言ってます」

「兄さんにとっては面白くないかも……」

「面白い、面白くないじゃなくて、蒼のことを知りたいんです」

「う……」


 小さな呻き声一つ。どうやら、思いの外蒼の心に刺さってくれたらしい。


「こ、告白みたいなことを言ってるって自覚、ちゃんとある……?」

「アイリスさんにはもっとストレートに言いました」

「そ、そっか……」

「……」

「……」


 そんな戸惑ったような言葉を零したきり、蒼の口がしばらく閉じられる。自分から返事を催促するのもどうかと思えて同じように沈黙を選択するも、気持ちはどこか落ち着かない。


「……私も」

「ん?」


 僅かな気まずさを含んだ空気の中、しばらく考えるようにしていた蒼の口が再び開く。


「私も、兄さんのことを色々聞きたい」

「僕?」

「うん。私だって、一緒にいなかった間の兄さんを知りたいから」

「……」

「だめ……?」

「そんなわけがないじゃないですか。いくらでも話しますよ」

「……やった」


 その一言と共に、小さく安堵のため息が聞こえた。少しずつではあるが、昨日今日の明るかった蒼の雰囲気が戻ってくるような、そんな気配があった。


「春休みはまだあるもんね? たくさん聞いちゃうよ?」

「望むところです。僕だって色々聞きますから」

「私だって望むところだよ。覚悟しておいてね?」

「何の覚悟ですか」

「さぁ?」


 お互いの顔を見ないまま、そんな軽口を叩き合う。この調子なら、蒼が恐怖を忘れるのもそう遠くないのかもしれない。


「……」

「……」


 そのまま二人して、相手を離すタイミングを見失う。こんなところまで双子でお揃いだった。


「……ねぇ、兄さん」

「何です?」

「実はね、一つだけ、言うのを忘れてたことがあるんだ」

「忘れてたこと?」

「うん」


 さてどんなタイミングで腕を離そうかと考えていたところに、蒼からそんな言葉が投げかけられる。何が言いたいのか分からなくて鸚鵡返しをしてしまったところで、見失っていたタイミングを見つけ出したかのように、蒼の腕が離れていく。


「あのね、兄さん」

「……?」


 大して時間は経っていないはずなのに、随分と久しぶりに見たような気がするその顔。そこには、涙の跡が残りながらも、それでも今日一番と断言できる笑みが浮かんでいる。


「……ただいま」


 そうして告げられたのは、ありふれた日常の挨拶。ただし、そこに込められた想いは、当然ありふれたものではなく。


 未だに思い出すあの時間と、その後の離れ離れになっていた時間。長かった隔絶を埋めようとする、その始まりの一歩を踏み出すための言葉で。


 だからこそ、自分が口にするべき言葉も、もう既に決まっている。


「……おかえりなさい」


 自分が返すその一言も、ありふれていない感情を込めた、ありふれた日常の挨拶なのだった。

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