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113. 踏み出した先 (1)

「約束通り、葵さんがお布団で蒼がベッドですからね!」

「言われなくても、一緒になんて寝ませんって」

「お部屋は一緒だけどね」

「ぐぬ……!」


 部屋割りも何も、アイリスが自室で寝る以上、客間を使うことになるのは蒼と自分しかいない。考えることもほぼないまま、あっという間に決定した。


「葵さんが潜り込むことなんて心配してませんけど、蒼が潜り込むかもしれないのは不安です!」

「起きてる時なら止められますけど、寝てる時は流石に無理ですからね」

「兄さんは早寝派? それとも夜更かし派?」

「基本は早い方だと思いますけど……」

「ふーん……。そっかぁ……」

「絶対に何かを企んでます……!」


 にこりと笑って言う蒼の姿を見て、アイリスが不安を滲ませる。その感情に突き動かされたのか、腕を引いて蒼と自分の距離を離そうとすらしていた。


「気になって夜も眠れないです……」

「奇遇ですね。僕もいつ潜り込まれるか不安で、なかなか眠れませんでしたよ」

「よかったね、アイリス。兄さんとお揃いだよ?」

「それを蒼に言われるのは、何か違う気がします」


 ややぎこちない蒼の「アイリス」呼び。先程蒼の家まで一日分の着替えを取りに行った際、アイリスから蒼に提案した呼び方だった。


 曰く、自分の方が年下なのだから、「さん」付けで呼ばれるのは落ち着かないとのこと。悠や碧依、莉花から一年間そう呼ばれている中で、何故蒼だけにそう伝えたのかは分からない。分からないが、そこには家族という言葉が見え隠れしている気配がある。


 ついでに言えば、しばらく話すことである程度打ち解けたのか、アイリスに対する蒼の口調が柔らかなものに変わっていた。


「お布団を敷くのなら私のお部屋でもできますし、やっぱり葵さんが私のお部屋で寝ません?」

「絶対に寝られないのでお断りです」

「どうして寝られないんだろうね?」

「静かにしててください」


 言うまでもなく、緊張するからである。去年の年末に見た寝顔がすぐ近くにある状況で安眠するなど、今の自分には到底できることではない。


 実際にその出来事を知らない蒼が過去のことを口にしているはずもないが、似たようなことを考えていてもおかしくはない。実際、蒼の口元は楽しそうに弧を描いていた。


「じゃあ、私がこのお部屋のお布団で寝て、葵さんは私のベッドで寝る、とか」

「もっと寝られないのでやめてください」

「これは聞かなくても分かっちゃうね」

「じゃあ何も言わないでください」


 そう口にする蒼が理解しているのは当然として、提案したアイリスの頬が赤いところを見ると、本人も何かを想像して恥ずかしさを感じているのははっきりしている。ならば、提案すること自体を控えてほしかった。


「アイリスも、そんなに心配しなくても大丈夫だって。流石に彼女さんがいる家で潜り込んだりはしないから」

「……ほんとですか? 抜き打ちでチェックに来ても大丈夫です?」

「夜は寝ようよ。体に悪いって」

「蒼のせいなのに……」

「そもそも、何でそんなに疑われてるの、私」


 不思議で仕方がないといった様子で蒼が首を傾げる。言われてみれば、確かにアイリスの蒼に対する警戒心の強さは見たことがないレベルだった。それこそ、付き合っている相手の家族に向ける強さではない。


「……」


 そこまで考えたところで頭の中にアーロンとレティシアが浮かんできたのは、きっと自分の気のせいだと思うことにした。警戒心の方向性が違う。


「だって、蒼から私とおんなじ気配がするんですもん」

「おんなじ気配?」

「葵さんを好き過ぎる気配です」

「そ、そんなに……?」


 二人の姿を頭から追い出しているその目の前で、あまりにも直球が過ぎるアイリスの一言によって、蒼までもが頬を赤くする事態に発展していた。少し目を離しただけでこれである。


「ま、まぁ、確かに大好きだからね。しばらく会えなかった分もあるし……」

「溜め込んだものが爆発しそうで心配です」

「小出しにして爆発させていくから、それで許して?」

「変なことは絶対にしちゃだめなんですからね?」

「隠れてやっちゃえば……」

「私の葵さんへのべったり具合を侮ってもらったら困ります。そう簡単に隠れられませんよ」

「……」


 少し目を離して放っておくと、すぐこれである。ある意味アイリスと蒼の相性がいいのかもしれない。そうでもなければ、ここまで自然に自分の退路が断たれる流れにはなっていないだろう。


「何怪しげな方向に話を進めてるんですか」

「怪しくなんてないですよ? 私が葵さんに甘えるってお話です」

「そうそう。何にも怪しくないよ? アイリスに隠れて私も甘えるってお話だし」

「怪しさしか感じませんよ?」


 二人してきょとんとした顔で、さらには口を揃えて言いきった。やはり、間違いなく相性がいい。


「と言うか、アイリスは兄さんの左側で甘えるんだから、私は右側から甘えたらいいだけのお話だよね」

「何の話です?」

「こんなお話っ!」

「あっ!?」

「うっ……!?」


 そんなことは一切話していないにも関わらず、アイリスがいつも左側にいることを見抜いた蒼が右腕に抱き付いてきた。やけに楽しそうな表情を向けてくるが、自分の内心はそれどころではない。


「空いてるスペースの有効活用ってことで!」

「ずるいですよ! 抱き付くのは私の特権です!」

「ぐ……!」


 今度は左腕にアイリスが。自分をより深い混乱に突き落とそうとでもしているのか、それとも単に蒼に張り合っているだけなのか。しっかりと抱き締められた左腕は、普段よりもはっきりとアイリスの熱を感じ取っていた。


「残念。妹の特権でもあるからね」

「むぅー!」


 そんな自分の焦りなど知るはずもなく、徐々に蒼にペースを握られつつあるアイリスが、唇を尖らせて不満の声を上げる。


 アイリスの警戒は、まだしばらく解けそうにない。




「……」


 真夜中。特に何の気配もしていないのに、何故か勝手に目が覚めた。


 いつもなら即座に目を閉じて再び眠りに落ちていくはずなのに、今日は不思議とそんな気分にはなれなかった。


 月は雲に隠れてしまっているのか、カーテンの隙間から漏れる月明かりは少なく、部屋の中は驚く程の暗闇に包まれている。


「……」


 そんな暗闇の中、ゆっくりと体を起こす。当然眠気は残っているものの、無意識ではなく、はっきりと意識しての行動だった。


「……」


 そのままそっと視線を壁に向ける。その壁は、自分の部屋と二人が眠っているはずの部屋を隔てる一枚の壁。物理的な厚さにすれば大したことのない厚みだが、心理的な厚みはそうもいかない。


「……」


 というのは過去の話。そこで眠る想い人と付き合い始めてからは、幾分か心理的なハードルも下がったような気がしていた。実際、かなりの頻度で忍び込んでは寝顔を眺めている。


「今日こそ……」


 目が覚めてしまってから、初めて口にした言葉。それは、ある意味覚悟を決める一言。これまで何度も口にしながらも、結局実現させられなかった願いを叶えるための一言でもある。


 こんなことを考えながら寝たのも、こんな夜半に目覚めた原因なのかもしれない。


「よし……」


 相変わらず眠気が纏わりつく体を動かして部屋を出る。気持ちは大胆に。けれども歩みは慎重に。確実に、ゆっくりと隣の部屋の前へと移動する。


 部屋の中と同じような暗闇の中、微かな物音も立てないようにドアノブへと手を伸ばす。思えば、初めてこうして葵が寝ている部屋に忍び込もうとした時とは、動きに違いがあり過ぎる。


 あの時は何度か躊躇いながら足を踏み入れたというのに、今や自然と体が動く。心臓が高鳴るのは変わりないが、その理由が変わったのなら、これもまた変化と言えるのだろう。


「お邪魔しまーす……」


 部屋の中で寝ているのが二人に増えようが、そうして小さく声をかけるのだけはやめない。仮にそれで寝ている相手を起こしてしまおうとも、自分以外の誰かが使っている部屋に入る時には口にすべきだ。


 そもそも誰かが寝ている時に忍び込むこと自体がおかしいという脳内の意見は、今だけは意識しないことにした。


「寝てますかー……?」


 声をかけた時に何の反応もなかった時点で分かってはいるが、それでも一応念を入れて確認する。本当は起きていたとしても、ここで撤退する選択肢など最初から存在していなかったが。


「……」


 二言目にも反応がないことを確認して、これまでよりも慎重に床に敷かれた布団へと近付いていく。その途中、約束通りベッドで眠る蒼の姿が目に入った。


(おんなじ寝顔……)


 掛け布団からはみ出すその寝顔は、もう何度も目にしてきた葵の寝顔と同じもの。双子なのだからと言ってしまえばそれまでだが、起きている時に見るよりもさらに似ているような気がした。


 一卵性ではあるが、非常に珍しい異性の双子。その性別の違いからなのか、起きている時はやはり雰囲気に小さな違いを感じることもあった。寝ていることで、その雰囲気の違いが薄れているのが原因なのだろう。


(って、今は蒼じゃなくて……)


 そこまで考えたところで、意識を同じ部屋で眠るもう一人に向ける。今日出会ったのだから当たり前の話だが、初めて見る蒼の寝顔に危うく引き込まれそうになってしまっていた。それだけ可愛い寝顔をしているということでもある。


 その寝顔からどうにか視線を外し、ベッドを背にしてカーペットの上にぺたりと座る。そうして目の前に現れたのは、何度見ても心臓の高鳴りを抑えられない、想い人の眠る姿。先程よりも月明かりが強くなっているのか、微かにではあるが部屋の中が明るくなって葵のことを照らしている。


「……」


 どれだけ見ていても飽きることがない葵の寝顔。普段は朝に忍び込んでいるので比較的明るい中で見つめていることになるが、こうして微かな明かりに照らされている様も、それはそれで心に刺さるものがある。上手く言葉にはできないが、どこか神秘的な雰囲気がある、とでも言えばいいのか。


 とにかく、見る機会が少ないパターンの寝顔なのだから、じっくりこの目に焼き付けておきたいと願うのは当然のことだった。


「……」


 そうしてじっと見つめること数分。満足するまで寝顔を堪能したところで、本来の目的を果たすためにそっと手を伸ばす。


 慎重に、音を立てないように。どうせこの後はどうしても音が出るのだろうが、だからこそ、静かに動くことができる場面で音は立てたくなかった。


 それでも手が微かに震えてしまうのは、やはり緊張しているからなのだろう。自分のことなのでよく分かるが、寝顔を見ることで高鳴る鼓動とはまた違った種類の高鳴りが、今の拍動の大部分を占めている。


(そーっと……、そーっと……)


 言葉を口に出すことすらせず、ゆっくりと心の中で呟きながら、遂に掛け布団の端に手をかける。ここまでくれば、あとは慎重に持ち上げて自分の体を滑り込ませるだけ。


「……」


 だというのに、そこから先の動きが止まってしまう。緊張が極限まで高まってしまったのか、いつの間にか手の震えは「微かに」程度ではなくなっている。


(うぅー……!)


 これまた声には出さず、一人心の中で悶える。緊張を乗り越えてこのまま進むのか、それともこれまでのように未遂で終わらせてしまうのか。


 誰も答えを教えてくれない問題を抱えながら、人一人分盛り上がった掛け布団の端を掴んだまま固まり続ける。


「……んぅ」

「……!」


 そんな中、背後から小さな声が聞こえてきた。当然、その声の主は蒼以外にあり得ない。弾かれるようにして振り返ってみれば、葵と同じ薄茶色の瞳は閉じられたままだった。


(起きたのかと思ったぁ……!)


 相変わらず眠っていることを確認して、ひとまずは胸を撫で下ろす。もし蒼が起きてしまったのなら、今日も未遂で終わってしまうところだった。


「……」


 これまでとはさらに違う種類の緊張に苛まれながら、念のためしばらく蒼の様子を確認する。寝ている振りではないと思ってはいるが、万が一ということもない訳ではない。用心するに越したことはないはずだ。


(よし、ほんとに寝てる)


 結果、先程の声は無意識に漏れた寝言のようなものだったのだと断定する。どう表現するのが正解なのかは分からないが、規則正しく寝息を立てるその姿は、とても狸寝入りをしているようには見えなかった。


「……」


 そこまで確認してから、再度葵に向き直る。振り返っている間も掛け布団の端を掴んだままだった手は、いつの間にか震えることをやめていた。緊張が別のことで上書きされてしまったからだろうか。


(そう、じゃない……、かも……)


 一度はそう考えたものの、すぐに答えに辿り着く。


(蒼がいるから……)


 気付いてしまえば単純な答え。これまでとの違いは蒼の存在なので、本来ならば考えるまでもないことだった。


(これも嫉妬……?)


 葵の顔を見つめながらそう考える。これまで碧依に対して僅かに向けたことがある感情を、より強くして蒼に向けてしまっていることには気付いていた。


 相手は妹なのだと分かっていても、どうしても抑えることができなかった感情。自分にだけ向けられていたはずの眼差しが蒼にも向けられていると気付いた時の、あのどうしようもない焦燥感も、元を辿れば同じ感情だったのだろう。


 葵にとって蒼がどれだけ大事な存在なのかはある程度分かっているつもりで、もちろんそれを邪険に扱うつもりも毛頭ない。自分のことを見てほしいとは思いつつも、蒼のことを気にしてしまうのも仕方がないと分かっている。


 それでも、自分が一番であってほしいと願ってしまうのは我慢できなかった。


(面倒な彼女だ……)


 流石に自分でもそう思う。こんな感情を向けられて困るのが葵と蒼であることも、当然理解している。


 だが、同時に蒼には感謝もしていた。どうしても勇気が出なくて停滞していた自分を、その存在そのものが後押ししてくれているからだ。血の繋がった家族という、葵にとって一番近い場所にいる相手にどうこう思うのも違うような気がするが、自分もそれだけ近くに行きたいと願う原動力になっているのは間違いない。


 だからこそ、今夜だった。あと一歩が踏み出せなかったこれまでの自分ではなく、蒼の姿を見て、葵にもっと近付きたいと願った今日の自分だったから。


「……まだ、起きないでくださいね?」


 返事がないことなど分かっていても、一歩を踏み出すためにそう口にする。案の定、蒼と同じく規則正しく寝息を立てる葵から、何かの言葉が返ってくることはなかった。


 そのことに一旦安堵しつつ、ゆっくりと掛け布団を持ち上げていく。普段は近付いただけで目を覚ますこともある葵だが、今日は未だに眠り続けたままだった。


(あとちょっと……!)


 もう少しで、自分が滑り込める程度には掛け布団が持ち上がる。もちろん、その分冷たい空気が布団の中に流れ込んでいる訳なので、葵が違和感を覚えて目を覚ます可能性は格段に跳ね上がる。丁寧に、それでも素早く行動を進めなければならなかった。


「お、お邪魔しちゃいますよー……?」


 そうしてやっとの思いで辿り着いたゴールの目前。あとは体を滑り込ませるだけとなった段階で、本当に最後の確認として問いかける。それは自分に対する問いかけでもあり、部屋に足を踏み入れる時のものとは全く違う色を持った問いかけだった。


(よし……!)


 最後にもう一度気合いを入れ直し、いよいよ布団の中へと潜り込んでいく。葵が目を覚ましてしまう可能性は、今が一番高いのは言うまでもない。冷たい空気が流れ込んできたなどというレベルの違和感では済まない、人一人分の違和感。ただ、ここまでくれば、仮に葵が目を覚ましたとしても、そのまま押しきるつもりではいる。


「……っ! ……っ!」


 どうにかこうにか布団に体を横たえ、そっと掛け布団を元に戻す。まだ潜り込んだだけなので葵との間に隙間はあるものの、高鳴る心臓は何をしても落ち着きを取り戻せそうにない程に早鐘を打つ。


 何度か寝返りを打った後だからなのか、葵の体は布団の中心からは少しだけ端に寄っている。そのおかげで、自分が潜り込むスペースがあったという訳だが。


(これだめかもぉ……!)


 あまりに緊張し過ぎて引き下がりたい訳ではない。単に幸せ過ぎて、葵が泊まっていく日は毎日潜り込んでしまいそうな気がしたからこその、その感想だった。


 寝顔までの距離が、今までよりも圧倒的に近い。手を伸ばすどころか、少しだけ顔を近付けるだけで額がぶつかってしまうのではないかとすら思ってしまうような、そんな距離。


 近さだけで言えば、普段腕に抱き付いている時の方が近いのは分かっている。それから比べると、隙間が空いている分、むしろ距離としては遠くなっている。けれども、特殊過ぎる状況、願っていた状況ということもあって、精神的な距離はずっと近く感じられた。


「もっと……!」


 溢れ出る感情に押されるように、少しだけ残った隙間すらも埋めてしまう。無防備に差し出された葵の腕に抱き付くようにして、とうとう何度も繰り返した妄想を現実のものとする。


(わぁ……! うわぁ……!?)


 起きている時に腕に抱き付くのとは全く違う。そこには自分の感情の違いというものもあったのだろうが、何よりここまでしても葵が安心して眠っているというその事実が、一層心を温かくさせる。


 いつの間にか自分で思っているより葵に近いところにいたのかと思うと、落ち着く気配も見せなかった鼓動が、少しずつ穏やかになっていくような気がした。


(好き過ぎる……!)


 そうして改めて、確認するまでもない想いを再確認する。


 想いを自覚した時。想いを育んだ時。想いを告げられ、告げた時。その後から今に至るまでも、ずっと想いの大きさは更新し続けてきたが、間違いなく今が最高潮。きっと今後も更新していくことになるのだろうが、少なくとも今この瞬間は自分史上最高記録だった。


「……」


 そんな熱を視線に込めて、仰向けに眠る葵の横顔をじっと見つめる。昂った感情そのままに、その頬に口付けてしまおうかとも思ったが、寸前のところで思い留まる。


 確かに以前はそんなことをしてしまったが、あの時はまだ付き合ってはいなかったからというのが大きい。正式に付き合っている今なら、わざわざ隠れてしなくても、葵が起きている時に堂々としてしまっても何も問題はないはずだ。むしろ、その方が反応を見られて嬉しいのかもしれない。


(我慢……、我慢……)


 葵としたいことリストにそっとメモを残しつつ、今はその横顔を至近距離から堪能するだけに留める。何度も見てきたその顔も、こんな状況で眺めるのは初めてだった。


(可愛い、好き)


 それだけしか言葉を知らないかのように、同じ感想がぐるぐると頭の中を回り続ける。男の子なのにどこをどう切り取っても可愛くなる意味の分からなさも、自分にとっては葵の魅力の一つにしか思えなかった。


「あふ……」


 そうしてぼんやりと眺めているうちに、薄れていた眠気が再び体を包み始めた。心臓の高鳴りはまだ落ち着ききらないものの、眠りに落ちるのを妨げる程ではない。


「んぅ……」


 このまま目を閉じれば、きっとこれまでで一番幸せな眠りが訪れる。そう確信して、額を葵の腕に押し付け、そっと目を閉じる。


 二人分の体温で暖まった布団の中、穏やかな眠りに落ちていくまでに、そう長い時間はかからなかった。




「……?」


 何か違和感があった。「何か」などという表現では生温い程の、とても大きな違和感が。


 まだ半分以上寝ているのと同じような頭ではあるものの、どう考えても布団の中が暖か過ぎる。それこそ、自分の体温以外に何かの熱源があるかのように。


「……?」


 そこまでぼんやりと考えて、自分が何かを抱き締めていることに気が付く。回らない頭ではあるが、この辺りで盛大に嫌な予感がした。


「……」


 気付いてしまえば、もう聞き逃すことはできない。やたらと近い場所から、本当に小さく誰かの呼吸音が聞こえてくる。普段誰かと話す時には絶対に聞こえてこないような、そんな微かな音が聞こえてくるのは、それだけの距離に相手がいるから以外の理由がない。


 気付いてしまえば、もう何も感じないとは言えない。普段近くにいる時にも漂ってくる甘い香り。その香りが、いつもより随分と濃く漂ってくる。いくら寝ていたとはいえ、気付けなかったのが不思議なくらいに。


 気付いてしまえば、もう無視することはできない。何かを抱き締めている右腕とは反対側。まるでいつもそうしているのと同じだとでも言うように、左腕が誰かにしっかりと抱き締められていた。


(誰かって……)


 声に出さずに考える。まだ目を開けていない以上、自分が抱き締めているのが人なのか物なのかは分からない。けれども、五感のうち三つが人であると告げているうえに、嗅覚に至っては特定の個人を指し示してすらいる。


「……」


 ほとんど確信に近い予想を抱きつつ、恐る恐る目を開ける。


「やっぱり……!」


 思わず声が漏れる。


 目に飛び込んできたのは菜の花色。胸元に顔を埋めるようにして眠る、その頭頂部の色だった。甘い香りも、その髪がこれだけ近くにあれば濃くなって当然である。


 そうしてその存在を認識した途端、部屋着の胸元がやたらと熱を持っていることに気付く。ずっと吐息を浴び続けていたからなのだろうが、それならそれでどれだけの時間こうしていればここまで温かくなるのだろうか。


 あまり考えない方がいい思考になりかけたのを察知して、その先を考えるのを自らやめる。その方が、多少は気持ちが楽になりそうな気がした。


「う……!」


 気がしただけで、本当にそうなるとは限らない。実際、自分が発した小さな声に反応したのか、さらに密着するように体を動かしてくるその人物に、たった一文字の苦悶を漏らす。


 このまま布団から逃げ出してしまえば、こんな苦悶からも解放されるのは分かっている。だが、左腕をしっかりと抱えられている今、そうそう簡単に逃げ出すこともできない。


「前から言ってましたけど、本当に潜り込んでくるなんて……!」


 そんな訳で、言うまでもなくアイリスだった。当然、自分が右腕でしっかりと抱き締めているのもアイリス。温かくて、小さくて、そして柔らかくて。自分とは全く違う、付き合い始めてからまだそこまで時間が経っていない、大事な恋人がそこにいた。


「……っ」


 寝起きなのに鼓動が一気に強くなる。心の準備も何もしていなかったところにこんなことされては、自分としては太刀打ちできるはずがない。あまりの出来事に体が固まってしまって、アイリスを抱き締めている腕を離すことすらできなかった。


 胸元に埋められているだけあって、その寝顔は見ることができない。だが、穏やかな寝息と共に微かに上下する肩を見る限り、何も憂うことなく、あの時見たような寝顔をしているのだろう。また見られなかったのが残念だとは思っていない。誓って。


「潜り込まれちゃったね?」

「は……?」


 今の状況をどうすることもできないまま悩んでいると、思いもしなかった声が耳に届いた。思いもしていなかったところで、その声の主は一人しかいないのだが。


 今の今まで全く意識していなかったベッドの上へと視線を移す。


「おはよう、兄さん。見ちゃった」

「……」


 しっかりと目を開いてこちらを見つめる蒼が、そこにいた。


「何か言うことはある?」

「……」


 楽しそうに言う蒼の口は、とても穏やかな笑みを形作っていた。怖い。


「もしかして、兄さんも抱き締めてたりしない?」

「……」

「お布団の形で分かっちゃうよ?」

「……誰にも、言わないでもらえると……」

「どうしようかなぁ……」


 穏やかな笑みが悪戯っぽい笑みへ。誰に言おうと思っているのかは考えなくても分かる。そもそも、蒼がこのことを話せる相手など二人しかいない。


「って、どうせアイリスさんの口からばれるじゃないですか」

「あ、気付いた」

「僕は何を気にして……」

「アイリスの寝顔の可愛さに動揺した?」

「見えません」

「知ってる」


 胸元にアイリスの頭がある時点で、蒼も寝顔は見えていないことには気付いていたらしい。それでもそんなことを言ってきた辺り、もう完全にからかいモードに入っているということだろう。この上なく厄介である。


「それにしても、本当に潜り込んできたんだね」

「目が覚めた時の驚きといったら……」

「変な呻き声が出てたもんね」

「ですよね……、聞いてますよね……」

「うん。全部」


 あれだけ意識がはっきりとしている蒼が、たった今目覚めたばかりだとは到底思えない。ならば、自分が目を覚ましてからの言動は、全て見られていたと考えてもいいはずだ。恥ずかしさしかない。


「そんなになっちゃうのに、お布団から出ようとは思わなかったんだ?」

「……腕を抱き締められてます」

「あー……」


 流石双子と言うべきか、考えることはやはり同じだった。だが生憎、蒼と自分では違いが一つある。布団の中の状況を知っているか、知らないか。言葉にすればそれだけの違いも、現実のものとなってしまえば大きな違いになる。


 そのことを理解したのか、蒼の視線が生温かいものに変わる。


「幸せ?」

「聞き方がおかしくないですか?」

「腕が」

「やっぱりおかしくないですか?」


 妹からされたい質問では到底なかった。もう叶わない願いとなってしまったが。


「と言うか、これだけ普通にお話ししてるのに起きないんだね、アイリス」

「いや……。さっきからもぞもぞし始めたので、そろそろ起きるんじゃないかと思いますよ」

「そしたらまた大騒ぎだ?」

「この家で静かな朝なんてあるんですかね……」

「静かな朝を迎えられるように頑張ってね、兄さん」

「他人事だと思って……」


 実際他人事なのだろうが、その穏やかな朝のためにもう少し歩み寄ってくれてもいいのではないかと思うのは、果たして自分だけなのだろうか。


「んむぅ……」


 そんなこんなで蒼にからかわれているうちに、とうとう眠り姫のお目覚めの時間を迎えるのだった。

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