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112. 桜に染まる琥珀色 (3)

「それで、あの火事の後はどうしてたんですか」


 自分以外にとってやっと状況が落ち着いたところで、逸れに逸れていた話を本題に戻す。そこの話を聞くことができるのなら、自分が落ち着かないことなど些細なことと言ってもいい。


「あの後……」

「思い出したくないなら、無理にとは言いませんけど」

「あ、そうじゃなくてね……」


 何かを考えるように、軽く俯く蒼。その目は机の上を眺めているようにも、その先を見透かそうとしているようにも見える。


「兄さんも多分そうだったんだろうなって思うんだけど、とにかく必死で家から出たの。どこをどう逃げたか分からないくらい、周りを見る余裕なんてなかった」


 やがて口が開いて、記憶が語られる。自分と同じ場にいたのだから、経験したことも同じ。それでも、あの場で周りを見る余裕がなかったのは、むしろ僥倖だったのかもしれない。家の中に転がっていたいくつもの黒い塊は、見なくて済むのなら見ない方がいい光景だった。


「で、どうにか外に出て、その後どう歩いたのかも分からないけど、気が付いたら隣町の病院だったんだ」

「隣町?」

「うん。いつの間にかそこまで逃げてたみたいで。あの二人が追いかけてくるかもしれなくて、怖かったんだと思う。多分、なるべく人目につかないような道ばっかりを選んで逃げてたんだろうね」

「あぁ……」


 この場で蒼と自分だけが当時の状況を知っているからこそ、その気持ちと行動が理解できてしまう。あの時、自分は家の正面から逃げ出したことで、その場に集まっていた人に保護してもらうことができた。


 だが、蒼はきっと裏口から逃げ出したのだろう。住宅が密集していて野次馬すらいなかったはずのそこから逃げ出したからこそ、誰にも見つかることなく、隣町まで辿り着いてしまった。恐らくそういうことなのだろう。


 もちろん、町の端に近かったからということもあるが。


「でね。目が覚めたら、自分の名前も思い出せなくなってた」

「え?」


 そこで驚きの声を上げたのはアイリス。ただ、アイリスが上げなくても、自分が上げることになっていたに違いない。


「蒼も、ですか?」

「え。そう言うってことは、もしかして……」

「僕もしばらくは思い出せませんでした。名前は覚えてましたけど」

「そっか……。兄さんもだったんだ……」


 手に微かな力を込める蒼。それは、一体どういう感情を宿した動きだったのか。いくら双子といえども、その全てを理解している訳ではなかった。


「こんなところまで双子でお揃いにならなくてもいいのにね」

「全くですよ。おかげでどれだけ苦労したか……」

「分かる。思い出せないのって、思ったより不便なんだなって」


 言葉通りの苦労が滲んだ苦笑いが、その顔に浮かぶ。自分は名前を覚えていたのでまだ何とかなった部分もあったが、それすらもなかった蒼の苦労は、自分でも計り知れない。そういった意味では、誰よりも苦労したのは蒼だったのかもしれない。


「お話が逸れちゃったね。で、そのままずっと思い出せなくて。結局身元も分からないから、施設に入るしかなくて。何歳なのかも分からないけど、とりあえず学校にも通って」

「あぁ……。学年も分からなくて当然ですよね」

「うん。まぁ、正しい学年で編入できたのは、単に運がよかっただけだね」


 そこだけどことなく明るい声で話しているように思えるのは、果たして自分の気のせいなのか。それとも、そこには何かの思いがあったのだろうか。


「それで、そのまま中学も卒業して、高校に入学して。そこから一人暮らしも始めて一年くらい経った頃かな? 去年の今ぐらいの時期に、突然全部思い出してね?」

「そんなに長いこと忘れてたんですか?」


 ただあった出来事を振り返るように言うので分かりにくかったが、記憶を失っていた期間が自分よりもずっと長かったらしい。まさか、高校に入ってもなお戻っていなかったとは、一切想像すらしていなかった。


「そうだね。兄さんは違ったの?」

「ですね。僕は一年くらいかけて、少しずつ思い出しました」

「ずるい」

「ずるいって……」


 真剣な話をしているはずだったのに、そんなところだけは随分と子供っぽい表情だった。口を挟む場面ではないと沈黙を守ってくれているアイリスやアーロン、レティシアまでもが、微かな笑いを零している。


「ま、冗談だけど」

「性格がちょっと変わりましたよね、蒼」

「兄さんが大好きなことは変わってないよ?」

「そういうのは後でお願いします」

「あは。照れてる」

「……」


 本当に変わった。やや人見知りが強いような印象だった蒼が、ここまで明るく楽しそうに自分をからかってくるなど、まず想像もできなかった。そもそも、想像する、しないの外側にあったのだ。


「じゃあ、お望み通り後でたくさん証明するとして」

「……」


 もしかすると、自分は今、余計なことを言ったのかもしれない。


「えっと……。思い出したところまでお話ししたよね。そこから先は簡単に言うと、とにかく兄さんを探して、でも見つからなくて」

「高校生が一人でできることなんて、相当限られてますからね」

「うん。でも、偶然ある噂を聞いてね?」

「噂?」


 そんな場面でもないのに、何故か頭の中で警鐘が鳴り響いた。この先には、とにかく複雑な気持ちになるものが待ち受けているとでも言うかのように。


「すっごく可愛い男の子が、月に一回可愛い服を着て接客してくれるお店があるって」

「……」

「聞いた瞬間、兄さんを思い浮かべたよね。昔からすっごく可愛かったし」

「……」


 どうやら、警鐘が鳴ったのは正しかったらしい。正しくあってほしくなかった。


「……どうして笑ってるんですか」

「い、いや……、ごめんなさい……! でも無理です……!」


 そんな蒼の爆弾のような一言を聞いてしまったアイリスが、堪えきれないといった様子で肩を震わせる。そこまでの噂になる片棒を担いだというのに、随分とひどい仕打ちだった。


「それでも半信半疑だったんだけど、お店の場所を教えてもらって見に行ったら、本当に兄さんでびっくりしちゃった」

「……店には入ってこなかったんですね」

「絶対に驚かせちゃうって分かってたから」

「まぁ、それはそうでしょうけど」

「あと、偶然ウェイトレス服を着てる日だったみたいで、そんな日に再会するのもなって思って」

「……見たんですね」

「見ました。可愛かったよ」

「……」

「……! ……っ!」


 それこそ信じたくない一言だった。何故よりにもよってそんな日に来てしまったのか。自分にはどうしようもできなかったことではあるが、もう少しまともなタイミングで来てほしかった。


 ちなみに、アイリスは抱えた腕に顔を押し付けるようにして笑いを押し殺そうとしている。


「何だか思ってたのと違う格好ではあったけど、見つかったことはとにかく嬉しかったんだからね?」

「見つかり方はもう少しどうにかしたかったです……」


 心の底からそう思う。いくら蒼が言葉通りに嬉しそうな笑みを浮かべていても、それがいくら可愛い笑みだったとしても、この世にはそれだけでは相殺できないこともある。


「そこまで分かったら、あとはそんなに大変じゃなかったかな。お店に入っていく時の制服を見れば、どこの高校かも分かったし。……あんまり褒められた行動じゃないけど」

「弟だと思ってた妹の行動力が凄い……」

「編入試験まで受けちゃったしね?」

「……は?」

「え?」


 何でもないことのように、何か特大の発言をされた気がした。それは、肩を震わせていたアイリスも同じようで。蒼の発言には、一瞬でその震えを止め、顔を持ち上げさせる程の威力があったらしい。


「へ、編入……?」

「編入。合格だって」

「合格……?」

「合格。四月から一緒の高校だね」

「……?」

「何で首を傾げてるの」


 首を傾げるしか、できることがないからである。自分の居場所を突き止めるまでの行動力もそうだが、そこから先の行動力がさらに凄まじい。まさかそこまでして近くに来ようとするとは、全く考えもしていなかった。


「だから、ほんとはそこで再会する予定だったの。今日は紛れもなく偶然。私だってびっくりしたんだから」

「……」

「言葉もないって感じだね。分かるよ」

「誰のせいだと思って……」

「私のせいだね」

「本当ですよ」


 これ以上驚かされることなどないと思っていたのに、そのラインを軽々と飛び越えてくる蒼なのだった。これでは、色々な意味でいくつ心臓があっても足りない。


「ちょ、ちょっと待ってください!」

「うん?」

「四月から一緒の高校って……」

「え? 何かありました?」


 もちろん、その驚きは同じ高校に通うアイリスにも等しく訪れる。何やら自分とはまた違う困惑が生まれているようで、久しぶりに直接蒼と言葉を交わしていた。


「だって、そんなの……!」

「……?」

「私の周りに『あおい』って名前の人が多過ぎますよぉ!?」

「気にするところはそこですか」

「名前?」


 ぐるぐると目を回すアイリス。何か複雑なことでもあるのかと心配して損をした気分だった。


「兄さんと私以外にもいるってこと?」

「えぇ。一年前に転校してきた人で、紺碧の『碧』に、依代の『依』で碧依さんです」

「分かったけど、例えが絶妙に難しいところを突いてくるよね、兄さん」

「褒められても何も出ませんよ」

「褒めてはないよ」


 辛辣と言えば辛辣な言葉だった。これもまた、昔の蒼からは考えられない。


「でも、わざわざそう言うってことは、ある程度仲が良いんだね」

「名字が水瀬なんですよ。フルネームが一文字違いってことで仲良くなりました。番号順に座ったら前後でもありますし」

「私の天敵です!」

「て、天敵……?」


 日常生活ではほぼ耳にする機会がない言葉に、流石の蒼も目をぱちくりとさせて覗き込んできた。詳しく説明してほしいという感情がよく表れている。


「ことあるごとにアイリスさんを可愛がって、からかってるので」

「今までどれだけからかわれたことか……!」

「なるほど……。それで天敵」

「です!」


 力強く頷くアイリス。残念ながら、丸一年経っても碧依は好感度を上げることができていなかった。


「ってことは、アイリスさんの周りには私で三人目?」

「はい。もうどう呼んだらいいのか分かりません」

「それもそうですよね……。普通、周りに同じ名前の人が三人もいないですもんね」

「それで言ったら、双子の兄妹で同じ名前ってところがまずあり得ないですけどね」

「そこは気にしない方向で」


 妙なところで潔い蒼だった。


「葵さんに碧依先輩に。他にどう区別すればいいんですか」

「んー……。好きなように呼んでくれたらいいんですけど……」

「これまではどう呼ばれてたんですか?」


 何か参考にならないかと思って、そう尋ねてみる。聞くだけ無駄だったと悟ったのは、最後まで言いきったその瞬間だった。


「去年までは違う名前で過ごしてたからね。参考にはならないと思うな」

「あ……」

「思い出した後も、いきなり名前が変わってもなってことでそのままだったし。だから、本当の名前で通うのは四月からが久々なんだ」

「それもそうですよね。言いきった後に気付きました」

「兄さん、そういうところがたまに抜けてるよね」

「蒼が生きていて妹だったって事実で頭の九割が埋め尽くされてるので、今の僕は使い物になりません」

「自分で言うんだ」


 事実だからである。残りの一割で考えたことなど、大した意見になるはずもない。だからこそ、今のような意味のない質問も口から飛び出すというものだ。


「それにしても、名前か……。確かにあんまり考えたことがなかったなぁ」

「同じ学校に通ってたらそういう機会もあったんでしょうけど、これまではそれすらありませんでしたからね」


 言われた蒼まで悩むように、視線を宙に向ける。こんな話題に直面すると、名字も名前も同じという点がとにかく高い壁のように思えた。


「さん付けも先輩呼びもあるんだったら、もう呼び捨てくらいしか浮かばないよね」

「でも、葵さんと双子ってことは、私の一個上ってことじゃないですか。そんな人を呼び捨てにするのもちょっと……」

「その悩みを解決しちゃう、とってもいい理由があるんですけど、聞きます?」

「理由?」


 またもや警鐘が鳴った。しかも、今度はアイリスと蒼が話しているだけで、そこに自分は関わっていないにも関わらず、だ。一体何に反応したのだろうか。


「うん。将来、兄さんとアイリスさんが結婚したら、その時私は義理の妹ですから。年上ですけど」

「っ!?」

「結婚……!」

「お姉ちゃんが妹を呼び捨てにするのは、別におかしくないですよね?」

「お姉ちゃん……!」

「『兄さん』呼びと合わせて、『姉さん』呼びの方がよかったですか?」

「姉さん……!」


 今回もまた、警鐘が鳴って正解だったらしい。都合が悪いことを言われた訳ではないが、ぶつけられる前に心の準備が必要なことには違いない。なので、いきなりその二文字をぶつけられて、アイリスのある姿を想像してしまった自分は何も悪くない。


 ついでに、とにかく綺麗だったことも否定できなかった。


「そんな風に呼ぶかは将来の私に任せるとして、アイリスさんが私を呼び捨てにするのはいいと思いますよ?」

「蒼……、って呼ぶってことですか……」


 そんなことを考えて一人で顔を赤くする中、同じようにその二文字から何かを想像して嬉しそうにしていたアイリスが小さく呟く。そう呼ばれているのは蒼だと分かっていても、やはり自分もそう呼ばれているような気がしてむず痒い。


 以前にも一度だけそう呼ばれたことがあるが、感じることはその時と大して変わってはいなかった。


「そうやって呼ぶ度に、兄さんとの結婚が意識できるっておまけもあります」

「ほぁぁ……!」

「どういうおまけですか……」


 これまた嬉しそうに頬を赤らめるアイリスの姿は可愛かったが、今は蒼の呼び方の話である。何故こんな方向に話が転がってしまったのかは分からないけれども、少なくとも今意識することではない。


「それじゃあ、『蒼』呼びで!」

「しかも、受け入れるんですね」

「葵さんと同じ呼び方ってところもいいなと思って!」

「……っ」

「可愛い彼女さんだね?」

「不意打ちは無理です……」


 自分ですらない、妹の呼び方一つ決めるだけの話だったのに、隙あらばその感情をぶつけてくるアイリス。その姿は、直接言われた訳でもない蒼ですら微かに頬を赤らめてしまう程の、尋常ではない可愛さに満ち溢れたものだった。




「じゃあ、蒼さんも今は一人暮らしをしてるの?」

「はい。もう大分慣れました」

「そんなところまで双子で同じなのね」


 レティシアがゆったりと呟く。


 アイリスが蒼のことをどう呼ぶかという問題が解決した後、今度はアーロンとレティシアが蒼のことを質問攻めにしていた。これまでは黙って話を聞いていたようだが、やはり色々と気になることがあったらしい。


「ってことは、葵君と同じで家事もある程度できるわけだ?」

「一応、一人暮らしには困らないくらいに、ですね。得意とは言えないです」

「十分じゃない。アイリスなんて、今のままじゃ絶対に一人暮らしなんてできないわよ」

「どうしてそこで私のことになるの」

「あら、ごめんなさい。つい」

「いいもん。いざとなったら、葵さんのところに転がり込むもん」

「まずはチェーンロック越しに話を聞いてからですね」

「彼女なのに!」


 あからさまに不満そうな顔をしたアイリスが体を揺らす。その力は大したことはないものの、不意打ち気味だったせいもあって、体は若干アイリス側に傾いていく。


 心なしか、離れないようにと蒼の手に力が込められた気がした。


「そこは信用してくださいよ!」

「いきなり転がり込むとか言われても……」

「見た目は常識外れに可愛いのに、どうしてそんなところは常識的なんですか」

「は?」

「あ、転がり込むで思い出した」

「は?」


 同じ一言が立て続けに出た。アイリスの一言は聞き流すことなどできず、蒼の一言は意味が分からない。常識外れに可愛いのはアイリスのことで、「転がり込む」で思い出すことなど、絶対にまともなことではない。


「その思い出し方は聞きたくないんですけど」

「大丈夫だよ。大したことじゃないから」

「そう言う人は絶対に厄介なことを言い出します」


 碧依然り、莉花然り。もちろんアイリスは言わずもがな。そう考えると、自分の周囲には厄介なことを言い出す友人しかいなかった。一人は恋人だが。


 そう口にする間にも、蒼の口元は緩やかに弧を描いていく。本当ならこんなことを悠長に考えている暇などないはずなのに、相手が蒼だという理由だけで、多少は警戒心が薄れてしまうのが痛いところだった。


「今日、兄さんの家に泊まってもいい?」

「……は?」


 痛いどころの騒ぎではなかった。何でもないことのように尋ねてくる蒼だったが、流石に二つ返事で引き受けられる内容ではない。


「泊まる……?」

「うん。泊まる」

「……どうして?」


 口から出る言葉が全て疑問形。どこをどう考えても、納得のいく理由が見つからなかった。


「私、明日引っ越すんだ」

「……?」

「でね。もう荷造りは全部終わってて、一日分だけ着替えを別に用意しておいたの」

「……それで?」

「じゃあ、ここで問題です。今日、何で私があの公園にいたと思う?」

「……荷造りが全部終わって、家にいてもすることがないから」

「せいかーい!」


 想定していた通りの答えが返ってきたからなのか、蒼の顔が一気に綻んでいく。今度は間違いなく繋がれた手に力が込められた。


「いや、そこじゃないですって。引っ越す? 明日?」


 嬉しそうな表情に危うく流されそうになったが、もっと気にするべきところはその前にある。どうやら、あまりに唐突な「引っ越す」宣言は、人の感覚を麻痺させるらしい。新発見である。


「うん。兄さんと同じ学校に転校するんだし、もっと通いやすい場所がいいなって思って」

「まぁ、それはそうなのかもしれませんけど……」


 そうは言いつつも、心の中ではある程度理解もしていた。引っ越す理由は、思ったよりも随分とまともな理由ではある。時期が急に感じるのも、元々予定は決まっていて、偶然今日出会ってしまったから話しているせいに過ぎないということも。


 自分がそこまで考えていることを蒼も理解しているのか、それ以上詳しい話はしてこない。続いたのは、先程途切れてしまった流れを再開させる言葉だった。


「家には荷造りが終わった段ボールしかないし、このまま帰ってもなって思ってたところで、偶然兄さんに会っちゃったから」

「それで、僕の家に泊まりたい、と」

「うん。そっちの方が、色々と安心できるしね」


 話の締めくくりとでも言わんばかりに微笑む蒼。「色々」が何を指しているのかはよく分からないものの、理屈は通っているような気がした。


「まぁ、そういうことなら……」

「むぅ!」

「ん?」


 仕方がない。そう言葉を続けようとしたところで、蒼とは反対側から腕を引かれる感覚があった。言うまでもなく、そちら側にいるのはアイリスである。


「アイリスさん?」


 顔を見るまでもない程に感情が表れた声。それでも振り返ってみれば、そこには想像した通りの顔があった。


「私だってほとんど入ったことがないのに……」

「……」


 これは嫉妬なのだろうか。だとすると、かなり独特な相手に対する、かなり独特な嫉妬のように思えるが。


「クリスマスの時に少し入っただけなのに……!」

「……その節はお世話になりました」


 そういう言葉を望んでいる訳ではないことくらいは分かっているが、それでも頭は勝手に下がる。あの件に関しては、アイリスやアーロン、レティシアに一生頭が上がらない。


「嫌なことを言ってるのは分かってますし、頭では納得してるんです。でも、どうしても心では納得できないんですよ……」


 縋るようにそう言われてしまい、一度決めかけた心が微かに揺らぎ始める。それと同時に、あれほど大事に思っていた蒼の願いとアイリスの願いが、いつの間にか同じだけの重さになっていることに気が付く。


「愛されてるね、兄さん?」

「……まぁ」

「うぅー……!」


 臆面もなくその言葉を口にする蒼と、葛藤が乗った呻き声を漏らすアイリス。そんな二人に挟まれて、いよいよ正解が分からなくなる。二人の願いを同時に叶える妙案が都合よく見つかることも期待できない今、どうなってもどちらかを選ばないと話は進まない。


「家族……! 家族は大事ですもんね……!」

「最悪、私はさっき言ったみたいに帰ってもいいですけど……」

「それはそれで、私のわがままが通っちゃったみたいでもやもやがぁ……!」

「複雑なんですね」

「久しぶりに会えたんですから、一緒にいてほしいって思っちゃいますもん……」

「そんなことを考えてくれてたんですか?」

「考え過ぎて、頭が爆発しちゃいます……」


 そう呟いて、アイリスが頭をこてんと前に倒して俯いてしまう。ここまで二人が悩んでいる姿を目にしても、それでもろくに答え一つ出せない自分が腹立たしくて仕方がなかった。


「流石に選びにくいわね、葵君?」

「選ばないといけないことは分かってるんですけど……」

「そんな葵君に朗報。ちょうどいい案があるんだけど、聞いてみる気はある?」

「……こんな時に提案されるのも怖いです」

「大丈夫、大丈夫」


 絶対に大丈夫ではない。こう言っては何だが、にこにこと楽しそうにそう口にするレティシアの姿からは、安心できる材料など何一つ見出すことはできない。


「うちの二階に、とってもいい部屋があると思わない?」

「ん……?」

「あ」

「二階?」


 それだけで意図を察することができる、簡潔明瞭と言ってもいい一言。その提案は、思ったよりも遥かにまともな提案で、無意識に疑いの声が漏れてしまった程だった。唯一、その意図を汲み取れない蒼だけが首を傾げている。


「何をどう間違ったのか、二階に僕が泊まっていく部屋があるんです」

「……何をどう間違ったらそうなるの?」

「……分かりません」


 そんな蒼に一言で事情を説明する。返ってきたのは、今日初めて目にする呆れたような表情だった。そこまでの反応を示されてもなお、自分から納得がいく答えを示すことはできなかった。


「最近、色々あって葵君が泊まっていくことが多くなってね。だったらいっそ、使ってない客間を快適にしてしまおうってことで」

「そっか。確かに使えるかも……」

「よく分かりませんけど、二階に空いてるお部屋があるってことで合ってますか?」

「そうだね。わざわざ何もない部屋に帰るよりはいいんじゃないかな? もちろん、初対面で気まずいってことなら、無理強いはしないけど」

「あ、いや……。気まずいってことは……」


 アーロンの言葉を否定するように、蒼が空いた右手を小さく振る。これまでの雰囲気からある程度分かってはいたが、蒼に昔のような人見知りの気配は感じられない。お互いに会えなかった数年の間に何があったのかは分からないが、どうやら成長するにつれて克服したらしい。


「それに、僕達もまだまだ聞きたいことがたくさんあるからね」

「今は大人の体裁を保つために落ち着いてるふりをしてるけど、内心は分からないことだらけだもの」

「自分で言っちゃうんですね」

「何事も素直が一番よ?」

「家族として兄さんが大好きです」

「そうそう」

「そういうことじゃないと思います」


 この場における素直の意味を履き違えている。きっと、レティシアもそんな意味で口にした訳ではないだろう。


 何故か認めていたが。


「ま、とにかくそういうことだから、嫌じゃなければ是非二人で泊まっていって?」

「そういうことなら……。兄さんと二人でお世話になります」

「何でですか」


 思わずアイリスの口癖のような言葉が口を衝いて出た。


 そんな兆候など一切見えなかったのに、いつの間にか当たり前のように自分も泊まっていくことになっている。今日初めて会ったとは思えないほど、蒼とレティシアの意思疎通が取れているのは一体何なのか。


「僕は帰りますよ」

「何を言ってるの? 一緒に枕を投げながら語り合おうよ」

「色々混ざってますって」


 枕を投げるのか並べるのか、どちらか一方にしてほしい。そんな過激な語り合いは願い下げである。


「じゃ、じゃあ、私が葵さんと一緒に寝て、あ、蒼が私のお部屋で寝るってことで……!」

「どうして?」

「あれだけ散々言ってて未だに一回も潜り込めてないあなたが、そんな簡単に一緒に寝られるの?」

「うぐっ……!?」


 混乱に乗じてまた訳が分からないことを言い出したアイリスが、レティシアによって即座に黙らされていた。そう言われて思い返してみれば、確かにこれまで一度も潜り込まれたことはない。どれも未遂で終わっている。


「きょ、今日こそは……!」

「だから帰るんですって」

「それなら、私は兄さんのお部屋に転がり込むけど。アイリスさんが悲しむよ?」

「……卑怯ですよ」

「『狡猾』って言って?」


 可愛く願うことではない。


「どんな部屋割りになるかは別として、葵君に逃げ場はなさそうだね」

「どうして初対面でそんなに連携が上手いんですか」

「あは」

「笑いごとじゃないです」


 その結果、先程とは全く違う二択に追い込まれているのだから、いよいよ以て冗談になっていない。まだまだ波乱は収まりそうになかった。


 ならば、自分が選ぶ道は一つ。


「……ちなみに、さっきから気になってたんですけど、どこに引っ越す予定で?」

「あ、お話を逸らした」

「放っておいてください」


 どう見ても強引な方向転換も、今だけは仕方がない。このまま話が流れ、自分だけが帰る流れになってくれるのが最高の結果だ。


「仕方ないなぁ……。じゃあ、その強引さには目を瞑って答えてあげるよ」


 にこにこと。何やら話すこと自体に喜びを感じているかのように、蒼の笑みが深まっていく。


 三度、警鐘が鳴る。


「明日からよろしくね、お隣さん?」

「……は?」

「え」

「お?」

「あら……」


 今度は、自分が巻き起こした波乱に飲みこまれていく気配がした。

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