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111. 桜に染まる琥珀色 (2)

「……っ!?」

「えっ……? に、兄さんって……?」


 告げられた一言で、信じられない想像が現実になる。いかに目の前の少女が悪戯っぽい笑みを浮かべていようと、その顔が自分とそっくりであることは覆らない。


 確かに、世の中には自分と同じ顔の人間が三人いるとは言うが、その相手が初対面でいきなりこんな冗談をぶつけてくる確率は、一体どの程度なのだろうか。そんなことを考えるくらいなら、まだ少女が双子の片割れと考える方が現実的だった。


「で、でも……! 葵さんは弟だって……。えぇ……?」


 言葉が出てこない自分の代わりに、アイリスが戸惑いを全て口にしてくれている。ただ、それも本当は自分の代わりではなく、単にアイリス自身も混乱しているからなのだろう。


「あー……。兄さん、やっぱり勘違いしてたんだね」

「勘、違い……?」


 アイリスの言葉を受け、予想した通りだったとでも言いたそうに苦笑いを浮かべる少女に、ようやくその一言だけが絞り出せた。


 果たして、何が勘違いだったのか。ここまでくれば何となく想像はできるが、これもまた信じられない妄想にしか思えない。


「兄さん、私のことをずっと男の子だと思ってたんでしょ?」

「思うも何も……。だって……」

「自分のことを『僕』って言ってたのは、双子のお兄ちゃんと一緒がよかったからだよ?似たような服を着てたのも、同じ理由」

「……」


 考えていたことを先回りして潰される。まるで、その程度の反応はお見通しであったかのように、穏やかな表情での暴露だった。


「他にも何を考えてるか当ててあげようか?」

「え……」


 上手く回らない頭を必死に回して考えたことも、双子の片割れなら苦も無く読み取れる。そんな感情が透けて見える、自信に溢れた表情。


「一卵性の双子なんだから、性別は同じに決まってる、でしょ?」

「……」

「当たりだ」


 まさに考えていたことを言い当てられて、再度言葉を失う。その反応で予想が的中したことを悟ったのか、風に揺れる髪を軽く押さえながら少女が微笑む。


「でもね、準一卵性双生児なら、一卵性でも異性になることがあるんだって。すっごく珍しいみたいだけど」

「……」

「まぁ、そもそも似過ぎてる二卵性って可能性もあるけどね」

「いや……、でも……。蒼はあの日……」


 そこまで説明されてもなお、目の前の現実は受け入れ難いものがある。これまでそういうものだとして生きてきたのに、それが根本から覆されるとなれば、誰でも一度は否定してしまうだろう。もちろん、自分とて例外ではない。


「そのお話はまた後でね。それよりも、信じてもらう方が先かな」

「何を言われたって、そう簡単に信じることなんて……」

「小さい頃、テレビでホラー映画を見ちゃった後、怖くて寝られないから一緒に寝ようって言って同じベッドで寝たことがあったよね」

「分かりました! 信じますから! 間違いなく蒼です!」

「ちょっとだけ手が震えてたの、可愛かったな」

「信じるって言ってるのに……!」


 話の流れが明らかにおかしな方向へと向かい出した。どう考えても今は真面目な話をする場面だったはずなのに、一瞬のうちに誰かと一緒にいる時のような雰囲気に様変わりしている。


「他には……。今もそうなのかは分からないけど、昔は抱き付き癖みたいなのがあったよね。私もよく抱き締められてたし」

「うわぁ!?」


 自分ですら忘れていた記憶を掘り起こされる恥ずかしさが、まさかこれ程のものだったとは想像もできなかった。その恥ずかしさたるや、ここ最近ではなかなか出したことのない大声が出てしまった程である。


「それ以上はだめですって! 聞いてるのは僕だけじゃないんですから!」


 慌てて蒼を止めようとするも、既に言葉にされてしまったものはどうしようもない。絶対に聞かれてはならない相手に聞かれてしまったのも、これまたどうしようもないことだった。


「葵さんも怖がりだったんですか!?」


 先程からずっと黙っていたアイリスが、空気が変わったことを察してしばらくぶりに口を開く。ただし、その口から出てきたのは蒼に関することではなく、何故か過去の自分に関することだった。


 それこそ、初めて蒼を目にした時よりも驚きが大きいようにすら見受けられた。何かがおかしい。


「え? 私?」

「あぁ!? えっと……、そうじゃなくて!」


 名前が同じだからこその一幕。いきなり知らない相手から話しかけられたと勘違いした蒼が、きょとんとした顔で小さく首を傾げる。


「って! このやり取りは去年もやりましたよ!」

「それは何を言ってるのか分からないですけど……。えっと……?」

「アイリスです!」

「わ、返事が早い」


 蒼が何を求めているのか即座に察したアイリスが、何かを言われる前に自ら名前を告げた。そのあまりの素早さに、蒼が若干押され気味になっている節すらある。


「えーっと……。初めまして、ですね。湊蒼です。兄さんの妹、です」


 とある四文字を強調するように、蒼が簡単な自己紹介を口にする。誰よりも自分にその一言を言い聞かせているように感じたのは、果たして気のせいだったのだろうか。


「そんな感じってことは、兄さんの彼女さん、とか……?」

「そうですけど何か!?」

「いや……、何にもないですけど……」


 何故かアイリスが威嚇するように蒼へと視線を向ける。対する蒼は当然困惑顔である。自身が何故そんな扱いをされているのか、全く理解できていないようだった。かく言う自分も理解できていない。


「あ、葵さんは渡しませんよ!」

「渡すって何……?」


 どれだけ言葉が続こうが、理解できないことには変わりなかった。分かるのは、再び腕を抱き締める力が強くなっていることくらいだ。


「……何を想像しているのか知りませんけど、蒼は妹……、ですからね」

「何でちょっと疑問形なの」

「いきなりそんなことを言われても、そう簡単に受け入れられるわけがないですって……」

「勘違いしてたのは兄さんの方だからね? ……私も紛らわしいことをしてたけど」


 ちょっとした言葉の調子すら読み取ってしまう辺りでも、本当に双子の片割れなのだと認識させられる。小さい頃の自分を知っている時点で認めるより他なかったが、こんな細かなところでも関係性が顔を覗かせていた。


「そういう雰囲気がだめなんですって! ずるいです!」

「ずるいって……。心配しなくても盗ったりしないですから」

「え?」

「まぁ、家族として懐いちゃったりはしますけど」

「え?」


 不思議そうに瞬きを繰り返すアイリスは、どうやら蒼の言葉に頭が追いついていないらしい。言ったのは蒼なのに、何故か視線は自分を向いていた。


「ふふっ……」

「やっぱりだめかもです!」


 蒼の怪しげな笑い声に、慌てたようにアイリスが身を寄せる。


「……」


 何でもない日になるはずだった、三月最後の一日。


 その予想通り、途中までは何でもない一日ではあった。だが、何でもないとはとても言えない人物の登場によって、一瞬にして人生の変わり目と言っても過言ではない一日となってしまうのだった。




「お邪魔します」


 あんなことがあって、そのまま花見を継続できるはずもなく。再起動を果たしたアーロンとレティシアの提案によって、蒼がアイリスの家に招かれることになった。


 最近やっと慣れてきたと言えるまでになったリビングの風景の中に、慣れないにも程がある景色が追加される。まるで、そこに鏡が置いてあるかのような感覚だった。


「兄さんは普段どこに座ってるの?」

「僕はそのソファの端ですけど……」

「分かった。じゃあ、私は兄さんの膝の上だね」

「何を言ってるんですか?」

「そこは私の場所ですっ」

「アイリスさんの場所でもないです」

「なんでですか!」


 車の中で話している間に、アイリスもようやく落ち着きを取り戻し始めたらしい。それはそれで問題もあるのだが、とりあえず口調がいつもと同じものに戻りかけている。


「やっぱり面白いね、アイリスさん」

「葵さんとおんなじようなことをしてくる……!」

「私も蒼ですから」

「どうしてちょっと嬉しそうなんですか」

「大好きな兄さんと同じ名前だから」

「……」

「あっ! 何照れてるんですかぁ!」


 冗談の色を一切浮かべず言いきった蒼の姿に、思わず顔が熱くなる。だからと言って、何故アイリスにそれを咎められているのかはよく分からなかったが。


「まぁ、それは本気として」

「むぅ!」

「それなら、こっちに座らせてもらってもいいですか?」

「あぁ。好きなところに座るといいよ」


 自分がいつも座っている側とは、アイリスを挟んで反対側になる場所を指して蒼が言う。それに答えたのは、すぐ後ろに立っていたアーロンだった。


 色々と話を聞く必要があるということで、自宅をその場として提供すると言い出したのがアーロンだった。その責任を果たそうとしているのか、混乱は未だに抜けていないはずなのに、率先して場を仕切ってくれている。


「どうせ隣はアイリスさんなんだよね?」

「まぁ……、はい」

「やっぱり」


 車の中でもある程度は会話があったおかげか、少なくとも、蒼のアイリスに対する態度は随分と柔らかいものになっていた。ただし、反対は何故かまだ警戒が続いている。


「……」


 場所を確認したのに、蒼はその場から動かない。両手をきっちり体の前で揃えたまま、穏やかな眼差しでじっと自分を見つめていた。


「……そういうのを気にするところは、昔から変わってないんですね」

「あはは……」


 アーロンやレティシアがソファに腰を下ろす中、恐らく最後に座ろうとしているであろう蒼にそんな感想を抱く。答えは、困ったような笑み一つだけだった。


 思い返してみれば、小さい頃もそうだった。自分達が蒼の暮らしている家に遊びに行った時はそうでもなかったが、その反対の時は、大抵自分が座ったその横に蒼が座るという流れが完成していた。当時はそんな姿も可愛いと思ったものだが、成長した今でもその気質は変わっていないらしい。


「見た目は成長しても、中身はあんまり変わらないからね」


 そう言いながら、アイリスと自分が腰を下ろしたのを見て、ようやく蒼もソファに腰を落ち着けた。ほんの少しだけ短めのスカートが、ソファの座面にふわりと広がる。長さ的にはアイリスと大して変わらないのかもしれないが。


「……」


 いよいよという段階になって、それでも場に沈黙が下りる。誰がどのように話を切り出すべきなのかはっきりとせず、お互いの顔を窺うような空気が漂っていた。


「……まずは確認したいんだけど」

「はい」


 そんな空気の中、小さな声で話し始めたのはレティシア。しっかりと蒼のことを見据え、小さくともはっきりと耳に届く声を場に響かせる。


「蒼さん……、で、いいのかしら。とにかく、蒼さんは葵君の妹さんでいいのよね?」

「はい。間違いなく兄さんの妹です」


 神妙な面持ちのレティシアに対して、蒼は自然体そのもののように見える。こんな場ならもっと緊張してもいいような気もするのに、口元に微かな笑みを浮かべてすらいた。


「何か証明できるようなものはあるかな?」

「証明、ですか……?」


 レティシアに続いたアーロンの言葉に、蒼が何かを考え込むような様子を見せる。求める側としては是非確認しておきたい事柄ではあるが、証明する側としてはなかなか難しいのだろう。アイリス越しに見つめる先で、ほんの少しではあるが首が傾いていた。


「兄さんとほとんど同じ顔ってことじゃだめですか?」

「あー……、それは確かにそうなんだけどね……」


 この上なく特徴的なものを挙げられ、アーロンの視線が蒼と自分の間を往復する。これだけ似ているのなら何らかの血縁関係があってもおかしくはないと言えるが、それでも確実ではないと考えているような戸惑いが、その口調からは感じられた。


「顔だけなら、奇跡的に似てるだけとも言えなくはないからね」

「んー……?」


 その言葉を受けて、蒼が再び考え込む。こうなってくると、何を言っても確実な証明にはならないような気もするが、何か妙案はあるのだろうか。


「あ」


 そう考えているうちに、蒼が小さく声を上げた。どうやら何かを思い付いたらしいが、果たして何を証明とするつもりなのか。どんな小さなことも聞き漏らさないようにと、その声に集中する。


「兄さん、昔は元気いっぱいって感じの子だったのに、今は落ち着いた感じに成長したんだね」

「アーロンさん、間違いなく蒼です。だからこれ以上はやめてください」

「元気いっぱいに抱き締めてくれたのに」

「そこまでです」

「今でも歓迎するよ?」

「そこまでですって!」


 何故か両腕を広げるようにして、歓迎の体勢を整える蒼。今はアイリスが間に座っているので物理的に何もできないが、もし隣に座っていたなら、蒼の方から飛び込んできそうな雰囲気すらあった。


「私にだってほとんどしてくれたことがないのに……!」

「……っ!」

「あ、嫉妬だ」


 そんな蒼に対する壁役を果たしてくれているアイリスが、この話が始まってから初めて口を開いた。そこにあったのは、この上なく分かりやすい嫉妬の感情。体が心に引きずられるかのように、身を寄せて腕を抱き締めながらの一言だった。


 明らかに不満がありますとでも言いたそうな顔を向けてくるアイリスだったが、この場にいるのは今の自分であって、蒼の言う抱き付き癖があった昔の自分ではないので許してもらいたい。何より、昔ならいざ知らず、今のアイリスや蒼を抱き締めるのは、色々とハードルが高過ぎる。


「こんな感じで、昔の兄さんのことをお話しできますけど、これでもだめですか?」

「いや、葵君の反応を見たら分かるよ」

「と言うか、向こうでも同じようなことを言ってたものね」

「はい。兄さんは昔から可愛かったですから。色々たくさん覚えてますよ」

「……話すのは僕の許可を得てからで」

「どうしようかな?」

「……」


 幼い頃なら絶対に見られなかったような、蒼の悪戯っぽい笑み。公園でも見せていたその表情は、蒼が自分の知らないところで成長していたことを実感させるものだった。


「そもそも、葵君はどうして気付かなかったんだい?」

「……一卵性でしたし、いつも僕と同じような格好をしてましたから。子供の頃なら、体の違いも少ないですし」

「今は大分違うよね」

「余計なことは言わなくていいです」


 何やら視界の端で手が動いたように見えたが、何も気にしないことにした。どこに触れていたのかなど、自分は何も知らない。


「……私の方が」

「アイリスさんも静かにしててください」


 何も知らない。


「でも、流石にご両親から言われるんじゃないの? 弟じゃなくて妹だって」

「言われました。言われましたけど、よくその手の冗談を言う人達だったので、それも冗談だと思ってました」

「変なところで思い込みが激しいのね、葵君」


 レティシアが苦笑と共に目を細める。自分の新たな一面を発見したとでも言いたそうだった。


「そうなんですよ。兄さん、昔から思い込みが激しいところがあって。だから、小学校に上がったくらいの時に……」

「不許可です」

「む?」


 レティシアの言葉を受けて口を開いた蒼が、またもや何か怪しげな話を切り出した。どんなエピソードを暴露するつもりなのかは知らないが、どうせろくなものではないのだろう。そんなものは、前もって止めてしまうに限る。


「『一緒にお風呂に入ろう』って言ってきたってだけのお話しだよ?」

「不許可って言ってるのに……!」

「お風呂……!?」


 止められなかった。無情にも蒼の口から漏れたエピソードは、聞いていたアイリスの顔を真っ赤に染め上げるには十分な威力があったらしい。


「入ったんですか!?」

「入ってませんって……!」

「私が恥ずかしがっちゃったからね」


 問い詰めるといった表現が正しく思えるような勢いで、アイリスの顔が近付いてきた。その勢いは、思わず仰け反って顔を離してしまう程のものである。


「もし入ってたら、流石に私のことを弟だとは思ってないですよね」

「それは……、確かに……」


 蒼のその一言で納得したのか、目の前にあったアイリスの顔が離れていく。そもそも、今はこんなことを話している場合ではないのに、どうして真面目な空気が長続きしないのか。これが本当に不思議でならない。


「で、そんなこんなが色々重なって、兄さんはさっきまで私のことを弟だと思ってた、と」

「……何て言ったらいいんですかね。今の感情は知らない感情です」


 蒼が生きていたことだけでも衝撃を受ける出来事なのに、さらに弟ではなく妹だった。こんな事実を二つ同時に突き付けられては、表面上は落ち着いて見える心も、深層では千々に乱れたままでも仕方がない。本当の意味で全てを飲みこむには、まだ少し時間がかかりそうである。


「って、そうですよ。こんな聞き方をするのもどうかとは思いますけど、どうして生きてるんですか。僕はてっきり……」


 そこまで考えて、肝心なことをまだ話していないという事実を思い出した。それこそ最初に聞くべきことだったのに、あれこれが重なり過ぎて、ここまで後回しになってしまった。


「そんな意味はないって分かってるけど、その言い方はちょっと傷付くな……? いなかった方がよかった、みたいな……」

「そんなわけがないです」

「え?」


 拗ねたような顔で言う時点で冗談だと分かってはいるものの、冗談でもそんなことは言ってほしくなかった。紛らわしい言い方をした自分が一番悪いとは思うが、その一言は絶対に聞き流すことはできない。


「生きていてくれて嬉しいに決まってます。あの火事の後から、どれだけ蒼と話したいって願ったと思ってるんですか」

「うぁ……!?」

「ずっと後悔してたんですよ。あの時、ろくに周りも見ずに逃げ出したこと。もしかしたら蒼も、他の誰かも助けられたかもしれないって」


 だからこそ、この歳になっても、たまに真っ赤な夢を見るのだろう。何度繰り返しても誰にも手を差し伸べられない、ただ後悔をより深くするだけの夢を。


「こう思うのは最低だってことは分かってますけど、蒼だけでも助かってくれていて、本当によかったって思ってるんです」

「そ、それ以上はだめだって……! 照れちゃうからぁ……!」


 嘘偽りのない気持ちを伝えるなら、決して相手から目を逸らしてはならない。最近特に強く思うようになったその考えを胸に、真っ直ぐ蒼の目を捉えて話す。


 だというのに、自分と同じ薄茶色の瞳はさっと逸らされ、両手は慌てたように突き出されてわたわたと振られていた。


 そうして頬を染めて照れている様子は、どこからどう見ても女の子にしか見えない。幼い頃の自分は、一体何を考えていたのだろうか。


「……今日だけですからね」

「アイリスさん?」


 一向に落ち着きを取り戻す気配もなく、ただひたすらにあわあわしている蒼を眺めていると、するりと腕が離れていく感覚があった。続いて、アイリスのそんな小さな声。


「今日だけ、隣を譲ってあげます」

「え」


 一言そう呟いて、アイリスが立ち上がる。その言葉は、もちろん蒼に向けられたもの。本当に微かな不満は滲んでいるものの、アイリスが何を考えているのかは推し量る必要すらなかった。


「い、いいんですか……?」

「今日だけ! 今日だけですからね!」


 一つ年上の蒼に言い聞かせるように釘を刺すアイリス。ただし、わたわたとした手の振りを止めた蒼に、その言葉が届いているかは別の話である。


 逸らしていた潤んだ瞳を戻してじっと見つめてくる蒼の姿を見るに、あまり理解はしていないようにも感じるが。ついでに、嫌な予感もする。


「じゃ、じゃあ……!」


 アイリスが空けた場所に蒼が移動する。間近に迫ってきた蒼からは、どこか懐かしい匂いがした。


「いい……?」

「……何がです?」

「……とりあえず聞いてはみたけど、我慢はできないから勝手に抱き付くね?」

「え」


 言葉の意味を理解できなかった時の反応が同じだと、そう頭の片隅で自分の声が囁くのと同時に、蒼が躊躇いもなく胸元に飛び込んできた。咄嗟のことでバランスを崩しそうになって、思わずその背中に腕を回してしまう。


「あ、蒼……?」

「んぅー?」

「何を……」


 突然の出来事に戸惑いつつも、ひとまず目の前の琥珀色に向かって問いかける。返事とも言えないようなくぐもった声から察するに、顔全体を胸元に押し付けているのだろう。


「あんなことを言われちゃったら、我慢できるはずがないよね」

「今日だけだから……! 家族だから……!」

「……」

「娘と、息子になってくれそうな子と、その妹さんが軽く修羅場みたいになってる」

「滅多に見られない光景だろうね。目に焼き付けておこうか」


 色々な感情が漏れ出しそうになっている二人と、それを見て面白がっている二人。人数が増えたところで、役割は大して変わっていないようだった。


「それにしたって、こうしなくても……」

「だって、私は兄さんの妹だもん。抱き付き癖くらいあるよ」

「僕にはもうないです」

「昔はあったって認めたね?」

「……気のせいです」


 顔を上げた蒼が、してやったりといった笑みを浮かべる。至近距離で自分と同じ顔がそんな表情を浮かべていると、どうにも違和感が強い。


「私は現役だから。これからも、ことあるごとに兄さんに抱き付くよ」

「だ、だめですって! 今日だけって言ってるじゃないですか!」

「それって、兄さんの左隣はってことですよね? 抱き付くのはまた別のお話です」

「そんなのずるいです! 私ですら葵さんに抱き締めてもらえることなんて少ないのに!」

「何を争ってるんですか……」


 気付けば、何の益もない争いが勃発していた。その状況自体もそうだが、何より争っているものが恥ずかし過ぎる。どうせ争うなら、自分がいないどこか別の場所で争ってほしい。それはそれでどんな争いになるのかが分からなくて、ある意味不安ではあるけれども。


「とにかく! 前言撤回です! 葵さんに甘えていい時間はもうおしまいです!」

「えぇー……?」


 結局僅かな時間でも耐えられなかったらしいアイリスが、どうにかして蒼を引き剥がそうとしていた。


 だが、恐らく蒼もそれほど力がある訳でもないはずなのに、それを上回って力の弱いアイリスでは、一人で引き剥がすことはできないらしかった。


「むぅー!」

「やだぁ……! 少なくとも今日一日はこうしてる……!」

「葵さんも離してください……!」


 背中から蒼に抱き付いて引き剥がそうとするアイリスに、引き剥がされまいとして自分に抱き付いてくる蒼。蒼の背中から手を離したところで、大して状況が変わる訳でもなさそうだった。


「何なのかしらね、あれ」

「重苦しい空気がずっと続くよりは、今みたいに賑やかな方が、本人達にとってもいいんじゃないかな」

「そこは私の場所ですぅ……!」

「今は私の場所……!」

「う……」


 アーロンとレティシアが見守る中で、二人と自分による攻防が激しさを増す。全力で抱き付いてくる蒼の感触と、二人の間に挟まれてしまった腕の感触が、ただひたすらに心臓を刺激してくるのだった。




「で、そうなるわけね」

「……」


 落ち着いた。自分が一番落ち着かない形に。


「これならまだ……」

「私はこっち側でも、何の文句もないですから」

「両手に花だね、葵君」

「一人は妹ですけど……」


 からかってくるアーロンの言葉に、辛うじてその一言を返す。


 混迷を極めた攻防の結果、何故か自分の座る位置が真ん中に変わり、左隣にはいつも通りアイリスが、右隣には蒼が座ることになった。アイリスにはこれまたいつも通り左腕を抱き締められ、蒼は蒼で右手を握ってきている。自由が効くのはほとんど首から上だけで、残りは実質縛り付けられているのと同じ状況である。


「どう? 私も抱き付いた方がいい?」

「何がいいと思ったんですか?」

「バランス、かな?」

「そんなことは考えなくていいです」


 そんなことをしてしまえば最後、アーロンの言い方を借りるなら「両腕に花」である。落ち着くことは一生ない。


「と言うか、最初からこうしておいたらよかったね」

「車の中でもその並びだったものね。ある意味一番平和よ」

「そもそも、兄妹なのにくっつき過ぎじゃないですか? 私達くらいの歳の兄妹って、普通こんなに仲良くないと思うんですけど」


 こればかりは純粋な疑問なのか、先程までの蒼に対する警戒心を若干薄れさせたアイリスが問いかけてくる。瑠璃色の瞳は、蒼と自分を交互に眺めていた。


「双子ですから」

「家族ですから」

「ん?」

「うん?」

「……」

「……」


 同じようなことを言っているようで、その実微妙に異なる意味合いの言葉が重なった。思わず二人で顔を見合わせて首を傾げる。


「家族で……」

「大好きな双子の兄さんですから!」

「……」


 今度は被せるようにして。感情まで伴ってより具体的になった一言を、弾けるような笑みを浮かべた蒼が言いきる。


 その明るい表情はとても可愛いものだったが、自分も同じ顔をしていると思うと、気分は複雑だった。


「……やっぱり、警戒しておいた方がいいかもしれないですね」

「いりませんって、その警戒」

「あはは。まぁ、本当に家族ですから。アイリスさんが考えてるようなことはないですよ」

「まだ分かりませんよ! 兄妹愛だと思ってたら、なんてことも……!」

「最近そういう漫画でも読みました?」

「あれは義理の兄妹でした」

「読んだんだ……。やっぱりアイリスさんって面白い人だね、兄さん」

「面白いってなんですか?」


 本日二度目となる感想を口にする蒼。その意味をよく理解できていないアイリスも含めて、まだまだ騒ぎは収まりそうになかった。

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