110. 桜に染まる琥珀色 (1)
「……!」
「あ、おはようございます」
「……おはようございます。またですか」
「またですっ」
何かの気配を感じて目を開けてみれば、またもや目の前にアイリスの顔があった。背中を丸めてマットレスに顔を乗せているのか、やたらとその距離が近くて、寝起きの心臓に悪い。
寝起きでなくとも、この距離が心臓に悪いことには変わりないが。
「熟睡してる葵さんなんて、こんな時にしか見られませんからね。きちんと目に焼き付けておかないと」
「毎回その言葉を聞いてる気がします……」
「奇遇ですね、私も毎回言ってる気がします」
寝起きで回らない頭でも、こんな会話を毎回繰り広げていることくらいは思い出せる。それだけの回数繰り返されたということを表しているうえに、それだけアイリスの家に泊まったことがあるということも表していた。
「そんなことより、今日はお花見の日ですよ。早いところ起きちゃいましょう」
「他人の寝顔をそんなことって……。起きますけど」
寝起き一番にアイリスの顔を見て、既に眠気など吹き飛んでいる。ある意味この上ない目覚ましではあった。
そのアイリスに促されるままに、ベッドの上で体を起こす。途端に、春特有のほんの少しだけひんやりとした空気が身を包んだ。
そんな訳で、花見に行くと約束した三月三十一日、日曜日。年度末となる、三月の最終日の朝だった。
「いつもと違ってちょっとだけ髪の毛が跳ねてるのも、私が寝起きの葵さんを見に来る理由なんですよね。大好きです」
「それはあんまり嬉しくないです」
視線をこちらの頭に向けて固定するアイリス。間違いなく褒められてはいないであろう一言に、心の中には複雑な感情が渦巻いていく。
「まぁ、とにかく着替えますから。部屋から出てもらっていいですか?」
「嫌ですって言ったらどうします?」
「枕元怪談話の刑に処します」
「出まーす!」
元気よく、そして勢いよく立ち上がって部屋を出ていった。気のせいだったのかもしれないが、いつもよりも随分と早足だったような気がした。
「……どれだけ嫌なんですか」
ぱたりと閉じられた扉に向かって一言呟く。当然返事などあるはずもなく、部屋の中には静寂が広がるだけ。少しだけ沈んでいた枕元も、今や元の形を取り戻していた。
そうして微かにぼんやりしている間に、隣の部屋の扉が閉まる音がした。隣の部屋は言うまでもなくアイリスの部屋。アイリスもまだ着替えてはいなかったので、恐らくは着替えに戻ったのだろう。
「んぅ……!」
そこまで考えたところで、無意識に体を伸ばす。これまた何も意識せずとも、勝手に口から声が漏れ出した。
「……よし」
凝りが解れたところで、ベッドから這い出してカーテンを開ける。若干薄暗かった部屋は、たったそれだけで一気に明るさを増す。
三月最後の一日は、終日雲一つない快晴の予報だった。
「それじゃあ、今日はよろしくお願いします」
「任されたよ」
「と言うか、もうそこまで気にしなくてもいいのに」
「それはちょっと。もうこういう性格ですから」
「葵さんらしいですよね!」
色々な朝の準備を終え、アーロンが座る運転席の後ろに乗り込んで、一言声をかける。「そこまで気にしなくてもいい」と言ってもらえる程度には思ってもらえていると思うと、嬉しいやら恥ずかしいやらよく分からない気持ちが湧き上がってくる。
そういうところを考えると、平常運転のアイリスの存在がとても心強かった。
「アイリスさんは本当にアイリスさんですよね」
「はい?」
「何でもないです。できればそのままでいてください」
「よく分かりませんけど、葵さんが好きなところはずっと変わらないですよ?」
「……」
きょとんとした顔から、予想もしていなかった一言が飛んできた。平常運転がこれだと言うなら、それはそれで少し考える必要があるのかもしれない。
「葵君、この手の不意打ちにとことん弱いわね?」
「アイリスも、分かってやってるんだったら策士ってことになるね」
「何が?」
「……分かってないね、これは」
「……だから無理なんですよ」
心の準備も何もあったものではない。当たり前のように何気なく繰り出される一言だからこそ、その破壊力が何倍にもなるのだ。
「ま、その辺は葵君が頑張るしかないってことで。そろそろ出発しようか」
「前にも聞いたような気がします、その言葉……」
何やら既視感を抱きながらシートベルトを締める。自分の心もこれくらいしっかり守ってくれたらいいのにと思いつつ、これまた当然のように手を握ってきたアイリスの行動に鼓動を速くするのだった。
「去年のお花見って、こんなに早い時期に行ったっけ?」
「いいえ? 去年は四月に入ってからだったわね」
「今年は気温が高い日が特別多かったからね。その分開花も早かったんだろう」
「ふーん……」
ただ手を握るだけでは飽き足らず、何故か力を込めたり緩めたりを繰り返すアイリスの行動にどぎまぎとしつつも、流れる景色を眺めてどうにか心の平穏を保っていたその最中。
一家が、何やら去年の話を始めていた。
「葵さんは一人暮らしですけど、お花見って行きました?」
「わざわざ見に行くことはしませんでしたね。通学路に咲いてたので」
「あー……。そっか、確かにあそこでも見られますもんね」
二人で同時に思い浮かべるのは、通学路の河川敷。桜の名所という訳ではないが、それでもある程度の距離なら続いている桜並木は、それこそ毎日花見をしていると言っても過言ではない光景なのだった。
「人も少ないので、誰も気にすることなく見られますし」
「よくよく考えてみれば、去年はあそこを葵さんと歩きましたね」
「ですね。もう一年ですか」
「長かったような、案外短かったような……。色々あり過ぎて、よく分からなくなっちゃってます」
そう口にしながら、握った手に力を込めるアイリス。そこには、力以外にも色々な感情が込められているような気がした。
「何だか随分長生きした後、みたいな話をしてるけど、あなた達はまだ十代よ?」
「……」
「……」
「感傷に浸るには、まだちょっと早いかもね。これからも楽しいことはたくさんあると思うよ」
アーロンやレティシアの言う通りだった。思わずそんな気分になってしまったが、高校生という期間だけを見ても、あと一年はある。アイリスに至っては、まだ折り返し地点にすら差しかかっていない。どう考えても今の言葉は早過ぎた。
「あ、葵さん。桜の花言葉って何です?」
「……照れ隠しにしても下手過ぎませんか?」
「それを葵さんが言わないでくださいよぉ……」
別に照れる要素はなかったように感じるが、アイリスはそうでもなかったらしい。話題を変えるのに必死で、話の繋がりが全くと言っていい程見当たらなかった。
「まぁ、ソメイヨシノなら、『優れた美人』とか『純潔』です」
「び、美人だなんて……! そんなぁ……!」
「そこは照れる場面じゃないです」
「勝手に自分に言われたと思えるんだから、放っておけばどんなことでも幸せに感じてそうね」
「本当ですね。個人的には、アイリスさんは美人よりも可愛い方だと思ってますけど」
「葵君も大概だよね」
「言わないと伝わりません」
「そう言う割には、たまに照れて言い淀むのは何なのかしらね?」
「自分から言うのは多分大丈夫です。ただ、求められて言うのはちょっと……」
細かい違いだが、言う側の気持ちとしては大きな違いになる。ましてや、アイリスはその手の押しが強いので、その辺りの感情がより際立ってしまうのだった。
「えへー……!」
そんなことは耳に入っていないのか、アイリスはひたすら嬉しそうに笑みを浮かべている。何もないはずなのに、見ている側も釣られて頬が緩みそうになるような表情である。
同じ町内にある目的地までは、のんびり向かってほんの二十分程度の道程である。その道程も既に半分は過ぎた今、到着するまでずっとその顔のままなのではないかと思ってしまう程度には、喜びが持続していそうだった。
「さ、着いたよ」
「ありがとうございます」
またしても一言声をかけてから車を降りる。駐車場からでも既に見えている桜並木は、風に乗せてここまでその香りを届けているかのようだった。
「流石に人が多いですね……」
「この時期は仕方ないですよ」
反対側から車をぐるっと回ってきたアイリスが、隣に並びながらそう呟く。その目は、駐車場に並んだ車から公園の入口までを見回している。
「この町の数少ない名所ですからね。どうしたって人は集まります」
「ちょうど満開か、それに近いくらいに咲いてるってこともあるね。今くらいが一番混雑してるんだと思うよ」
「へぇー……」
「……何か考えてません?」
一旦視線を地面に落とし、何かを考え込むように頷くアイリス。何となく何を考えているのか読めるような気はしたが、予想を口にして間違ったことを確定させても仕方がない。そんな訳で、それ以上は何も言わないことにした。
「いえ、別に? これだけ人が多いと、はぐれたりしたら大変だなって思って」
そう言うアイリスの目は純粋そのもの。考えていたことも普通のことのように思えるが、それでもまだ油断はできない。ここから理論の飛躍を見せるのが、アイリスの常套手段である。
「で、はぐれないために、ちょうどいい方法があると思いません?」
「……」
飛躍なのかは微妙なところだが、ある程度予想したところに話が近付いてきた。ある程度予想していたからこそ、素直にその行動を取ることができたとも言えるが。
「……こうですか」
試しに左腕を少しだけ体から浮かせて尋ねてみる。返事は、言葉ではなく行動だった。
「大正解ですっ!」
浮いた左腕に抱き付くようにして、アイリスが腕を絡めてくる。何のことはない、ここ最近、毎日している歩き方だった。「何のことはない」で片付けていい仕草ではなかったが。
「やっぱり、私のことをよく分かってくれてますねっ」
「今のは誰だって分かると思いますよ」
「分かってくれたところで、私がこうするのは葵さんにだけですけど!」
「……」
「今日はよく照れるね」
「今からこの調子で、この先大丈夫なのかしら」
「ぐっ……!」
当然、そのやり取りはアーロンとレティシアも見ている。悠や碧依達に見られるのとはまた違った種類の恥ずかしさが、心の奥底からこみ上げてくる。
「まだそんなに慣れませんか?」
「……一生慣れることはないと思いますけど、こうしてるところを見られるのは多少慣れてきました」
「じゃあ大丈夫じゃないですか」
「ただ、アーロンさんとレティシアさんに見られるのは慣れません」
「あー……」
「父親です」
「母親です」
「……あはっ」
「誤魔化されません」
付き合っている相手の両親の前で腕を組んで歩く。そんな状況で平気な顔をしていられる程、自分の精神は強靭にはできていなかった。こんな状況にならないと気付けなかった、自分の内面に関する新しい発見である。
「大丈夫ですって。まだ慣れてないだけですから。これから慣れていきましょう! ……あ、でも、慣れないでほしいって気持ちもあったり……?」
「そうそう。時間はたくさんあるんだから。葵君も『一生』って言っちゃったしね?」
「っ!?」
「ほぁ!?」
「あら、無意識?」
意外そうな顔で言うレティシアに言われて、そこでようやく自分の発言に気が付いた。言われてみれば、確かに随分際どい言葉を口にしたような気がする。その証拠に、隣のアイリスまでもが奇妙な声を上げたきり黙り込んでしまっていた。
「何かがほんのり匂う言葉だけど、流石にそれは言わない方がよさそうね?」
「ほ、ほとんど言ってるようなものだと思いますけど……」
「あらぁ?」
惚けるようにして首を傾げるレティシア。その横でアーロンが楽しそうに笑っているのが、より一層心に突き刺さるのだった。
「葵さん! 写真を撮りましょう! 写真!」
「分かりましたから。そこまで引っ張らなくても」
あんなことがあって、少しの間は微かに空気がおかしかったものの、それも目の前に桜並木が広がるまで。そのおかしな空気を景色で上書きしてしまえば、残るのはいつもの雰囲気だけ。
人混みとまでは言えないものの、元々人が少ない町であることを考えると盛況と言える混雑の中を、アイリスがするするとすり抜けていく。当然、腕を組んでいる自分も釣られてするすると。
辿り着いたのは、写真を撮っている人が誰もいない一本の桜の木。最初からここが目当ての場所だったかのように、ゆっくりと写真を撮ることができそうな一角だった。
「ここなら二人で撮れますね!」
「案外周りをよく見てますよね、アイリスさん」
「こういうところは見逃しません」
自慢げに言うアイリスだったが、今回はそれに見合うだけの発見をしてくれた。他に人がいる中で、お互いに気を遣いながら写真を撮るのは面倒だろう。そういった意味では、今のところはここが最適な場所である。
「速いのよ」
「もう少しゆっくり見てもいいんじゃないかい?」
「見るけど、ここが空いててチャンスだったから」
後から少しだけ遅れてやってきたアーロンとレティシアが、そうアイリスに苦言を呈する。それでも、アイリスに引き下がる様子は見られなかった。
「まぁ、確かに他は撮りづらいね」
「でしょ? 今がチャンスなの」
自慢げな顔を、そのままアーロンに向けるアイリス。実際そうなのだが、この場所を見つけたのは自らの手柄だと言わんばかりの表情だった。
「ほら、お母さん! 撮って撮って!」
「分かったから、少しは落ち着きなさい」
「葵さんと一緒にお花見に来て、私が落ち着いていられるわけがないでしょ!」
「え? そこで僕のせいにされるんですか?」
まさかの発言だった。全く予想していない方向から責任が飛んできて、思わず情けない声が漏れてしまう。
「そうですよ? 葵さんが近くにいると、私は落ち着きをなくすと思ってもらえると嬉しいです」
「何が嬉しいんですか?」
全力で微笑みながら、さも当たり前のように言うアイリスだったが、言っていることが何一つ理解できない。その特性の、一体どこに喜ぶべき場所があるのだろうか。
「楽しいどきどきですからね! 普通に緊張するのとは全然違います!」
「はぁ……?」
説明されたところで、相変わらず全てを理解することはできなかった。感性が独特過ぎる。
「私達の娘だけど、その辺はあんまり気にしないことをおすすめするわ。誰も理解できないもの」
「あんまり気にし過ぎると沼だよ」
「えへへ……。葵さんを私の沼に引きずり込んじゃいましょうか……!」
「気にしないことにします」
「なんでですか!」
「引きずり込まれそうだからです」
アーロンとレティシアの言う通り、その辺りは極力気にしないことにした。アイリスの言葉は冗談だったのだろうが、個人的には冗談抜きでいつまで経っても理解できない沼にはまりそうな予感がある。
「じゃあ、無事に葵君を助け出せたところで、そろそろお望みの写真を撮りましょうか」
「なんかもやもやする……」
「せっかく写真を撮るんだから、もっと楽しそうにしなさいな。それこそさっきみたいに」
言葉を体現しようとでもしているのか、アイリスが小さく口を尖らせる。不満があることが丸分かりの、とてもそれらしい表情だった。
「……葵さんが何か嬉しいことを言ってくれたら、さっきみたいに笑えるかもしれません」
「えぇ……?」
そして、またしても何やら面倒なことを言い出した。普段からコスプレをさせようとしてくることを考えると、まだこの方が対処はしやすいのかもしれない。だが、それはそれとして願いが抽象的である。すぐに頭に浮かぶものは何もなかった。
「凄い。この子、こういうことになるとこんなに面倒なことを言うのね」
「親になってからもうすぐ十七年だけど、まだまだ知らない面が見つかるのは面白いね」
「そんな穏やかに話す場面ですか?」
「面倒って何?」
あまりにもマイペースな反応を見せるアーロンとレティシア。こんなところでも、アイリスとの親子関係がよく表れていた。間違いなく遺伝している。
「ちなみに聞きたいんだけど、何か嬉しいことって、何を想像してるの?」
「面倒とか言い出すお母さんには教えてあげない」
「……」
自分も同じことを思ったという事実は、絶対に口にしないと心に誓った。
「あら。教えてくれたら、その時は台詞を監修しようかと思ったのに」
「甘々な台詞でお願いします!」
「だから……」
手の平返しの早さが凄まじい。先程までの不満そうな表情はどこへ消えてしまったのか、今や期待に満ちた輝かんばかりの笑みを浮かべるアイリスなのだった。
「甘々、ねぇ……?」
「普段の葵さんが絶対に言わないような、聞いてるこっちが恥ずかしくなる台詞が理想です!」
「それって、言う側はもっと恥ずかしいってことじゃないですか」
「そう言う割には、葵君も言うこと自体は否定しないんだね」
「……できれば遠慮したいです」
普段言わないような言葉とは、つまりは自分には似合わない言葉と同じ意味になる。似合わないから思い浮かべない。思い浮かべないから言わない。誰にでも分かる、とても単純な構図である。
「もう手遅れだと思うよ」
「……! ……!」
「う……」
だが、この上なくきらきらとした目で見つめられ、思わず小さな呻き声が漏れる。自分にこの目を否定することはできない。
「そうねぇ……。ちょうどお花見に来てるんだし……」
そして、レティシアのことも止められない。アイリスとレティシアが結託してしまった今、自分にできるのはレティシア監修の台詞がまともなものであるよう祈ることだけ。
「葵君。ちょっとだけいい?」
「……あんまり聞きたくないんですけど」
「大好きな女の子からの可愛いお願いよ?」
「ハードルの高さは全く可愛くないですけどね」
苦し紛れにそう言いながらも、レティシアが耳打ちしてくること自体は受け入れるより他なかった。そこで告げられた台詞を言うかどうかは別にして。
「……こんなことを言うのもどうかと思うんですけど」
「何?」
「正気ですか?」
「至って真面目」
「尚更質が悪い気がします」
レティシアが考えた台詞を一通り聞き終わっての感想がそれ。どう考えても、自分が口にしていい台詞ではなかった。一体何を食べて生きていれば、こんな台詞がすらすらと思い付くのだろうか。
「ほら。早く言ってあげないと、いつまで経っても機嫌が悪いままよ?」
「もう回復してるように見えません?」
「見えません」
「……」
そんな簡単に逃がしてくれる訳がなかった。言いきったレティシアの表情が無駄に凛々しい。
「……っ! ……っ!」
そして、先程よりも当の本人からの期待と催促が一段と強まったような気がする。思えば、アイリスからこの表情で願われた時点で、逃げ場などあるはずもない。
「……」
年貢の納め時だった。
「……そ、その……」
「はいっ!」
納め時なのに、それでもまだ抵抗する口を何とか動かして言葉を紡ぐ。ようやく待ち望んだ瞬間が訪れることを察したからなのか、アイリスの期待が極限まで高まっていくのが肌で感じ取れる。
ちなみに、アーロンとレティシアは完全に野次馬のような立ち位置になっていた。アーロンはともかく、レティシアに関しては関係者のはずなのに。
だが、そんなことを言っていても、この先に待ち受けるものは変わらない。つまり、もう前に進む以外の選択は取れなかった。
「こ、ここにあるどの桜より……、その、アイリスさんの方が、綺麗で可愛い、です……」
「……」
言いきった。言いきってしまった。間違いなく過去一番顔を赤くしながらも、それでも言いきってしまった。
今後何があっても口にすることはないようなその台詞は、とてもではないが真っ直ぐ瑠璃色の瞳を見つめて言うことはできなかった。
「……っ!」
じわじわと。苦しい沈黙の時間が流れる中、言葉の意味をゆっくりと噛みしめるようにして理解したであろうアイリスが、その腕に込める力を強めていく。
「葵さん!」
「うっ……!?」
返事は、熱烈とまで言えそうな抱擁だった。
「面白いくらいに疲れてるわね、葵君」
「誰のせいだと……」
「まだ午前だよ? そんな調子で大丈夫かい?」
全力で抱き付かれたまま写真を撮られてから少し。何故かやたらと疲れたような気がする体を引きずりながら、再び桜並木の下を歩いていく。
道の両側から大きく枝を張り出すようにして形作られたその景色は、文字通り桜色のドームとでも言うべき代物だった。
「どうしましょう……! ほっぺたが勝手に緩んじゃうんですけど……! えへ……」
「あなたのそれは割と普段からのような気がするわね」
本来ならば、ずっと先まで続く桜色の景色に圧倒されているはずだったのだろう。だが、残念ながら今自分が圧倒されているのは、腕を抱き締めて離す気配のないアイリスの嬉しそうな表情に、だった。
「何をしに花見に来たのか分からなくなってるね」
「葵さんを愛でに!」
「それはどこでもできるじゃない」
「桜を背景にして、照れてほっぺたを桜色にしてる葵さんを愛でに!」
「やってることは変わらないわよ」
とにかくアイリスの興奮が止まらない。いつもよりも腕への密着具合が増して、若干の歩きにくさすら感じる程だ。それでも離れてほしいと言わない自分も自分だが。
「もっとまともな表情で写真が撮りたかったです……」
「大丈夫ですよ。多分全部可愛く撮れてるはずです」
「思いきり抱き付かれて慌ててる葵君も、その後恥ずかしそうにしてる葵君も、全部きちんと可愛かったわ」
「ほら」
「可愛いのはアイリスさんだけでいいんですよ……。何で僕まで……」
「またそうやって私を喜ばせることを言っちゃうんですからぁ!」
「う……」
押し付けるように、肩に頬を寄せてくるアイリス。喜びが最大まで高まった時にだけ見せるその仕草は、同時に歩きにくさも最大まで高めてくれる。お互いが座っている時にするならまだしも、歩いている時には色々な意味で勘弁してほしい仕草だった。
「ちょっと早いですけど、もうアイリスの花が満開ですよ!」
昂った気分そのままにそう口にするアイリスだが、その手の発言には何やら聞き覚えがあった。ついでに言えば、本人が恥ずかしがっていた覚えも。
「夏祭りの時、その手の言葉で後悔したのは誰ですか?」
「お口を閉じまーす!」
あっという間の出来事だった。何を言いたいのかを即座に理解したであろうアイリスが、一も二もなく口を閉ざす。その様子を見るに、どうやら記憶が蘇ったらしい。
「弱いのは弱いけど、こういう扱いは上手いのよね」
「バランスが取れているとも言う」
「バランスがいい組み合わせだって言われてますよ、葵さん!」
「口を閉じるんじゃなかったんですか」
閉じてから再び開くまでが、僅か十秒にも満たない。相も変わらず嬉しさを隠せていないその表情は、それこそ本当にどの桜よりも輝きを放っていた。
「あの手のことはもう言いませんけど、褒められたら素直に喜んじゃいます」
「簡単に操られてるのに、それを褒められてるって言っていいのかしらね?」
「その辺は聞こえませーん」
「都合がいい耳をしてますね」
「葵さんの声は聞き逃さない、とっても都合がいい耳ですよ?」
「この距離なら、誰だって聞き逃さないと思いますよ」
そもそも、アイリスとの間に距離は存在していない。辛うじて耳と口は離れているが、それすらも普通に話すよりずっと近い距離だ。声を聞き逃す方が難しい。
「あは」
「すぐそうやって誤魔化そうとするんですから」
誤魔化すためなのに、それでも心を真正面から撃ち抜いてくるような笑みを向けられる身にもなってほしい。冗談抜きで、心臓がいくつあっても足りない。
「……?」
そんな笑みから逃れるように正面に顔を向けた瞬間、景色の中に特大の違和感を抱く。何か、そこにあるはずのないものを見たような、そんな違和感である。
「……え」
「葵さん?」
何か、などと表現はしたものの、とっくにその答えは分かっている。分かっているけれども、信じられない出来事がそこに横たわっているのも事実だった。
そんなどうにも表現できない感情に引っ張られて足を止めた自分を、アイリスが不思議そうな目で見上げてくる気配があった。腕を組んでいるのだから、当然アイリスの足も止まる。
「……」
「葵君?」
「どうかしたかい?」
二歩分だけ先に進んでから、そんな自分達を振り返ってきたアーロンとレティシア。だが、二人に返事をする余裕すら、今の自分にはない。
「……」
言葉を失って、ただ真正面の一点を見つめ続ける。
「……」
その一点。視界の中心に捉えた一人の少女も、ただ沈黙して自分を見つめ返すだけ。違和感の正体たる彼女は、桜色の風に琥珀色の髪をなびかせ、薄茶色の瞳を逸らすことなくこちらに向けている。
ただし、それだけならばこれほどまでに困惑はしなかっただろう。ただ誰かと目が合っただけで済んでいたはずだ。
ならば、一体何に困惑しているのかといえば。
「何かあり……」
自分が向いている方向に目を向けたアイリスが、少女をその視界に捉えて絶句する。少しだけ間が空いてからアイリスが口にした言葉が、今の異様な状況を一言で表していた。
「葵さんが二人……!?」
まさしく信じられないものを見たような目で見つめてくるアイリスだったが、生憎気持ちは自分も同じである。まともに返すことのできる言葉など、一切持ち合わせてはいない。
「なんで……? えっ……!?」
自分の反応のなさに困惑を深めたのか、アイリスの視線が自分と少女の間を往復する。それでも答えは出ないようで、気が付けば腕を抱き締める力が随分と弱くなっていた。
そして、そんな困惑はアーロンとレティシアも同じ。アイリスの言葉を聞いてから弾かれるようにして正面に視線を向けたきり、一言も言葉を発せなくなっていた。表情は見えなくとも、その背中から雰囲気だけは伝わってくる。
「……」
四人分の視線を受けながら、件の少女がゆっくりと歩み寄ってくる。アイリスの言う通り、その顔は鏡でも見ているかのように、自分と瓜二つで。
「あ……。え……?」
何も言えないままでいるうちに、少女がアーロンとレティシアの横を通り抜け、とうとう目の前で立ち止まった。鏡の中で何度も見てきた顔が、悪戯がばれてしまった子供のような笑みを形作る。
「久しぶりだね」
紡がれた声はやや高め。ただ、どこか自分のものと似た雰囲気を感じさせる声だった。
そして何より、その言葉。過去の出会いを仄めかせる一言は、それでも続く一言の前ではあくまでも前置きでしかなくて。
これまでの記憶を全て覆す、特大の一言が紡がれた。
「兄さん」




