109. 綴られる日々
ついに始まった春休み。最初の土日は色々と予定があったので、結局アイリスの家に連れ込まれたのは、三日目となる三月二十五日の月曜日だった。
高校生たるアイリスと自分は休みだが、社会人たるアーロンとレティシアは当然仕事がある。そんな訳で、家の中には二人だけである。
「前に見た時も思ったんですけど、やっぱり小さい頃から女の子っぽい顔だったんですね」
「……まぁ」
いつものソファに並んで腰かけて、身を寄せ合う。広々とした家、広々としたリビングで、その広さを全く活用する気のない座り方だった。だが、どちらも何も言うことなく、自然とこの形に落ち着いていた。
「今は絶対こんな風に笑ってくれないですもんね……」
「成長するって、そういうことです」
「私はまだ無邪気に笑えますもん」
「知ってますよ。可愛いことも」
「えへ」
そうして何をしているかといえば、数日前に話していた幼い頃の写真を眺めているのだった。今度は見せてもいい写真を選ぶこともなく、蒼が写っている写真もそのままだ。眺めている一ページ目にはまだ登場しないが、このページを捲ればちらほらと登場し始めるはずである。
「これって、何歳くらいの時の写真なんです?」
「正確には覚えてないですけど、多分三歳か四歳くらいじゃないですか?」
「ミニ葵さんが可愛過ぎて辛いです」
「その感情は初めて聞きました」
自分の膝の上に乗せたアルバムを、アイリスが身を乗り出すようにして覗き込んでくる。前のめりなのは体だけではないらしかったが。
「今日持ってきたのはこれくらいからのアルバムですけど、一応、もっと前のアルバムもありますよ」
「何でそっちも持ってきてくれなかったんですか」
「小さ過ぎて、あんまり僕だって分からないような写真が多かったからですね」
「私なら分かります!」
「本人が分からないのに?」
「ですっ!」
力強く言いきるアイリス。自信に満ちた顔をしている辺り、本気でそう思っているのがはっきりと伝わってくる。
そんな顔を見ていると、アイリスならあるいはと思ってしまうのだから、普段の積み重ねがいかに大きいか分かるというものだ。
「でも、もっと小さい頃のアルバムは次の機会に、ですね。今はこっちの葵さんを愛でます」
「言い方が若干怪しくなってきましたよ」
「葵さんしか聞いてないので大丈夫です」
「聞いてるのが写ってる本人なんですって」
抵抗とも呼べないような一言を告げる間に、アイリスの指がアルバムのページを捲る。新たに現れた写真の中には、以前は存在していなかった写真が数枚混ざっていた。
「あ、この辺が前はなかった写真ですね」
見開き一ページをざっと見回したであろうアイリスが、とある一枚を指差しながらそう口にする。
その指先に視線を向ければ、そこには蒼と自分が二人で写っている写真が貼り付けられていた。
「ですね。二人で写ってる写真は全部隠してたので」
「……」
「アイリスさん?」
指していた指をどけ、じっと写真に目を向けて黙り込むアイリス。これまであんなに饒舌に話していたのに、今やその口は完全に閉じられてしまっていた。
当然のことながら、アイリスが蒼の写真を見るのはこれが初めてではない。夏休みにアルバムを持ってきた時にはそうだと知らなかったとはいえ、一枚だけ目にしたことには変わりない。その段階で違和感を抱いたようではあるが、本当のことを知ってから見るのでは、あの時とはまた何かが違うのかもしれない。
「どうかしました?」
「あ、いや……。本当にそっくりなんだなって思って……」
「一卵性ですから。この頃なんて、両親も一瞬迷うくらいだったらしいですからね」
「へぇ……」
「何ですか、その何かを企んでいそうな声は」
たった一言、されど一言。今のアイリスが漏らした一言には、あれこれと語るよりもたくさんの感情が詰まっているような気配があった。何かを考えるように少しだけ上を向いたのも、そんな気配に拍車をかけている。
「気のせいじゃないですかぁ?」
「だったら、その緩んだ頬をどうにかした方がいいですよ」
アイリスとしては誤魔化そうとしているのかもしれないが、残念ながら緩んだ頬は隠しきれていない。こんな顔を見せるのは、大抵何かよからぬことを企んでいる時だ。過去の経験が、そう頭の中で囁いていた。
「それはちょっと無理ですね。可愛いものを見ると、私の頬は勝手に緩んじゃいます」
「聞いたことないが特殊体質……」
「えへー」
「こっちを見て緩めなくていいんですよ」
一体どういう意味なのか、最早考えるまでもない。
「鏡でも見て緩めたらいいじゃないですか」
「……っ!」
「……」
「……葵さん、たまにそういうことを言いますよね」
「本心ですよ」
「今でもちっちゃい葵さんが嬉しいことを言ってくれて辛いです」
「どんな感情ですか」
赤くなった頬を両手で押さえたアイリスが、ふるふると小さく首を振る。一応言葉通り嬉しそうに細められた目も、口角が持ち上がった口元も、どちらも緩やかに弧を描いていた。
「あとは、この写真みたいに笑ってくれたら、もうそれ以上は望むことなんてないですね!」
「来世の僕に期待してください」
「今笑うんですよ」
「無理です」
何故か真剣な顔付きでそう口にするアイリスだが、人間誰しもできないことはある。そもそもの話、何もないのにいきなり満面の笑みを浮かべてみせろと言われても、大半の人にとっては不可能なことだろう。
「写真の中なら、こんなに可愛く笑ってるのに……」
「本当に無邪気ですよね」
「他人事みたいに言ってますけど、葵さんのことですからね?」
「アイリスさんが指差してるの、僕じゃないですよ」
「……」
「こっちが僕です」
アイリスが指差している顔の隣を指差す。並んでいるのはほとんど同じ顔だが、自分が指差している方が間違いなく過去の自分だった。
「……写真の中なら、こんなに可愛く笑ってるのに……」
「もう手遅れですって」
「うぐっ……!」
何事もなかったかのように、すっとアイリスの指が移動した。具体的には、蒼の顔から自分の顔へ。わざわざ台詞まで先程のものに揃える努力まで見せてくれたが、流石に誤魔化しきれる状況ではない。
「見分けられませんでしたね」
「うぅっ……!」
「まぁ、僕ですらたまに分からなくなるので、アイリスさんがそうなるのも仕方ないです」
「でもぉ……! この私が葵さんを見分けられないなんて……!」
悔しさが滲んだかのように、瞳を潤ませて言うアイリス。当の自分ですら完璧には見分けられないと言っているのに、何がアイリスをそこまでにさせてしまうのだろうか。
「こうなったら、穴が開く程眺めて葵さんマイスターになります!」
「恥ずかしいのでやめてください」
聞いたこともない称号を手に入れようとしているアイリスを、全力で止めにかかる。誰がそう認定するのかも知らないが、手に入れてしまった暁には、方々で言い触らしていそうだ。そうなった時に恥ずかしい思いをするのは自分なので、今のうちに止めておくに越したことはない。
「なんでですか」
「恥ずかしいからって言ってますよね?」
「照れ隠しにしか見えないんですけど」
「マイスターへの道程は長そうですね」
「なんでですか!」
感情を読み間違えているからである。いくら不満そうな顔で見つめてこようと、その評価は覆らない。
「葵さんにもちゃんと認めてもらって、そのうえでいろんな人に言い触らそうと思ってたのに!」
「だからやめてくださいって言ってるんです」
「……?」
「どうして不思議そうな顔ができるんですか」
何を言っているのか分からないとでも言いたそうに、小さく首を傾げるアイリス。ただし、首を傾げたいのは自分の方だ。
「そこまで言うんだったら、僕もアイリスさんが小さい頃の写真を要求しますよ」
「いいですよ? 前までだったら恥ずかしさに耐えられなかったかもしれないですけど、今なら大丈夫な気がします」
「へぇ? いいんですか?」
少し意外な答えだった。確か、以前はまだ見せられないと言っていたような気がするが、ここ最近はそうでもないらしい。
「あ、でも……」
「ん?」
「小さい頃の私の方が好きとか思われちゃったら、それはちょっと……。今の私を見てほしいと言うか……」
「僕を何だと思ってるんですか」
「あは」
「まったくもう……」
最終的には悪戯っぽい笑みを浮かべるアイリスだったが、怪しいことを口にした瞬間は大真面目な顔だった。一体どんな思考を辿れば、あんな表情を浮かべることができるのか。感情が読み取れないという点では、自分もアイリスと大差ないのかもしれなかった。
「かーわーいーいーでーすーっ!」
「分かりましたって! それで何で僕に抱き付いてくるんですか……!」
写真を一通り見終わって。アルバムを膝の上から机に移動させた途端、その時を待っていたかのようにアイリスが横から飛びついてきた。
当然、体も心も準備などしているはずもなく、為す術もないままソファに押し倒される。
「写真の中の可愛さのまま成長してくれて、こんなに嬉しいこともないです!」
「僕はこんなに複雑なこともないですよ……!」
訳が分からないことを言われて悲しめばいいのか、それともここまで好いてくれていることを喜べばいいのか。これまでの人生で迫られたことのない二択を前に、心はただ困惑を繰り返すだけ。
ただ、今後何度もこの手の二択を迫られるような気がするのは、恐らく気のせいではないのだろう。そういった点も含めて複雑な気分だった。
「やっぱり、葵さんは『かっこいい』より『可愛い』の方が似合うと思うんですよねっ」
「よくもまぁ、そこまで僕を複雑な気持ちにさせることが言えますね」
いくらこんな見た目をしていても、一応は男である。そうだったからアイリスが自分に近付きやすかったと考えても、複雑な気持ちが完全に晴れる訳ではない。
だが、それも額をぐりぐりと押し付けるアイリスには関係ないようで。
「これからも、可愛い葵さんを極めていきましょうね!」
「……」
どう反応していいのか分からない提案。それでも即座に否定の言葉が出てこなかったのは、楽しそうな声音を邪魔したくなかったからか。
「沈黙は肯定ですよ?」
「……やり過ぎない程度なら、もう諦めて受け入れます」
「やり過ぎます!」
「じゃあだめです」
「なんでですか!」
「やり過ぎるからです」
そんな下らないやり取りを交わしている間に、とあることを思い出す。
「あ」
「うん?」
「そういえば、前にもこんな風にしてたことがありましたね」
「え?」
どうやって認めさせようか。そんなことを考えていそうな表情を浮かべていたアイリスが、突然差し込まれた一言に不思議そうな声を上げた。今回は感情も行動も正解である。
「このソファで、同じ格好で」
「……っ!?」
「去年の夏休みでしたよね。ホラー会」
「また忘れてたのにぃ! もぉー!」
どったんばったん。そんな効果音が聞こえてきそうな動きをアイリスが見せる。抱き付いたままソファのクッションを最大限に利用して飛び跳ねる、無駄のない無駄な動きだった。沈み込む度に一層体が押し付けられて、とにかく心臓に悪い。
「次はいつにしましょうか」
「次はないって言ってるじゃないですかぁ!」
「頑張ったらご褒美があるかもしれないですけど、それでもですか?」
「……!」
ぴたりと。恐怖の記憶を頭から追い出そうとするかの如く飛び跳ねていたアイリスが、その動きを止めた。どうやら、微かな葛藤が生まれてしまったらしい。
「もしかしたら、何でも言うことを聞いてくれるかもしれないですよ?」
「……いや! 葵さんなら、『約束まではしてない』って言って、ご褒美なしになる気がします!」
「騙されませんでしたか」
「半分マイスターですもん!」
「半分?」
またよく分からない称号を生み出していた。双子の片割れをよく知っているから半分マイスター、だろうか。
「とにかく! 前にも言いましたけど、もうホラー会はしません!」
「怖がるアイリスさんも、それはそれで可愛かったんですけどね」
「……っ! それでもです!」
「ちょっとだけ揺れましたね」
「葵さんに可愛いって思ってもらいたいですもん!」
「そういう素直なところは可愛いと思いますよ」
「思ってもらえたので、やっぱりなしです!」
揺れに揺れた天秤は、結局開催しない方向に傾いた。正直なことを言うと、最初から分かりきっていたことだが。
そうしてホラー会を開催しない方向になってしまえば、残る問題は一つだけ。
「……それじゃあ、話に決着がついたところで、そろそろどいてもらってもいいですか」
「……」
「……アイリスさん」
「……やです」
「……」
いつまでも抱き付かれたままでは、気持ちが落ち着く未来が見えない。だからこそホラー会の話をして気を紛らわせていたのに、それすらも終わってしまった。苦し紛れに直接伝えてみても、アイリスの顔は再び胸元に埋められるだけ。
「もうちょっと……」
「いや、それは……」
「えへー……」
「……」
冬よりも少しだけ薄手になった服越しに、アイリスが漏らした吐息の温かさが伝わってくる。顔は全くと言っていい程見えないが、どうせこの上なく幸せそうに緩んでいるのだろう。
「体力が回復していきますぅ……」
「……その体力、多分僕から吸い取ってますよ」
「葵さんは私の回復薬……」
「体力のストックの間違いだと思います……」
アイリスに体力を吸い取られながら、それでも無理矢理跳ね除けることはできなかった。それはまるで、自分も心のどこかでは満更ではないと思っているかのようで。
「ふあぁぁ……」
「……」
結局、レティシアが帰ってくるまでアイリスがその体を離すことはなかった。もちろん、帰宅一番にそんな光景を目の当たりにしたレティシアに散々からかわれたことは、最早言うまでもない。
「あなたが小さい頃の写真?」
「うん。葵さんが見てみたいって。アルバムとかあったよね?」
「もちろんあるけど、本当に葵君が言い出したの? あなたが言わせたとかじゃなくて?」
「どうやってそんなことをするの」
「言ってくれないと、毎日葵君の方から抱き締めてもらうことにするとか何とか言って」
「……」
「その手があった、みたいな顔をしないでもらえます?」
「……!」
「期待に満ちた目で見るのもだめです」
あの手この手でレティシアにからかわれた少し後のこと。アーロンの帰宅を待ちつつ、レティシアが夕食の準備を始めようとしたタイミングで、アイリスがアルバムの話を切り出した。
何やら話が怪しい方向に転がり始めているのは、自分の気のせいだと思うことにする。
「本当に言ったの? 葵君?」
「言いましたね。僕だって、小さい頃のアイリスさんには興味ありますから」
「葵さん、やっぱり……」
「興味がなくなりました」
「冗談ですよ。そこまではっきり言わなくても」
言っておかないと、何故か後々大変なことになりそうな予感があったからだ。具体的には、碧依や莉花辺りに捻じ曲がった事実が伝わる未来が見えた。絶対に避けねばならない。
「とりあえず、お夕飯の後にしましょうか。その方が落ち着いて見られると思うし」
「分かりました。それでお願いします」
アイリスと何でもないような会話を繰り広げている間に、レティシアの中で結論が出たらしい。ひとまずはするべきことを終えてから、ということだった。
「葵君のアルバムも、ゆっくり落ち着いて見てみたいしね?」
「……お手柔らかにお願いします」
「それは写真次第」
レティシアの不穏な言葉に懇願を返しておく。数秒前と同じ言葉のはずなのに、込めた意味合いは全く違うものになってしまっている。
「さて、それじゃあ、私はお夕飯の準備でも始めましょうか」
「さて、それじゃあ、私はもう一回葵さんのアルバムを眺めましょうか」
「何も変わってませんよ」
「何度見てもいいものですからね!」
「いやまぁ、別に止めはしませんけど」
ソファから腰を上げてキッチンへと向かうレティシアを見送りながら、アイリスが明るい声でそう宣言する。いくらか期間を空けて見直すのなら分かるが、きっとアルバムはこんな短時間で見返すものではない。
「いいものは何回も見たくなりますから!」
「言ってることがほとんど変わってないですって」
前後の順番を反対にしただけの言葉を口にしながら、机の上に置いていたアルバムを膝の上に乗せるアイリス。表情からもそうだが、ページを捲ろうとする指先からすらも、楽しみにしている感情が伝わってくるようだった。
「私のお気に入りはこれですね」
そう言って指差すのは、蒼と自分がお互いに頬を寄せ合って笑みを浮かべている写真。二人で写っている写真の中ではとりわけ距離が近い、と言うより、全く距離がない一枚だった。
「この、ほっぺたがぷにっとしてる辺りとか、もう最高だと思いませんか?」
「それを本人に聞きます?」
「当時はどのような心境で?」
「インタビューをしろとは言ってないです」
そもそも、当時の心境は覚えていない。聞くだけ無駄である。
「はぁ……。可愛いぃ……」
「……」
一度見たはずの写真なのに、それでもページを捲る度に頬をとろとろに蕩けさせるアイリスの姿は、もしかすると何らかの癒しの効果を放っているのかもしれない。その姿を見ている自分の方も、先程からのあれこれで削られた心が癒えていく感覚があった。
「……あれ?」
「ん?」
そうしてお互いの姿に癒されていると、とあるページでアイリスの手の動きが止まった。気になって手元を覗き込んでみれば、そこにあるのは変わったところなど一切ないように見える写真達。家の中で、二人で遊んでいるところを撮った写真が並んでいる。
「何かありました?」
「ん……。いや……?」
自らも手が止まった理由を把握できていないのか、アイリスが小さく首を傾げる。把握できてはいないが、確実に何かを考えているらしい。
「写っちゃいけないものでも写ってました?」
「違いますけどぉ!? いきなりホラーにするのはやめてもらっても!?」
「唐突に手が止まるからですよ」
「こんな可愛い二人組がいたら、幽霊だって裸足で逃げ出しますけど!?」
「それは褒められてるんですかね?」
「褒めてますっ!」
「ありがとう……、ございます?」
「どういたしましてっ!」
予期せぬホラーに、アイリスの情緒がどこかおかしくなっていた。切り出したのは自分だが。
「それで? 冗談抜きにどうかしたんですか?」
「言い出したのは葵さんなのに……!」
「まあまあ」
「はぁ……。……やっぱり、昔から仕草が女の子っぽいんだなって思っただけです」
「昔から?」
その言い方は、今も仕草が女の子っぽいと言っていないだろうか。軽く聞き流してしまいそうな言葉だが、そこだけは聞き逃してはいけなかったような気がする。
「昔から、です。今もそうですもん」
「どこがですか」
「ウェイトレス服を着てる時とか。無意識かもしれないですけど、きちんと女の子の動きになってますよ」
「きちんとって……」
できるのであれば、聞きたくない言葉だった。アイリスの言う通り、完全に無意識なのがまた質が悪い。いよいよ以て、何か大事な部分が崩れ去る寸前なのかもしれなかった。
「顔立ちが女の子っぽいと、仕草までそっちに引っ張られちゃうんですかね?」
「どう考えても、ウェイトレス服に引っ張られてますよね」
「たまには男の子の格好をしておかないと、ですね」
「『たまに』でいいはずがないと思いません?」
「……それもそうですね。私としても、可愛い葵さんの姿は好きですけど、ちゃんと男の子をしてる葵さんが一番好きですから」
「うっ……」
ほんのり頬を染めて、軽く微笑みながらの一言。不意打ちにも程があるその一撃は、いとも簡単に心の中心を撃ち抜いてきた。先程のアイリスの言葉ではないが、いきなり素直な感情を放り込んでくるのは程々にしてほしい。何の準備もできていない心で真正面から受け止めてしまえば、自分がどうなってしまうのかなど分かっているだろう。
あるいは、分かったうえでの一言だったのかもしれないが。
「あ、照れてますね」
「……放っておいてください」
「好きですよ! 葵さん!」
「……っ!」
顔ごとアイリスから背けて逃げ惑う。何をどうしたところで、今この場でアイリスに勝てるとは思えなかった。
ちなみに、アイリスが先程指差していたのがまたしても自分ではなく蒼だったことは、今回は伝えないことにしておいた。と言うより、伝える暇がなかった。
「これは、せっかく買ってもらったソフトクリームを地面に落として泣いてるアイリス」
「今と変わってませんね」
「変わってますもん!」
アーロンが帰宅した後、最早一緒に食卓を囲むことが当たり前になってしまった夕食の時間を終え、いよいよアイリスのアルバムがお披露目となった。
何となくの想像通り、昔から写真を撮ることが多かったらしく、机の上に置かれたアルバムは随分と分厚いものだった。しかも複数冊ある。
何故写真を撮ることが多かっただろうと予想できたのかは、なるべく意識しない方向で話を進めることにした。
「お父さんが必死で慰めてるところを、私が後ろから激写しました」
「自慢げに言うことじゃないから」
「この時はあれだね、確かもう一つ買ったような気がするよ」
「その辺まで予想通りです」
「葵さん?」
あまり幼過ぎる頃の写真を見ても仕方がないということで、小学校に上がるか上がらないかという時期から見せてもらっている。流石にある程度成長しているだけあって、どの写真にも今のアイリスの面影が色濃く残されていた。
「何が予想通りなんですか?」
隣のアイリスが、何故か異様な圧を放ちながら問いかけてくる。とても綺麗な笑顔を浮かべているのに、素直にそれを受け入れることができなかった。
「妙なミスをして涙目になってるところですね。昔から変わってないんだなと」
「そういうところって、なかなか変わるものじゃないからね」
「もう落とさないし!」
「そうね。葵君に持ってもらって、食べさせてもらうのが理想だものね?」
「それ採用!」
「落選ですよ」
「なんでですか!」
自分がソフトクリームを両手に持った愉快な姿になるからである。
「で、こっちは公園で転んで泣いてるアイリス」
「お父さんが必死で慰めてるところを、私が後ろから激写しました」
「さっきも聞いたよ、それ」
「……このページ、泣き顔ばっかりじゃないですか?」
「集めたもの」
「何をしてるの?」
アイリスが不思議そうに首を傾げるのも無理はない。このページが目に入った時から薄々勘付いてはいたが、どの写真も泣き顔ばかりが写っていた。どう見ても意図的に集めてある。
「私達の娘は泣いてても可愛いって思いながら写真を貼ってたら、いつの間にかこうなってました」
「こうなってました、じゃないよ。流石に恥ずかしいんだけど」
「葵君も可愛いと思わない?」
「可愛いのは可愛いと思いますけど、僕は涙目くらいが好きです」
「葵さんも何を言ってるんですか?」
アイリスの疑問が止まらない。誰一人として味方がいない中、たった一人でも何かに抗い続けていた。
「二人くらいの身長差だと、普段からほんのちょっと上目遣いになるんじゃない?」
「なってますね」
「で、涙目が好き」
「一番は笑ってくれることですけどね」
「あらま」
「そういうところですよぉ!」
「そうは言いつつも、どうしようもなく顔がにやけてるところがアイリスらしいね」
「今のはむりぃ……!」
溢れ出る感情を抑えきれなかったのか、頬にはっきりとした喜びが浮かんでいた。言った自分もやや恥ずかしさはあるものの、その表情が見られたのなら、十分にお釣りが来る。
「写真に写ってる桜みたいな色をしてるわね」
「桜は桜でも、どちらかと言えば関山みたいな色ですね」
「その例えは葵君にしか分からないかな……?」
言いながらマイナーな例えだとは思ったが、案の定誰にも伝わらなかった。
「あ、桜で思い出しました」
「ん?」
ならば、他に何で例えるのが正解だったのか。乏しい知識の中を彷徨いながら探している最中に、照れに照れていたアイリスが何かを思い出したように口にした。思わず目を向けてみれば、その頬の色は一般的な桜色まで落ち着きを取り戻している。
「ちょうどそういう時期ですし、お花見に行きませんか? お花見」
「目の前の頬に咲いてますけど」
「えへ……!」
再び濃くなった。頬の色も、笑みの色も。
「……って。そうじゃなくて」
そう思ったのも束の間、即座に夢心地から帰ってきたアイリスが仕切り直すように呟く。
「ちゃんとしたお花見ですって。すぐそうやってお話を逸らしちゃうんですから」
「でも嬉しかったんでしょ?」
「嬉しかったです!」
「正直ねぇ……」
即座に言いきった姿を見て、レティシアが苦笑を浮かべていた。素直過ぎる自らの娘をどう思っているのか、何となく垣間見える表情だった。
「で、どうです? うちは毎年行ってるので、今年は葵さんも一緒にどうかなって思ったんですけど……」
「皆さんがいいなら、僕に断る理由なんてありませんよ」
その問いかけに否を返す未来などあり得るはずもないのに、それでもほんの少しの不安を滲ませた声だった。アイリスがそう思ってしまうのなら、自分にできるのはその不安を取り除くことだけである。
「それこそ、私達だって断るはずがないでしょ?」
「最初から、今年は四人だろうなって思ってたからね」
当たり前のようにそう言うアーロンとレティシア。ここまで一家に溶け込んでいるのも不思議な感覚だが、間違っても悪い気はしない。思えば、自分も随分と変わったものだ。
「じゃ、じゃあ……!」
「はい。よろしくお願いします」
「やった!」
そんなやり取りを見て安心したのか、アイリスの顔が一気に綻ぶ。両の手を胸元で軽く握り締めて、実に嬉しそうにしている。
「今から楽しみですね!」
「楽しみにし過ぎて寝不足、なんてことにはならないでくださいよ?」
「葵さんが寝かし付けてくれるってことですか?」
「枕元で延々怪談話を読み聞かせてあげます」
「寝られないんですけど!?」
瞳にさっと涙を浮かべるアイリス。余計なことを口にすれば、楽しみの前に試練が発生する。そう痛感したであろう、春休みのとある一幕だった。




