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108. 一巡り

 三月二十二日、金曜日。午前中に予定されていた修了式を終え、いよいよこの教室で過ごす時間も終わりを告げようとしていた。


「何か、一年が早かった気がする」

「莉花も?」

「ってことは碧依も?」

「うん。転校してきて、気付いたら二年が終わってた」

「あ、そっか。碧依は転校してきたんだっけ?」

「忘れてたの?」

「忘れてないよ」


 修了式を終えてから授業があるはずもなく、今日は午後に入った時点で放課後である。各々が部活や帰宅の準備を進める中、何かを話している碧依と莉花の声が聞こえてきた。


「葵君は覚えててくれたよね?」

「今忘れました」

「今!?」


 何とはなしに聞いていると、どうやら随分と昔の話をしていたらしい。時期としてはほとんど一年前に当たるだろうか。色々とあった一年なので、その辺りのことは覚えていなくても仕方ないだろう。そこは許してほしい。


「は、羽崎君は……?」

「あんまり覚えてないかなぁ……?」

「……」


 いつの間にか近くにいた悠までもが、そんな返事をする始末。そんなつもりは一切なかったのだろうが、莉花の一言でおかしな流れが完成してしまっていた。


 結果、碧依が涙目になった。


「転校生なんて、絶対話題の中心になるでしょ……!」

「一年前ならね」

「水瀬さんも、もうすっかり溶け込んじゃったから」

「その時期、僕はもっと大きい出会いがありましたから」

「葵君だけちょっと違う……!」


 碧依には申し訳ないが、去年の四月といえば、記憶はそこに集約される。そこからは一年を通してやたらと密度の濃い時間だったが、やはり出会いというものは忘れることはない。


「葵さーん」

「あ、大きい出会いが来た」

「噂をすれば、だね」


 そうして二年生の終わりに三人揃って碧依をからかっているうちに、思ったよりも時間が経っていたらしい。もう一切遠慮することなく二年生の教室の扉を開けるようになったアイリスが、いつもの放課後と同じようにやって来た。


「何のお話ですか? 大きい出会い?」

「気にしなくていいですよ。アイリスさんは小さいですし」

「葵さんも小さいですもんね! お揃いです!」

「嫌なお揃いもあったものですね」


 珍しい返しだった。それこそ、こんなことに対して「お揃い」と表現しているのは聞いた覚えがない。こんなところにも、一年の付き合いの影響が現れているのかもしれなかった。


「アイリスは相変わらず変なところでお揃いにしたがるよね」

「一応身長差はあるし、あんまりお揃い感はないけど……」

「細かいことは気にしなくていいの!」


 アイリスからやや遅れて教室に入ってきた紗季と純奈も、今のアイリスの言葉には違和感を抱いたらしい。それでもさらっと流そうとしている辺り、普段の三人がどんな関係性なのかが窺い知れる。


「そんなことより。ちっちゃい葵さん」

「何です? 小さいアイリスさん」

「二人共、僕達の知らないところでもこんな感じなのかな?」

「ある意味お似合いの二人ってね」


 悠と莉花が何やら好き勝手言っているような気がしたが、今はとりあえずアイリスのこと。明らかに何かを企んでいそうな雰囲気を放っている辺り、警戒はしておいた方がいいのかもしれない。


「この後、暇だったりします?」

「特に予定はないですよ。どうかしました?」

「どうってことはないんですけど、せっかく早い時間に終わったので、どこかでお昼を食べてから帰りませんかってお誘いです」

「あぁ、そういうことなら大丈夫です」


 警戒するだけ無駄だった。たまに振られる無理難題とは違って、今回のお誘いは随分と可愛らしいレベルのもの。気を付けることも、そして断る理由も、どちらも存在していなかった。


「どこに行くかって、考えてたりします?」

「何となく、駅前のあそこかなって思ってます。あんまり寄り道感がないですけどね」

「あー……。冬休みに碧依さんと渡井さんを尾行した……」

「です。今日は何気兼ねなく行けますね」

「それが普通なんですよ」


 以前のように、こそこそと隠れながら二人を追いかけ回していたのが異常なのであって、常識的に考えれば何気兼ねなく回るのが普通のことだ。随分と感覚が麻痺してしまっている。


「ってことで、皆さんはどうですか? 紗季と純奈は大丈夫らしいです」

「え? 私達も?」


 そこまで予定が決まったところで、アイリスが残りの二年生組に話を振る。まさか誘われるとは思っていなかったのか、若干落ち込み気味だった碧依が驚いている。


「はい。たくさん人がいた方が楽しいかなって」

「ほんとは葵君と二人きりの方が嬉しいんじゃないの?」

「それはちょっと考えましたけど、どうせ春休みがありますし。それに、葵さんとお付き合いしてるのを理由に、友達を蔑ろにはしたくないです」

「へぇ……」


 アイリスのそんな言葉に、莉花の目が急に細められる。これは間違いなく面倒なことを考えている反応である。


「ってことは、私とか碧依とも仲良くしたい、と」

「言い直します。言動が穏やかな人がたくさんいた方が楽しいかなって」


 案の定厄介なことを言い出した莉花に、アイリスが即座に発言を訂正していた。どうやら、アイリスも何かを感じ取ったらしい。


「だったら大丈夫。この一年で、私も丸くなった」

「むしろ尖ってると思うんです。これって私の気のせいなんですかね?」

「気のせい、気のせい」

「……」


 じっとりとした目が莉花に向けられていた。アイリスが何を言いたいのかなど、その目付きだけで何となく理解できる。


「で、穏やかな私は行けるけど、二人はどうするの?」

「行くに決まってるでしょ? 私も穏やかなんだし」

「僕も穏やかだから行けると思う」

「嘘が二つありました」

「もう何を言っても意味がないですよ。諦めましょう」

「えー……?」


 まだ何もされていないのに、何故か自分の背に隠れるようにして碧依と莉花の様子を窺うアイリス。この場で話を出した時点でこうなることは分かっていたはずだが、それはそれとして複雑な気持ちもあるらしい。


「じゃあ、七人で決定ですね」


 そうしてまごついている間に、アイリスに代わって紗季が締めくくる。三学期最終日も、最後の最後まで騒がしい日になりそうだった。




「さ、流石に七人も座ると狭いね……」

「一応八人までってなってますけど、絶対に嘘ですね。多分六人で限界です」

「狭い分、葵さんにくっつく理由ができるので私はありです!」

「え? 私にくっついてくれるって?」

「勘違いも甚だしいですねっ」

「は、甚だしい……」


 時刻は午後一時。午前で終了することが分かっていた中で、わざわざ昼食を持ってくる人などいない。そんな訳でやって来たのは、以前碧依と莉花を尾行していた際、二人が姿を消したレストラン街。その中にあるファミリーレストランだった。


 高校生でもある程度気軽に注文できる価格帯で、なおかつ多少大人数でも利用しやすい。選択肢としてはほとんど一択である。


「言う程狭いか? こっちは結構余裕があるよ?」

「誕生日席の僕も楽だね」

「渡井先輩、羽崎先輩、よく見てください。あっち側、アイリスが湊先輩を押し込んでます」

「ほんとに揺るがないよねぇ……」

「アイリスさんのせいだったの?」


 紗季のそんな指摘に、自分を挟んでアイリスと反対側に座っていた碧依から声が上がる。この位置関係では、碧依の側からはあまりアイリスの動きが見えなかったのだろう。これに関しては仕方のない部分だ。


「気のせいだと思いますよ?」

「アイリスさんの横、スペースがすっごく空いてるように見えるけど?」

「それも気のせいですね」


 偶然にも普段の電車での席順と同じ並びになった中で、アイリスが碧依の言葉を受け流し続けている。どうあっても押し込んでいる事実を認めないつもりらしかった。


「じゃあ、ちょっと考えてみてよ」

「何をですか? どんなことを言われても、私は葵さんにくっつくのを止めませんよ?」

「葵君の方からくっついてきてくれる方が、アイリスさんは嬉しかったりしない?」

「さぁ! 葵さん! スペースはいくらでもありますよ!」

「手の平返しが早過ぎるんですって」


 これまでずっと密着していたアイリスが、碧依の言葉を聞いた途端に少しだけ距離を取った。もう何度も思ったことだが、極端に周囲からの影響を受けやすいことがあるのは、一体何なのだろうか。


「やっぱり、押してきてくれる方が好きなんだね、アイリスさん」

「違うよ、純奈。私はどっちも好きなの。それに、葵さん以外には押されたくないもん」

「自信たっぷりに言われても」


 机を挟んで向かい側に座る純奈にそう言いきるアイリスだったが、どうやら純奈の心にはあまり響いていないらしい。碧依の言葉で態度をころっと変えた姿を見て浮かべていた苦笑いは、一向に消える気配がない。


「葵君、空いたよ?」

「ですね。アイリスさんの扱いが上手いです」

「葵君を絡めただけなんだけどね。結構簡単だったりするんだ」


 アイリスが視線を純奈に向けている間に、空いたスペースへと体を滑り込ませる。もちろん、アイリスを押し込むようなことはしていない。


「うん? まだこっちにスペースがありますよ?」

「誰が押し込むって言いました?」

「え?」

「……」


 何を言っているのか分からないとでも言いたそうな表情で、アイリスの首が小さく傾いた。自分としては、どうしてそんな表情ができるのか分からない、だ。


「いやいや。もっとこっちに来てくださいよ」

「いやいや。これくらいが三人座るにはちょうどじゃないですか」

「……?」

「……?」

「顔を見合わせて首を傾げるなって」

「こんなところも息ぴったりだね」

「感心する場面じゃないでしょ」


 悠に評された通り、まるで鏡映しになったかのようにお互いの頭が斜めになる。ただ、抱いている思いまでは鏡映しにはなっていなかった。


「むぅー……!」

「あっ……!?」

「お、強硬手段に出た」

「こういうところはわがままだよね、アイリス」


 一向に縮まらない距離をもどかしく思ったのか、結局いつも通り腕を抱き締めて自らの方に引き寄せることにしたらしい。当然、それだけで引きずられるようなことはないけれども、上半身はどうしてもアイリスの方に傾いていく。


「こっちですぅ……!」

「わ、分かりましたって……!」


 このまま耐えることもできなくはないが、何かの拍子に倒れてしまっても困るのは自分だ。それならば、最初から大人しく詰めた方が安全と言える。


 そんな判断の元、少しだけアイリスに寄った場所に座り直す。途端に、不満そうに口を尖らせていた顔が緩んでいく。


「湊君、ほんとに弱いんだね」

「放っておいてください」

「碧依がちょっと寂しい感じになっちゃったけど、それはいいの?」

「その分広くなったって思えば、私は何にも問題なし」

「見てよ、純奈。アイリスのあの顔」

「満足そうだよね、ほんと」

「えへぇ……」


 五人がそれぞれの感想を抱く中、アイリスだけはただ頬を緩めて幸せそうに微笑んでいた。




「……」

「まだこれからなのに、何でそんなに疲れてるの?」

「……さっきのを見てたなら分かるんじゃないですか?」

「まあね。傍から見てる分には可愛かったよ」

「当事者は大変なんですよ?」

「それは知らなーい」


 言うだけ言って、莉花が離れていく。向かう先には悠と碧依の二人。自分がいないものの、いつもの二年生組が目の前で形成されていた。


「大変でしたね」

「もしかして、一緒に何かを食べる時はいつもあんな感じなんですか?」

「今日は随分積極的でしたけど、似たような感じではあります」


 では、自分はどこにいるのか。その答えは簡単で。アイリスと並んで歩いているだけあって、一年生組の中に紛れ込んでいた。


 本当に紛れ込めているのかは別にして。


「春休みが始まるって興奮とか、皆の前で見せつけてあげようとか、そういう色々が混ざってあんな風になりました」

「春休みの方は知らないけど、割と前から見せつけられてたと思うよ?」

「付き合い始める前から食べさせてもらってたもんね」

「あの頃とはまた気持ちが違うんだよ!」

「だそうですよ、湊先輩?」

「そこの気持ちにはついていけてないです」


 ついていけていないからこそ、先程はあんなに大変だったのだろう。隙あらば「食べさせてほしい」攻勢は、自分の脆すぎる砦では到底防ぎきれるものではなかった。


 もちろん、「食べさせてあげたい」攻勢も。結果、何故かアイリスと自分だけは二種類の料理を食べることになったうえに、当然食べ終わるのは最後になった。全員の視線を一身に浴びる恥ずかしさといったら、これまでに経験したことのない恥ずかしさだったことは記憶に新しい。


「私の独走状態ってことですね」

「何でアイリスが自慢げにしてるの?」

「珍しく掛け値なしに葵さんに勝てるところだから」

「それ以外は大抵負けっぱなしってことかな?」

「純奈。余計なことは考えなくていいの」

「あ、うん……」


 奇妙な威圧感を発揮したアイリスによって、純奈の口がそっと閉じられた。どうやらあまり直視したくない現実らしい。


「……最近は僕の方が負けっぱなしのような気がします」

「え? 何か言いました?」

「何でもないです。気にしないでください」

「んー?」


 直視していないから気付いていないだけなのか、それともただ単に天然なだけなのか。最近の勝ち星の数を知らないアイリスは、不思議そうな表情を浮かべて首を傾げるだけだった。


「それより、これはどこに向かってるんでしょうね」

「確かにそうですね。何となく後ろを歩いてますけど……。聞いてみましょうか?」

「すみませんけど、お願いします」

「気にしなくて大丈夫ですよ。腕にアイリスが抱き付いてる湊先輩じゃ、前に行きたくても行けないでしょうし」

「紗季さ、私のことを蝉か何かだと思ってない?」

「思ってない、思ってない。それじゃあ、ちょっと聞いてきますね」


 思っていそうな軽い返事を残して、紗季が前の二年生組に合流する。残された三人は、なかなか一緒になることが少ない組み合わせだった。


「言われてみれば、確かにちょっと蝉っぽいかも……?」

「みんみん!」

「まだ春ですよ。寝ててください」

「葵さんの腕枕か膝枕なら、それはもうぐっすり寝られる気がします」

「最近は春でも暑いことがありますもんね。もう蝉がいてもおかしくないと思います」

「湊先輩も手の平返しが早いですよね」

「対応が素早いと言ってください」

「それはちょっと無理があると言うか……」


 そう言って困ったように笑う純奈。どこからどう見ても、アイリスと自分の会話を捌くのに苦労している顔だった。


「と言うか、蝉なら全身で抱き付きますもん」

「今は絶対にやめてくださいね?」

「後でならいいんですか?」

「……」

「本当に押しが強いですよね、アイリスさん。大変なんじゃないですか?」

「……まぁ、それだけ好いてくれていると思えば……」

「大好きです!」

「みたいですね」

「いや、大変なことには変わりないんですけど……」


 この七人の中で悠と並んで穏やかな印象のある純奈だったが、意外とこういった話題に関しては積極的なのかもしれない。アイリスと自分を見つめる瞳が、いつもよりもどこか輝きを増しているような、そんな気がした。




「今日は知的に攻めようかと思う、だそうです」

「何を言ってるのか分からないって返しておいてください」

「大丈夫です。もう返しておきました」

「流石です」


 戻ってきた紗季が最初に口にした言葉がそれ。行き先を尋ねたはずなのに、微塵も参考にならない答えが返ってきたらしい。


「この先って、確か本屋だったと思うんですけど、渡井先輩はそれを知的って言ってるんですかね?」

「まさかそんな単純なこと……」

「聞こえてるぞー」


 アイリスと二人して目を見合わせていると、前を行く莉花が振り向いてきた。聞こえないようにと思って若干小声にしていたのだが、それでも聞こえてしまったようである。


「分かりにくいことを言ったのは悪かったと思ってるって。……ちょっとだけ」

「あんまり思ってないんですね」

「うるさいやい」


 恐らく図星だったのだろう。気まずそうに目を逸らしながら、その歩みを少しだけ緩めていた。


「単に用事があっただけだって。すぐ終わるから、ちょっとだけ付き合ってもらえないかなと思って言ったの」

「最初からそう言ってくれたら、もっと素直について行ったんですけどね」

「流石に気まずかったの。私にだって、それくらいの罪悪感はあるし」


 自分達四人が追いつくのを待つように、莉花の歩みがそのままゆっくりとしたものに変わる。必然、悠と碧依にも追いつき、結局七人の大所帯での移動となった。


「溺愛してる弟さん絡みの用事なんだって。ちょっとだけいい?」

「あ、そういう……」

「な、何?」


 ずっと莉花の隣を歩いていた碧依から、そんな新たな情報がもたらされる。それを聞いた瞬間に納得できてしまったのは、普段から莉花の溺愛振りを聞かされていたからだろう。


 どんな情報がどんな場所で役に立つのか、その時になってみなければ分からない。役に立ったと表現していい出来事だったのかは、微妙なところだが。


「いえ? 別に?」

「そう言う割には、視線が生温かい気がするけど?」

「しっかりお姉さんをしてるんだなと思って」

「お、何だ? そう呼びたいって?」

「勘違いも甚だしいですね」

「は、甚だしい……」

「あれ? このやり取り、何か身に覚えがある……?」


 アイリスが口にした言葉を、わざわざそのまま莉花へと投げつける。一番ダメージを受けているのは胸元を押さえて苦しんでいる莉花だが、その横で碧依も流れ弾で被害を受けていた。やはり日頃の行いが悪いに違いない。


「なるほど……。葵さんと私の二人がかりなら、碧依先輩と渡井先輩も撃退できる、と」

「アイリスが何かを学んじゃったみたいですけど……」


 そうして碧依と莉花が撃退されていく様子を眺めていると、これまで黙っていたアイリスが唐突に小さく呟いた。紗季の言う通り、今のシーンから謎の攻略法を見出したらしい。


「共同作業ってやつですねっ」

「こんなところでその言葉を使いたくないです」


 何が嬉しいのか、何かを連想させる一言を口にして体を寄せてくるアイリス。嬉しそうにしていること自体は別に構わないが、それはそれとして、言葉の使いどころを間違えているような気がしてならなかった。




「本屋って、勝手に小声になっちゃいますよね」

「分かります。そういう雰囲気が好きなんですよ」

「奇遇ですね。私も好きです」

「アイリスさんも?」


 莉花や碧依達とは別行動で書棚の間を歩く中、アイリスがその言葉通りに小声で話しかけてきた。


「はい。自然と葵さんに近付けるので」

「もうそういう理由がなくてもくっついてくるじゃないですか」

「それはそれ、これはこれ、です」


 よく分からないことを自信満々に言いきるアイリスは、とても自然な笑みを浮かべている。隣を歩く時に腕に抱き付いてこないのが久しぶりだと思っていると、こんなところで心を掻き乱してきた。


「まぁ、何だっていいんですけど。ところで、どうして今は腕を盗んでいかないんですか?いつもなら喜々として盗んでいくのに」

「盗むって。あくまで借りてるだけですよ?」

「そのまま所有権を主張されそうです」

「私は葵さんのですし、葵さんは私のです」

「所有権が複雑……」


 アイリスのものである自分がアイリスの所有権を持ち、そのアイリスがまた自分の所有権を持つ。一生終わることのない、まるで合わせ鏡のようなループの完成だった。


「ま、それは置いておくとして。ちょっと色々考えちゃいまして……」

「色々?」

「はい。葵さん、前に本を読むのが好きって言ってたじゃないですか」


 一度足を止め、周囲を見回すようにしてから見上げてくるアイリス。その表情には、近付きたいけれども遠慮してしまって近付けない、そんな葛藤が現れているようにも見える。


「言いましたけど、それが何か関係あります?」


 いまいち質問との関連性が読めない。それが腕を組んでこない理由と、一体どう繋がるというのだろうか。


「ってことは、本屋で本を眺めてるのも好きなんじゃないかなって。それを邪魔するのも……」

「そんなことを考えてたんですか?」


 想像もできない、あまりにも意外な理由だった。いつもはあれだけ押してくるのに、妙なところで腰が引けてしまうアイリスである。


「だって、葵さんが嫌がることをして嫌われたくないですし……」

「……」


 それだけを呟いて、不安に揺れる瞳を微かに伏せる。そんな様子を見せられて、いつものような軽い言葉を口にできる訳がなかった。


「はぁ……」

「あ、葵さん?」

「いつ僕が嫌がりました?」

「でも……」

「恥ずかしがってるだけですって。紛らわしかったのはそうかもしれないですけど、僕だって嬉しいことは嬉しいって言いましたよ?」

「……」


 そこまで言っても、アイリスの腕は動かない。一瞬だけぴくりと動いたような気もしたが、結局は踏み込んでこないまま。


「……」

「あっ……」


 ならば、自分から動けばいい。普段の自分ならあまり取らない行動だが、アイリスの不安を払拭するためなら気にもならなかった。


 こちらから一歩だけ近付いて、動きのない右手を取る。流石に自分から腕を組むことはできないが、それでも手を握るくらいはできる。


「ほら。行きますよ」

「は、はいっ……!」


 戸惑いを隠すことができないらしいアイリスの手を引きながら、歩みを再開する。視線を外すその一瞬、視界の端に見えたその顔は、こみ上げてくる喜びが戸惑いを上回ったかのように、小さく緩み始めていた。




「そういえば、前から葵さんに聞いてみたいことがあったんですよ」

「何です?」


 結局あれから腕に抱き付いてきたアイリスが、こちらを見上げながら問いかけてきた。気のせいなのか、いつもよりも密着具合が増しているような印象がある。あんなことを言った以上はそれを指摘することなどしないが、思っていることを伝えるにはまだ早かったのかもしれない。


「葵さんって、どうやって読みたい本を探してるんですか?」

「読みたい本?」

「はい。せっかくですし、私も少しは何かを読んでみようかなって思ったんです。でも、自分がどんな本を面白いって思うのか分からなくて……」

「あぁ……、そういう……」


 こう思うのも何だが、なかなかに真面目な話だった。冗談で言っている訳ではないのは、素直さを宿す目を見れば明らかである。


「探し方は人それぞれだと思いますけど、あくまで僕の探し方でいいなら」

「葵さんと一緒がいいです」

「この場面のその言葉はあんまり可愛くないですよ」

「あ、やっぱりですか?」

「分かってて言ったんですね」

「あわよくば可愛いって思ってくれないかなと思って。あは」


 最初から自覚していたらしく、小さく口を開けて笑っていた。わざとらしい一言よりも、今の悪戯っぽい笑みの方がずっと可愛らしい。


 話が逸れていくだけなので、そう思いはしても口にはしなかったが。


「それで、結局葵さんはどうやって探してます?」

「ん……。ちょうど文庫本がたくさんありますし、ここで探してみましょうか?」

「よろしくお願いしますっ」


 そう言って足を止めたのは、文庫本がずらりと並んだ書棚の前。目的の一冊があったとしても探すのに時間がかかってしまいそうな、まるで本の海とでも呼ぶべき光景が広がっていた。


「まず、今みたいに棚の前に立ちます」

「立ちます」


 その棚を正面に捉えるように、二人して体の向きを変える。その途端、背表紙に書かれたタイトルが波のように襲い掛かってくるような、そんな圧力が肌を撫でた。


 ちらりと隣のアイリスを盗み見る。その横顔からはこの光景をどう思っているのかまでは読み取れないが、ひとまず同じ方向を向いていることを確認して言葉を続ける。


「で、背表紙のタイトルをざっと流し見します」

「します」


 あまり首は動かさず、視線だけを行ったり来たりさせてタイトルを追っていく。一つ一つのタイトルを読むのではなく、文字を形として捉えるようにして目を滑らせる。


「そうしたら、自分が面白いと思えるタイトルで勝手に目の動きが止まります」

「待ってください」

「え?」


 そのタイミングで、アイリスからストップがかかる。てっきり今度もまた復唱されるものだと思っていたので、思わず声が漏れてしまった。


「何かありました?」

「いや、あの……。私の聞き間違いかもしれないので、もう一回最初から言ってもらってもいいですか?」

「はぁ……?」


 あまりに真剣な表情で言うので、その言葉に押されて説明を繰り返すことになってしまった。何度繰り返したところで、その中身が変わる訳でもないのに。


「棚の前に立ちます」

「立ちます」

「タイトルを流し見します」

「します」

「興味のある本が勝手に見つかります」

「見つからないです」

「なんでですか」

「それはこっちの台詞ですよ」


 流れるような返しだった。ただし、探し方は流れるようには伝わっていない。


「どうして今ので見つかると思ったんですか」

「今ので見つかるからですよ」

「平行線……!」


 自分からアイリスに伝わっていないように、アイリスの思いも上手く伝わってこない。そのもどかしさを表すかのような、珍しく険しい表情を浮かべたアイリスがそこにいた。


「でも、考えてみればそうですよね……。葵さん、しっかり変わり者ですもんね……」

「何が言いたいのかは分かりませんけど、褒められてないことだけは分かります」


 やれやれと言わんばかりに首を振るアイリスは、どう見ても喜ばしい意味でその言葉を口にしていない。


「珍しく葵さんを頼りにできないことが分かっちゃったので、自分でどうにか頑張ろうと思います」

「何でしょうね。そんなでもないはずなのに、やたらと辛辣な言葉に聞こえます」

「ちゃんと反省してください」

「えぇ……?」


 アイリスからの厳しい一言。自分と一緒がいいと言い出したのはアイリス本人なのに、顔を書棚に向けたまま口にしたのは、まさかの戒めの言葉だった。




「あ、そうだ」

「ん?」


 駅前で莉花達と別れ、アイリスと碧依の三人で帰りの電車に乗ってから、大分経った頃。既に碧依が降りていって久しいこのタイミングで、唐突にアイリスが何かを思い出した。


「何かありました?」

「いや、葵さんにお願いしたいことがあったのを思い出しました」

「お願いしたいこと」

「はい」


 そう口にするアイリスの目には、微かに興味や好奇心の色が浮かんでいるように見える。こんな時は大抵厄介なことを言い出す印象があるが、果たして今回は何を切り出すのだろうか。


「嫌だったら断ってもらって大丈夫なんですけど……」

「……」

「前に見せてもらった写真以外で、葵さんが小さい頃の写真を見てみたいなって」

「写真?」


 案の定入り方が穏やかではないものだったので警戒していたが、それも杞憂に終わった。控えめに提案されたのは、意外な程にありふれた願い事。例の話をしてしまったアイリスに、今更隠すようなことなど何もない写真を見せるのは造作もないことである。


「あの、どっちかって言うと、弟さんの写真も見てみたいなって……。やっぱりだめですか?」


 だが、言い出した本人は半ば諦めながら言っているのだろう。そこまで押してこない辺り、どうもそんな気がした。


「いえ、別に大丈夫ですよ。もう弟がいたって話はしたんですから、特に隠すこともないですし」

「ほんとですか?」

「えぇ。春休みにでも見ます?」

「じゃ、じゃあそれでっ。どうせ春休みも家に連れ込むので、その時に見たいですっ」

「……今、何か聞こえたような気がしますけど、何も聞かなかったことにしますね」


 写真がどうこう以前に、そちらの方を警戒すべきだったのかもしれない。ある程度そうなると予想はしていたものの、改めて本人の口からそう言われてしまうと、どうしても思うところはある。


「可愛かったですからね、ちっちゃい葵さん……! 弟さんと一緒だったら、きっともっと可愛いはずです……!」


 受け入れられるか不安だった願いが受け入れられて安心したのか、アイリスの調子が普段のものに戻りつつあった。口から狙いが漏れ過ぎている。


「そういうことですか」

「そういうことです。あと、純粋に弟さんを見てみたいって思ったのもありますけど」

「見てみたいも何も、一卵性なんですからこれですよ」


 自分の顔を指差しながら答える。今はもう一人しかいないが、もし共に成長していれば、ほとんど同じ顔になっていたはずだ。


「葵さんが二人……! 猫耳ウェイトレスと狐耳ウェイトレスが同時に……!」

「どうして二人まとめてコスプレさせてるんですか」


 意味が分からない光景だった。同じ顔をした男子高校生が、それぞれ猫耳と狐耳をつけて接客をする。控えめに言って、近付きたくない光景である。


「夢が広がりますねっ!」

「始まってないんですよ」


 満面の笑みで口にするアイリス。電車の揺れに合わせて揺れる菜の花色の髪が、そんな顔を彩るように、太陽の光を浴びて眩しく輝いていた。

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