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107. 似た者同士

 三月八日、金曜日。いつもの四人での昼食を終え、机の上に広げたとある紙を眺める。


「今年もやっぱりあったね」

「まぁ、去年だけってことはないと思ってたけど」


 悠と莉花も見つめるその紙には、自分の名前を記入する欄の他に、もう一人分の名前を記入するスペースがあった。


「私はこれが初めてだからよく分からないんだけど、皆は去年も書いたんだ?」

「書いたよ。叶わなかったけど」

「言っても、あくまで希望調査ですからね」

「へぇ……」


 そう一言零して、碧依の視線が再び紙に落ちる。そこには、うっすらとした悩みがあるようにも見えた。


「何だっけ? 四月から一緒のクラスになりたい相手を一人だけ書く、でいいんだよね?」

「そ。絶対に叶うわけじゃないけど、ある程度は汲んでくれるって」

「三年が最後だから、今回は多少寛大になってくれてもいいよね」

「んー……。一人だけかぁ……」

「お、悩んでるね」

「悩むよ。三年もこの四人がいいし」

「僕達もですか?」


 少しだけだが、碧依の見せた反応は意外な反応だった。さも当然のことを話すかのように真っ直ぐな視線は、等しく自分と悠にも向いている。


「もちろん。葵君は特に大事だね。いないとアイリスさんが来てくれないから」

「あ、確かにそれ大事」

「だって、湊君。人気者だね?」

「人気が僕を貫通してません?」


 三人全員、揃いも揃って綺麗な笑顔。どう考えても、その表情を向けてくる場面ではない。


「気のせい、気のせい。で、そんな湊君は去年誰を書いたの?」

「白紙でしたけど」

「……ん?」

「白紙です」

「……」


 覗き込むようにして尋ねてきた莉花の動きが止まった。ついでに残り二人の様子も窺ってみれば、どちらも何とも言えない表情を浮かべている。あえて言葉にするならば、「聞いてはいけないことを聞いてしまった」だろうか。何やら失礼なことを想像されている気がした。


「そこまで親しい相手がいなかっただけですよ」

「いや、弁明になってないけど」

「今年は誰を書こうか迷いますね」

「話を逸らすな」

「逸れてるのかな?」

「逸れてはないと思うな……」


 悠と碧依は相変わらず首を捻っていた。そこまで複雑なことを言っている訳でもないはずなのに、だ。


「と言うか、白紙ってありだったんだ?」

「どこのクラスでもいいですよって意味なので、教師からしたらありがたい存在でしょうね」

「自分で言うか」


 莉花の目付きが呆れたようなものに変わる。心なしか、その口調もその感情に引きずられているように聞こえた。


「でも、今年は悩んでるんだ? もしかして私達で悩んでくれてる?」

「ですね。まぁ、多分羽崎君を書くことになると思いますけど」

「僕?」

「意外ですか?」

「そうじゃなくて。そういう風に言われると、ちょっと照れるねってだけ」


 その言葉通り、僅かに頬を赤くした悠が、それでも嬉しそうに小さく笑う。見る人が見れば、それだけで落とされてしまいそうな笑みだった。


「私とか莉花じゃないんだ?」

「それは……、まぁ……」


 一年経ってもまだ悠の性別を疑っているうちに、碧依ができれば触れてほしくなかった部分に意識を向けてきた。こうして尋ねてくる辺り、まだ答えには辿り着いていないのだろうが、それも時間の問題である。妙なところで鋭さを見せる碧依なら、恐らくすぐにでも答えに気付くはずだ。


 そうは思いつつも、自分から言い出す気にはなれなくて言い淀む。こんな曖昧な返事をしていては、何か隠し事があると白状しているも同然だ。


「ほーん……?」

「……」


 そもそも、既に気付いていそうな莉花がいる時点で、隠し事など意味がなかった。


「さては、あの子以外の女の子の名前を書きたくなかったんだな?」

「う……」

「あ……」

「そうなの? 湊君?」


 あまりにも的確な物言いに、思わず小さな呻き声を漏らしたきり黙り込む。自分で考えるのも何だが、誰がどう見ても、隠し事を見抜かれた人間の反応である。


 気が付けば、三人分の視線が突き刺さっていた。一人は面白そうな。もう一人はきらきらとした。最後の一人は純粋な。三者三様の眼差しは、自分の逃げ道を全て塞いでしまっている。


「……そうだとして、何か悪いんですか」


 そんな訳で、残された道は進む道だけ。その先がどうなっていようとも、何もできずに追い詰められるよりはずっとましだった。


「何もー? ただ、思ったより湊君も感情が大きいよねって」

「拗ねた表情も可愛いね!」

「純粋でいいんじゃないかな?」


 視線がそうなのだから、当然返事も三者三様。碧依は何か違うような気もしたが。


「そっかそっか。思ったよりべったりで安心したよ」

「どこに安心するような要素が?」

「だって、周りから見てるだけだったら、アイリスさんが一方的に大きい感情を持ってそうでしょ? でも、実際は両方共だっていうなら、片方が潰れることはないかなって」

「そんな風に思ってたんですか」


 言ってしまえばアーロンやレティシアから言われたことと同じことではあるが、莉花から聞く言葉としては、あまり想像していない類の言葉だった。一体どこまで周囲のことを細かく見ているのだろうかと、また一つ莉花のことが分からなくなる。


「思ってたと言うか、面白いから見てただけと言うか」

「……周りをよく見てるんだな、なんて思って損しました」

「見るよ? 面白ければ」

「つまらないって言われるよりはいいんでしょうけど」


 果たして本当にそんな感想で合っているのか分からなくなりながらも、面白くない関係とは言われなかったことに安堵している自分がいた。今までとは違って、最近は周囲からどう見られているのかが気になり始めたのかもしれない。こんなところも、アイリスと付き合うようになってから気付いた変化の一つだった。


「で、そんなアイリスさんが大好きな葵君は羽崎君の名前を書くとして」

「もう何も言いません」

「私達はどうしようか? 私と莉花、葵君と羽崎君で書いても、ペアごと別のクラスってこともあるよね?」

「え? そんなの簡単でしょ」

「ん?」


 相変わらず逸れ続けていた話を、碧依が元の軌道に戻す。と言うより、最初からそこが気になっていただけの話だろう。実際、初めての行事を目の当たりにして、瞳に若干の不安が浮かんでいた。


「四人でぐるっと一周するように名前を書けばいいんじゃないの?」

「あー……」

「片想いが四連続だね」

「どんな地獄ですか?」


 そんな碧依の不安を拭い去ろうとする、莉花の提案。それを受けた碧依が納得したような声を漏らしていたが、気にするべきは碧依ではなく悠の方。


 何でもないことのように口にしているが、その歪な四角形を見た教師陣は何を思うのだろうか。なまじ普段から一緒にいるところをよく見られているだけに、あまり愉快な想像はできない。


「そっか。そうすれば一応四人組にはなるね」

「ま、必ず叶うとは言ってないけど」

「大丈夫! 莉花は叶うか分からないけど、私は叶えてもらえると思うから!」

「何で私は一回刺されたの?」

「どこからそんな自信が湧いてくるんだろうね?」

「碧依さんらしいと言えばそれまでですけどね」


 謎の自信に後押しされたかのように不安が消え去った碧依は、来年度もこの中の誰かと同じクラスになることを信じて疑わないようだった。その根拠は一体何なのか。


「だって、こんなに品行方正なんだから!」

「……?」

「……?」

「……?」

「揃って首を傾げないで?」


 口にした根拠に、一つも納得できなかった。それは悠と莉花も同じだったようで、タイミングまで揃えて頭の上に疑問符が飛び出してきた。


「前も言ってましたけど、碧依さんが品行方正なわけがないじゃないですか」

「前も言ってたの? まるで変わってないんだね」

「品行方正って言うなら、可愛い服を着せようとしてこないと思う」

「……」


 今度は自信が消え去り、今にも泣き出しそうな表情になっている。とどめを刺したのは自分達だが、きっかけは碧依自身なので十分反省してほしい。


「で? 誰が品行方正だって?」

「……この四人の外では品行方正だし」

「先生達はまだ騙されてるかもしれないけど、クラスの中だと割と化けの皮が剥がれてるぞ?」

「化けの皮って言わないでよ」


 そして、莉花は容赦がない。気心が知れた間柄だからということもあるが、それにしても言葉の選択が辛口である。


「いい? 私達の中で言うなら、羽崎君みたいなのが品行方正なの。分かる?」

「僕?」

「分からない」

「分かれよ」

「何がしたいんですか」


 流れるように否定する碧依と、押しきろうとする莉花。その間に挟まれた悠がいつも通り不憫だった。


「いつも物腰が柔らかくて、特に問題も起こさない。成績が悪いわけでもなく、授業も真面目に聞く。完璧でしょ?」

「それはそうかもだけど……」

「何か、そこまで言われると恥ずかしいよね」

「あと可愛い」

「それは分かる」

「分からないで?」

「だから何がしたいんですか」


 大仰に頷く碧依の姿を見て、頬を染めて照れていたはずの悠までもが流れに巻き込まれていく。この流れを止められる人間は、最早この場にはいない。


「でも、それで言ったら葵君もそうだよね」

「教室に後輩の女の子を連れ込んで餌付けしてるのなんて、間違っても品行方正じゃないと思う」

「餌付けって」


 わざと悪い表現を使われたような気がした。そうでもなければ、日常会話で「餌付け」などという言葉は出てこないはずだ。どう考えても、にやにやとした顔で頷く莉花の策略だった。


「最近は葵君の方も餌付けされてるよね。好き?」

「聞き方がおかしくないですか?」


 そこは美味しいかどうかを聞く場面ではないだろうか。僅かに上目遣いになって言われたところで、誤魔化されることはない。


「好きですけど」

「言うのか」

「言うんだ……」


 誤魔化されはしないが、言う、言わないはまた別の話である。付き合っていることを知っている三人にその感情を隠したところで、今更何にもならない。


 そう思っての発言だったのだが、悠と莉花からは思った以上に呆れを含んだ視線を向けられてしまった。


「じゃあ、そんなアイリスさんと一緒のクラスになりたい葵君は置いておいて、私達は誰を書くか決めようか」

「碧依さんから聞いてきたのに」


 そして、碧依にすら梯子を外される始末。残ったのは、自分の中にもやもやと浮かぶ、何とも言えない感情だけだった。




「葵さん達もあったんですね」

「そう言うってことは、アイリスさん達も今日だったってことですか」

「です。三人でどうしようかってお話ししてました」


 いつもよりも一本だけ早い帰りの電車の中。隣に座ったアイリスと話すのは、昼に碧依達と話していた例の希望調査のこと。


 聞けば、一年生でも今日配られ、初めての行事に戸惑いを見せる生徒も多かったらしい。その辺りは碧依と似たような反応だろう。


「葵さんはいつもの四人ですか?」

「えぇ。結局、数珠繋ぎで名前を書くことになりました」


 一人蚊帳の外に置かれた昼の相談の結果、自分が悠を、悠は莉花を、莉花は碧依を、碧依は自分を書くことに決まった。理想通りに進めば、これで四月からも四人が同じクラスに揃うことになる。


「あ、じゃあ同じですね。私達もぐるっと一周させました」

「大体そうなりますよね」

「はい。あとはお願いが叶うのを待つだけです」


 そう言うアイリスは、まだ願いが叶った訳でもないのににこにこと笑みを浮かべている。ここにも信じて疑わない人間が一人いた。


「……ほんとのことを言えば、葵さんの名前を書きたかったんですけどね」

「……」

「何か言ってくださいよ」

「あ、いや……。思ったよりストレートで照れたと言うか……」


 そんな笑みを隠すかのような若干俯いての一言は、夕日に照らされている訳でもない自分の顔を赤くするにはもってこいの一言だった。どうしても不意打ちには勝てない。


「まぁ、僕だって書けるなら書きたかったですよ」

「あ……。考えてくれてたんですか?」

「当たり前です。何なら一番に思い浮かびました」

「わぁ……!」


 嬉しそうな声が漏れるのが聞こえた。惜しむらくは、恥ずかしさで目を合わせられなくて、その表情を見られなかったこと。ただ、腕に加わる力が増した辺り、どんな表情を浮かべているのかは、見なくてもはっきりと伝わってきた。


「私も一番に考えましたよ! と言うか、一回書きました!」

「書いたんですか」

「はいっ。紗季に消されました!」

「しかも見せたんですね」

「『やっぱり』って言ってました」


 高揚した気分そのままに話すアイリスだが、それは呆れられていたのではないだろうか。その時の紗季や純奈の顔が容易に想像できる。


「でも、そうですね……」

「アイリスさん?」

「何回も妄想しましたけど、葵さんと同じ学年も、やっぱりいいですよね……」

「妄想って」


 本題がそこではないことくらい分かってはいるが、それはそれとして言葉のインパクトが強い。その妄想の中で自分は一体どんな行動をしているのか、知りたいような知りたくないような、どこか複雑な気分だった。


「いろんな行事に一緒に参加できるのは大きいですよね」

「それはまぁ、確かに」

「クラスが同じだったりしたら、朝から夕方までずっと一緒にいられたりもするんですよ?」

「疲れそうですね」

「なんでですか!」


 アイリスの眉が少しだけ吊り上がる。何となく久しぶりに見たような気がする表情だった。


「冗談ですって」

「その割には真顔でした」

「いつもこんな感じですよ」

「嘘です。最近はよく笑ってくれますもん」

「またそういうことを躊躇いもなく……」


 ここまでくると卑怯の域だ。素直過ぎるのも考えものだと、アイリスと出会ってから何度も頭を過った考えが再び顔を覗かせる。


「今は基本朝と夕方にしか会えないからこうなってますけど、ずっと一緒にいられるなら、多少は落ち着きますからね?」

「いや、それは勘違いだと思います」

「あれぇ?」


 言葉に引っ張られるように首を傾げるアイリスだったが、そこに疑う余地はない。仮に同じ学年で同じ教室にいたとすれば、むしろ今よりも甘え方が加速しそうなのがアイリスなのだった。


「あ……」

「え? どうかしました?」


 そんなことを考えたからだろうか。以前、自分が盛大に照れることになった、あの話題を思い出してしまったのは。


「いや、もしアイリスさんと同じ学年だったら、お互いの呼び方も今とは違うんじゃないかって思って」

「あー……」


 自分の言葉を受けて、何かを考えるようにアイリスが小さく声を零す。頭の中でその何かを高速で駆け巡らせるように、一度だけ視線が逸れた。


「え、でも、葵さんは変わらないんじゃないですか?」

「……確かに」


 やがて結論に辿り着いたのか、当然といった様子で口にする。言われてみれば、確かにその通りだった。


「葵さん、誰でも『さん』付けで呼びますもんね。碧依先輩達ですら」

「もう癖ですから」

「何となく葵さんっぽいので、それはそれで好きです」

「ぽい、ですかね……?」

「ぽいです」

「はぁ……?」


 自分ではよく分からない感覚だが、アイリスからの評価がそうなら特に気にする必要もないだろう。今更呼び方を変える理由もない。


「変わるのは私の方ですよね。葵さん達が先輩じゃなくなっちゃうんですし」

「いよいよ僕と碧依さんの区別ができなくなりますね」

「それはちょっと大変ですね……。どうしましょうか……?」


 実際にそうなる訳でもないのに、そう言って考え込む姿は真剣そのもの。ただ、その頬が微かに緩んでいるところを見ると、何かそれ以外のことも考えているのかもしれなかった。


「まあでも、無難にいくなら『葵君』ですよね。今の碧依先輩みたいに」

「この一瞬で違和感が凄かったです」


 恐らく慣れていないからなのだろうが、アイリスが口にしたその呼び方に強烈な違和感を抱く。呼ばれるだけなら碧依から散々呼ばれているが、やはりアイリスが呼ぶとなると話は別だ。


「そうですか? 個人的には結構好きですよ?」

「僕が慣れないだけなので、アイリスさんがそこまで気にすることはないと思いますよ」

「私も口が慣れてないですけどね」

「ただ……」

「ん?」


 そこでアイリスの口調が疑問形に変わる。自分がわざと区切ったその先の言葉を聞き逃さないよう、そっと耳を傾けていた。


「僕のことを『さん』付けで呼ぶのって、実はアイリスさんだけなんですよね」

「これからも『葵さん』で!」


 満面の笑みだった。加えて即答。一瞬の迷いすら見当たらなかった。


「そうですよねっ。確かに私しか呼んでないですもんねっ!」

「自分で言っておいて何ですけど、そんなに喜ぶようなことでした?」

「喜びますよぉ……! だって、特別ってことじゃないですか……!」


 頬を肩口に擦りつけながらそう口にする。その様は、まるで構ってほしくて甘えてくる小型犬のようで。


「……小型かどうかは別にして、ポメラニアンがどうとか言ってましたもんね」

「何がです?」

「今のアイリスさんですよ。仕草が犬っぽいなと思って」

「わん!」


 恥ずかしがる様子もなく、元気よく鳴き真似を披露するアイリス。頭の上に犬耳の幻が見えるようだった。


「今は誰もいないですし、可愛いですけど、周りに人がいるところではあんまりしないようにしましょうね」

「躾そのものじゃないですか」

「特に、碧依さんか渡井さんがいるようなところでは」

「躾けられました!」


 手の平返しが早かった。


「と言うか、もうやっちゃった記憶が……」

「碧依さんと渡井さんもあの時から成長してます。今同じことをしたら、一体何をされるか分かったものじゃないです」

「嫌な成長ですね……」

「本当ですよ……」

「……」

「……」


 放課後に教室を出てからは久しぶりとなる、謎の沈黙の時間が訪れる。電車がレールの上を走っていく音だけが、やたらと大きく聞こえてきた。


「……ちなみに聞きたいんですけど」

「はい?」


 車両が一際大きく揺れたその後で、心なしかさらに密着するように座り直した気がするアイリスが小さく切り出した。


「他の人がいるところでしないようにって言ったのって、周りに迷惑だから……、だけですか?」

「……」


 車両と同じように揺れる瞳に見つめられ、これまた車両と同じように心臓が跳ねる。


 それは、アイリスの姿がそうさせたのだろうか。それとも自分の感情なのか。どちらにしても、アイリスが答えを待っている以上、早く言葉を返さないといけないのに上手く口が開かない。


「葵さん?」

「……いや、その……」

「あ、何か恥ずかしいことを言おうとしてますね?」

「……」


 そこまで見抜かれてしまうと、一層思ったことを口にしづらくなる。果たして、そのことを理解したうえで今の言葉を口にしたのだろうか。


「聞いてみたいなって思うんですけど、言ってもらえたりしません?」

「そこまで分かってて言わせようとしてるんですか」

「思ってることは言葉にしないと伝わらない、ですよね?」

「ぐ……!」


 僅かな雲の切れ間から顔を覗かせた夕日が、アイリスの髪を鮮やかなマリーゴールドに染め上げる。そんないつもと違う装いのアイリスが、鼓動の速さにより拍車をかける。


 そうなってしまっても、言わないことには話が進まないことは痛い程に理解していた。


「その……。できれば、そういう姿は独り占めしたいと言うか、何と言うか……」

「っ!」

「そんな、感じです……、はい……」

「んぅー!」


 腕を抱き締める力がさらに強くなる。今度は頬ではなく額を肩口に押し付けながら、今日一番の緩みきった表情を浮かべていた。


「そういうことはまだ恥ずかしくてなかなか言えない葵さんが大好きですよ!」

「嬉しいのか嬉しくないのか分からなくて複雑です……」


 こちらもまた今日一番の速さを更新する鼓動に体を揺らされながら、何とか必死に言葉を絞り出す。ただ、その鼓動の速さを考えるならば、嬉しい気持ちの方が若干強いのかもしれなかった。




「二人はホワイトデーってどうするつもりなの?」

「ホワイトデーですか?」

「そういえば、何も考えてませんでしたね」


 午後七時半を回ったDolceria pescaのカウンター内にて。客足が途絶えて暇になってしまったそんなタイミングで、キッチンから出てきた柚子がそう話しかけてきた。


 話題は、すぐそこに迫ったイベントのこと。ただ、アイリスも自分も、共に深く考えてはいない状態だった。


「何せ、もう最高のお返しを貰っちゃいましたから!」

「あっ、眩しいっ!」

「何をしてるんですか」


 両手を腰に当てて胸を張るアイリスに、不思議なことを口にして目を覆う柚子。アイリスの方はまだしも、柚子の方は何がしたいのかさっぱり分からなかった。


「アイリスさんの笑顔が眩しくてつい……。よく毎日平気な顔をして相手できるわね?」

「平気だと思います?」

「あ、平気じゃないのね」


 再び現れた柚子の目は、何故か労わるような目付きだった。何を考えたのかは知らないが、どうせまともなことは考えていないのだろう。


「まぁ、その辺は葵君が頑張るしかないからいいとして、それならホワイトデーには何もしないつもりなの?」

「何もよくないですけど……。どうしましょうか」

「んー……? 何かできたらいいなとは思いますけど、十四日って平日なんですよね」

「バレンタインだって平日だったでしょ?」

「あの日は特別でしたもん。結局葵さんからでしたけどっ!」

「その辺の話題を迂闊に振ると大変なことになりますよ。主に僕が」

「何回でも告白してもらいたいですっ」

「こんな感じで」

「……」


 一切曇りのない笑みを浮かべたアイリスが、そんな無理難題を口にする。こうなることが分かっていたから最近はその話を振ることをしていなかったのに、その注意が無に帰した。


 そうは言っても、柚子は事情を知らなかったのだから、責めるつもりもないが。それよりも意識を向けるべきはアイリスだ。こうなってしまうと、この先何をしでかすか分かったものではない。


「そうですね……。かなり面倒な彼女さんになっちゃいますけど、どこが好きかも言って告白してくれると、飛び跳ねて喜びます!」

「どうするんですか、このアイリスさん。もう止まりませんよ」

「……葵君が頑張るしかないわね!」


 潔い放り投げ方だった。確かに自分がどうにかするしかないのだが、改めてこう言われると思うところはある。


「と言うか、アイリスさんにそういうことは言ってないの?」

「あんまり積極的には……」

「あら、じゃあちょうどいい機会じゃない。今言っちゃったら?」

「自分のミスを誤魔化そうとしてませんか?」

「してないわね」


 これまた潔い。ただし、目は合わなかった。


「わくわく!」

「ほら、わざわざ言っちゃうくらい楽しみにしてるわよ?」

「……」

「わくわく!」


 その言葉を体現するかのように瑠璃色の瞳を輝かせたアイリスが、それでも足りないと言わんばかりに手を握ってきた。見方によっては可愛らしい仕草だったのかもしれないが、当事者からすれば、逃げ道を塞がれたようにしか思えない。


「ここでずっと黙ってたら、アイリスさんはがっかりしちゃうんだろうなぁ……」

「いやまぁ……、言ってほしいのなら言いますけど……」


 言うのは構わないが、柚子はどんな立場で話をしているのだろうか。「責めるつもりがない」という言葉を撤回したい気持ちが湧き上がってくるのを感じた。


「どこから話せばいいんですかね……?」

「どんな言葉でも受け止める準備はできてます! どんとこい、です!」

「受け止めてるのは腕ですね」

「あは」


 手を握った状態から、滞ることなくするすると腕を抱き締める形に移り変わっていた。最近、アイリスのこの手の動きが洗練されてきたように感じるのは、果たして気のせいで済ませていいのだろうか。


 これもまた悩みどころではあったが、今は後回しである。とりあえずはアイリスの好きなところだった。


「そうですね……。まずは一緒にいて楽しいところ、とか……?」

「何だかありきたりな気がするけど?」

「でも、言ってるのが僕ですからね」

「自分でそういうことを言っちゃうのね」


 柚子が苦笑いを浮かべる。言わんとすることを正しく理解した証だ。


「あと、ちょっと似てますけど、表情がころころ変わるところも好きです。釣られて笑うことも多くなったような気がします」

「あー……。その辺は何となく分かる気がするわ。葵君、確かにこの一年で笑うことが多くなったわね」

「そんなにでした?」

「そんなに、よ」


 これは意外な反応だった。自分がどんな表情を浮かべているのかは分かりにくいという点を差し引いても、そこまではっきり言われる程だとは思ってもいなかった。それだけ、アイリスの影響が大きいということでもあるだろう。


「他には、何にでも一生懸命なところもですね。できないことをできないままにせずに克服しようとしてるのは、どんなことでも応援したくなります」

「結構次から次へと出てくるわね?」

「僕だって色々考えてますから」


 最初にどこから話せばいいのか迷ったのは、それ相応の理由があってのことだ。そんなことはあり得ないが、仮に数が少ないのなら迷うことなどない。


「尋常じゃないくらい可愛いからってところは、わざと言わないようにしてるのかしら?」

「別に避けてたつもりはないですよ。でも、見た目だけで好きになったわけじゃないってことは知っておいてもらおうかと思って」

「でも可愛いでしょ?」

「可愛いです。尋常じゃないくらいに」


 やたらと押してくる柚子の一言に肯定を返す。そこは誰にどう聞かれても誤魔化すつもりのない部分だった。


「でも、一番は一緒にいてほしい時に一緒にいてくれるから、ですかね。あの時は言い出せませんでしたけど」

「あの時?」

「こっちの話です。あんまり気にしないでください」

「うん……?」


 それは、柚子が知らないクリスマスの夜の話。おいそれと他人に話せることではないので、柚子には申し訳ないが疑問に思ったままでいてもらうことにした。


「ひとまずはこんなところですけど、どうです?」


 いつまでも際限なく話していても仕方がないので、この辺りで一旦アイリスに主導権を渡す。


 そのアイリスはといえば、何故か先程からずっと黙ったままだった。こんな話題なら率先して会話に参加してくるものだと思っていたが、思惑が外れてしまった形だ。


「……葵さん」

「はい」

「……」


 すぐ近くから見上げてくる瞳は、逸らされることなく真っ直ぐ自分を射抜いている。そこに浮かぶのは、歓喜の色。


「好きです!」

「うわ!?」

「あら」


 そう言って腕を離したかと思えば、すぐさま真正面から抱き付いてくる。そのあまりの勢いに押されて、思わず少しだけ後退ってしまった。


「さ、最近もこんなことがありませんでしたっけ……!?」

「ありましたね! やっぱり好きです!」

「話が繋がってない……!」


 首筋に顔を押し付けるようにして抱き付いてくるアイリスは、一向にその力を緩める気配を見せない。むしろ、時間が経つにつれて強くなっているような気配すらあった。


「それじゃあ、今度は私の番ですね! 思いっきり照れさせちゃいますよ!」

「だ、大丈夫ですって! また今度でいいですから!」

「やです!」

「どうして……!?」


 あっさりと却下された願い。やはり、今のアイリスを止められる者はこの場にいなかった。


「あら。お客さん」

「え!?」


 そんなタイミングでの、柚子の一言。釣られて入口に目を向ければ、何度か言葉を交わしたことのある常連客が一人、扉を開けたところだった。


 何なら目も合った。


「アイリスさん……! お客さんが来ましたから……!」

「接客は私がするから大丈夫よ。二人はそのまま続けて」

「らしいですよ!」

「何も大丈夫じゃないですって……!」


 何が大丈夫ではないかと言えば、入店してきた客にまで微笑ましい目で見られていることが一番大丈夫ではない。何が起こっているのか知らないはずなのに、どうしてそんな目ができるのだろうか。


「二人はこんな感じなので、代わりに私が対応しますね」

「あ、はい。大丈夫です。何となくそんな気はしてたので」

「ありがとうございます」


 視界の端で、柚子が丁寧に頭を下げる。普段喜々としてからかってくる時とは、まるで別人のようだった。


「葵さんのことは全部好きなので迷っちゃいますね!」

「本当に続けるんですか……!?」


 そんな状況でもお構いなしに、アイリスの言葉は続いていく。首筋に顔を埋めたまま話すせいで、息がかかる部分がくすぐったくて仕方がない。


 だが、本当に気にしないといけないのはそこではなくて状況そのもの。ケーキを選んでいる客の前でとんでもないことを言い出しそうになっているアイリスは、恐らく周囲が見えていないに違いない。


 その割には、柚子に返事をしていたが。


「語り尽くしちゃいますよぉ……!」

「……」


 ようやく顔を上げたアイリス。そこには、混じり気のない、純粋な喜びの感情だけが浮かんでいた。

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