106. 等身大のお雛様
「もう二週間くらい経ったわけだけど、全く変わる気配がないね」
「何がです?」
「葵君とアイリスさんの様子。特にアイリスさんなんて、見てるこっちが恥ずかしくなってくるくらいべったりだよね」
「えへー……」
「褒めてないんだけどな……」
ほんの少しずつではあるが、日中の暖かさを感じられるようになってきた、三月一日、金曜日。ここ最近では珍しく碧依が一緒にいる放課後の帰り道でのこと。
聞こえてきたのは、幸せそうに左腕に抱き付いているアイリスを見ての、碧依のそんな感想だった。
「大変じゃないの?」
「どういう意味で言ってます?」
「葵さんが好き過ぎて大変です!」
「こういうところ」
「……不意打ちは無理ですよね」
「あ、照れた」
一切恥ずかしがることなく言いきるアイリスに、どうしても顔に熱が集中する。言っても無理なことは分かってはいるが、それでもこんな形での不意打ちは控えてもらいたかった。
アイリスからすれば、こんな願いはお互い様なのかもしれないが。
「あんまり見ることができない葵君が見られて、私達もとても楽しいです」
「何勝手に楽しんでるんですか」
「色々可愛い表情を見せてくれるので、思わずあれこれしたくなっちゃうんですよね!」
「らしいけど?」
「……」
不意打ちはなくなりそうになかった。
「葵君からはそういうことをしないの?」
「どっちかって言うと、葵さんは言葉の不意打ちが多いですね」
「僕がこうなってるところを想像できます?」
「できない」
「なってくれてもいいんですよ?」
「……それはまた追々ってことで」
小首を傾げるアイリスに、どうにかその一言だけを返す。流石にまだアイリスのように好意全開で接することは難しい。そうしてみたい気持ちがない訳ではないが、どうしても理性がブレーキをかけていた。
「流石にアイリスさんみたいにってのは難しいよね」
「なんでですか」
「アイリスさんの好意が爆発し過ぎてるの。真似しようと思っても、誰も真似できないくらいに」
「そんなの仕方ないじゃないですか。だって、ずっと好きだったんですもん」
「……っ」
「……弱いね、葵君」
「……放っておいてください」
たった一言が再び心に突き刺さる。これまでほとんど毎日こうだったのだから、そろそろアイリスとしてもわざと言っているのかと疑ってしまう。
たとえ、その目がどれほど純粋に輝いていても、だ。どう見ても素で言っている。
「で、そんな二人は明後日何かするの? ちょうど日曜日でしょ?」
騒めきだした心をゆっくりと落ち着かせていると、これが本題とでも言いたそうに碧依が切り出した。表情も、悪戯っぽいものから普段のものに戻っている。
「ひな祭りのことを言ってます?」
「そうそう。イベント事と言えばイベント事だよね?」
どうせ何か約束しているのだろう。そんな考えが透けて見える碧依の言葉は、見事なまでに正解である。
「もちろん約束してますよ!」
「やっぱりね。こんなイベントを逃すはずがないって思ってたもん」
「そうは言っても、ひな祭りでどうこうするのは私も初めてなんですけどね」
「あれ? そうなの?」
自分に代わって答えたアイリスに、実に意外そうな眼差しを向ける碧依。正直に言えば、数日前に自分も同じような反応をしたので、そんな碧依をどうこう言うことはできなかった。
「だって、私もお父さんもお母さんも、皆イギリス人ですよ? ひな祭りってイベントがあるってことは知ってましたけど、うちでやろうってことにはならなかったです」
「あぁ……、まぁ、それもそっか」
「ま、それも去年までのお話なんですけどね! 今年は皆張り切っちゃってます!」
どれだけ張り切っているのかを示すかのように、腕を抱き締める力が強くなる。本人としては無意識なのかもしれないが、自分としてはどうしてもその強さを意識せざるを得なかった。
「葵さんにたくさん甘えられる機会なんて、私が逃すはずがありません!」
「あー……」
「どうしてそこで納得するんですか。ねぇ、碧依さん?」
「納得と言うか、頑張ってねと言うか」
「僕が頑張らないといけないことを自然に想像したんですね」
「だって、そうなるでしょ。アイリスさんのあの顔を見てたら」
「あはっ」
「……」
否定はできなかった。約束した時から薄々勘付いてはいたが、やはり当日は無事に終えられる気がしない。それほどまでに清々しい、満面の笑みだった。
「明日からうちに来てくれるって、もう約束しちゃいましたもん。思う存分甘えちゃいます」
「また泊まるんだ?」
「……いつの間にかそんな話になってました」
「そのための日用品も、色々と揃えましたしね!」
「わぁ……。着々と同棲が近付いてる……」
その一言に乗った感情は、一体どんなものだったのか。個人的には驚きくらいで済んでいてほしいが、呆れのようなものも混ざっているような気がしないでもない。
「ベッドとか!」
「待って待って」
「え?」
そう思っていると、アイリスの一言で間違いなく驚き一色に染まった。
「最初に出てくるのがそれっておかしくない?」
「え?」
「大丈夫です。僕も戸惑いましたから」
「だよね。安心した」
同じ考えを持つ者を見つけて安心したのか、碧依が安堵のため息を漏らす。安堵するも何も、その考えが一般的なもののはずなのだが。
「いや、安心してる場合じゃないよ。何? ベッドを買ったの? 葵君の?」
ただし、その安堵はあまり長く続かなかったようで。混乱した頭の中をそのまま口に出すように、矢継ぎ早に質問を飛ばしてきた。
「元々来客用に空いてるお部屋があったんですけど、そこにベッドを入れようかってことになって。で、一番よく使うのが葵さんなので、意見を参考にしようかと」
「……」
「……何ですか、その目」
「いや……、何か色々早くないかなって」
「僕に止められるとでも?」
「葵君が止めないと、誰も止めてくれないよ?」
「それはそうなんですけど……」
人間には、向いていることと向いていないこと、できることとできないことがある。いくら碧依からじっとりとした目を向けられようとも、その辺りが急に変化することはない。
ましてや、アイリスの嬉しそうな顔を見てしまえば尚更。
「そんなわけで、ダブルベッドがお部屋に入りました」
「ダブルベッドを買ったの!?」
「はいっ! いつか葵さんが寝てるところに潜り込もうかと思って!」
「わぁっ……!?」
先程の「ベッドを買った」という一言に付け加えられた情報に、碧依が顔を真っ赤にして狼狽える。碧依が見せる表情としては随分と珍しいものだった。それだけ、今のアイリスの言葉が強烈なものだった証拠でもある。
「結局、アイリスさんの意見が大半だったような気がするんですよね」
「寝心地とかは一緒に確かめたじゃないですか。きちんと葵さんの好みでもありますよね?」
「そう言われると何も言えないんですけど……」
「何で二人共そんな穏やかに話してるの!?」
あわあわとしたままの碧依が、明らかに普段よりも大きな声を出す。混乱している様子が窺えるというものだ。
「い、一緒に寝るの……!?」
「僕はまだ無理ですけど、寝てる間に潜り込まれたらどうしようも……」
「私も最初からはまだ恥ずかしいですけど、葵さんが寝ちゃえば。需要と供給の一致ですね!」
「それは違うと思います」
「あれ?」
まるで最近知った言葉を使いたかったかのような口振りだったが、間違ってもそんな場面で使う言葉ではない。ついでに言えば、不思議そうに首を傾げる場面でもない。
「お、思ったより進むのが早い……!」
「進んでないんですって」
「進む準備をしてる時点で一緒だよ!」
未だに赤みが引かない顔を晒しつつ、必死で声を絞り出す碧依。確かに段階としては早過ぎる感は否めないが、それにしても碧依がここまでの反応を示すのは意外だった。
これまであまりそういった話をしてこなかったからと言ってしまえばそれで終わりだが、こんな形で年相応な碧依の姿を見ることになるとは思いもしていなかったのだった。
「あ、あとは歯ブラシとかも買いましたよね」
「ほんとはそっちで反応したかったのに、もうあんまりインパクトがない……!」
「碧依先輩も分かってくれます? 歯ブラシが並んでるところのよさ」
「分かるかも……! コップと一緒に並んでたりすると、もっといいよね……!」
「何なんですか、さっきから」
表情は何も変わっていないのに、今度は何故かアイリスに賛同し始めた。碧依の情緒がよく分からない。
「何となくですけど、さりげなく二本並んでるのがいいんですよね」
「買う時にも言ってましたけど、そういうものですか?」
ベッドを買いに行ったあの日、その他の日用品を買うとなった時に熱弁されたことを思い出す。自分としてはあまり馴染みのない感覚だったが、アイリスとしてはそうでもなかったらしい。
「いつか葵さんにも理解してもらえたら嬉しいですけど、流石にその辺は無理強いできないですね」
「ベッドには頑なに潜り込もうとするのに、何でそんなところはちょっと理解があるんですか」
「ベッドに潜り込むのは、もう決まった未来ですから。理解とかそういう次元じゃないですもん」
「……」
「口調は可愛いのに、言ってることは大分過激だ……」
影もできないような薄曇りの中、碧依の照れたような言葉だけが耳を通り抜けていく。それはまるで、自分の心の内をも代弁するかのような一言なのだった。
そして迎えた三月三日、日曜日。桃の節句、ひな祭り。その朝は、見慣れてきた見慣れない部屋から始まった。
「……やたら広いんですよね」
目を覚ましての第一声がそれ。この部屋にこのベッドが設置され、初めて使用した感想だった。
「……」
無言で体を起こす間も、広いという感想は消えることがない。ダブルベッドという二人用のベッドに一人で寝ているのだから、広さを感じて当然なのだが。
ただ、物理的な広さの他に、寂しさを伴った精神的な広さも感じてしまったのは何故だろうか。個人的には、寝惚けた頭で考えたからだと思いたかった。
(今日は来てない、と……)
誰のことかはわざわざ考えるまでもない。朝からこの部屋を訪れる者など、アイリス以外にはいない。ここ最近、この部屋で目を覚ますと大抵目の前にいるので、いなかった今日の方が微かな違和感を覚えてしまう。
(まぁ、毎日早起きってわけでもなさそうですしね)
覚えた違和感にそう答えを出しつつ、ベッドから下りる。何もないのにいつまでもベッドにいれば、背後に迫ってくる二度寝の誘惑に勝てそうになかった。こんな時は体を動かすに限る。
そう思って着替えようとした瞬間、部屋の外で何か小さな音がすることに気が付いた。普段であれば気付けないような、本当に小さな音。最早気配とすら言ってもいいかもしれないそれに気付けたのは、まだ周囲が静かな朝だったからなのか。
「……」
何にせよ、そこにいるのが誰なのかは分かりきっている。そもそも、先程自分でアイリス以外にいないと思い浮かべたばかりだ。
そうなれば、当然何をしようとしているのかも予想はできる。
「……」
そっと、限りなく気配を消して扉に近付く。アイリスが扉を開けた時、ちょうどその死角になるような位置へと体を滑り込ませた。
そうして見つめている前で、ゆっくり静かにドアノブが下がり、これまたゆっくりと扉が開いていく。いつものアイリスの元気な仕草からは想像もできない程に静かな動きだった。
「お邪魔しまーす……」
「……」
まだ姿が見えないアイリスの、小さな声。きっとまだ自分が寝ているだろうと思っての声量なのだろう。悪戯のように寝顔を見に来る割には、見えていない場所で妙に礼儀正しい。そんな態度が、少しだけ可愛く思えた。
「あれ……? いない……?」
だが、そんな小さな声もそこまで。ベッドの上に目的の人物がいないと分かった途端、いつものアイリスの声に戻る。
「もう起きて下に行っちゃった……?」
ベッドのすぐ近くまで歩み寄りながら呟かれた一言は、確かにこんな状況なら一番に考えることだろう。まずすることはないが、反対の立場なら自分もそう考える。
実際は、すぐ後ろで息を潜めて機を窺っているのだが。
「……」
「……?」
辺りを見回せばすぐに見つかるはずなのに、何故かアイリスの視線はベッドに固定されているかのように動かない。そんな姿を不審に思って見ていると、視線の先でベッドの感触を確かめるように両手でマットレスに触れていた。一体何がしたいのだろうか。
「……まだちょっとあったかいかも。起きてからそんなに時間は経ってない……?」
(えぇ……?)
いきなり探偵のようなことを言い出した。それを確かめてどうしようというのか、皆目見当が付かなかった。
「……」
「……」
「……起きてるなら、ちょっとくらいはいいよね……?」
戸惑いながら、それでも黙って見つめる先で、何やら怪しげなことを口にするアイリス。それと同時に、右膝がベッドの上に着地する。どう見ても潜り込もうとしていた。
この辺りが頃合いだろうか。
「何がちょっとくらいなんですか」
「ぴゃあ!?」
怪しげな後ろ姿に声をかけた瞬間、はっきりと見て取れる程に肩を跳ね上げたアイリスが、バランスを崩してうつ伏せにベッドへと倒れ込んだ。
「んぐぅ!?」
「……」
そうなるきっかけを作った自分がこう思うのも何だが、随分と愉快な姿である。
「なっ……!? なんでっ!?」
がばりと体を起こしたアイリスが、心情をそのまま乗せたような表情で振り返ってくる。よほど驚いたのか、目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「何でも何も、怪しいことをしてたら止めるに決まってるじゃないですか」
「あ、怪しくなんかないですもんっ」
「誰がどう見ても怪しいですって」
何なら、先程の姿を動画に収めて見せたいくらいだった。自身がいかに怪しい行動をしていたのか、はっきりと理解できるだろう。
「と言うか、どこから聞いてたんですかっ!?」
「『お邪魔しまーす』から」
「最初から!」
「ずっと扉の裏にいました」
「なんでぇ!?」
ぽすぽすとベッドを叩きながら、最早はっきりとした涙目で悲痛な声を上げる。その姿を見ていると、何も悪いことはしていないはずなのに、何故か心に罪悪感が湧き上がってきた。
「着替えようとしたら気配がしたので。どうせまた寝顔を見に来たんだろうなと思って隠れました」
「だからなんでぇ!?」
「あんまり大きい声を出すと、アーロンさんとレティシアさんが起きますよ」
「葵さんのせいです……!」
自分が隠れられていたということは、扉は開いたままになっていることを示している。まだ二人の寝室の扉があるが、いつまでも騒いでいると、間違いなく二人は目を覚ますはずだ。
そうなれば、当然部屋で騒いでいたことを根掘り葉掘り聞かれることになる。自分としては何も困ることはないが、アイリスはいくらか恥ずかしい思いをすることになるだろう。避けられるのなら、今のうちから用心しておくに越したことはない。
「で?」
「え……?」
「何をしようとしてたんですか?」
「……」
「ちょっとくらい、何です?」
「そ、それはぁ……」
静かに扉を閉めて、再びアイリスに向き直る。一番重要な部分を尋ねられたらしいアイリスは、とても分かりやすく目を泳がせていた。
「……」
「う……」
「……」
「……ちょっとくらい、葵さんの匂いが残ってたりしないかなーって……」
「今日初めて寝たのに?」
「で、ですよねー……、あはは……」
ちらりと枕に目を向けてから、乾いた笑みを浮かべるアイリス。ここまで見られて今更何が恥ずかしいのか、それとも見られたからこそ恥ずかしいのか。赤くなった頬を指で掻く仕草が可愛らしい。
「……やっぱり、葵さんがいる時に潜り込まないと、ですね」
「……」
それはそれとして、転んでもただでは起きないアイリスなのだった。
「このご時世、ほんとに何でもレンタルできるのね」
「お内裏様とお雛様の衣装まで揃ってるなんて、調べてみないと知らないままだっただろうね」
「どうしてわざわざ僕の分まで……」
「似合ってますよ! 葵さん!」
朝の迎え方がいくら特殊であろうと、その後の時間はいつもと変わらず流れていく。
珍しく穏やかに朝食を済ませられたと思っていると、本番はその後にやって来た。
「どうしてって、お雛様だけじゃ寂しいでしょ?」
「そんなところに、お内裏様にぴったりの人がいたら、当然その分も用意するに決まってるよ」
「……高かったでしょうに」
身に纏っている薄い水色を基調とした着物を眺め、小さくそう呟く。ご丁寧にも細々とした小物まで揃っているお内裏様の衣装一式は、いくらレンタルとは言っても相応の価格だったはずだ。そこまで気軽に借りられるものではないことくらい、着ている自分が一番理解している。
「そこは気にしなくていいの。それ以上の価値が、今私達の前に広がってるんだから」
「娘と、あと息子になりそうな子のこういう姿を見ることになるなんて、少し前までは想像もしてなかったな」
「む、息子になりそうな子……!」
「……」
アーロンが何気なく放った一言に、桃色を基調とした十二単「らしき」衣装を身に纏ったアイリスが反応する。いつもなら赤く見えていたであろう頬は、今日に限ってはうっすらとした桃色に見えた。
「さ、何はともあれ、まずは写真を撮りましょうか」
「お内裏様とお雛様が二人共可愛いってのも、相当に珍しい写真になりそうだね」
そんな訳で、今日はアイリスと自分が、お雛様役とお内裏様役だった。
これまで一度もひな祭りで何かをしたことがないらしいこの家に、当然雛人形などあるはずがない。果たして当日はどうするつもりなのかと思っていたら、まさかの自分達が人形役。その驚きたるや、レティシアが衣装を片手に現れた時に、思わず口を開けて呆けてしまった程だ。
「並び方は諸説あるみたいだけど、どうせ家の中だけなんだし、そこまで気にしないで座っていいと思うわ」
「いつもの二人にしようか。どっちかって言うと、葵君が右に座ってることが多いかな?アイリスがよく左腕に抱き付いてるし」
「らしいですよ、葵さん。こっちですっ」
「順応が早過ぎる……」
いつもと違う装いのアイリスに、いつも通り腕を抱き締められながらソファへと移動する。煌びやかな衣装に気分が高揚しているのか、どことなくその足取りが軽そうに感じられた。
「どうしましょうか……。やっぱり正座の方がいいんですかね……?」
そうしてソファの前まで辿り着いたところで、アイリスが小さな疑問を口にする。いつもなら気にも留めない座り方も、こんな衣装を着ているとどうしても気になってしまうらしい。
「そこまで気にしなくてもいいと思うよ。そんなことを言い出したら、そもそも髪の色がどうこうって話になるしね」
「んー……。まぁ、そっか……」
「何か気になることでもあるんですか?」
「あ、いや……。葵さんが正座をしてたら、勢い余って膝枕を狙うのもいいかなって思って」
「聞いて損しました」
「なんでですか!」
ひな祭りに全く関係がない悩みだった。聞くだけ無駄である。
「別に、普通に座ってる時でも狙ったらいいじゃない」
「……!」
「確かに、じゃないんですよ」
何も口にしていないのに、その表情だけで何を言いたいのか理解できてしまった。髪が舞い上がる程の勢いで自分の方を向き、くりくりした目を少しだけ見開くその姿は、誰がどう見てもよからぬことを考えている姿である。
「しませんからね」
「えー……」
「……何でひな祭りの話がここまで逸れるんですか」
「それだけ葵さんの膝が魅力的ってことですね!」
「反省」
「はい……」
こちらを向いていた顔が伏せられた。素直なのはアイリスの美点の一つだ。
「決着がついたんだったら、そろそろ座ってもらってもいい? シャッターを切ろうとする私の手がそろそろ限界」
「何か物騒なことを言い始めましたけど」
「ああなったお母さんは誰にも止められないですからね。早く座った方がいいかもしれないです」
「ひな祭りらしくない言葉……」
結局アイリスに腕を引かれたまま、いつもの場所に腰を下ろす。広がった薄い水色の上に、淡い桃色が一枚重なった。
「……アイリス」
「え、何?」
「せめて最初は腕を離して普通に座りなさいな。腕を組んでるお内裏様とお雛様なんていないでしょ」
「世界に一組だけらしいですよ! 葵さん!」
「そういう意味じゃないと思いますよ。反省」
「あぅ……」
「懲りないねぇ……」
レティシアの言葉を曲げに曲げて解釈したアイリスが、たったの二言で俯いてしまう。気分がふわふわしているのか、先程から妙に浮き沈みが激しいアイリスなのだった。
「ほら。腕を組んだ写真なら、この後いくらでも撮ってあげるから」
「はーい……」
渋々。そんな言葉がぴったり似合うような声と仕草で、名残惜しそうにしながら腕が離れていく。
「……」
左腕がいつもより寒く感じたのは、恐らく衣装の風通しがよかったからだろう。
「でも、くっつくくらいならいいでしょ?」
「まぁ、それくらいなら」
「やった!」
「……」
そんなことを考えている間に、気分を持ち直したアイリスが体を寄せてきた。寒かったはずの左腕が暖かくなったのは、寒さに慣れたからだったのだろう。
「葵さん?」
「……何でもないです」
「うん?」
急に黙り込んだ自分を不思議に思ったのか、すぐ隣から瑠璃色の瞳が見上げてくる。だが、なるべく素直になると約束した今でも、この感情を素直に口にするのはまだ少し難しかった。
「ちょっと表情が硬いわね」
「アイリスは緩み過ぎだね」
「バランスが取れてるってことで!」
レティシアの言う普通の写真を撮り終わった後。撮影している時からずっとそわそわしていたアイリスが、あっという間に姿勢を元に戻していた。
つまり、二人分の腕が絡んでいた。
「と言うかですけど、まだ慣れませんか?」
「そんな簡単に慣れるわけがないです……」
「照れてる葵君の方が可愛い」
「お母さん?」
至近距離から、当たり前とも言えるようなことを尋ねてくるアイリス。その距離と写真を撮られているという事実が混ざり合って、自分でも違和感を覚える程に顔が強張っていた。
「付き合いたての時期なら、葵君みたいにもう少し恥じらいがあるといいわね?」
「……説得力がない」
「何?」
「何でも」
「お母さんも恥じらいはなかったんだね」
「……つまりは遺伝ですか」
何やら力説するレティシアだったが、その裏でアーロンが小さく呟いた一言が全てを台無しにしていた。どうやら、アイリスの積極性は遺伝によるものらしい。そんなところで親子を見せつけなくてもいいのにと思ってしまうのは、果たして自分だけなのだろうか。
「私はちゃんと抑えてますもん」
「どこがですか?」
不服そうに言うアイリスだったが、「気持ちを抑えている」のではなく、「腕を押さえている」の間違いにしか思えなかった。しっかり腕を抱き締めている以上、アーロンの言葉を借りるなら「説得力がない」だ。
「抱き締めるのが腕だけってところです。全力でいくなら、隙あらば正面から抱き付いてますもん」
「『もん』じゃないんですよ。可愛く言ったって誤魔化されませんからね?」
「ちぇ……」
「……」
わざわざその一言を口に出していた。逸らされた目が冗談の色を宿していない辺り、油断すると本当に大変なことになりかねない。何故か恋人に対する警戒心が一段階引き上げられた。
「……いつか絶対に全力でいきます」
「前もって言っておいてくださいね。全力で逃げるので」
「こうしておけば逃げられませんよね?」
「四六時中こうしてるつもりですか?」
アイリスが言っているのは、恐らく腕を抱き締めていること。確かに、この状態になってしまえば逃げる術はない。あとはアイリスの思うままだ。
「私はそれでもいいですよ?」
「……そうでした。アイリスさんはそういう人でしたね……」
「褒められても何も出ませんよぉ……! えへ……」
「はぁ……」
嬉しそうな笑みを浮かべたアイリスが、それと同時により一層密着具合を増す。相変わらず、親が見ている前でも大胆なことこの上ない。
「まるで、葵君から元気を吸い取ってるみたいだね」
「大丈夫? 最近疲れてない?」
「そんな心配をされるとは思ってませんでした……」
「そういえば、男の子にしては大分細いわね?」
「それは元からです」
「そういえば、男の子にしては大分可愛いね?」
「……それも元からです」
肩に頬が擦りつけられる感触を服越しに感じながら、甚だ不本意な答えを返す。本音を言えば認めたくなどないが、認めなかったところで隣から異論が飛んでくるだけだ。それならば、最初からこう言っておいた方が幾分かましである。
「とっても可愛い葵さんに聞きたいことがあるんですけどっ」
「唐突でやたらと気になる言い方でしたけど?」
「すっごく可愛い葵さんに聞きたいことがあるんですけどっ!」
「……もうそれでいいです」
「諦めたわね」
「諦めたね」
放っておいてほしい。
「で、何なんですか」
見たままの事実を述べるアーロンとレティシアは気にしないことにして、渋々アイリスに向き直る。すぐ近くにある瑠璃色が、今日一番の輝きを放っていた。
「この衣装、葵さん的にはどうですかっ? まだ感想を聞けてないなって思って!」
「……」
「どうして目を逸らすんですか」
「いや……、別に……」
言われた瞬間、そっと目を逸らしてしまった。耳元から若干不満そうな声が聞こえてくる。
「じゃあ、こっちを見てくださいよ」
「……」
「そういえば、さっきからあんまり私の方を見てくれないですよね」
「……気付いてたんですか」
「気付きますよ。葵さんばっかり見てるんですから」
「う……」
さも当然のように言いきるアイリスだが、自身がどれだけのことを口にしたのか理解しているのだろうか。そんなことを考えている間にも、頬はどんどん熱くなっていく。
「もしかして、あんまり似合ってなかったり……?」
どうやって赤くなった頬を冷まそうかと悩みかけたその時、どことなく不安が滲んだ言葉が聞こえてきた。
「そんなわけがないです」
「えっ?」
「あ、いや……、その……」
そこから先は完全に無意識。気が付けば、アイリスの不安を払拭するかのように、否定の言葉が口を衝いて出ていた。その言動たるや、言ったはずの自分ですら困惑してしまう程である。
「あ、葵さん?」
「ち、違うんですよ。いや、違わないんですけど……!」
その困惑に引きずられるように、続く言葉は全く要領を得ない。否定する時は真っ直ぐ正面からその瞳を見つめることができたのに、今や視線は落ち着きもなくあちこちを泳ぎ回っている。
「に、似合ってないなんてことはなくて」
「……」
「その、あんまりアイリスさんの方を見てなかったのも、想像してた以上に可愛くて照れてただけで……」
「ほあぁ……!」
それでもどうにかして絞り出した言葉に、アイリスが感極まったような声を漏らす。ちらっと見えたのが見間違いでなければ、沈みかけていた瞳が潤んでいたような気もする。
何にせよ、あまりアイリスの方を見ていなかったのはそういう理由だった。
十二単のような衣装を着ると分かった段階からある程度の覚悟はしていたが、それを容易に上回ってくるのがアイリスである。その姿を初めて見た時に言葉を失って、その場で感想を伝えられなかったのは小さな後悔でもあった。それがまさかこんな形になろうとは、それこそ予想できるはずがない。
「どの辺がとかって、ちょっと面倒なことを聞いてもいいですかっ?」
すっかり調子を取り戻したアイリスの、とにかく嬉しそうな声が響く。恐らく望んでいたであろう言葉を聞くことができて舞い上がっているのか、体重をかけて押し込むような格好になってしまっている。
「えっと……、改めて言葉にするのは難しいですけど……」
「……っ!」
「アイリスさん、前に青が好きだって言ってたじゃないですか。着てる服もそっち系の色が多いイメージでしたけど、やっぱり暖色系も似合うんだなと思って」
「おぉー……!」
一度、自身が着ている衣装を眺めるように視線が逸れる。向かう先は自分が見つめている先とほぼ同じ。こんな感想を伝えている割に、恥ずかしくて目が合わせられないのは相変わらずだった。いつか面と向かって言えるようになるのだろうか。
「あと、着物ってところがちょっと大人っぽく見えていい……、と思います。いつものアイリスさんと、ちょっと雰囲気が違うと言うか……」
「大人っぽい……!」
「でも、ちょっとサイズが大きくてぶかぶかなところは子供っぽいような気がして。そのバランスがちょうどよくて」
初めて見た時に言えなかった言葉を、どうにかゆっくりと紡いでいく。色々と言葉を考えることによって生まれた熱と、恥ずかしさによって生まれた熱と。両方が合わさって、かつてない程に全身が熱くなっていた。
「とにかく、何を着ても基本的に可愛くなってしまうのはずるいと思います……! そんなものを見せられる僕の身にもなってください……!」
「……」
最後は懇願するように。随分と無茶なことを言っている自覚はあるが、ある意味心からの願いだった。
お付き合いをしている身として、アイリスの可愛い姿を見たいのは当然の話だ。だが、それにしても限度はある。毎回毎回こんな姿を見せられてしまえば、どう足掻いても自分はこうなってしまう。
「……」
「アイリスさん……?」
そう思っての願いだったのに、アイリスからは何の言葉も返ってこない。その顔はやや俯き気味で、感情を読み取ることはできなかった。
「ど、どうかしました?」
もしかすると、何か気に障ることを言ってしまったのだろうか。今度は自分がそんな不安に襲われる。それ程までに、アイリスの反応がぷっつりと途切れてしまっていた。
「……す」
「す?」
やっと微かに聞こえてきた声も、謎のたった一文字だけ。いよいよ以てアイリスが何を考えているのか分からなくなってきた、まさにその瞬間。
「好きですーっ!」
「うわぁ!?」
最早「腕を抱き締める」という表現では生温い程の格好。感情が爆発したかのような大声と共に、全力でソファに押し倒される。当然、油断していた自分が耐えられるはずがなかった。
「好きですよぉ……! 葵さん……!」
「い、いきなり何ですか……!?」
胸元にぐりぐりと頭を押し付けながらしがみついてくる。つい先程大人っぽいと言ったばかりだが、そんな仕草は子供っぽさが全開。衣装が乱れるのも構わず、ただひたすらに体を寄せてくるアイリスは、心臓に悪いことこの上ない。
「こんなの、我慢しろって言う方が無理ですもん!」
「は……?」
「っ! ……っ!」
「うぁ……」
留まることを知らない好意の爆発に、否応なしに心拍数が上がっていく。ちょうど胸元にいるアイリスには、その鼓動の速さがしっかりと伝わっていることだろう。
「葵さん、すっごくどきどきしてますね。えへ……!」
「……」
案の定だった。これで伝わらないのは、流石に無理がある。
「葵さんも、可愛いのは当然ですけど、ちゃんとかっこよかったですからね!」
「……今そういうことを言うのは反則だと思いませんか」
「我慢できませんでしたから!」
「あぁ……、もう……」
思わずそんな声が漏れる。胸元から顔を上げて伝えてくれた感想は、他のどんな言葉よりも嬉しい一言で。その笑みとの相乗効果が、嬉しさをより底上げしてくれていた。
「完全に二人だけの世界になってる」
「僕達のことなんて、もう視界にも入ってないね、あれは」
「あ……」
そんなタイミングで、蚊帳の外に置かれたアーロンとレティシアの声が聞こえてきた。恐らく、話しかけるタイミングを窺っていたのだろう。その声は、どこか呆れを含みつつも、とても穏やかなものだった。
「あら。こっちのことは気にしなくていいわよ。存分に楽しんで?」
「いや……」
「いいから。僕達は写真を撮るだけだし」
「……」
その言葉通り、いつの間にかアーロンまでスマートフォンをこちらに向けていた。まさかの二台態勢である。当然、アイリスに抱き付かれている自分がそれをどうこうできるはずもなく。
「葵さん……! 葵さん……!」
「……」
再び頭を胸元に押し付け始めたアイリスを、ただただ受け入れることしかできなかった。
「おぉ……!」
「気合いの入り方がまた……」
「初めてのことだったし、どこまで作るのがいいのか分からなくて。だったらいっそ、本格的に作っちゃおうかと」
そう言って、柔らかく笑むレティシア。随分と簡単なことのように言っているが、準備から調理まで、色々と大変なことも多かったはずだ。単純に頭が上がらない。
「ちらし寿司って、うちではあんまり食べないよね?」
「作るにしても買うにしても、そんな機会がほとんどないもの」
「まぁ、それもそっか」
これまでの食卓を振り返る様子を見せながら、アイリスがそう口にする。
そんな訳で、レティシアの力作によるお昼の時間だった。
「葵君は? やっぱり一人暮らしだと縁遠いかな?」
「そうですね。一人分はなかなか作りにくいですから」
「そこで作るって考えが最初に浮かぶのが葵さんですよね。いいと思います」
「どんな感想ですか」
テーブルの上に用意されたちらし寿司から自分へと視線を移し、何やら納得したような顔で頷くアイリス。今の流れで、一体何に納得したのだろうか。その思考が読めない。
「ま、とにかく食べましょうか。あんまり放っておくと冷めちゃうわ」
レティシアが指差すのは蛤のお吸い物。これまたひな祭りで食べる料理としては定番のものだった。
「はーい! いただきます!」
「熱いから気を付けるのよ?」
「小さい子供じゃないんだから、そんなの気にしなくても大丈夫なのに」
「熱いのは気持ちの方って?」
「ごほっ!?」
レティシアの強烈な一言に、アイリスが危うくお吸い物を零しそうになっていた。今の動きでよく零さなかったものだ。
「いきなり何!?」
「いや、そうかなって思っただけよ?」
「そうかもだけど! タイミングってものがあるでしょ!」
お椀の水面を震わせながら、それでも何とかテーブルに着地させたアイリスがレティシアに食ってかかる。食ってかかってはいるが、その中身を否定している訳ではないようだった。
「あ、いただきます」
そんなアイリスを尻目に、自分も手を合わせて頭を下げる。とりあえずは目にも鮮やかなちらし寿司から。赤、黄色、緑、白と、一品でここまでカラフルな料理は、普段ではそうそう目にする機会はないだろう。
「どうぞ。召し上がれ」
「待ってください、葵さん。葵さんの大好きな人が大変な目に遭ってるんですよ? ちょっとくらい助けてくれてもいいんじゃないですか?」
箸に手を伸ばしかけたところで、その手がアイリスに押さえられた。まさかの一蓮托生である。レティシアをどうにかしない限り、自分も食べさせてもらえないのだろうか。
「助けるも何も、別に否定はしてなかったですよね」
「だって、私の気持ちは沸騰してますもん!」
「しばらくしたら空焚きになりません?」
「葵さんがたくさん水を注いでくれるので大丈夫です!」
「……」
何やらよく分からないことを言うから自分も合わせて答えたのに、思わぬ形で反撃を食らってしまった。笑いながら口にする辺りが、より発言の威力を高めている。
「葵君の負けかな?」
「……無理です」
「だろうね」
アーロンに言われるままに敗北を認める。どう考えても耐えられるはずがなかった。
「負けって何ですか?」
「アイリスは気にしなくていいと思うよ。それよりも……」
「うん?」
今のやり取りに隠された意味に気付けなかったのか、アイリスの頭が微かに傾く。だが、アーロンの関心は既にそこから離れているらしく、何やら別の話を切り出そうとしていた。
「アイリスが今零しそうになった蛤のお吸い物。どういう意味があるのか知りたくないかい?」
「言い方は気になるけど、知りたいのは知りたい」
「僕もさっき調べたんだけどね」
そう言って、アーロンがちらりと目を向けてくる。その目を見るに、どうやら話を自分から逸らしてくれたようである。写真を撮っている時からずっと、とにかくアイリスの攻勢が激しいので、今になって助けてくれたのかもしれない。
「どうもね、蛤の貝殻は一対になっていて、他の貝とはぴったり合わないそうなんだよ。そこから転じて、『生涯一人の伴侶と添い遂げる』になったわけだ」
「……!」
「盛り付け方にも意味があるみたいよ? 口が開いた一つの貝に二つの身を乗せて、『仲の良い夫婦』を表すって」
「……っ!」
逸れてはおらず、助けてくれた訳でもなかった。むしろ追い打ちである。
「葵さん!」
「……何です」
「えへ……!」
「……」
「負けかな?」
「負けね」
「誰のせいだと……」
少しだけ恥ずかしそうに。だが大半は嬉しそうに微笑むアイリスの姿に、またしても勝手に顔が熱くなっていく。なのに、そう仕向けた二人はのんびりとしたものだった。
「ってことは、これを食べさせあえば完璧なのでは!」
「汁物を食べさせるのはもう介護ですよ」
「それくらいの歳まで一緒にいたいってことですか!」
「何を食べたらそこまで前向きに考えられるんですか」
「蛤のお吸い物ですっ」
「まだほとんど食べてませんよね?」
レティシアのせいで、口を付けてすぐにこの流れになったはずだ。つまりはほとんど食べていない。
「そこは気にしなくてもいいです。大事なのは、これを葵さんが食べさせてくれるってことですよ?」
「決まってますし……」
いつの間にか、お願いは決定事項へと変化していた。こうなったアイリスは絶対に引き下がってはくれないと、これまでの経験がそう告げていた。
「……!」
「うっ……」
期待できらきらと輝く瞳に見つめられ、どこにも逃げ場などないことを悟る。この瞳を曇らせることなど、自分にはできるはずがない。
観念して箸に手を伸ばす。今度は押さえられることはなかった。
「あー……」
「……」
手が微かに震える中、祈るのは今夜無事に自宅に帰り着いていること。
ただ、小さく口を開けて待っているアイリスの姿を見ていると、その願いは到底叶いそうにないもののように思えてしまうのだった。




