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105. 夢のような現実 (5)

「……?」


 何かの気配があった。


 普段目を覚ます部屋とは違う匂いがする部屋の中、まだはっきりとしない頭でぼんやりと考える。


 瞼を閉じたままなので、当然視界は真っ暗。ならば、何がその気配を感じ取ったのか。視覚でないなら、聴覚か嗅覚か、あるいは触覚か。間違っても味覚ではないことだけは確か。


「やっぱりぷにぷにだぁ……」

「……」


 ほとんど覚醒していない意識に、そんな一言が流れ込んでくる。その言葉が何を示すのか説明するかのような、軽く頬を突かれる感覚。それと同時に、嗅ぎ慣れた甘い香りがふわりと漂ってきた。


「可愛い……!」

「……」


 答えは、視覚と味覚以外の三つ全部だった。


「あ」

「……」


 少しだけ冷たい指先で頬に触れられたまま、そっと瞼を開く。カーテンの隙間からかろうじて差し込む光が、本当にうっすらと部屋の中を照らしている。そんな灰色を塗りたくったような視界で、鮮烈なまでに目に飛び込んでくるのは三つの色。


 肌の白、瞳の瑠璃色、髪の菜の花色。たったそれだけで誰がいるのか分かってしまう、何よりも特徴的な色だった。


 そもそもの話、見えていない時から誰がいるのかは分かっていたが。


「おはようございます」

「……おはようございます。またですか……」


 決定的な場面を見られたはずなのに、いつもと何も変わらない挨拶を向けてくるアイリスが、そこにいた。


 いつの間にか横向きになって寝ていた自分の顔の前にぺたりと座り、今もなお頬に触れたままになっている右手を伸ばした姿勢。左手を床に突いて体を支え、やや前のめりに。


 どこからどう見ても、悪戯の真っ最中だった。


「ちょっと我慢できなくて……。あは」

「……」


 その言葉と同時に、何故か指先で突く仕草から、撫でる仕草へとシフトする。何度も行ったり来たりする指先が、妙にくすぐったくて仕方がなかった。


「……いつから」


 寝起きで抵抗する気力も湧かないままに、とりあえず気になったことをだけを口にする。目を覚ましてからろくに言葉を発していない喉を、どこか擦れたような声が通り抜けていった。


「そんなに前じゃないですよ? 何となく目が覚めちゃったので、葵さんの寝顔を見に行こうかなって」

「どんな理由ですか」

「そうだ、葵さんの寝顔を見に行こう」

「僕の顔を古都みたいに……」


 何がそんなに楽しいのか、こんな早朝からにこにこと笑みを浮かべて話すアイリス。時間が時間なら自分の気分が釣られることもあったのかもしれないが、生憎寝起きではそうもいかない。今は気分の距離が開いていくだけだった。


「秋くらいから、紅葉みたいに赤くなってくれることも多くなりましたよね」

「誰が上手いことを言えと」

「えへ」

「褒めてませんって」


 今の言葉をどう変換したのか、アイリスが目の前で頬を緩めてふわりと微笑んだ。まだ頭の回転も心の回転も鈍い今だからどうにか見つめていられるが、これがもっと後だったなら大変なことになっていただろう。主に自分の心が。


「と言うか、いつまで触ってるつもりですか」


 ついでに言えば、少し離れたところにある笑みよりも、直接触れられている頬の感覚の方が気になっていたという面もある。笑みが消えることがないのと同じように、頬の感触も消える気配がなかった。


「ずっと触っていたいくらいにはすべすべぷにぷにです」

「……」


 さわさわ。そんな音が聞こえてきそうな手付きで、アイリスの右手が頬の上を滑る。触れられているのは頬なのに、何故か心の方がくすぐったくなってきたような、そんな気がした。


「えい」

「……」


 そうかと思えば、今度は指先で突く仕草に戻る。前にも同じようなことをしていた覚えがあるが、飽きることはないのだろうか。


 一瞬そう思いはしたものの、仮に自分がアイリスに同じことをしたならば、間違いなく飽きることはないと断言できる。それ以前に心が耐えられないように思えるが、とにかく危うく納得してしまいそうになったのは事実。こうなってしまえば、強く咎める気持ちもあまり湧きはしなかった。


「あんまり嫌がらないんですね。ちょっと意外です」

「恋人からの可愛い悪戯だと思えば、まあそこまで……」

「ほわぁっ!?」

「あ、『可愛い恋人』の間違いでした」

「ひゃあ!?」


 たったの一言で、アイリスが面白いように反応を返してくれる。朝から心の栄養が補給されるような心地だった。


「い、いきなり何ですか……!?」

「いや……、目を開けたら可愛い恋人がいたので、つい……」

「なんっ……!? もうっ……!」


 緩んだ頭にかこつけて、とにかく浮かんだ言葉をそのまま口にする。いつの間にか頬から離れていた右手は、今はアイリスの胸元で左手に握り締められている。


 そんなもぞもぞと動く手を見ていて、さらに浮かぶ言葉があった。


「指先、少し冷えてましたね」

「え……? あ、あぁ……。お部屋が寒いからだと思いますけど……」


 突然変わった話の流れに戸惑いを浮かべつつも、きょろきょろと辺りを見回しながらそう口にするアイリス。注目されたからなのか、手の動きは徐々に収まりつつあった。


「何でそんなに冷えるまでいたのかは聞きませんけど、あんまりこういうことをしてると風邪を引きますよ」

「じゃあ、葵さんがあっためてくれる、とか……?」

「……」


 軽く目を逸らしながら。けれども、時折ちらちらとこちらを窺いながら。何を言いたいのかなど、寝起きの頭で考えるまでもない。


「……いいですよ。入りますか?」

「えっ!?」


 思惑は二人で共有できていても、その答えまでは共有できていなかったらしい。思わぬ答えが返ってきたことで、アイリスが見るからに慌てふためいていた。


「い、いいんですか!?」

「そこまで前のめりになられると、ちょっと冗談だって言い出しづらくなりますね」

「何なんですかぁ!」


 ぽすぽす、と。小さな手が掛け布団の端を叩いて、どこか気の抜けたような音が鳴った。


「期待しちゃったじゃないですか!」

「今の僕が本気で言うと思いました?」

「お父さんとお母さんの前では恥ずかしがってただけで、二人きりならいいのかと思いました!」

「想像が具体的過ぎるんですよ」


 しかも、この一瞬で。ある意味卓越した技能ではある。


「こうなったら、無理矢理入っちゃいますもん!」

「あ、おはようございます」

「あぁ!?」


 宣言通りに布団の中に潜り込もうとする動きが見えた瞬間、体は自然と動いていた。


 自分でも寝起きとは思えない速さで上半身を起こす。暖かかった布団の中の空気は霧散し、代わりに部屋の冷たい空気が一気に流れ込んでくる。


「……本当に寒いですし。何でこんなに寒いのに……」

「最初はちょっと寒かったですけど、寝顔に見惚れてたら忘れちゃってました」

「普通は立場が反対だと思うんですけどね」


 あくまでイメージでしかないが、その台詞は自分が言う側になることが多いのではないかと思う。果たして本当に自分が言うのかは置いておくとして、だが。


 ともあれ、起きたのならいつまでも寒い部屋にいる必要はない。時間はまだ早いが、リビングに向かっても何も問題はないはずだ。


「まぁ、その辺は置いておくとして。もうアイリスさん以外に誰か起きてたりします?」

「いえ……、一回リビングに行きましたけど、まだ二人共起きてなかったです」

「どれだけ早くに目が覚めたんですか」

「遠足に行く小学生みたいですねっ」

「自分で言いますか」


 そこでいつものように怒り出さないだけ、幾分かよかったのかもしれないが。自らが言ったことで怒るのは、流石に理不尽が過ぎる。


「……何をしてるんです?」

「え?」


 早起きだったからこそ、アイリスもまだそこまで頭が回っていないのかもしれないなどと考えていると、そのアイリスが謎の動きを見せていた。


 具体的に言えば、何故か少しずつにじり寄って来ている。


「リビングのエアコンはさっき動かし始めたばっかりなので、あったまるまでは時間がかかるじゃないですか」

「かかりますね」


 元々すぐ傍にいたのに、今やもう布団の上に座ってこちらを見つめている。何なら、もう手は握られてしまっていた。


「どうして手を握ってるんですか?」

「葵さんがこれ以上逃げないようにと思って」

「……」


 逃げるようなことをするという宣言に等しかった。部屋の寒さによるものとはまた違う、ひんやりとした気配が背中を撫でる。


「一緒に横になって抱き締めてもらうのが一番嬉しいですけど、それはまだ許してもらえないみたいなので」

「……当たり前です」

「なので、せめて一緒のお布団に座ってあったまるくらいは許してもらえないかなって」

「……」

「リビングがあったまるまで、ですから」


 最後の一言は小さく首を傾げながら。肩にかかった髪が一房、さらりと流れ落ちた。


「だめ、ですか?」

「……だめ、とは言わないですけど……」

「っ!」


 一緒に寝て抱き締めるよりは、今の提案の方が遥かに穏やかなものだった。そうは言っても緊張する状況であることに変わりはないが、それでもどうにか絞り出した答えに、アイリスの表情が一気に明るくなった。


「じゃ、じゃあっ、失礼しますねっ!」


 そして、その一言と共に、とうとうアイリスが隣にやって来る。とうに冷えきっていたであろう足を掛け布団の中に収め、自分の腕はお決まりのように抱き締められた。


「えへ」

「……最近本当によく見ますね、その顔」

「仕方ないですよ。だって、葵さんのことが好き過ぎるんですもん……!」

「またそうやって……」


 その言葉を体現するかのように、頬まで肩に寄せてくる。相変わらず甘え方が尋常ではない程に心を揺さぶってきて、朝から心臓が全力で稼働してしまう。


「私がどれだけ葵さんのことを好きなのか、ちゃんと実感してもらいますからね?」

「もう十分過ぎるくらいに実感させられてますって」

「いやいや。もっともっとです」

「これ以上……?」


 今ですらかなり踏み込んだ行動を見せることが多いアイリスなのに、これ以上となれば、一体どうなってしまうのだろうか。その時、自分は無事に過ごせているのだろうか。


 見てみたいような、けれども恐ろしいような。そんな光景をうっすらと想像しつつ、リビングが一刻も早く暖まってくれるのを待つのだった。




「トーストって、すっごくいいと思うんです」

「何がですか」


 四人全員揃っての朝食の席にて、アイリスが突然そう切り出した。随分と抽象的な一言だったが、一体何を意味しているのか。


 あるいは、「企んでいる」なのかもしれないが。


「こうやって小さく千切れば、お互いに食べさせ合いをしやすいんですもん」

「どうしてこっちに差し出すんです?」

「分かってて聞いてますよね?」

「僕の理解力は場所に左右されます」


 アーロンとレティシアが一切視線を逸らす様子がないこの場所では、その手の理解力はあまり発揮したくなかった。


 だというのに、楽しそうにトーストを一切れ差し出してくる姿に心が揺れるのもまた事実。休日の朝から贅沢な悩みだった。少し前の自分では考えられない悩みである。


「あ、私達のことはお構いなく。二人だけで存分に楽しんで」

「そう言うなら、せめて目は逸らしてほしかったです」

「無理だね。娘が可愛くて目が離せない」

「知ってる? その子、私達の娘なの」

「何がしたいんですか」


 アイリスとはやや違った種類の笑みを浮かべ、二人がそんなことを口にする。こんなところで親子の繋がりを実感したくはなかった。


「何だかんだ言って、これまでだって食べてくれたじゃないですか。まだ恥ずかしいですか?」

「付き合い始めたってなると、それはそれで心持ちが変わってくるんですよ」

「じゃあ、慣れたら大丈夫ですね。そのための第一歩ってことで!」

「……」

「あーん」

「……」


 とうとう決定的なその一言を発してくれた。そう言われると余計に恥ずかしく感じるのは、果たして気のせいだったのだろうか。


 何にせよ、自分がどう思っていようとも、アイリスが差し出しているトーストを食べないとこの場は終わらない。言ってしまえば自分も恥ずかしいだけで、こうされて嬉しくないということはない。


 そんな訳で。


「……いただきます」

「っ!」


 小さな手の、その指先に触れないように気を付けながら、差し出されたトーストを頬張る。途端に、目の前のアイリスの顔が眩しく輝いた。


「どっちも可愛いね」

「どっちかって言うと子供っぽかったこの子が、まさかこんな風になるなんてね」

「いや、今も十分子供っぽいと思うけど」

「いいもん。葵さんに甘えられるなら、今はちょっとくらい子供っぽいって言われても気にならないもん」

「あら。開き直っちゃった」


 何やら自分が大変なことになりそうな会話が繰り広げられていたが、個人的には、今はそれどころではなかった。


 アイリスの言う通り、何故かこれまで何度か同じやり取りをしたことがあるはずなのに、そのどのタイミングよりも鼓動が速い。これも関係が変わったことが影響しているのか。


 とにかく、そこにどんな理由があるにせよ、慣れるのには随分と時間がかかりそうだった。


「さて、何だか妙にどきどきしてそうな葵君」

「……どんな話しかけ方ですか」

「大丈夫ですよ! 私もどきどきしてますから!」

「聞いてないです」


 そうして鼓動が落ち着くのを待っていると、話題を変えるようにアーロンがそう切り出した。その切り出し方には大きな疑問が残ったが。


「今日は時間に余裕があったりするかい?」

「今日、ですか? 一応、丸一日空いてますけど……」

「それならよかった。ちょっと一緒に来てもらいたいところがあるんだけど、どうかな?」

「来てもらいたいところ?」

「あぁ。葵君もいた方がいいと思うんだ」


 アーロンの言葉におかしなところは見当たらない。なのに、何故か頭の中で警鐘が鳴っていた。これは間違いなく厄介なことを言い出すはずだと。付き合っている相手の親に向ける感覚として正しいのかは別として、これも過去の蓄積によるものである。


「……何か企んでたりはしません?」

「企むなんてそんな。ねぇ?」

「そうだね。必要なことをしようとしてるだけだよ」


 そこでレティシアも参戦。二人がかりで説得しようとしているところが、余計に怪しく思えてしまう。


「わぁ……。何か企んでそう……」

「アイリスさんは何も知らないんですか?」

「ですね。何にも聞いてないです」


 何かの手掛かりを求めてアイリスに尋ねてみるも、そのアイリスも何も聞かされていないらしい。ただ、抱いた感想が同じということで、いよいよ以て怪しさが満ち溢れる。


「これから先、結構な頻度で葵君が泊まっていってくれるだろうし、そのための日用品とかがあってもいいかなって思っただけだよ」

「毎回持ってくるのも大変だろうし。着替え以外は何も持ってこなくてもよくなるくらいが理想ね」

「それを『企む』って言うんですよ」


 随分と立派な企みだった。最早疑いようもない。


「葵さん!」

「アイリスさん?」

「行きましょう! お買い物!」


 そして、アイリスが向こう側に回った。あっという間の出来事だった。


「葵君が今使ってる食器なんかもそうだけど、いつまでも来客用のものだと、ちょっと味気ない感じがしない?」

「気にしたことは一度も……」

「訂正。私が気にするの」


 にこにこと笑って退路を断とうとするレティシア。そもそも、三人に囲まれている時点で、自分の勝ち目など相当に薄いことは分かっているが。


「葵さん」

「何です」

「今日行かなくても、いつかまた同じことを言われて連れ出されますよ」

「そうでしょうけど」

「どうせ同じことをするなら、行動は早い方がいいと思いません?」

「……」


 真面目な顔で正論をぶつけてくるアイリス。その顔は、根底にある前提が間違っていないと確信している顔だった。


 具体的に言えば、「今後何度も泊まることになる」という点を疑ってすらいない。


「ちょっと納得しちゃいましたね?」

「心を簡単に読まないでくださいって」

「葵さんだから分かるんですよ?」


 そう言って、ふにゃりと相好を崩す。その笑みも、その言葉も、件の心を撃ち抜くには十分過ぎるものだった。思わず顔が熱くなる。


「で、完全に照れちゃった葵君」

「だから、話しかけ方ですよ」

「一緒に来てくれるかな?」

「……」


 アーロンからの再度の問い。先程とは違って、その中身を知ったうえでのその問いは、これまた先程とは違って断りきれる未来が見えない。


 特に、隣で笑みを浮かべてそわそわしているアイリスの姿を見てしまえば、答えはほとんど一つのようなもの。どれだけ紆余曲折があろうとも、実際は最初から決まっていたのだろう。


「……あれもこれも全部揃えるってことじゃないなら」


 はっきりとは肯定できなかったものの、それでも前向きな言葉を返す。レティシアが言っていたような、着替えだけを持って来れば問題ないという状態にするにはまだ早い気もするが、とりあえずの日用品を買いに行く程度なら受け入れられそうだった。


「今日はとりあえず必要最低限のものだけだから」

「つまり、これから何回かに分けてお買い物に行けるってことね」

「ちょっとずつ準備が進んでいくのもいいですよね!」

「どう答えても行き着く先が同じじゃないですか……」


 三者三様に明るい表情を浮かべる中、自分だけが困ったような苦笑いを浮かべているような、そんな気がした。




「……で、どうしていきなり家具なんですか」


 そんなやり取りがあってからしばらくして。行き先を告げられぬままに連れてこられたのは、まさかの家具店だった。


 どう考えても必要最低限のものとは思えない。


「ちょっとあるものを買いに」

「あぁ。ついでに必要なものをってことですか。てっきり、あの部屋に置くものを買いに来たのかと……」

「あの部屋に置くものよ?」

「……」


 間違っていなかった。


「いやいや。まずは必要最低限のものって話だったじゃないですか」

「葵さん」

「その呼ばれ方は嫌な予感がします」

「気のせいです」


 実体験に基づく予感だったが、そんなことは関係ないとばかりに一蹴された。アイリスの決意が無駄に固い。


「聞いたことがありませんか?」

「何をです」

「人生の三分の一は睡眠なんですよ?」

「……え? まさかベッド……、と言うか、寝具を買おうとしてます?」


 驚きの一言だった。この場におけるその発言は、買うものの方向性を完全に固定してしまうのではないだろうか。


「正解。今は来客用の布団を使ってもらってるけど、あの部屋にもベッドを入れようかと思ってね」

「本当のことを言うと、葵君のことは関係なしに、元々そう考えてはいたの。ただ、こうなったらもう葵君の意見も聞いた方がいいわよねって」

「私はさっき聞きましたっ」

「えぇ……?」


 この流れは流石に予想していなかった。「日用品」と言われて最初にベッドを思い浮かべることなど、この先一生ないと断言できてしまうような気もするが。


 何はともあれ、どうやらそういうことらしい。


「あ、ベッドは二階ですね」

「行動が速いんですって。気持ちがついてきてないです」

「大丈夫、大丈夫。見ているうちについてくるから」

「それに、もうここまで来ちゃったのよね」

「こんなことになるなら、もう少し渋っておくべきでした……」

「断るとは言わないんだね」


 安易にと言うつもりはないが、それでも大して考えもせず頷いてしまった少し前の自分を止めたい気分だった。




「ダブルベッドで」

「どうして」


 いくつものベッドが整然と並ぶ中、真剣な面持ちでアイリスがそう口にした。何故か妙に迫力があって、若干の怖さすら感じる。


「一人用の部屋みたいなんですから、別にシングルでいいじゃないですか」

「流石にここまで来ると、もう買うことにどうこうは言わなくなるのね」

「そこは諦めました」


 諦めることも、時には必要になる。普通ではないこんな状況では、精神を穏やかに保つためには大事なことだった。


「いつか私が潜り込むからです」

「断言って……」

「あ、でも、シングルの方がぴったりくっつけますね……」

「娘さんが凄いことを言ってますけど」

「親譲りだねぇ……」

「しみじみ言う場面じゃないと思うんです」


 何かを懐かしむような目付きでアーロンが言う。間違ってもこんな場面で見せる目付きでもなく、口にする言葉でもない。


「マットレスは大事よ? 体に合わないのだと、疲れが全然取れないわ」

「レティシアさんはやたら真面目な話をしてますし……。と言うか、それはもう僕個人のベッドじゃないですか」


 言いながら気が付いた。来客用としての意見が欲しいということだったのに、いつの間にか自分用のものに話がすり替わっている。


 あるいは、最初から自分用のものという事実を隠すための隠れ蓑だったのか。


「どうせ使うのなんて葵さんだけですよ」

「来客用、なんて言ってみたけど、これまで葵君以外にうちに泊まっていった人なんていないしね」

「ただ準備はしてあるってだけなのよね」

「……」


 どこにでもありそうな事情が、ここにもあった。


「で、葵君のベッドだけど」

「もう隠す気すらないんですね。せめて最後まで隠そうとしてくださいよ」

「葵君だって、本当は頭の中では分かってたんだろう?」

「そんな気はしてましたけど」

「じゃあ問題ないね。で、どれがよさそうかな?」


 辺りを見回したアーロンが一言。そこまで言われても、色々と試してどれがいいと言い出しにくいのは、もう自分の性格のせいだった。


「どれ……?」

「時間はあるし、あれこれ試してみるといいよ」

「そうは言っても結構高いものですし、そんな簡単には……」


 あとはそんな点。どんなに安く見積もっても数万円はするものを、そう易々と提案できる程に自分の精神は図太くできていない。


 何でもないことのようにアーロンとレティシアは言っているが、やはり娘と付き合っているだけの相手にそれだけのお金をかけさせるのは、どうしても申し訳なさの方が先に立つ。


「子供が親に必要なものを買ってほしいって言う時、そこまで金額を気にしたりするかい?」

「え……」

「葵君だって、もう私達の子供も同然でしょ? だったら、そんなことは気にしなくていいの。もっと気軽に甘えてね?」

「いや、えっと……」


 そう思っていたのに、返ってきたのは予想もしていなかった反応だった。以前からそんなようなことを口にすることはあったが、まさか本気でそう思っていたとは考えてもいなかった。


 おかげで困惑を隠すこともできず、ただあちこちをきょろきょろと眺めるだけになってしまう。これでは、動揺していることが丸分かりである。


「こんな風に照れることになるなんて、全く考えてなかったって顔をしてる」

「前にも言っただろう? 『お父さん』『お母さん』って呼んでもいいよって」

「『いいよ』ってよりも、『呼んで』って感じだったような気もするわね?」


 そんな自分をからかうように、二人が口にする。レティシアの言う通り、こんな方面で照れることになるなど、誰が予想できただろうか。それだけ受け入れてくれているということなのだろうが、心がくすぐったくなるのはどうしようもなかった。


「じゃあ、やっぱりダブルベッドで!」

「シングルで無理矢理くっつくのはいいの?」

「くっつくのは広くてもできるもん。葵さんが逃げなかったら、だけど」

「逃げます」

「それなら、逃げ場の少ないシングルの方があなたの理想なんじゃない?」

「発想が狩りと同じ……」


 さしずめ、自分は獲物といったところだろうか。照れたままの状態にしておいてくれないのがこの一家なのだった。


「それはそうなんだけど、端っこに追い詰めちゃえば、ダブルでも逃げ場はないしね。だったら、二人で寝てる時に広々使える方がいいかなって」

「もう二人で寝る前提って」

「当然です! 私の目標の一つなんですから! 今は無理でも、いつかは認めてもらいますもん!」

「だってさ。大変だね、葵君?」

「安眠が遠ざかっていく気がします……」

「そのうち、私がいない方が落ち着かなくなるようにしてあげます」

「それは『禁断症状』って言うんですよ」


 笑顔で恐ろしいことを言ってのけるアイリス。そこまでいくと、最早依存の域に足を踏み入れていないだろうか。


「ちなみに、私はもうずっと葵さんと一緒にいたくなってます」

「愛されてるわね?」

「……っ」

「あ、照れた」

「照れずにいられますか、こんなの……!」


 改めて、アイリスにその方向の才能があり過ぎることを実感する。どれだけ経っても慣れることはない以上、今後もこの分野では負け続けることが確定した瞬間でもあった。


「ってことで、まずは練習しておきましょうか」

「は?」

「葵君。靴は脱いでおいた方がいいと思うよ」

「……は?」

「いいと思いますよ?」

「……」


 何となく、アイリスが何をしようとしているのか分かったような気がした。同時に、靴を脱いでしまうと最後のような気も。


「引きずり込もうとしてますよね?」

「してますね」

「……」

「まぁ、ちゃんとカバーが掛けてあるので、靴を履いたままでもいいんですけど」

「じゃあ、今のやり取りは一体……?」


 既に企みが成功したかのように、頬を緩めて口にするアイリス。そうは言いつつも、自身は靴を脱いで、先にベッドの上にぺたりと座り込む。その体を受け止めたマットレスが、柔らかそうにその形を変えた。


「さぁ! おいでませ! 葵さん!」

「……」


 両手を広げて満面の笑み。そう言えば飛び込んでくるとでも思ったのだろうか。


「おいでませ!」

「いや……」


 動きがない自分を見て何を思ったのか、その言葉がもう一度飛んでくる。何度飛んでこようが、躊躇いが消えることはないのだが。


「……」

「止まらないと思うよ」

「止められない、の間違いかもね?」


 一度アーロンとレティシアに顔を向けてみるも、返ってきたのはそんな言葉だけだった。そう口にしたきり、二人共楽しそうに微笑んでいる。


「えいっ」

「わっ!?」


 そうやっていつまでも立ったままだったからなのか。痺れを切らしたアイリスが、腕を掴んで引っ張ってきた。突然の実力行使に耐えられるはずもなく、体はバランスを崩してベッドへと倒れ込む。


「えへへ……。我慢できなくて引っ張っちゃいましたっ」


 嬉しそうにそう呟く声は、これまでよりもずっと近くから。ほとんど耳元でしたと言っても過言ではない。


「何を……っ!?」


 無意識に閉じてしまっていた目を開けると、思ったよりも近くにアイリスの顔があった。自分を引きずり込んだ時に、アイリスも一緒に倒れ込んでいたらしい。


「楽しそうにしてるから黙って見てたけど、大胆過ぎると言えばそうなのよね」

「親の前でもお構いなしだからね」

「逞しく育ったわね」

「あの……! 見てないで助けてもらっても……!?」

「無理ね」

「無理かな」

「っ!」


 しっかりと腕を抱き締められたまま助けを求めるも、返事は非情なものだった。先程から、楽しそうな表情が一切変わっていない。


「やっぱりこうするのが一番好きですっ!」

「僕は落ち着かないです……!」


 そんなアーロンとレティシアよりも嬉しそうなのが、言うまでもなくアイリスその人。胸元に顔を寄せ、額に至っては寄せるどころか既に触れている感覚すらあった。


「あ、どきどきしてますね、葵さん」

「当たり前です……」


 言われなくとも分かっている。至近距離でその顔を見た途端、一気に拍動が強くなった。


「早く慣れて、一緒に寝られる日が来たらいいですね」

「絶対に慣れないですよ、こんなの……」


 これだけの好意を向けられて、何も感じずにいられるはずがない。未だに力強く鼓動を刻む心臓も、それに釣られるようにして慌てふためく心の内も。いつも通りの落ち着きを取り戻すのには、それ相応の時間が必要になりそうだった。

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