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103. 夢のような現実 (3)

「本当にこのまま入るんですか?」

「それが一番分かりやすいと思いません?」

「それはそうですけど……」


 Dolceria pescaの裏口の扉を前にして、改めてアイリスに問うてみるも、返ってきたのはそんな答え。


 一切引くことなく口にしたアイリスは、当然の如く腕に抱き付いている。今朝と何も変わらず、解かれたのは改札を抜ける時だけ。もちろん、その時でも手は繋いだままだった。こんなところも朝と変わらない。


「やっぱり恥ずかしいですか?」


 やや気遣わしげな瞳。そうしたいと望みつつも、自分の心情を考えてくれていることがよく伝わってくる瞳だった。


「いや……。太一さんと柚子さんに見られるのは少し恥ずかしいですけど、アイリスさんがそうしたいって言うなら」


 その何気ない優しさを嬉しく思いつつ、ならばと決心する。誰よりも自分のことを想ってくれるアイリスの願いなら、甘やかし過ぎない程度に聞き入れたいのが本音だった。それで喜ぶ顔を見せてくれるのなら、自分が多少恥ずかしいくらいは受け入れられる。


「いいんですか?」

「もちろん。それに、僕だって恥ずかしさよりも嬉しさの方が大きいですからね」

「そういうことをはっきり言ってくれる葵さんが大好きです!」

「アイリスさんみたいにはっきりとは言えませんけど」


 最早躊躇うこともなくその言葉を口にするアイリス。満面の笑みで言われてしまえば、自分に抵抗する術はない。


「それじゃあ、早速!」


 内心でその可愛さに打ちのめされている間に、アイリスが目の前のドアノブに手をかける。そこからはあっという間だった。


「おはようございます!」

「おはようございます」


 夕方には合わない挨拶を揃って口にしながら、二人並んでバックヤードへと足を踏み入れる。


 そこには、太一がいるだけだった。


「やあ、おはよう」


 第一声はいつも通りだが、問題はここから。顔を上げた太一は、一体どんな反応を見せるのか。それが気になって、普段よりも長く太一の顔を見つめてしまう。


「お」


 その視線の先で、一度だけ合った目が組まれた腕へと下がっていく。それを見て結論に至ったのか、小さな一言と共に表情が柔らかくなっていった。


「その様子だと……」

「はいっ! お付き合いしてますっ」

「そっか。よかったね。僕と柚子も、昨日からずっとそわそわしてたんだよ」


 背もたれに体を預けながら太一が言う。どうやら、アイリスが告白しようとしていることは知っていたらしい。思えば、アイリスのチョコレートは太一と柚子に手伝ってもらったものなので、知っていて当然ではある。


「ちょっとだけ座って待っててもらえる? 僕以上に気になってた人を呼んでくるから」

「分かりました! きちんとこのまま待ってますね!」

「それなら柚子もすぐ分かるだろうね」


 抱き締めた腕を強調するように少しだけ持ち上げ、そう太一に主張するアイリス。そんな姿を見せられた太一はといえば、崩した表情そのままにキッチンへと消えていった。きっと、柚子がそこにいるのだろう。


「何だか、思ったよりもあっさりしてましたね、太一さん」

「太一さんだから、でしょうね。これが柚子さんなら、絶対にこうはなりません」


 アイリスの感想に返事をしながら、太一が消えていった扉を見つめる。その向こうで二人がどんな会話を繰り広げているのかは分からないが、少なくとも柚子の興奮はうなぎ上りになっていることだろう。太一を相手にしたようにはいかないことだけは理解できる。


「まぁ、とりあえずは言われた通りに待ちましょうか」


 数分先の未来がどうなっていようが、それが訪れることには変わりない。ならば、今あれこれ考えても意味はない。そんな意味を込めて呟き、隣にアイリスを伴ったまま椅子に腰かける。


 当然のことだが、宣言通り腕が解かれることはない。並んだ二脚の椅子の間に、隙間など一切なかった。


「もしかしたら、今日一日いろんな人に色々言われ過ぎたからなのかもしれないですね」

「何のことです?」

「さっきの太一さんのことですよ」

「あー……」


 手が離せない作業の途中だったのか、キッチンへと繋がる扉から柚子が姿を現すことはない。


 その扉が開かれるのを待ちつつ、一日を振り返るように口にするアイリスの言いたいことを考えていると、確かにいくらか納得できるところはあった。


「もしかして、紗季達にあれこれ言われてたのが普通じゃなくて、太一さんくらいが普通……?」

「確かに大変でしたからね……」


 二人揃ってため息を吐く。言うまでもなく、思い返すのは碧依達に散々からかわれ、あれやこれやと色々なことを尋ねられた学校でのこと。祝ってくれているのは伝わってきたが、やや手荒い祝福だったことは否めない。


「でも、からかわれてあんなに嬉しかったのは初めてです」

「アイリスさん……。ついにそういうことを考えるように……」

「なんでですか!」


 少しアイリスから距離を取るように体を離した瞬間、抱え込んだ腕を引かれて距離が元に戻った。何なら、戻る時にある程度勢いが付いたおかげで、先程までよりも近くなっているような気すらした。


「そういう意味じゃないですもん!」

「冗談ですって。誰も本気で言ってないですから」


 微かに口を尖らせ、隠すこともなく憤りの感情を表に出すアイリス。感情表現が本当に豊かで見ていて飽きないが、本人からすればあまりよろしくない感情ではあるのだろう。その顔は拗ねたように明後日の方向を向き、わざわざ目まで閉じている。


「あ、でも……」

「え?」


 いたのに、思い出したように切り出すのと同時に、ゆっくりと視線が戻ってくる。そこには、うっすらと潤んだ瞳。


「たまにならですし、葵さんからだけですけど……」


 何かあまりよくないことを言い出しそうな雰囲気があった。何によくないかといえば、それは当然自分の心臓に対してである。


 だが、そこまで分かっていても、アイリスの言葉を止めることはできない。そもそも、前提としてその先が聞いてみたかったのかもしれない。


「優しくからかわれるのも、ちょっと好きかもしれない、です」

「……」

「無言で離れないでくださいって!」

「いや、つい……」

「全部葵さんのことが好きだからに決まってるじゃないですか! ってことは、全部葵さんのせいなんですからね!」


 それはいくら何でも暴論ではないだろうか。あるいは、こんな暴露は流石に恥ずかしくて、どうにか誤魔化したかったのか。


 いずれにせよ、感情が昂っていくのに比例して腕に込められる力も強くなる。今日一日における密着具合の最高記録を更新しそうな勢いだった。


「そこまで言いますか」

「だって、全部葵さんが悪いんですもん。私の初恋を奪っていった責任、ちゃんと取ってもらいますからね?」

「う……」


 やや潤みが増した瞳でそんなことを口にされると、相変わらず自分としてはどうしようもなくなってしまう。


 どんな仕草も、どんな言葉も。とにかくその全てが可愛く見えて仕方ない以上、この辺りのことで自分がアイリスに勝てるような未来など、今後一生訪れないのではないかとすら感じられる。


「じ、自分で言っておいてあれですけど、責任って言っちゃうと、ちょっとあれですね……」

「……アイリスさんは何回も妄想してたんじゃないですか?」

「すぐそうやって!」

「僕がアイリスさんをからかうのだって、反応が可愛くて好きだからですよ。全部アイリスさんのせいです」

「うぁぁ……!」


 なので、今の自分にはこれが精いっぱい。せめてしてやられた分くらいは返そうとしてみたが、どうせ自分の顔も赤くなっていることだろう。これでは引き分けにも持ち込めていない。


「随分雰囲気が変わったわね!」

「っ!?」

「うわぁ!?」


 そうしてお互いに呻き声を上げ合っていると、突然三人目の声がした。誰か、などと考える必要もない。この場に立ち入ることができるのは、アイリスと自分を除けば二人だけ。そのうちの一人は、こんなに弾んだような声を出したりはしない。


 弾かれるように振り返った先にいたのは、当然のことながら柚子だった。


「い、いつから……?」

「どの辺りから聞いて……?」

「アイリスさんが『全部葵さんのせい』って言ってたところからかな? 私が入ってきたことにも気付かずに話してるから、そのまま楽しく聞いちゃった」

「『聞いちゃった』じゃないんですよ……」


 雇い主ではあるが、こんなところで発揮しなくていい茶目っ気を発揮してくれた柚子にため息が漏れる。気付かなかった自分達も自分達だが。


「何だか可愛い会話をしてたから、思わず聞き入っちゃったってのもあるけど」

「ぐ……」

「うぅ……!」

「そうやって恥ずかしがって葵君の腕で顔を隠してるアイリスさん、最高に可愛いと思わない?」

「……可愛いですけど」

「葵さんまで乗らなくていいんですよぉ!」


 その一言を呟いた途端、さらに額が押し付けられる。照れ隠しにしても、もう少しましな方法があるはずだ。これでは、柚子が楽しむ材料を提供しているようなものである。


「もぉー……。柚子さんは何がしたかったんですかぁ……」

「ごめんなさいね? 多分上手くいってるだろうから、気付かれないように入って様子を見てみようと思ってたの」

「わざとだぁ……」


 気付くはずがなかった。気付かれないようにと意識して背後の扉から入ってくる人間など、常人では察知できない。


 そんな事実を明かしながら正面に回り込んだ柚子が、空いていた椅子にそっと腰を下ろした。


「で、上手くいったのね?」

「は、はいっ。太一さんと柚子さんが手伝ってくれたおかげです!」

「そう! じゃあ、まずはおめでとうね!」


 にやにやからにこにこへ。笑みの質を正反対のものへと反転させた柚子が、一切混じり気のない祝福を口にする。これまでの流れがあったせいか、その純粋さがより際立っているようにも思えた。


「ありがとうございます!」

「ありがとうございます」


 対する返事は二つ。どちらもまだ恥ずかしさを滲ませたものだったが、片方は元気よく、もう片方はやや穏やかに。込められた気持ちは同じでも、表現の仕方は千差万別だった。


「うんうん、息もぴったり。なるべくしてそうなった二人って感じね」

「そ、そうですか……? えへへ……!」

「そう言われると照れますけど……」

「入ってきた私に気付かないくらい、お互い相手のことしか見てなかったものね!」

「まだ言いますか」

「葵さんのことだけを見てます!」

「開き直らないでください」

「今はそれでもいいけど、お店の中ではちゃんとお客さんを見てね?」

「あ……、はーい……」


 恥ずかしさが振りきれてしまったのか、勢いよくそう宣言したアイリスだったが、即座に窘められていた。接客業なので、その辺りは仕方がない。そう思っておかないと、自分もアイリスの姿ばかりを目で追ってしまいそうだった。


「それにしても、そんな様子だと、お客さんにもすぐばれそうね」

「ばれたっていいんですよ! 葵さんの可愛さを狙ってる人だっていそうなんですから、ちゃんと牽制しておかないと!」

「そんな複雑な牽制のされ方ってあります?」

「毎月のあれの効果ね」

「効果じゃなくて、影響って言うんだと思うんです」


 外に向けたいい面など、どこにも見当たらない。強いて言うならば、着ればアイリスが喜んでくれることくらいか。それにしても、自分の気持ちとしては複雑なことに変わりはないが。


「あ、でも、葵さんの彼女さんは私なんだぞって思ったら、むしろ気持ちは穏やかになるかもしれないです」

「すぐこういうことを言うの? 大変そうね、葵君」

「……慣れそうにないです」


 からかっているのか本気で言っているのか分かりにくい柚子の一言だったが、どうやら本気の割合が多めのようだった。何となくだが、目がそれらしい色をしている。


「葵さんだって、似たようなことを言うじゃないですか。その度に私が大変なことになるんですから」

「じゃあ控えましょうか」

「やです。もっと言ってください」

「そういうところが可愛いんですよ」

「い、今じゃないっ、ですっ!」

「どっちもどっちね」


 腕を抱え込んだまま、器用にわたわたと慌て始めるアイリス。慌てているけれども嬉しさはあるという、これまでに見たことのない表情を浮かべている。これだけ同じ時間を過ごしていても、まだ新しい表情を見せてくれることが嬉しかった。


 あるいは、関係や自分の心持ちが変わったからこそ気付けた表情だったのかもしれないが。


「さて、ほんとはもっと時間をかけて色々聞きたいんだけど、そろそろお客さんが増えてくる頃なのよね」


 そう言って、柚子が壁にかかった時計に目を向ける。釣られて目を向ければ、確かに部活帰り、仕事終わりの客が増えてくる時間帯だった。


「お店を閉めた後じゃ、遅くなり過ぎちゃうのよね。ってことで、これからしばらく、時間をかけてちょっとずつ聞き出すことにするわ」

「それはそれで……」

「ちょっとした緊張がずっと続くと言うか……」

「私の前で付き合い始めたからには、そう簡単には逃さないわよ」

「……」

「……」


 自信たっぷりに言いきる柚子。言っていることの半分も理解できない発言だったが、とりあえず逃がしてもらえないことだけは伝わってきた。


「そんなわけで、二人共そろそろ着替えてきてね」

「嫌な送り出され方ですね」

「え? じゃあ、もっと聞いていいのかしら?」

「着替えてきます。アイリスさん、行きましょう」

「ですね。逃げられる時は逃げましょう」

「あら。ひどい言われよう」


 言いながら苦笑いを浮かべる柚子だったが、そう言われても仕方がないことを言った自覚はあるのだろう。咎めるような雰囲気はどこにもない。


「葵さんから離れるのも久々ですね」

「迂闊にそういうことを言うと、柚子さんの勢いが増すことになりますよ」

「あ……」

「燃料を貰っちゃった?」

「わ、忘れてもらえると……」

「無理ね」

「……。……あは!」

「可愛いですけど、誤魔化せませんからね」


 アイリスが全力の笑顔を向けてくるが、残念ながら結果は何も変わっていない。柚子の聞きたいことリストが一つ増えてしまった瞬間だった。


 果たして、柚子が落ち着きを取り戻すのはいつになるのか。あれこれと話しているうちにさらなる燃料を追加してしまいそうなことを考えると、少なくとも数日はこのままのような気がした。




 二月十七日、土曜日。アイリスとの関係が大きく変わってから初めて迎えた週末。あらかじめ約束していたように、今日はアーロンとレティシアに話をすることになっている。


 ということで、現在地はアイリスの家の前。歩いてくる間はインターホンを鳴らすか迷っていたものの、ほんの少し前に部屋の窓から外を眺めていたアイリスと目が合った時点で、その迷いは消えた。


「おはようございます!」


 そうして少しの間待っていると、予想した通り玄関の扉が向こうから開かれた。まだ多少の距離があるというのに、その明るい声はここまではっきりと届いてくる。


 そのまま軽く走るようにして、玄関から門まで近付いてくるアイリス。微かに吹いた風になびく菜の花色の髪が、曇り空の下でもきらきらと輝きを放っていた。


「おはようございます。相変わらず見てたんですね」

「そろそろかなって思って。あと、流石に今日はお父さんとお母さんには任せられません」

「いい加減二人の対応にも慣れてきましたけど」


 アイリスが開けてくれた門を通り抜け、玄関まで向かいながらそう言葉を交わす。これまで何度も訪ねてきたが、大半は部屋にいるアイリスと目が合って、インターホンを鳴らすことなく招き入れられる。


 今となってはその行動にもある意味が隠されていたことに気付いているが、過去の自分は何も理解していなかった。そもそも考えようともしていなかったことは、今更ながらに反省していることでもある。


「まぁ、ずっとそわそわしてて落ち着かなかったっていうのが、一番の理由なんですけどね」

「その辺は同じですね。僕は昨日の夜から落ち着きませんでした」

「葵さんもですか? じゃあお揃いですね!」


 そんなお揃いですら嬉しいのか、その表情がふわりと和らぐ。


「小さい頃の遠足前でも、こんなことにはならなかったんですけどね」

「ってことは、少なくとも遠足には勝てたってことですか」

「今の僕にとって、アイリスさんが勝てないことの方が見つからないです」

「またそうやって私を喜ばせることを……。……あ、どうぞ」

「ありがとうございます」


 和らいだものからどこか複雑なものへと表情を変えたアイリスと共に、玄関へと入る。その途端、暖かな空気が頬を撫でた。


「私にそういうことを言ってくれるのはいいですけど、お父さんとお母さんの前では気を付けてくださいね。何を言われるか分からないですよ?」

「……気を付けます。うっかり漏れるかもしれないですけど」


 リビングにいるであろうアーロンとレティシアに聞こえないよう配慮しているのか、外で話している時よりも僅かに声のボリュームが落ちている。自分もそれに倣って同じようにするも、その中身の保証はできなかった。


「だ、大丈夫、ですっ……! その時は一緒に恥ずかしい思いをしましょう……!」

「それはそれでちょっと違うような気もします」

「いいんですよ、私は。葵さんと一緒なら何でも」

「……」


 アーロンとレティシアの二人との間を隔てる最後の扉を前にして、小さくぽそりと呟くアイリス。声は今日一番小さなものではあったが、その破壊力は間違いなく一番大きい。顔が熱くなるのは必然だった。


「顔、赤いですよ?」

「誰のせいだと……」

「知らないですっ」


 そう言いきって悪戯っぽく笑う様子に、また一段と顔が熱くなる。こんな姿を二人に見せたらどうなるかなど、わざわざ考えるまでもなく、そして考えたくない。


「じゃあ、そろそろいきますよ?」


 それなのに、アイリスは待ってくれない。顔の赤みが一切引かない自分の前で、リビングの扉をゆっくりと開け放つ。


「お父さーん、お母さーん。二人が大好きな葵さんが来たよー」

「言い方ですよ」

「だって本当のことですもん」

「本当のことだね」

「本当のことね」


 案の定、最後の扉だった。最早慣れ親しんでしまったリビングの光景の中に、当たり前のように口にする二人がいた。


「いらっしゃい。葵君の方から遊びに来てくれるなんて珍しいね?」

「さては、何かあったのかしら?」

「そう、ですね。ちょっと色々ありまして」

「やたらと顔が赤いのは関係あるかな?」

「可愛いわね」

「う……」


 相変わらずと言うか何と言うか、僅かな隙も見逃してはくれない。言われていること自体はいつも通りのことではあったが、それでも妙に恥ずかしく感じてしまうのは、この後に待ち構えているイベントが影響しているのか。


「でしょ! 葵さんは可愛いんだから!」

「乗らなくていいんですって。せめてアイリスさんは味方でいてください」

「うん?」

「んー?」


 この二人にして、このアイリスあり。誰よりも強くその一言を主張する姿は、やたらと生き生きしたものだった。


「で、そんな可愛い葵君」

「その修飾は必要でした?」

「さっきも言ってたけど、何かあったんだろう?」

「早く聞きたいわね?」

「……何かにやにやしてるけど、お父さんもお母さんも何か気付いてない?」

「さぁ? 何のことかな?」

「バレンタインの日に帰ってきてからずっと機嫌がいいのなんて、私達は気付いてないわよ?」

「気付いてる!」


 決定的な一言だった。わざわざ日付まで指定したレティシアの一言に、アイリスが目に見えて慌て出す。


 そして、それは自分も同じ。これから話そうとしていることに思い至っている姿を見せられて、平静を保っていられるはずがない。


「どっ、どうしましょう……! 葵さん……!」

「どうするも何も、正直に話すしか……」

「そうね。そうしてくれると、私達も助かるわ」

「何でお母さんが言うの!」


 視線を彷徨わせてから、自分に向いた瞳。助けを求めていることは一目瞭然だったが、生憎自分もそこまで余裕はない。できることといえば、曖昧な言葉を返すことだけだった。


「ほらほら。いつまでもそんなところに立ってないで、そろそろこっちに来たらどうだい?」

「何を話してくれるにしても、とりあえず座ってもらわないとね?」


 そう言ってソファを叩くアーロン。そこは、遊びに来た時にいつも座っている場所で。当然、二人が並んで座るだけのスペースがある、そんな場所。


「……とりあえず座りましょうか」

「……もう恥ずかしいんですけど」


 促されるままに、いつもの場所へと向かう。自分の家ではないのにそう呼べる場所があることを不思議に思いつつ、気持ちゆっくりと腰を下ろす。


 二人分の重さを受け止めたソファが、柔らかくその形を変えた。


「……」

「……」

「どう切り出せばいいか迷ってる」

「あと、タイミングも」


 そこまではよかったものの、いざ話すという段階になると、どうしても言葉が出てこない。碧依達や太一、柚子に話すのとは訳が違う。アイリスの、付き合っている相手の両親に報告するのだから、慎重にならざるを得ない。


 この二人なら大丈夫だと囁く声も心の片隅にはあったが、流石にその声を無条件で受け入れることはできなかった。


「葵さん……」


 きっと似たようなことを考えているのだろう。小さく自分の名前を呼ぶアイリスの声は、気を付けて聞かなければ分からない程ではあるが、微かに震えを含んでいる。


「僕から言います」

「あ……。……はい」


 だからこそ、その一言を告げる。少しでも安心してもらえるように。


 似たようなことを考えているとは思っているが、決定的に違う点もあるはずだ。それは、今のアイリスの様子を見ればよく分かる。


 これまで色々な人に報告してきた時は嬉しさを爆発させるかのような姿だったのに、今は借りてきた猫のように大人しい。やはり、自身の親に伝えるのは特別なことらしい。


「えっと……」

「……」

「……」


 今度はアーロンとレティシアが黙る番。自分が口にする言葉を聞き漏らさないようにしているのか、その表情は穏やかながらも真剣さが窺えるものだった。


 そんな二人を見た瞬間、やっと揺らいでいた心が固まった。うっすらとではあるが、楽しみにしている色も窺えたからだ。


「……これはアイリスさんにも言ったんですけど」

「うん、何だい?」

「喜べるようなことを言ってもらえると嬉しいわね?」


 やっと切り出した自分を、そっとその先に促してくれる。そんな優しい二人だからこそ、話すのに慎重になってしまったのかもしれなかった。


「僕は言葉を飾るのが苦手なので、はっきり言いますね」


 そう前置きして、最後の、そして最初の言葉を告げる。


「アイリスさんとお付き合いをさせてもらっています。僕は、他の誰よりもアイリスさんのことが好きです」

「うぁ……!」

「……」

「……」


 その言葉に対する反応は二つ。


 一つは、少しだけ、だが確実に照れている隣のアイリスのもの。


 もう一つは、溜め込んでいたものを全て吐き出すような、そんな深い息を吐き出すアーロンとレティシアのもの。


 どちらもそう長くは続かない反応で、リビングには一瞬の静寂が訪れる。大丈夫だとは思いたいが、絶対とは言いきれない、もどかしい時間。


 それを打ち破ったのは、当然アーロンとレティシアだった。


「そうか……」

「うん……」


 神妙な面持ちでそれぞれが一度だけ頷く。それが意味するものは、果たして。


「葵君」

「は、はい」


 話しかけてきたアーロンの声は、これまでで一番真剣なもので。返事をしながら無意識に背筋が伸びる。


 そうして僅かな間を空けてから届けられた言葉は。


「これからは『お父さん』で」

「あ、私は『お母さん』ね」

「早い!」

「……」


 いつもの二人だった。アイリスも含めれば三人。


「まだそういうことを言ってるんじゃないでしょ!?」

「いや、どうせいつかそうなるだろう?」

「それとも何? そこまでは考えてないって?」

「そうなりたいし! 何回も考えたけど!」

「う……」


 これまでの静寂が嘘のように賑やかなリビング。あんなに心配していた自分が馬鹿らしくなる程の明るさだった。


 ある二文字を意識させられた今、そこを気にしている場合ではなかったが。


「ほら。じゃあ『お父さん』で間違ってない」

「そうね。私も『お母さん』じゃない」

「そうだけど! 絶対に言われるって思ってたけど! こんなにすぐ言い始めるなんて思ってなかったの!」

「『善は急げ』って言うからね」

「日本の諺だけど、考え方は万国共通よね」

「もぉー!」


 感情を露わにするアイリスの動きで、ソファのクッションが一度だけ揺れる。軽く跳ねるようなその動きは、落ち着いているアーロンとレティシアとは実に対照的だった。


「もうちょっとこう……! 何かあるでしょ! 娘の彼氏さんに対して!」

「不束な娘だけど、どうかよろしくお願いします」

「賑やかで楽しい娘だから、退屈することはないと思うわ」

「はぁ……?」

「それも違うって!」


 何かがずれた言葉を口にするアーロンとレティシア。思わず声を漏らしてしまったが、それは一つ上の段階で言われることではないだろうか。


 そう思いはしたが、わざわざそんなことを口に出せるはずもなく。今はただ、レティシアの言葉通りに賑やかなアイリスを眺めながら、今日一日大変なことになりそうだと、そう考えるだけだった。

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