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102. 夢のような現実 (2)

「さて。揃ったね」

「楽しい時間の始まりですね、渡井先輩」

「頑張ってね、湊君」

「……まぁ、何だかんだ、その辺の覚悟はしてきたつもりです」


 昼休みに入ってすぐ。四限の授業が終わってから二年生の教室に来るまでの時間が、これまでで一番短かったのではないかと思う早さでアイリスがやって来た。案の定、紗季と純奈の二人も一緒である。


「凄かったんですよ、アイリスさん。四限が終わるちょっと前くらいからそわそわしてて」

「み、見られてた……? あはは……」

「もう隠す必要もないもんね。授業は大丈夫だった? 葵君のことばっかり考えてたりしない?」

「ちょっとだけ……」

「ほんとにちょっと?」

「……結構」

「だよね。知ってた」


 しっかりと見透かされているのが流石に恥ずかしかったのか、アイリスの目が碧依から逸らされる。その先にいたのは莉花。何となくではあるが、アイリスの災難はまだ続きそうな予感がした。


「そんなことばっかり考えてたら、いつか成績が落ちちゃうぞ?」

「うっ……!」

「あ、でも大丈夫か。教えてくれる相手がいるもんね」

「……っ!」


 予想通り、莉花からもからかわれるアイリス。その言葉を受けて、俯き気味のまま目がそっとこちらを向いた。


「頼りになるところを見せないとね?」

「羽崎君までそんなことを言いますか」

「楽しいから」

「……」


 やはりよくない方向に染まってきている気がする。それでも何も言えないのは、そんな方向に染まった原因が自分にもあるから。言ってしまえば、身から出た錆だった。


「で、でも……! 葵さんには迷惑をかけたくないですし、自分でも何とか頑張ってみます……!」

「おう。やたらと健気になったな?」

「こんなことを言ってるけど、葵君的にはどう? 可愛い?」

「……頑張るのはいいことじゃないですか?」

「答えが違わない?」

「……」

「ねぇ、葵君」

「……可愛い、です」

「ひぁ!?」


 最早誘導尋問と何も変わらない碧依の言葉。それに乗ってしまうのもどうかと思ったが、実際可愛かったのでどうしようもない。どことなく自分の性格が崩れているように思えなくもないが。


「あー! もうお腹いっぱいだなぁ! 今日のお昼はもういらないかもなぁ!」

「アイリスは何となく分かってましたけど、湊先輩までこうなっちゃうんですね」

「ね。ちょっと想像できなかったかも……」

「改めてそういう風に言われると恥ずかしいので、程々にしておいてもらえると助かります」


 放っておくと、こんな形で後輩組にすらからかわれる始末。いくら覚悟してきたとはいえ、どんなものにも限度はある。今回の場合は、いつか羞恥の限度を突き抜けてしまいそうだった。


「まぁ、お昼は食べてるんだけど、それはそれとしてさ。私達って、まだ決定的な報告を聞いてないんだよね」

「どう考えても今更だし、私は聞いたけどね」

「二人を見てたら分かるよね」


 自分の中で確認したことがない上限を探っていると、二年生組が一斉に目を向けてきた。朝の続きといったところだろうか。


「え? まだ聞いてないんですか?」

「私達はもう聞いちゃいましたけど……」


 そんな二年生組とは反対に、紗季と純奈は既にアイリスから話を聞いているらしい。意外そうな目で三人を眺めている。


「湊君が昼休みに話すって言ったから」

「あの時はアイリスさんも揃ってから話したかったのかなって思ったけど、ほんとは葵君が落ち着きたかっただけなんじゃないかな?」

「……どうして」

「朝のアイリスさん、可愛かったもんね?」

「そこまで分かってるんだったら、わざわざ口にしなくていいです」

「照れてる葵君も可愛いね」

「そうですよ! 葵さんは可愛いんです!」

「変なところで参戦しないでください」


 味方のはずだったアイリスが、いつの間にか敵に回りかけていた。解せない。


「ほらほら、そういうのはいいから。お望み通り二人揃ったぞ?」

「僕も聞きたいな?」

「……」


 まだ直接的な言葉を聞いていない少数派となった悠と莉花が、そんな言葉で促してくる。元々言うつもりではあったが、これ以上先延ばしにすることは許してもらえない空気が漂っていた。


「……アイリスさんと付き合うことになりました」

「なりました!」

「はーい、今更」

「やっとかって感じだよね」


 散々促してきたのに、返事はやたら軽いもの。一瞬だけ覚悟を決める時間があったのに、それすら無駄だったと思えてしまう程の返事だった。


「と言うか、正直な話、もうとっくにそうなってると思ってた」

「やっぱり莉花もそう思う?」

「それはそうでしょ。普段からあれだけ距離が近いんだからさ」

「湊君、気付いてたのか分からないけど、フリーゼさんのことを話してる時が、一番表情が柔らかいからね?」

「それは羽崎君達がからかってくるせいで、普段は険しい顔ばっかり見せてるだけだと思いますけど……」

「知らないなぁ?」

「……」


 本当に悪い方向に染まってしまった。こんなに悪戯っぽく笑う悠など、これまでほとんど見たことがない。


「いやぁ……、改めて聞くと……」

「よかったね、アイリスさん」

「頑張ったからねっ!」

「まぁ、告白は先を越されたわけだけど」

「ほんとのことを言うと、葵さんから言われたいって思ってたから、それでいいもん」

「なるほど。そういう妄想をしてたってことね」

「し、してないけど?」

「隠し事の心配はなさそうですね」

「なんで葵さんの方を見て言うの?」

「最初からできるとは思ってないですよ」

「葵さんまでそういうことを!」


 抗議の意味を込めているのか、左腕を掴んで揺さぶってくるアイリス。そんな仕草の割には、その表情に怒りの感情は浮かんでいない。ほとんどただのじゃれ合いのようなものだった。


「……付き合い始めたのに、様子がこれまでと何も変わってない」

「そう? 葵君は何となく雰囲気が違うなって気がするけど」

「いや、あれも大体あんな感じだったでしょ」

「そうかなぁ……?」


 いい加減箸を持ちたいのでアイリスをどう止めるか考えていると、いつの間にか碧依と莉花に「あれ」扱いされていた。視界の端で見えた程度だが、何やら顎で指し示されていたような気がする。


 そんな碧依と莉花を意識したところで、突然頭に浮かぶ言葉があった。どんなタイミングで言うべき言葉なのか迷っていたが、今なら言えるのかもしれない。


「そういえば、碧依さんと渡井さんに言っておくことがあるんでした」

「うん?」

「告白なら受け付けてないぞ」

「誰がしますか」

「おう、どういう意味だ。吐け」

「そのままの意味以外ないですよ」


 そう思って切り出したのに、いつもの流れで話が逸れていく。この辺りは、誰に何があろうと変わることのない関係だった。


「彼女がいるからって余裕ぶって……」

「それは何を言ってるのか分からないですけど。まあでも、その辺のことです」

「その辺? 何かあったっけ?」

「えぇ。はっきり言っておいた方がいいかと思って」

「んー?」


 碧依と揃って不思議そうな目でこちらを見つめる莉花。何を言われるのか皆目見当が付いていないらしい二人に、つい先程思い出したとある言葉を告げる。


「アイリスさんは僕のですから。渡しませんよ」

「ほぁ!?」

「え……」

「お……?」


 昨日、アイリスからリクエストがあったその言葉。ある意味牽制のようにも使える一言は、ことあるごとにアイリスを手中に収めようとする二人に言っておくのがぴったりだろう。


 それなのに、伝えた二人の反応は薄く、何故かリクエストしたはずのアイリスの反応が一番大きかった。


「……」

「……」

「……」

「あぅ……」


 自分、碧依、そして莉花。その一言は、三人分の沈黙を生み出しただけでは飽き足らず、悠、紗季、純奈の三人までをも沈黙させていた。ただ一人、アイリスが照れたように小さな声を漏らしている。


「僕の……、ですから……」

「どうしてもう一回言った?」

「そんなに恥ずかしいなら言わなくていいのに」


 時が止まったような沈黙に、ようやく自分が口にした言葉の恥ずかしさを理解する。昨日も今も、何だかんだ気分が高揚していて気付けなかったのかもしれない。


 そんな恥ずかしさを誤魔化すようにもう一度口にするも、上手く言葉が出てくるはずがなかった。


「何? いきなりどうした?」

「いくら何でも性格が変わり過ぎだよ? いつもの葵君はどこに行ったの?」

「そこまで言わなくても……」

「言うだろ」

「言うよ」

「……」


 言われて当然だった。


「湊君、何かあった?」

「大丈夫ですか? アイリスに何か弱みでも握られてませんか?」

「あの、力になれるか分かりませんけど、相談に乗るくらいならできますから」


 黙って聞いていた三人からの言葉が痛い。純粋に心配してくれている分、特に。


「多分だけど、アイリスが何かお願いしたんだよね?」

「したけど、こんな風に言ってもらえるなんて思ってなかったぁ……!」

「喜んでる場合じゃないでしょうが。頬に手を当てて笑わない」

「む、むり……!」

「……」

「あんなに蕩けちゃったアイリスさん、久しぶりに見たかも」

「妄想してる時は大体あんな感じじゃない?」

「……確かにそうかも」


 どうにか恥ずかしさをやり過ごそうとする中、紗季と純奈がアイリスになかなかの評価を下していた。ただし、アイリスがそれを気にする様子はない。ただただ両手で緩む頬を押さえるだけだった。


「で、アイリスは何をお願いしたの」

「『アイリスさんは僕のです』って言ってほしいって!」

「そのままか。直接にも程があるって」

「いつか言われてみたかったんだぁ……!」

「湊先輩が支払ったものは大きいけどね」

「もうそれ以上は何も言わないでもらえると助かります……」

「大丈夫ですよ! 私はちゃんと葵さんのですから!」

「あぁ……!」

「傷口を抉ったね。流石アイリス」

「あれ!?」


 誰よりも味方であってほしかったアイリスにとどめを刺され、両手で顔を覆う羽目になる。隣にはおろおろと慌てるアイリスの姿があったはずだが、それを眺める余裕はどこにもありはしなかった。




「何か疲れてない?」

「お昼を食べてるのにね」

「皆さんのせいですからね?」

「一番の理由は自分の言葉でしょ」

「そうとも、言いますけど……」


 昼休みも残り十分程となった頃。いつもならアイリス達が一年生の教室に戻ろうとする頃合いだが、今日はそんな気配がどこにもない。


「もっと言っておくと、これだけで終わると思わないでもらいたい」

「私達の興味は尽きてないよ」

「……」


 昼「休み」なのに何故か疲労感が増したような気がする中、碧依と莉花から聞きたくなかった言葉が告げられた。これまでも散々根掘り葉掘り聞かれたのに、これ以上何を聞くつもりなのだろうか。二人の底が知れない。


「何が聞きたいですかっ? 出会ったところからお話ししましょうか!?」

「知ってるから。湊君から聞いたし。何でアイリスさんはそんなに積極的なの」

「ごめんなさい。うちのアイリス、今朝からずっとこんな感じなんです」

「紗季のじゃないもん。葵さんのだもん」

「はいはい。分かったから」

「溜まりに溜まったものが爆発してる感じか」

「ですね。嬉しくて仕方ないんだと思います」


 そう言って莉花と紗季が目を向けた先で、アイリスがにこにこしたまま質問を待っていた。紗季の言葉通り、嬉しそうな雰囲気を辺り一帯に振り撒いている。質問攻めに遭うのは複雑な気分だが、この表情を見られたのなら十分にお釣りが来る。まさにそんな表情だった。


「葵君とアイリスさんで反応が違い過ぎるのもいいよね。一粒で二度美味しい、みたいな」

「照れる湊先輩と喜ぶアイリスさんで、綺麗にバランスが取れてますもんね」

「やっぱり湊君でもこうなっちゃうんだ」

「……好き勝手言ってくれますね」


 放っておけばすぐにこんな流れになる。それだけ興味関心を抱いてくれていることの証なのだろうが、当事者としてはもう少し穏やかな昼休みを過ごしたかった。最早叶わぬ願いとなってしまったが。


「で、アイリスさんがそこまで言ってくれるんだったら、聞いてみたいことがあったんだよね」

「何です? 今の私の口は止まりませんよ?」

「自慢げに言うことじゃないです。止めるものは止めてくださいよ」

「ストッパーは葵さんにお任せです!」

「頼られ方が違う気がするんですよね……」


 満面の笑みでそう言われても、困惑してしまうことには変わりない。確かに頼られているとも考えることはできるが、あまり望んでいた形ではないことも確かである。結局、複雑な気分から感情が振れることはない。


「そうやってすぐ二人だけで話し始めるんだから。ちょっとは私達も混ぜてって」

「言っても、前から割とこうだった気がするけどね。葵君とアイリスさん」


 ただただ会話を交わしているだけでそんな評価を下される。喜んでいいのかそうでないのか、あまりはっきりしないところだった。


 だったが、とりあえず付き合い始める前から仲が良さそうに見えたと解釈しておくことにする。


「それで? 莉花が聞きたかったことって何?」

「あぁ、それなんだけど」


 話を本筋に戻そうとする碧依の言葉を受けて、ようやく莉花が本題を口にする。昼休みも残り少ないのに、相変わらず逸れてばかりの会話だった。


「湊君さ、何であんなに分かりやすかったのに気付かなかったわけ?」

「僕に聞いてるじゃないですか」

「あ、それ私も聞きたいです。どうして何にも気付いてくれなかったんですか?」

「アイリスさん本人が聞くんだ……」

「もし効いてなかったとしたら、これからの甘え方を考えないといけないので!」

「前向きが過ぎる」

「えへへ……」

「褒めてないよ。葵君、この子どうにかして」


 助けを求めるような目を向けてくる碧依だったが、残念ながら、こうなったアイリスは止まらない。諦めて自然に落ち着くのを待つのが吉だ。


「しばらくしたら戻りますよ」

「長年連れ添った夫婦みたいなことを言うね?」

「迂闊にそういうことを言うと、元に戻るまでの時間が長くなるんですよ」

「夫婦……!」

「あ……」


 しまったという言葉が聞こえてきそうな表情を碧依が見せるが、時すでに遅し。その耳で夫婦という言葉をしっかり捉えたアイリスが、両手で頬を押さえて首を小さく横に振る。その度にシャンプーの甘い香りがして、どうにも心が落ち着かなかった。


「……渡井さんの聞きたかったことですけど」

「自分の彼女を見なかったことにしてない? それでいいなら何も言わないけど」

「もうしばらくは幸せな妄想をしていてもらおうかと」

「それは優しさなのか……?」


 そう言って疑問符を浮かべる莉花だったが、そこを気にしているといつまで経っても話が進まない。そんな訳で、何も聞かなかったことにした。見ざる、聞かざる。


「少し前まで、色々あって恋愛事は自分に関係ないものだと考えてましたから。そんな感情を向けられるなんて、思ってもいなかったです」

「あ、今誤魔化したね。葵君の『色々』って、何かを誤魔化す時の口癖だったよね?」

「誤魔化したと言うか、そう簡単に話せないだけです」

「へぇ。アイリスさんは知ってるの?」

「えぇ。全部話しました。アイリスさんのご両親にもですけど」

「あ、そっか。魔窟……」

「誰の家が魔窟ですか」

「あ、帰ってきた」


 碧依が思わずといった様子で零した一言に、アイリスがすかさず反応する。意外と周囲の声を聞いていたらしい。


「これからは葵さんの家にもなるんですから」

「何それ、妄想の話?」

「アイリス。現実と妄想はごっちゃにしちゃだめだよ?」

「流石に住みませんよ?」

「葵さんまで!」


 三者三様の全否定を受けながら、それでもまだ引き下がらない。何がアイリスをそこまで突き動かすのか。相変わらずその原動力が謎だった。


「もう気兼ねなく泊まっていけますねってことですもん」

「あー……。そういう……」


 少しだけ拗ねたような表情で告げられた真意は、言われてみればそんなこともできると考えてしまうようなもの。流石のアイリスも、まだ同棲というところまでは至っていなかった。


「あ、でも、確かにずっとでも……?」


 それなのに、莉花や紗季の言葉に感化されたように、アイリスの目付きが変わる。そこにあったのは、うっすらとした本気が窺える瑠璃色。放っておけば、いつの間にかとんとん拍子で話が進んでいきそうな予感がした。


「どうしてちょっと揺らいでるんですか」

「葵君も何でちょっと納得しかけてたの?」

「大分ハードルが下がっちゃったんだね」

「あ……」


 そうしてアイリスに意識を奪われていたことで、自分が迂闊なことを口走ったことに気付けなかった。それこそ、悠や碧依に指摘されて初めて気付く始末。やはりと言うか何と言うか、あの冬休みが大分効いているのかもしれない。


「アイリスさんも凄いことになってるけど、葵君も案外そうなっちゃうんだ」

「……何も聞かなかったことにしてください」

「無理だね」

「とりあえずは今週末でどうでしょうかっ!」

「話が早ければいいってものじゃないです」

「えー?」


 残念そうに声を漏らすアイリス。その様子を見るに、「とりあえず」と言う割には本気で話を進めようとしていたらしい。どこまでも一歩先を行くアイリスなのだった。




「えへー」

「……」


 予想通り色々と慌ただしかった学校での時間を終え、アイリスと二人並んで帰りの電車の車窓を眺める。この辺りは、これまでと何も変わらない流れだった。


「そんなに楽しいですか?」

「楽しいは楽しいですけど、どっちかって言うと幸せですっ」

「……だったらいいんですけど」


 ただし、その距離ははっきりと変わってしまった。朝からことあるごとにそうしているように、今も例に漏れず左腕にアイリスが抱き付いている。どれだけ経とうが慣れることのない感覚に、どうしても鼓動が高鳴っていく。


 それでも、言葉通りに幸せそうな笑みを浮かべられてしまえば、自分としては受け入れる以外の選択肢は存在しない。


「ずーっとこうしたかったんですから。満足するまでやめてあげませんもん」

「可愛い口調で怖いことを言わないでくださいよ。いつ満足するんですか」

「ずっとしないかもしれないです。今だって、『もっと』って思ってます!」

「僕の心臓が大変なことになりますよ。それでもいいんですか?」

「葵さんはそのままでいてくださいね? 照れてる葵さんも大好きです」

「そうやって言えば許してもらえると?」

「……。……あは」


 一度目を逸らしてからの、そんな小さな笑い。何を思っていたのかなど、考えるまでもなかった。


「……程々にしてくださいよ」

「分かりました! 私基準で程々にしますね!」

「いや、だから……。ああもう、何でもないです」

「やっぱり可愛いですよぉ……、葵さん……!」


 考えるまでもないが、だからと言って拒否できるはずもなく。一応の抵抗も、さらに抱き付く力が増したことで無に帰した。この手のやり取りで、アイリスに勝てる気配が微塵も感じられない。


 もちろん、我ながら随分と甘いとは思っている。けれども、アイリスにこんな姿を見せられて、今の自分がそれをどうこうできるとは到底思えない。結局は両想いだった訳だが、この辺りは惚れた弱みというものだった。


「碧依さんに変わったって言われても仕方ないですね」

「私にとっては嬉しい変わり方なので、一切文句はないです」

「アイリスさんの変わり方は僕の心臓に悪いです」

「したいことはまだまだたくさんあるんですよ? 葵さんとじゃないと嫌なんですから、頑張ってくださいね?」

「……」


 そう言って、柔らかく微笑むアイリス。口にした内容は戦くべきものなのに、その表情を見ていると、負の感情は全く浮かんでこないのだから不思議なものである。


「そんなわけで、まずはこの後太一さんと柚子さんに報告ですね」

「思ったより現実的なことで驚いてます」

「たくさん甘えるのは、これからいつでもできますもん」

「……程々で」

「私が程々で我慢できたら、ですね」

「できるんですか?」

「できると思います?」


 見上げてくる瑠璃色の瞳は、とても純粋なものだった。それこそ、見ているだけで答えが理解できてしまう程に。


「……何でしょうね。こんなアイリスさんも可愛いって思うんですから、僕も我慢できてないのかもしれませんね」

「うぁ……!?」


 アイリスを抑えるのを諦めてそう素直に口にした途端、小さな呻き声と共にその顔が俯いた。と言うより、腕に押し付けられたと言った方が正しい。これまた分かりやすく照れてくれている。


「葵さんのそういうところは私の心臓に悪いんですよ……」

「少しは僕の気持ちも分かりました?」

「分かりましたけど、これはこれで嬉しいのでやめてほしくないです……!」


 思っていた反応と違う。これで多少は譲歩してくれるのではないかと期待していたが、やはり一歩先を行くアイリスは流石である。


「やっぱり好きですぅ……!」

「っ!」


 どこか熱の籠った声。心の底から呟くようにして告げられた言葉は、他のどんな言葉よりも自然に自分の心に入り込んでくる。口にした分だけ想いが薄れるなどということもなく、ひたすらに熱い一言。


「はぁ……」

「えへー」


 いくらか時間を巻き戻したかのような、緩みきったアイリスの笑み。ただし、少し前と違うのは、その頬が幾分か赤みを増しているところだった。




「あ、そういえば」

「どうかしました?」


 もう少しで最寄り駅に着くというタイミングで、しばらく黙って腕を抱き締めていたアイリスがそう切り出した。どうやら何かを思い出したらしい。


「今週の土日なんですけど、葵さんって何か予定があったりします?」

「土日ですか? 確か、何も入れてなかったはずですよ」


 そんなアイリスの問いに、頭の中で日付を思い浮かべながら返事をする。空いていることを口にした後に念のためもう一度確認したが、やはり何の予定も入っていない。二日とも綺麗に予定が空いていた。


「何かありました?」

「えっとですね……。それなら、お願いしたいことがあるんですけど……」


 これまでの勢いとは違って、やや控えめに言うアイリス。無意識なのだろうが、若干の上目遣いは卑怯と言ってもいい。この時点で断る選択肢はほとんど消えてしまっている。


「お父さんとお母さんに伝えようかと思って」

「あぁ」

「できたら、葵さんも一緒にいてほしいなって。だめですか?」


 そう口にして、窺うような目を向けてくる。普段は強気に押してくるのに、妙なところで踏み込んでこないことがあるのがアイリスだった。


「大丈夫ですよ。むしろ、僕もいるべきなんじゃないかと」


 だからこそ、安心してもらえるように告げる。そもそもの話、アイリスにそう提案されなくても、いずれ自分の口からも伝えるつもりではあった。色々とよくしてくれている相手なのだから、そうするのが当然だろう。


「それじゃあ、土曜日にお願いしてもいいですか?」

「えぇ。もちろん」

「はぁ……、よかったです……」


 微かに張り詰めていた緊張が解れていくように、その顔に笑みが戻っていく。何を心配していたのかは分からないが、しなくてもいい心配だったことには違いない。


「そういうことは断りませんって。と言うか、よっぽどのことじゃない限り、今の僕はアイリスさんのお願いを断れる気がしないです」

「わっ……! 今度こそだめ人間にされちゃいます……!」

「そうなる前には止めますけどね。程よく抜けてるところがあるのがアイリスさんって気もしますし」

「……それって褒めてるんですか?」

「そうですね。可愛くて好きだって意味ですよ」

「ひぁ!?」


 先程のお返しのようにその一言を呟く。途端にさっと逸らされた瞳は、行き場をなくしてあちこちを彷徨い始める。さらに言えば、願った通りに顔を真っ赤に染めてくれていた。


 念のため確認してみたが、夕日は顔を覗かせていない。間違いなく、アイリス自身が顔を赤く染めている。


「もちろん、しっかりしてるアイリスさんも好きですよ?」

「う……! うぅ……!」

「そもそも、どんなアイリスさんも好きですから」

「うあぁぁ……!」


 さらなる攻勢に、まともな言葉を失ったアイリスの頭が押し付けられる。抗議の意味を込めてのことだったのだろうが、仕草自体が可愛過ぎて機能を果たせていない。ただただ微笑ましい気持ちになるだけだった。


「そうやって私のことを照れさせて、一体何がしたいんですかぁ……」

「何ってことはないですけど、実はこれくらいアイリスさんのことが好きなんだって知っておいてもらおうかと思って」

「お昼と別人みたいです……」

「知ってる人に見られてるのは、流石に恥ずかしいですからね。でも、今はアイリスさんしかいませんし」


 そう言って、一度だけ車内を見回す。先程まではちらほらと人影があったものの、今では綺麗に二人きり。何を言っても、耳にするのはアイリスだけ。ならば素直になりやすいというものだ。


「そ、そんな葵さんも好きですけど、それはそれとして私の心が大変なことになっちゃいます!」

「頑張ってくださいね」

「簡単にぃ……! そういうことを言うんだったら、私ももっと攻めちゃいますからね……!?」

「もっと……?」


 今でも随分と攻めている方だと思うが、さらに上があるとでも言うのだろうか。戻ってきた瞳には、何やら強い決意が宿っているようにも見える。心なしか、抱き締められている腕に伝わってくる体温が高くなっている気配すらあった。


「覚悟しておいてくださいね……!」

「……」


 熱の籠った瞳を潤ませながら、はっきりとそう口にするアイリス。


 もしかすると、踏み出してはいけない一歩を、これ以上なく盛大に踏み出してしまったのかもしれなかった。

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