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101. 夢のような現実 (1)

「……」


 心配されたが、何の問題もなく目が覚めた。


「夢……、じゃない……!」


 一瞬だけ、昨日の出来事が自分の見た夢だったのかと思ってしまう。それだけ夢のような出来事だった。


 そんな想像を振り払ってくれたのは、机の上に置かれたチョコレート。昨日帰ってきてから丁寧に包みを開け、一粒だけ食べた葵からの贈り物。


 甘さの主張は控えめで、自分の作ったものとは正反対。上手く言葉にするのは難しいが、どこか葵らしいと言えるチョコレートだった。


「うぁ……!」


 思わず呻き声が漏れ、一気に眠気が吹き飛んでいく。寝起きであることなど関係なく、顔は随分と赤く染まっていることだろう。


「葵さんがぁ……! 葵さんとぉ……!」


 体を小さく丸め、掛け布団の中に頭ごと潜り込む。誰かに見られている訳でもないのに、何故か緩むのが止められない顔を隠したくて仕方がなかった。


「えへ……。えへへぇ……!」


 そして、幸せ全開の笑い声が漏れるのも止められない。仮にこの場を両親が見ていたなら、小さく盛り上がったベッドの中からだらしのない声が聞こえてくるという、とても不思議な光景を見せつけていることになる。


「いいもん……! 今なら何を言われても……!」


 二人がどんな反応を見せるかはその時になってみないと分からないけれども、今の自分は何を言われたとしても受け止められる自信がある。もう誰にも何も隠さなくていいというのがこんなに楽だとは、これまで微塵も考えたことがなかった。


「えへ」


 再度その声が漏れる。目の前に葵がいる訳でもないのに、その姿を想像するだけで鼓動が速くなっていくような気がした。


「……っ。……っ!」


 あちらへごろごろ、こちらへごろごろ。そうして動いていないと、感情が内から漏れてしまいそうだった。


「ふわぁ……!」


 先程から、意味のある言葉はほとんど口にしていない。頭の中の葵ですら呆れ顔を浮かべている。


 だが、それも仕方のないことだと認めてほしい。半年近く想い続け、昨日ようやくそれが実ったのだから、しばらくはこうなるのが当然と言えば当然だろう。これまでの間、自分が一体どれだけの妄想を繰り広げてきたと思っているのか。一つ一つ語ってあげてもいいくらいだった。


 ちなみに、その妄想は昨日が一番絶好調だった。お風呂に入っている時も、寝ようとしてベッドで横になっている時も、常に頭はフル回転。今日の目覚めとは違って、こちらは心配した通りになかなか眠れなかった。


「起きてお弁当を作らないと……!」


 そんな数多の妄想の一つ。葵と二人並んで料理をするという妄想を現実のものにするため、今日もいつも通りにレティシアのお手伝いが待っている。体を起こすために呟いた一言も、これまたいつも通りの一言。


 ただ、そこに込める想いはいつも通りではなくなっていそうだった。




「おはようございますっ!」


 やはり自分以外に利用客がいなかった駅舎に、これでもかというくらいに嬉しそうな声が響き渡る。自分としても、早く聞きたくて仕方がなかった声だ。


 歩いてくる音が聞こえた時点で振り返ってしまおうかとも考えたが、どうにかそれを我慢していたところに聞こえてきた声だった。


 頬が緩み過ぎていないか気を付けながら振り返る。


「おはようございます」


 いつもと変わらない、けれどもいつもとは違うアイリスが、そこにいた。


「えへ……!」

「いきなりですね」


 自分は気を付けていたのに、アイリスの頬は緩みに緩んでいた。この辺りは考え方の違いだろうか。


「だってぇ……」


 そのままアイリスが言葉を続ける。


「葵さんとお付き合いをしてるって思うと……! えへへ……」

「……」


 感情の吐露が明け透け過ぎて、聞いているだけの自分の頬も緩んでしまっていた。その笑みは卑怯である。


「何でそんなに可愛いんですか。こっちの身にもなってくださいよ」

「ふぇ!?」


 ついつい口から出てしまった一言に、アイリスが目を丸くして驚いていた。図らずも不意打ちの形になってしまったらしい。


「あ、葵さんっ!?」

「あ、いや……、思わず……」

「思わず!?」

「日頃から思ってたことが口を衝いて出たと言うか……」

「日頃から!?」


 自分の一言一言にアイリスが反応する。言ってしまえばこれも普段通りの光景ではあるが、気持ち一つ、関係一つでその中身は大きく変わる。


「前からそう思ってたってこと、ですか……?」

「えぇ。ずっと」

「ずっと……!?」


 どこに視線を定めたらいいのか分からなくなっているのか、瑠璃色の瞳があちこちを彷徨い始める。恥ずかしさからなのか、マフラーを口元まで引き上げる仕草が反則的なまでに可愛かった。


「あ、葵さんも……」

「はい?」


 やがて、やや下から見上げるような形で落ち着いた瞳が、はっきりと自分のことを捉える。マフラーで隠された口から紡がれる声が、少しだけくぐもって聞こえた。


「葵さんも、ずっと可愛かったです、よ……?」

「……それは何か違いませんか?」

「ん?」


 照れたように言う姿は心に刺さるものがあったが、その内容はあまり手放しに喜べるものではなかった。




「あ」

「え?」


 そろそろ改札を抜けてホームへと向かおうかと話していた、そんな最中。アイリスが何かに気付いたように小さく声を漏らした。


「どうかしました?」

「どうかしたと言うか、ちょっと考えたことがあると言うか……」

「考えたこと」


 口振りからして話の流れにはあまり関係のないことのように思えるが、果たして、アイリスは何を考えたのだろうか。


「えいっ」


 見当が付くはずもないのに考えを巡らせていると、微かに勢いを付けるようにしてアイリスが腕を絡めてきた。突然なくなった距離に、一気に鼓動が速くなる。


「アイリス、さん……?」

「えへー」

「……」


 緩んだ頬を隠すこともない、ただひたすらに幸せそうな表情。そんな表情を見せられてしまえば、当然振り払うことなどできる訳もなく。


 肩にその頬を押し付けるように首を傾けるアイリスを、ただ黙って見つめることしかできなかった。


「お付き合いしてるんですから、もうこういうことをするのにわざわざ理由を探さなくてもいいですもんね?」

「……もしかして」

「そうですよ? ハロウィンの時とかに色々言ってこうしてたのって、あの時にはもう好きだったからです」

「う……」


 素直な一言が刺さる。その内容もそうだったが、自分の耳とアイリスの口が物理的に近いことも相まって、言葉の破壊力が格段に増しているような気がした。


 それこそ、呻き声のようなものを漏らして顔を逸らしてしまう程に。


「それに、これまでは私もちょっと恥ずかしかったんですけど、今は嬉しくて仕方ないですっ」

「分かりましたから……! もうそれ以上は……!」


 感じたことをそのまま伝えてくるアイリスに、何故か自分の方が照れたように頬を染めてしまう。この辺りは、いつまで経っても勝てるような未来が見えなかった。


「……葵さんも案外照れてくれますよね」

「……相手がアイリスさんだからですよ」

「……!」

「ぐ……」


 それでもたまには反撃しておこうと考えてしまったのが運の尽き。ただただアイリスを喜ばせることになった結果、腕を抱き締める力が強くなっただけだった。今やほとんど全身で抱き付いているのと、さして変わらない。


「こ、このままだと改札を抜けられないですからね?」


 心臓に悪過ぎる体勢をどうにかしようと、誰が見ても苦し紛れにしか映らない一言でアイリスを牽制する。ここまで想ってくれるのが嬉しくない訳はないけれども、自分に耐性がないので少しずつがいいのが本音である。


「大丈夫ですよ。その時は手を繋ぐだけにしますから。それなら縦に並んで抜けられますよね?」

「……」

「抜けたらまた抱き付きますけどっ」

「……」


 だが、それはあくまで自分の中での話。何やら随分と先に進んでいるらしいアイリスと付き合っていくには、早急なレベルアップが必要になりそうだった。




「あー……」

「……」

「えへへ……!」


 いつもの席に座ってからもアイリスに腕を抱き締められ続け、早数駅。乗り込んできた碧依と目が合って、最初に言われた言葉がそれだった。


 言葉と表現するにはあまりにも短いものだったが。


「私、前の車両に移った方がいい?」

「……どういう意味ですか」

「そのままの意味だよ。邪魔しちゃ悪いかなって」

「碧依先輩はいつも通りでいいですよぉ……」

「そう言うアイリスさんは全くいつも通りじゃないね」


 結局アイリスに促されるまま腰を下ろした碧依が、じっとこちらを見つめてきた。何もかもを見透かそうとでもするかのようなはしばみ色の瞳が、アイリスと自分の間を行ったり来たり。


 何を考えているのかなど、想像するまでもなかった。


「私から尋ねるんじゃなくて、二人から聞きたいよね」

「やっぱり分かってるんじゃないですか」


 その言い方は、完全に答えを理解している言い方だろう。碧依の言いたいことも理解できない訳ではないが、そんな風に言われると切り出しづらくなるのだから不思議なものだ。


「それで?」

「……」


 一切引く気のない碧依の姿を見て、小さく息を吐き出す。どうやら、観念して口を開くしか道はないらしい。


「……アイリスさんと付き合い始めました」

「葵さんの彼女さんになりましたっ!」

「うん、知ってた。おめでと」


 案の定の答えを返してきた碧依。その顔に浮かぶのは、とても柔らかな笑みだった。


「随分時間がかかったね」

「ほんとですね。私が葵さんを好きになってから、もう半年近く経っちゃいました」

「違うね。何なら、夏休みの辺りで付き合っててもおかしくなかったかなって」

「あぇ?」


 碧依の言葉に同意するように頷くアイリスだったが、まさにその碧依から否定が飛び出してきた。これはアイリスも流石に予想外だったようで。


「だってアイリスさん、多分その頃には葵君のことが好きだったでしょ。自覚してなかったのかもしれないけど」

「うぇ……!?」

「色々聞いてる限り、夏休みはずっと一緒にいたらしいし、その辺りが効いたんだろうね」

「……っ!?」


 続く言葉で完全に俯いてしまっていた。当然、俯いた先は自分の腕である。


「ま、葵君がどう思ってたかは分からないけど」

「ノーコメントで」


 嫌な流れで振られた話は断ち切っておくに限る。碧依が何を言い出すか分からない以上、自分の身は自分で守らなければならない。


「でも、そっかそっか。これでやっと言えるんだね」

「何をです?」

「アイリスさんの秘密。私達全員、アイリスさんが葵君のことを好きって知ってたからね?」

「え」

「あ!」


 感慨深そうに言う碧依だが、聞いている自分からすれば簡単に流していい話題ではなかった。思わぬ形で暴露されたアイリスも、俯いていた顔を持ち上げる。


「知ってたんですか?」

「うん。知ってたって言うより、気付いてた。分かりやすかったからね」

「あ、あの……! そういうことはあんまり言わないでもらえると……!」

「えー? 体育祭の時、皆に知られてるって分かって吹っ切れちゃったこととかも?」

「もう話してるぅ……!」

「……その辺りだったんですね」


 先程アイリスが「半年近く」という言葉を口にした辺りで何となく想像はできていたが、やはりその頃にきっかけがあったらしい。


 思えば、あの時数日間だけアイリスの様子がおかしかった時期があった。あれがそういうことだったのだろう。


「葵君的にはどう? もっと聞きたい?」


 にこにこしながらの碧依の問い。随分と興味のある話ではあるが、それはそれとして。


「やめておきます」

「な、なるべく聞かないでもらえ……、え?」

「あれ? いいんだ?」


 選んだのは、何も聞かない道。アイリスと碧依、二人にとっては意外な選択だったのか、揃って頭の上に疑問符を浮かべていた。


「せっかく聞くなら、アイリスさん本人から聞きたいですから」

「ふわぁ……!?」

「おぉ……。おぉ?」


 そんな二人に素直な思いを伝える。言ってしまえば、自分のわがままだった。どうせあれこれ聞くのなら、その時の心情を一番理解している本人から聞きたい。ただそれだけの話である。


 そう思っての発言だったが、結果、アイリスは顔を真っ赤にして伏せ、碧依は何故か困惑していた。


「何か?」

「いや……。葵君、そんな性格だったっけ?」

「これが本性だったのかもしれませんね」

「何で自分のことなのに疑問形なの」

「初恋ですから」

「……っ! ……っ!」

「あーあ。アイリスさん、大変なことになっちゃった」


 抱え込んだ腕を何度も引っ張るようにして感情を表すアイリス。それを見ていた碧依の口調は、明らかに呆れを含んだものだった。


「ま、何にせよアイリスさんはこれから大変そうだね」

「僕が悪いみたいな言い方じゃないですか?」

「葵君が悪いでしょ。そのアイリスさんを見て、もう一回同じことを言える?」

「……」


 仕草で感情を爆発させているのだから、正直見るまでもない。それでもちらりと眺めてしまったのは、単にその姿を目に映したかったから。


 満面の笑みで肩先に頬を押し付ける姿は、他の誰よりも可愛いと断言できる自信があった。


「葵君が言動に注意しないと、アイリスさんはすぐそうなっちゃうからね?」

「……可愛いので、これはこれで」

「……っ! ……っ!」

「葵君の方も重症か……」


 左隣ではアイリスが嬉しそうに。右隣では碧依が諦めたように。二つの異なる笑みに挟まれながら、電車の中での一幕は過ぎ去っていった。




「どこまでそのまま行くんだろうね?」

「学校の玄関までに決まってるじゃないですか!」

「よく分からないを成長してる」

「流石にまだ恥ずかしい気がするんですけど、その辺って聞き入れてもらえたり……?」

「どうしてもって言うなら考えますけど、私はこうしたいです」

「……」

「今回は葵君の負けだね」


 駅から学校までの道程も、もう半分程が過ぎた。電車に乗る前から抱え込まれた左腕は、未だにアイリスの胸元に収まっている。改札を抜けるタイミングで手を繋ぐだけに変わった以外、一向に離れる気配がない。


 そんな中での碧依の問い。何となくそんな予感はしていたが、やはりアイリスは学校に着くまで腕を離すつもりはないらしい。周囲から注目されること間違いなしの格好である以上、ある程度の覚悟はしてきたつもりではある。


 ただ、どうやらある程度では覚悟が足りなかったらしい。これまでのように周囲に人が少ない状況ならまだしも、少しずつ人が増えてきた今、徐々に気恥ずかしさが増してきていた。


「さっきは葵君があんなに押してたのに、こういうところでは弱いんだね」

「碧依さんだって、アイリスさんにこんなことをされたらこうなるんじゃないですか?」

「なると思うけど、私はしてもらえないから……」

「するのは葵さんにだけですっ」

「……」


 碧依には物悲しい気持ちが。アイリスには嬉しさと恥ずかしさが混ざり合ったような気持ちが。綺麗に混ざり合わない気持ちが三つも浮かんできて、一体どんな表情を浮かべるのが正解なのか分からなくなる。


「……特権ってことで」

「隙あらばそういうことを言うんだから」

「じゃあ、葵さんの腕に抱き付くのが私の特権ってことですね!」

「隙あらば!」


 碧依の悔しがるような声が響く。これまでの通学時間と違って、疑いようもない二対一の構図が完成してしまっていた。


「何? やっぱり登校の時間ごとずらした方がいい?」

「いや、そこまでしなくても……」

「このままだと、完全に除け者になっちゃう気がするけど?」

「……」

「するけど?」


 確かにそんな気もした。今は付き合い始めだからという理由があるが、この先は果たしてどうなるのか。当事者である自分にすら予想できないのだから、碧依がそう感じてしまうのも無理はない。


「それに、何となくだけど、アイリスさんは葵君と二人きりの方がよさそう」

「そうでもないですよ?」

「え? そうなの?」


 左腕にしっかりと抱き付いたまま、碧依の方に顔を向けるようにして少しだけ身を乗り出すアイリス。その口から出てきたのは、自分としてもやや意外な一言だった。


「二人きりなら帰りが大体そうですし、もう碧依先輩を警戒する理由が少なくなっちゃいましたから」

「警戒」

「はい。碧依先輩が私をからかってくるのって、大半が葵さん関係のことじゃないですか。もう彼女さんになっちゃったので、その辺は何にも効きませんもん」

「あー……、そういう……」


 納得したような声を漏らす碧依。その納得の仕方でいいのか気になるところではあったが、アイリスの言葉はまだ続く。


「それに、もう心配もしなくてよくなりましたから」

「何の心配?」

「葵さんと碧依先輩がお付き合いをしちゃう心配です」

「そんなことを心配してたんですか?」


 黙って話を聞いているつもりだったが、思わず声が出てしまった。それだけ、自分にとって思いもしなかった言葉だった証拠でもある。


「そんなことって何?」

「あ、いや……」

「そんなこと……。そんなことかぁ……?」

「僕が悪かったです」


 だからなのか、何も考えずに口にした言葉は、碧依の中の何かを刺激したらしかった。表情や口調はからかってくる時のものだが、その中に、微かに別の感情が混ざっているように感じられた。


「分かればよろしい。……で、そんなことを気にしてたの?」

「自分でも言うんだったら、どうして僕に詰め寄ってきたんですか」

「細かいことは気にしない。今はアイリスさんの可愛い嫉妬をどうするかでしょ?」

「そう言われちゃうと話しにくいですけど……」


 少しだけ困ったような笑みを浮かべながら、それでもアイリスが心の内を打ち明ける。


「何て言うか、いつも一緒にいるせいで麻痺してますけど、碧依先輩って、意味が分からないくらいに可愛いじゃないですか?」

「ん……?」

「葵さんとも妙に距離が近いですし」

「そうかな?」

「押し倒したこともあるみたいですし」

「そこは蒸し返さなくていいのに!」


 随分と素直に碧依のことを評していたかと思えば、別段思い出す必要もない、なかなかに過去の出来事を思い出していた。もしかすると、普段は天敵認定している碧依のことをここまで言うのが恥ずかしくなったのかもしれない。


「そんなわけで、結構心配してたんですけど、もう大丈夫ですもんね」

「……まぁ」


 安心したように笑みを向けてくるアイリスが可愛過ぎて、思わず目を逸らしてしまう。これまでの行動の意味を知るのがここまで心に刺さるとは、全く予想していなかった。


「何だろう……? 何か素直に喜べない……」

「やっぱり日頃の行いが悪いんじゃないですか?」

「葵君! アイリスさんがいじめてくるんだけど! 助けて!」

「葵さんは私の味方ですよ」

「反省すればいいんじゃないですかね」

「うっ……!」


 碧依が小さく呻き声を上げる。その反応を見る限り、碧依の中でも心当たりがありそうだった。ないと困るが。


 そうこうしている間に、少しずつ校舎が姿を現し始めた。周囲の生徒の数も増えてきている。もう数分もしないうちに、校門を抜けることになるのだろう。


「……」

「何ですか?」


 ちらりとアイリスに目を向ける。何を問うた訳でもないが、アイリスが不思議そうな眼差しで見上げてきた。


「いえ、何でも」


 そう一言口にして、首を小さく横に振る。


 そうして意識するのは左腕。先程アイリスが言った通り、本当に玄関に辿り着くまで解かれることはなさそうだった。




「で、どうだった?」

「……」

「いきなりだ」

「流れとかって考えないんだね」


 結局玄関まで腕を組んだままで辿り着いた、その少し後のこと。いつもの四人の中で最後に登校してきた莉花が、挨拶もそこそこに本題に切り込んできた。悠の言う通り、流れも何もあったものではない。


「何を話したって、結局そこを聞くことになるんだから。だったら最初からいった方が早くて楽でしょ?」

「莉花だ」


 碧依のその一言に込められたのは、果たしてどんな思いだったのか。莉花本人からすれば、今更と言いたいのかもしれないが。


「で?」

「……昼休みに話しますよ」

「なるほどなるほど。本人が来るから、その時にってことか」


 先程から、莉花の言葉にははっきりとした単語が存在していない。それなのに、何故か聞きたいことが理解できてしまっていた。それもこれも、この一年の付き合いによるものなのか。


 単純に昨日の流れがあったからのような気もするが。


「と言うか、周りが全員アイリスさんの秘密を知ってたなら、聞かなくても答えは分かってるはずですよね」

「分かってるよ? でもね、そういうのはやっぱり本人の口から聞かないと」

「明らかに楽しもうとしてるじゃないですか」


 それはもう表情が輝いている。こうなった時の莉花に絡まれて、最後まで無事に過ごせたことなど一度もない。


「言ったでしょー? 大好物だって」

「言ってましたけど」

「周りから見れば両想いなのに、本人達だけが片想いだと思ってる、そんな関係が大好きです!」

「面倒なことを言い出したけど、何とか捌けそう?」

「面倒って何だ」

「避けては通れないので、何とか捌いてみます」

「聞けって」


 言い出した本人そっちのけで碧依と言葉を交わす。碧依にすら面倒と思われている辺り、今日の莉花は本当に強敵になり得るのかもしれない。そんな嫌な想像が頭に浮かんでしまう。


「ま、そんなことを言ってる碧依も、どうせ昼休みには面倒なことを言い出すんだろうけど」

「でも、私はもう聞いちゃったから」

「え? 聞いたの?」

「うん。朝は二人揃ってるからね」

「あー……」


 思惑が外れたことを悔しがるように、莉花が天を仰ぐ。碧依と揃って根掘り葉掘り尋ねることで、一人分の印象を薄めようとでも画策していたのだろうか。


「……」

「僕がそんなにあれこれ聞くように見える?」

「見えない」


 そんな碧依を味方に引き入れることは諦めたのか、莉花の視線がそっと動いて悠を向く。だが、残念ながら悠はそもそもそんな性格をしていない。その答えがどうなるかなど、誰の目にも明らかだった。


「……仕方ない、一人で面倒な友達になるか……」

「面倒ってところは譲らないんですね」


 諦めたように呟く莉花。その諦め方があまりにも特殊過ぎることに関しては、流石莉花としか言いようがなかった。




「アイリス」

「何?」

「見ちゃった」

「何を?」


 自分の教室に辿り着いてすぐ。なにやらとても楽しげな笑みを浮かべた紗季が、鞄を置くよりも先にいきなり話しかけてきた。ただし、その中身はどうも要領を得ない。


「そろそろ来る頃かなって思って、久々に外を見てたんだ」

「あ」

「見ちゃった」

「……っ!」


 だが、そこまで言われてしまえば、何を言いたいのかは嫌でも理解できてしまう。要は、葵と一緒に歩いているところを見られたのだろう。


 その時の自分の様子を思い出して、少しだけ顔が熱くなる。


「あの感じだと、昨日は上手くいったんだ?」

「……」

「昨日? 何かあったの?」

「あ、純奈は前の話を聞いてないから知らないのか」

「うん?」


 隣で黙って話を聞いていた純奈が、自身の知らない情報に出くわして思わずといった様子で紗季に問いかけていた。


 思えば、確かに紗季とそんな話をした時に純奈はいなかった。話の流れが読めずに困惑するのも無理はない。


「アイリスね」

「うん」


 流石に声のボリュームを落とし、純奈に囁きかけるようにして、紗季が数日前の出来事を口にする。


「バレンタインに告白するって言ってたんだ」

「えっ……」


 そうして伝えられた事実に、純奈が目を丸くして自分を見つめてきた。まさか、とでも言いたそうな目付きである。


「もう我慢できなくなったって」

「そ、そういう言い方はしてない、けど……」

「じゃ、じゃあ、さっきの『上手くいった』って……!」


 先程の紗季が言わんとしたことに気付いた純奈の頬が、当事者でもないのにうっすら色付いていく。


「さっき、湊先輩と腕を組んで歩いてたよね」

「だ、抱き締めてました……」

「わっ……」

「ってことは?」

「上手く、いきました……! えへ……!」

「わぁ……!」


 たったそれだけの言葉を口にするだけなのに、相も変わらず頬が緩むのを抑えられない。周囲から見れば、今の自分は随分と蕩けた顔に見えるのだろう。


 そう思ってもなお、抑えることはできなかった。


「そっかぁ……。よかったね」

「おめでと、アイリスさん……!」

「ありがとぉ……! どきどきしたぁ……!」


 こうして改めて問われることで、昨晩の記憶が鮮明に蘇ってくる。もちろん、これから先ずっと忘れることなどないと断言できるが、自分以外から問われると、また違った視点で思い出すことができそうだった。


「何て言って告白したの? 気になるなぁ?」

「あ……。それ、なんだけどね?」

「ん?」


 純奈がどこまで興味を示すか読みきれないところはあったが、少なくとも紗季は色々と尋ねてくるだろうとは思っていた。その予想通りと言うつもりはないが、やはり口火を切ったのは紗季。


 だが、その質問に対する答えは少し特殊なもので。


「その……、葵さんから、告白された……」

「はぁ!?」

「えっ!?」


 これには流石に声を潜めている余裕がなくなってしまったのか、二人揃って大層な声を上げていた。運がよかったのは、教室内の喧噪に紛れてしまってそこまで注目を浴びなかったこと。


「それほんと……?」

「うん。私とほとんど同時に葵さんが話し始めちゃって。どうしても先に話したいって言われちゃったから譲ったんだけど……」

「そしたら先に告白された、と」

「うん……!」

「すっごく幸せそうな顔をしてる」


 その一言を呟いた純奈の心情は、一体どんなものだったのか。とりあえず表情は柔らかいので、悪い方向の心情ではないのは確かだった。


「これは湊先輩も揃った場所で聞いた方がいいかもね」

「確かに。何となくだけど、アイリスさんだけじゃ幸せ過ぎて曖昧になってるところとかがありそう」

「忘れるわけがないよ……、えへへぇ……!」

「……だめそう」

「……だめだね」


 何やら辛辣な評価を下されているような気配があったが、そんなことは幸せな感情の前では些細なこと。今は一切気にならなかった。


「気にはなるけど、詳しくはお昼か」

「お昼だけで済むかは分からないけどね」

「えへ」


 自分が関わることなく話が進んでいく。今日の昼休みは、随分と賑やかで楽しそうな時間になりそうだった。

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