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10. 賑やかな花 (1)

 五月に入り、連休も明けた十日、水曜日の朝の駅舎。すっかり見慣れた後ろ姿が、今日もそこにあった。


「おはようございます、アイリスさん」

「あ、おはようございます、葵さん」


 背後から声をかけると、腰まで届こうかという髪を揺らして振り返りながら、アイリスが挨拶を返してくれた。


「あれ? その鞄……」


 こちらの目に向いていたアイリスの視線が、そのまま自分が持つ鞄にスライドしていく。その視線の先にあったのは、普段使っている通学用の鞄ではなく、それよりも幾分か大きい旅行用の鞄だった。


「あ、そっか。葵さん達は今日から宿泊学習でしたっけ?」

「ですね。なので、明日と明後日、朝は来ませんよ」

「はーい。一か月くらい毎朝一緒だったので、ちょっと寂しいですね」

「たった二日ですから。我慢してください」


 二日会わないだけなら、普通の土日と変わらないだろう。そう思ってアイリスの顔を見ると、そこには何故かにやにやとした笑みがあった。これは明らかに何かを考えている表情である。


「……何ですか?」

「『寂しい』ってところは否定しないんですね?」

「あ……」


 そう言いながら笑みの種類を変えたアイリスの顔が、今度は嬉しそうに綻ぶ。言われてみれば、自然とその言葉を受け入れていて、違和感を覚えることがなかった。毎朝駅でアイリスと顔を合わせるのが、思った以上に自分にとっての日常になっていたのかもしれない。


「そうですよね、大事な後輩ですもんねっ」


 普段の意趣返しのつもりなのか、いつかの自分の言葉を引っ張ってきてまでアイリスが攻めてくる。なかなか楽しそうな表情をしているが、自分とて黙って受け入れるつもりはなかった。


「まぁ、確かに後輩として、誰よりも大切にしてますからね」

「……え?」

「どうかしました?」

「あ、いや……」


 いつもと同じように自分が曖昧な言葉で誤魔化すとばかり考えていて、まさか肯定されるとは思ってもいなかったのだろう。予想外の言葉に、アイリスが頬を赤く染めて動揺している。


「まさか、僕が冗談でアイリスさんのことを大事な後輩だって言ってると、そう思ってたんですか?」

「あ……。え?」

「もしそうなら、流石にちょっとショックですね……」


 そこまで口にして、少し伏し目がちな様子を装う。果たして、アイリスはどんな反応をしてくれるだろうか。


「わぁっ!? 違います! そんなつもりで言ったんじゃなくて……!」


 あたふた。わたわた。そんな音が聞こえてきそうな慌てぶりだった。誰かがこの様子を絵に描いたなら、アイリスには汗を流す描写が付け加えられていることだろう。


「わ、私だって、葵さんのことはちゃんと大事な先輩さんだと思ってますよ……?」

「……」


 焦ったように目を泳がせてから、やがて上目遣いで呟かれたその言葉は、想像よりも遥かに威力があった。それこそ、思わず黙り込んでしまう程に。これ以上は自分が危ないので、この辺りで引いておくのがよさそうだった。


「とまぁ、冗談はこれくらいにして」

「結局冗談だったんですか!?」


 そう口にした途端、アイリスの頬の赤みが濃くなった。その理由が先程までとは違うのは、誰の目から見ても明らかだ。


「アイリスさんがからかってきたので、反撃しておこうかと思って」

「たまにはいいじゃないですか……」

「まだまだ早いですね」


 ころころと変わる表情を不満そうなものに変え、感情を隠すこともなく目を逸らしてそう零すアイリス。残念ながら、そんなアイリスにまだ負ける気はなかった。


「でも、大事な後輩だってところは、本当にそう思ってますから」

「あ……。えへへ……」


 とはいえ、ただの冗談で済ませていい話でもなかったので、嘘偽りのない感情も伝えておく。驚いたように一瞬だけ間が空いて、それからアイリスの顔が緩んでいく。


「……よくない人に引っかかりそうで不安になりますね」


 その様子を見て小さく零した自分の失礼な言葉は、両方の頬に手を当てて喜んでいるアイリスには聞こえていないようだった。




「葵さんと碧依先輩って、同じ班だったんですか?」


 終着駅の改札を抜けて、いつも通りの道を歩きながらアイリスが気付く。途中の駅で自分と同じく大きな鞄を持った碧依が合流して、話はこれから始まる宿泊学習のこと一色だった。


「そうだよ? あれ、言ってなかったっけ?」

「確かに、班分けの話はしてなかったかもしれないですね」

「もしお話ししてたとしても、別の学年の人達はほとんど知らないので、結局分からないですけどね」


 宿泊学習に出発する日になって、今更のように班分けの話をしている最中の、アイリスの意外そうな問いだった。言われてみれば、その辺りの詳しい話をした覚えはない。アイリスの言う通り、学年が違うので、無意識に話題にするのを避けていたのだろう。


 ただし、今回は例外だった。


「あと二人が同じ班ですけど、アイリスさんはその二人も知ってますよ?」

「え? 誰です?」

「羽崎君と渡井さんです」

「あぁ! あぁ……」

「え、何その反応」


 偶然にも知っている二人が同じ班だったということで、納得したようにアイリスの声の調子が一度上がって、そして何故か急降下した。そんな不思議な反応に、碧依が戸惑いの表情を浮かべている。


「そうですか……。渡井先輩ですか……」

「あ……」


 やや沈んだ声を聞いて、碧依も気が付いたようだった。初対面のあれ以来、アイリスにとって莉花は天敵と言っても過言ではない存在だった。何かある度に可愛がられ、くしゃくしゃにされているのをよく見かける。最近であれば、無理矢理膝の上に座らされているのを見た。その時はアイリスの背中に隠れてしまっていたが、きっと莉花の顔は蕩けていたことだろう。


「渡井さんと関わって、穏やかに過ごせたことがあんまりないみたいですからね」

「確かに。まずは一抱きと一吸い、だもんね」

「何なんですか、あの人……」


 先程までの元気なアイリスはどこへ消えてしまったのか。今やじめじめと湿った空気を漂わせていて、まるで一足先に梅雨の季節に突入しているようである。


「私は我慢してるのに、莉花だけずるいよね」

「……」

「どうして自分から警戒されるようなことを言うんですか」

「……?」


 碧依が何故首を傾げているのか分からない。何なら、そうしたいのは自分だ。


 アイリスに至っては、警戒心をむき出しにして碧依を睨んでいる。それは別に構わないが、自分を盾にするかのように手首を握って力を込めるのはやめてほしい。袖を掴むなどという可愛らしい段階は、とうに通り過ぎていた。


「普段は穏やかだったから忘れかけてましたけど、そういえば碧依先輩もそのタイプでしたよね」

「そうだよ? 隙あらば抱きしめたいね」

「……」

「そういうわけだから湊君、その場所を譲ってもらっていいかな?」

「……! ……!」

「何がそういうわけなんですか」


 立ち位置の交換を求められたのでとりあえずアイリスの方を見てみれば、全力で首を横に振っていた。加えて、手首を掴む力はさらに強くなっている。握力の関係上、強くなったところで痛みは一切ないのだが。


「まだ好感度が低いのかな? ちょっとずつ仲良くなってきたと思ったんだけどな……」

「たった今ゼロに戻った感じがしますけどね」

「え!? 嘘!?」

「こちらをご覧ください」

「……」


 先程から黙りっぱなしのアイリスに手の平を向ける。その様子は、お世辞にも仲が良さそうとは言えなかった。自分で積み上げた積み木を自分で崩してしまったことにようやく気付いた碧依が、取り繕うように笑顔を浮かべながら手を差し出す。


「ほーら……、怖くないよー……?」

「ふーっ!」

「猫ですか」


 碧依の対応が猫向けなら、アイリスの反応も猫の威嚇だった。


「あー……、しまったなぁ……。また餌付けして慣らすところからか……」

「そういうつもりだったんですか、あれ」


 失敗したと、そう言わんばかりに碧依が呟く。その言葉で、一度だけ碧依がアイリスにお菓子をあげていたことを思い出す。まさか、あの行動にこんな意味があったとは考えもしなかった。


「ん? そうだよ?」

「それ、小さな子供にはしないでくださいよ」

「何で?」

「何ででも、です」


 不思議そうにする碧依だったが、不審者として通報されるからとは流石に言えなかった。このご時世、お菓子をあげる側が男だろうと女だろうと関係ない。


「……誰が小さい子供ですか」

「気にするのはそこじゃないと思いますけど」


 久しぶりにアイリスが発した人の言葉は、まさかの自分への抗議だった。餌付けの方は気にならないのだろうか。


「確かにちっちゃいですけど、碧依先輩とはそんなに変わらないですもん」

「私?」

「それに、子供でもないですもん」


 自らそう言う間はまだまだ子供だと、拗ねたような表情を見せるアイリスにはこれもまた流石に言えなかった。自分も自らのことを大人だなどと思ったことはないうえに、偉そうなことを言える人間でもない。


「分かりましたから。そろそろ離してください」

「むぅ……。ほんとに分かってるんですか……?」


 その表情そのままの言葉を残して、ようやく手首が解放される。少しだけ気になって見てみれば、まるでアイリスの不満が刻まれたかのように、熱と、そしてうっすらとした赤みが残っていた。




 不満そうなアイリスを宥めながら校門を通り抜ける。いつもと違って、そこには大型バスが何台も停まっていた。


「それじゃあ、僕達はこっちなので」

「あ、中には入らないんですね」


 ようやく普段の調子に戻りかけていたアイリスに、そう声をかける。今日は直接バスの前に集合の予定だった。碧依と二人で、校舎から離れる方向に足を向ける。


「そうですね。バスの中で点呼だったはずです」

「じゃあ、今日はここでお別れですね」


 明日、明後日のことを想像してなのか、駅で話した通りにどこか寂しそうな顔でアイリスが呟く。


「葵さん」

「はい?」

「楽しんできてくださいね。行ってらっしゃい、です。……一応、碧依先輩も」

「……行ってきます」


 同じ表現を繰り返して寂しげと言うべきか、それとも儚げとでも言うべきなのか。その憂いを帯びた笑顔に、一瞬だけ言葉に詰まりながら、何とか一言だけを返す。頬が赤くなっていなければいいが、どうなっているのか、自分ではよく分からなかった。


「私はついでなんだ……」


 そんな自分の隣では、好感度を綺麗に落とした碧依が肩も落としていた。




 二組に割り当てられたバスの前には、既に悠がいた。


「あ、おはよう、湊君、水瀬さん」

「おはようございます」

「おはよー」


 大勢の生徒が集まっているバスの乗降口付近から少し離れ、後方に近いところに立っていた悠のところへ向かい、挨拶を交わす。


「何で微妙に皆から離れてるの」

「向こう、仲が良い人ってあんまりいないからね」

「今日も絶好調ですね」


 何が、とは言わない。言わなくても、この場の三人には伝わっているはずだ。


「あはは……。よくないとは思ってるんだけど……」

「ま、羽崎君らしいよね」

「別に無理をする必要もないですしね」

「二人が優しくて、いつも助かってます」


 いつも通りの苦笑いで軽く頭を下げる悠を見ていると、隣の碧依からじっとりとした視線を向けられていることに気が付いた。そんな目で見られるようなことを何かしただろうか。


「何です?」

「湊君ってさ」


 最近碧依や莉花と関わるようになってから、嫌な予感というものを覚えることが多くなった。今もまさにそうで、頭の中では警鐘が鳴り響いている。そもそも、こんな目で見られている時点で、いい予感などする訳もないのだが。


「付き合った女の子をだめにするタイプだよね」

「は?」


 案の定、ろくでもないことを考えていた。いきなり過ぎる一言に、思わず間の抜けた声が漏れる。


「今のもそうだったけど、アイリスさんとかもよく甘やかしてるでしょ」

「そんなにですか?」

「自覚してない辺りが尚更まずいね」

「どうしていきなりこんなことを言われてるんですかね?」

「さぁ……? 僕に聞かれても……」


 碧依のことを指差しながら悠と一緒に困惑している間に、碧依が一人で勝手にヒートアップしていく。


「でも! 私のことは甘やかしてくれないよね! 何で!」

「本当にどうしました?」

「不満げなアイリスさんが宥められてるのを見て、優しくされてるな、羨ましいなって思いました!」

「そこは正直なんだね」

「優しくしてくれそうな人なら、向こうにたくさんいるじゃないですか」


 碧依に向けていた指を、今度はクラスメイトの集団の方へスライドさせる。様々な思惑が複雑に絡んでいそうな向こうに行けば、それはもう甘やかしてくれるだろう。それが望みなら、是非行ってくるといい。


「違うの! 普段から丁寧に接してくれるんだけど、そんな人が甘やかしてくれるのがいいの!」

「らしいよ?」

「そんなことを言われても……」

「愛が足りないよ! 愛が!」

「あるの?」

「あるとしたら友愛ですかね」


 よく分からない好みを口にする碧依に困惑しているのは、悠も同じだったらしい。不思議そうな眼差しで尋ねてくるが、残念ながら、出会って一か月で愛情も何もない。


「なにー? 碧依が男の好みを漏らしまくってるのが聞こえたけど」

「また厄介な人が……」


 そんなことを話しているうちに、莉花が少し遅れて登校してきた。にやにやと話しかけてきたその様子から察するに、どうやら碧依の声に熱が入り始めた辺りから聞こえていたのだろう。


「あ、莉花。おはよう」

「おはよー。朝から何叫んでるの?」

「好みとはまた違うけど。湊君は私をもっと甘やかしてもいいと思うの!」

「お? どうした? 何も分からなかったぞ?」


 悠だけでなく、莉花もよく分からなかった様子である。最初から聞いていた自分達とは違い、断片的な情報しか得ていないのだから、それも仕方のないことだろう。


 だからと言って、自分達の方を見られても困るのだが。得ている情報が多少多くても、自分達も何も理解できていないことには変わりない。


「さっきまで、湊君がフリーゼさんを甘やかしてるのを見てたんだって」

「あぁ、それで」


 そう思っていたのに、悠の説明であっさりと納得されてしまった。自分は納得がいかない。


「一回甘やかしたら満足するんじゃない?」

「際限がなくなりそうなので嫌です」

「だってさ。残念だったね、碧依」

「何? 年下で、ちょっとだけ背が低くて、目が瑠璃色で、綺麗な金髪の女の子じゃないと甘やかしたくないってこと?」

「具体的に誤解を招こうとするのはやめてください」


 まるでそんな人が一般的かのように言う碧依だったが、自分達の身近なところで言えば、それはもうアイリス以外にいない。どう答えても気まずいことになるので、ここは何も言わないのが正解だろう。


 アイリス本人がこの場にいなくて、本当に助かった。もしアイリスがいる場でこんな話になれば、何かを答えるまで絶対に逃がしてもらえなかったはずだ。そして、あの瑠璃色の瞳に期待を込めて見つめられてしまえば、自分が太刀打ちできないことも容易に想像することができた。


「はーい、皆さんそろそろバスに乗り込んでください!」


 そんなタイミングで、二組の集団に向かって平原先生が声をかけてきた。気が付けば、出発の時間が大分迫っている。


「もう時間ですね。行きましょうか」

「あ、逃げた」

「うるさいです」


 碧依に的確な指摘をされ、思わず目を逸らしながら捨て台詞のような何かを口にする。「このままだと押しきられそうな気がしたから撤退した」などとは、口が裂けても言えなかった。




 バスの座席は班ごとに固まって配置されていた。一人一人の座席までは決まっていないので、そこは班の中で自由に決める形である。特に何も考えず、自分が通路側、悠が窓側の座席に並んで座る。自分の後ろには碧依が、悠の後ろには莉花が座っていた。


 学校を出発してから、既に十分程が経っていた。まだまだ街中を走っているので、窓の外の景色は流石に人工的な建物ばかりである。


「何か、色々決めてから今日まであっという間だったね」

「ですね。二年に上がってもう一か月ですか」

「早いよね。先輩になったって気が全然しないよ」


 こういったイベント事の例に漏れず、ざわざわと賑やかなバスの中。電車よりはゆっくりと流れていく車窓の景色を背景にした悠と、二年生になってからの一か月を振り返る。一番大きな変化はやはり後輩ができたことなのだろうが、悠としてはあまり実感していないようだった。部活に所属しておらず、委員会でも上級生と組んでいる悠は、後輩と関わる機会がほとんどないのだろう。


「僕だって、アイリスさんがいなかったら同じようなものですよ」

「フリーゼさんか……。ほんと、湊君に懐いてるよね」

「そうですか?」


 悠の目から見ると、アイリスと自分はそう見えているらしい。色々あって年下の子供に懐かれるのは慣れているので、その辺りの感覚がよく分からなくなっていた。


「だって、最近は毎日放課後になったら教室に来てるよね?」

「来てますね」

「二人が帰った後ね、よく噂になってるんだよ?」

「噂?」


 初めて聞く事実に、自然と首が傾いてしまう。自分が噂されることはよくあったが、そこにアイリスも含まれているとなると、途端にその内容が想像できなくなる。


「うん。最初の頃は付き合ってるんじゃないかって噂だったんだけど、最近は親子か兄妹って説が濃厚だね」

「百歩譲って兄妹はまだしも、親子って何ですか」


 一体どんな内容の噂なのかと尋ねてみれば、どう頑張っても想像できないと断言できる内容が明かされた。一歳違いの二人に対して使う表現ではない。


「湊君のフリーゼさんを見る目が、完全に保護者なんだって」

「それ、本人の耳に入ってなくてよかったです」


 今朝の言葉を聞くに、子供扱いは嫌がりそうだ。そして、そうなった時の不満の矛先は間違いなく自分に向く。是非とも、今後も耳に入れないようにしてほしい。


「それにしても、そんなに噂になってたんですね」

「そうだね。特に、フリーゼさんは女子からも大人気だよ」

「女子から?」


 悠の言葉をやや意外に思う。男子から大人気なのは疑う気にもならないが、女子からも大人気なのは想像していなかった。だが、よくよく考えてみれば、あの特別感だ。人目を引くのは、そのまま人気に繋がるとも言える。


「そうそう。普段ずっと湊君と一緒にいるからできないけど、とにかく可愛がりたいって。会う度に抱き締めてる渡井さんが羨ましいらしいよ」

「それもなるべく本人の耳には入れない方がよさそうな話ですね」


 毎回苦労しているアイリスの姿を思い出してしまって、少しだけ苦笑いが漏れる。莉花を天敵扱いしているアイリスが聞けば、クラスの女子の大半は新たに天敵と認定されるはずだ。


「何? 呼んだ?」


 そんな話をしていると、後ろの席から莉花が話しかけてきた。自身の名前が聞こえて、話の中身が気になったのだろう。


「渡井さんがどうこうっていうか、うちのクラスでフリーゼさんが大人気って話だよ」

「あぁ、そういう。ほんとに可愛いよね。持って帰りたいくらい」

「せめて冗談っぽい目付きで言ってくださいよ」


 背もたれの横から顔を出す莉花の目は、見ているこちらが若干引いてしまうくらいには本気の色をしていた。いつか本当にやりかねないと思わせる程である。思わず心の中が黒く濁って、少しだけ声が低くなってしまった。


「ねー。碧依も欲しいよね?」

「抱き締めて寝たいね」

「ほら! 碧依もこう言ってるよ!」

「それを僕に言ってどうするんですか」


 自分に言われたところで何もできないので、本人に言ってほしい。絶対に拒絶されるのは明白だが。


「だって保護者でしょ?」

「それならレティシアさんに言ってくださいよ」

「……? レティシアさんって誰?」

「アイリスさんのお母さんです」


 何も考えずに名前を出したが、自分以外にその名前を知る人間がこの場にいないのは当たり前だった。「保護者」という言葉に意識が引っ張られ過ぎて、その辺りの考えがすっぽりと抜け落ちてしまっていた。


「へぇ……。アイリスさんのお母さんのこと、知ってるんだ?」

「もう家族とも付き合いがあると」


 そうして油断していたところに、碧依と莉花が妙な興味を抱いて食いついてきた。厄介な事態に発展する予感がしたので、とりあえず先手を打つ。


「アルバイトの帰りに送っていったら、たまたま家の前で会っただけですよ」

「家の場所まで知ってるんだ?」


 先手がいきなり悪手だった。莉花の目がさらにきらりと光る。


「そっか。大分進んでるんだね」

「何が言いたいんですか?」

「んー? 別に?」


 その顔はとにかくにやけていて、どう見ても何でもない表情とは思えなかった。どうせ、関係を邪推しているに違いない。


「アイリスさんと僕のことをどう見てるかは知らないですけど、間違いなく考えているような関係じゃないですよ」

「どんな関係って考えてるかなんて、一言も言ってないよ?」

「……」


 またしても悪手を指した気がした。そして、こうなった時の莉花は止まらない。この一か月で、それは十分理解しているつもりだった。


「そうだよね。アイリスさん、可愛いもんね。男の子だったら、一回はそういうこと考えたことあるよね」


 ない。


「隣で関係ないみたいな感じで聞いてる羽崎君だって、考えたことあるでしょ?」

「え!? 僕!?」


 自分が呆れたような顔で莉花のことを見つめていると、話が思わぬ方向に飛び火していった。完全に油断していたであろう悠の驚きの反応は、いつも以上に大きかった。


「ない?」

「う……。な、ない……、よ?」

「その反応、あるね?」

「ち、違うよ? そんな、付き合ったりとかってことじゃなくて、『先輩』って呼んでくれたのが嬉しかったから……」

「純粋か」


 隣に座る友人は、この中の誰よりも純粋なのかもしれなかった。頬を染めながら照れる様子は、どこからどう見ても女の子にしか見えない。


「こっちを攻めてもあんまり面白くはならないかな……。攻めると面白いのは、やっぱり湊君の方だよね」

「今、『面白い』って言いました?」

「気のせいじゃない?」


 はっきりとそう口にした莉花に、じっとりとした眼差しを向ける。莉花はといえば、そんな眼差しを正面から受け止めることもなく、明後日の方向を向きながら適当に誤魔化している。誤魔化しもここまで堂々としていると、いっそ清々しさすら感じる程だった。


「でも、実際のところはどうなの?」

「お、碧依も興味ある?」

「そうだね。私は毎朝一緒だけど、どこで見るよりも湊君が優しいからね」

「確かに、放課後に二人で話してる時の湊君、何となくイメージと違うってよく言われてるもんね」


 真似したくない清々しさを目の当たりにしていると、これまで黙って話を聞いているだけだった碧依が会話に加わってきた。またしても厄介事が加速するのかと思いきや、何やら気になる発言が莉花の口から聞こえてくる。


「イメージと違う、ですか?」


 これまでのじっとりとした視線はやめにして、いつも通りの口調でそう問いかける。何がどう違っていたのかも気になるところではあったが、そもそも自分がクラスメイトに認識されていたこと自体が意外でもある。


「そうそう。湊君ってさ、普段からずっとそんな話し方でしょ? それ、人によっては壁があるみたいに感じるんだけど、アイリスさんと話してる時は、話し方は変わってないのにそれがないって」


 自分としてはもう今更壁を作っているつもりなどなかったのだが、まさか未だにそう思われているとは、露程も考えていなかった。染み付いてしまった話し方が、思った以上に大きな影響を与えているらしい。


「高校に上がるまで、年下の子の面倒ばっかり見てたからですかね」

「え? 何それ、初耳」

「両親が亡くなってて、児童養護施設で育ちましたなんて、別にわざわざ話すことでもないので」

「あ……」


 そのことを口にした途端、莉花があることに思い至ったように声を漏らす。転校してきた碧依ならともかく、莉花はあのことを知っているのだろう。


「ごめん……」


 勢いを完全に削がれた莉花が、これまでからは想像もできないような小さな声で謝ってくる。話を持ち出したのは自分なのだから、そこまで気にする必要もないというのに。


「気にしないでください。もう昔のことですから」


 上手く笑えているのかどうかは分からないが、努めていつも通りの口調でそう返す。莉花には悪いが、これで話題は完全に逸れてくれただろう。厄介なやり取りを躱すには、この手の話題が一番なことは、これまでの経験からも明らかだった。


 何のことだか理解していない碧依も、迂闊に口を挟める話題ではないことを悟ったのか、それ以上何かを尋ねてくることはなかった。




 バスに揺られること一時間。窓を流れる景色はすっかり常盤色に様変わりしていた。先程から頻繁に道が曲がりくねり、山道を走っていることを慣性によって理解する。


 出発してすぐの喧噪も今は落ち着いていて、揺れに身を任せて夢の世界へ旅立っているクラスメイトもちらほらと見受けられた。隣に座っている悠も、まさにその一人だ。道程の半ば辺りで頭が前後に揺れ始め、それからしばらくして完全に夢の世界の住人と化してしまった。


 そして、今はと言うと。


「どう? 自分の肩に男の子が寄り掛かって寝てるのは?」

「どうもこうもないですよ」


 バスの揺れに合わせて徐々に体が傾き、自分の肩に頭を乗せて熟睡していた。


「女の子だったらよかったのにね?」


 あれからすっかり元に戻った莉花が、ここぞとばかりに絡んでくる。その回数が普段より多いのは、やはりいつもとは違う環境に身を置いて気分が昂っているからなのだろうか。


「ほとんど女の子みたいなものですけどね」


 バスの動きに合わせて揺れるスノーホワイトの髪で彩られた寝顔は、十人に聞けば十人が女の子だと答えそうな程に、穏やかで柔らかなものだった。


「それを湊君が言う?」

「何か?」

「あー……。うん、それでいいなら、もう何も言わない」


 どこか含みのある言葉と表情だったが、一体どうしたのだろうか。残念ながら、自分に思い当たる節はない。ないと言えばないのである。


「……」


 頭の中で必死に自分を誤魔化しながら、再び窓の外に目を向ける。一瞬だけ木々が途切れてずっと向こうまで景色が開けたものの、どこまで行っても鮮やかな緑に染まった山々しか見えない。


 予定通りなら、バスに揺られるのはあと少し。宿泊学習の本格的な始まりが、もう目の前まで迫っていた。




「ねぇねぇ、アイリス」

「んー? 何?」


 校舎の二階に並ぶ一年生の教室の、その一つ。自分が学校生活の大半を過ごす、一年四組の教室での出来事だった。


 入学したての時期に教室に漂っていたどこかぎこちない空気はとうの昔に霧散して、今やすっかり高校生らしい喧噪に包まれた空間に様変わりしていた。


 物珍しさから、初めの頃は少し遠巻きに眺められるだけのことが多かった自分も、この一か月で随分とクラスに馴染めた自覚がある。


 そんな中で話しかけてきたのは、誰とでもすぐに仲良くなれて、自分と他の生徒との架け橋にもなってくれた星野紗季だった。


「ずっと聞きたかったんだけどさ」

「うん?」

「入学してそんなに経ってないくらいの時から、ずっと誰かと一緒に登校してない?」


 不思議そうにしている紗季が言っているのは、葵と碧依のことで間違いない。他に誰かと登校した覚えもないので、そもそも間違えようがないのだが。


 それはともかくとして、わざわざ尋ねてくるということは、紗季にとって何か気になることでもあったのだろうか。


「してるけど、それがどうかした?」

「二階で全然見かけないけど、もしかして先輩なの?」

「そうだよ。二人共二年の先輩」

「あんな早い時期に先輩と知り合う機会って、何かあったっけ? アイリス、部活にも入ってないよね? 中学の時の先輩とか?」


 想像していた以上の食い付きに、一瞬だけ面食らってしまう。あの二人の何が紗季の琴線に触れたのかは分からないものの、その顔は純粋な疑問で染まっていて、とりあえず悪い感情は見受けられなかった。


「葵さんはバイト先の先輩さんで、碧依先輩は朝の電車が一緒で知り合ったんだ」

「へぇ、アイリス、バイトしてたんだ。というか、二人共名前が同じ……?」

「うん。男の葵さんがバイト先の先輩さんで、女の碧依先輩が電車で知り合った先輩さん」

「ややこしい……」


 軽く説明をしてみると、紗季が混乱したように頭を押さえた。別々のタイミングで知り合った自分はそこまで深く考えなかったが、同時に紹介されると、確かにやや分かりにくい気がした。


「で、葵さんと碧依先輩がどうかしたの?」

「いや、いきなり毎日先輩と一緒に登校してくるようになったら、誰でも気になるって」

「そう?」

「そうなの! 仲も良さそうだし」

「確かに仲は良いかもだけど、ひどいんだよ!」

「お、おぉ……? いきなりどうした……?」


 紗季の言葉を点火源にして、一気に心の中の不満が燃え上がる。


「碧依先輩は隙があれば抱き付こうとしてるのが分かったし、そのために餌付けしてたって認めたし!」

「餌付けされてたのか」

「会う度に抱き付いてくる別の先輩と一緒になって攻めてくるし!」

「もう抱き付かれてるのね」

「そっちはまだいいとして!」

「いいんだ。じゃあ、私も抱き締めていい?」

「だめ」

「なんで!」


 紗季が伸ばしてきた腕を払いながら、さらに勢いを増す。紗季の言葉が点火源ならば、不満が可燃物で、これまで吐き出した自分の言葉が支燃物。燃焼の三要素が揃い踏みだった。


「葵さんは私をからかうのを日課みたいにしてるし!」

「アイリス、いい反応するもんね」

「たまに私が反撃しても、全然効かないし!」

「アイリスの反撃は豆鉄砲だもんね」

「でも、普段はすっごく優しいのもずるいし!」

「お?」

「あと、なんかやたらと可愛いし!」

「はぁ……?」

「とにかくひどいの!」


 途中から紗季の反応が鈍くなっていた気がするが、とりあえず全部吐き出してすっきりした。少しだけ乱れてしまった呼吸を整える。


「よく分からないけど、からかわれるのは別に嫌じゃないってことでいい?」

「それは……、その……。別に嫌じゃない、けど……」


 軽く深呼吸しているところにそんな指摘が飛んできて、思わず曖昧な言葉を返す。改めて考えると、葵とのあんなやり取りも楽しんでいる自分が心の中にいたので、そこまで強く否定できなかったということもある。


「じゃあ、やっぱり『仲が良い』でいいよね」

「むぁー……。何か複雑……」


 やや俯きながら新たな不満を零したところで、次の授業の開始を告げる鐘が鳴る。その音を聞き、紗季が自分の席へと戻っていく。


 そんな紗季の背中越しに、一瞬だけ窓の外を見る。再びもやもやしだした心の内を表すかのように、空には鈍色の雲が広がり始めていた。


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