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1. いつも通りの日

 特別な出会いなんてものはなかった。知り合ったのは、ただの偶然だった。


 たまたま席が近かったから。たまたま名前が似ていたから。たまたま同じ場所にいたから。たまたまアルバイト先が同じだったから。



 どこにでもある、何でもないような理由。だからこそ、その始まりは単なる友人だった。



 それでも、流れる月日はその関係を変える。



 今にして思えば、あの何でもない出会いが、何よりも大切な出会いだったのだろう。





「……んぁ……」


 カーテンの隙間から光が差し込み、部屋が薄墨色に染まっていくのをぼんやりと眺める。はっきりとしない意識を体現するかのように、そのまましばらく見慣れた光景を瞳に映し、三十秒程してからゆっくりと体を起こす。頬にかかっていたやや長めの髪が、その動きと同時にさらりと流れた。


 薄暗い部屋の中を、この一年間で培った感覚を存分に発揮して歩いていく。どこに椅子があるのか、どこに机があるのかなど、最早目が開いていなくても把握できてしまう。


 扉の脇に設置してある照明のスイッチを入れてから廊下に出て、そのまま洗面所へと向かう。


 昨日で春休みは終わり、今日からは高校二年の学校生活の始まりだった。まだまだ冷たい四月の水で顔を洗えば、やや下がっていた瞼が持ち上がり、正面の鏡の中に丸みを帯びた目が現れる。


 その鏡から見つめ返す顔はかなり女性的で、「葵」という、どちらかと言えば女性寄りの名前を体現しているかのようだった。とはいえ、十六年の間に見慣れた顔に今更感想を抱くこともなく、ほとんど無心で洗面所を後にする。すっかり着慣れた制服に袖を通す時間でこんがりと狐色に焼きあがったパンで朝食を済ませ、残りの身支度を全て終えてから、戸締りを確認して部屋を出る。


 四月の朝は未だにうっすら寒く、わずかに残った眠気も吹き抜ける風に攫われていった。一年前から住んでいる小さなマンションを出て、住宅街をしばらく歩いていく。


「……って!」

「……た!」

「……」


 近くの中学校の制服を身に纏った生徒が二人、元気いっぱいに自分を追い抜いていく。何かを話していたようだが、その中身を気にしていなかった自分には、ほとんど何も聞き取れなかった。そんな二人の背中が遠ざかっていくのを見ながら少し歩くと、目の前に一本の川が現れる。


 この一年、学校に向かう日は毎日歩いた河川敷。桜の木がずっと向こうまで並び、徐々に満開へと近付いて、その身を文字通り桜色に染めつつあった。


「……」


 その桜並木を何となく眺めながら歩いていく間も、まだ少しだけ冷たい風が肌を撫で、髪を揺らす。川のすぐ近くということもあって、部屋を出てすぐに身に受けた風よりも冷たさを感じる。この様子では、仮に満開を迎えたとしても、花見をするにはやや寒いという状況になるのかもしれない。


 そうしてしばらく河川敷を歩いてから離れ、人気が少ない商店街を抜けて最寄りの駅に辿り着く。商店街の人気の少なさをそのまま反映したかのような、朝の通勤、通学の時間でも利用客が少ない、薄暗く、そして意外と広い駅である。折り返しの駅なので、どんな電車でも必ず停車する、利用する乗客にとってはとても便利な駅だった。


 他の利用客と同様にそのありがたみを享受しつつ、いつも通りの時刻にやって来た電車にきっちり二十五分揺られ、終点の駅で降車する。ここから学校までは徒歩しか交通手段がなく、クラスメイト達が不満を口にしているのをよく耳にしたものだ。今日は晴れているからいいものの、三か月程先に待ち受ける時期を考えると、その不満も当然のものだろう。


 そんなことを考えながら歩いていると、二十分程で校門が見えてきた。マンションを出てから一時間と少しの距離にあるこの高校が、一年前から自分が通っている高校だった。


 これまでと何も変わらず玄関へと向かい、そこからはこれまでとは違って二年生の教室が並ぶ二階に向かう。窓からの景色が少しだけ高さを増した廊下には、自らの新たなクラスを確認する生徒がちらほらと見受けられた。どうやら、各教室の入り口にクラス分けの一覧が貼り出されているらしい。


(湊……、湊……)


 ひとまず一番近くの二年一組の教室に近付き、心の中で自分の名字を唱えながら名簿を確認していく。出席番号順に並んだ名前の後半を一通り眺めてみるも、そこに自分の名前は存在していなかった。どうやら今年のクラスは一組ではなかったらしい。続けて、隣の二組に移動して名簿を確認する。


「あ……」


 そこに記された名前を見て、思わず小さな声を漏らす。


 今年のクラスは二組だった。進級時に理系を選択したので、恐らく六クラスあるうちの、前半の三クラスが理系のクラスなのだろう。ぼんやりとそう考えながら、そのまま前方の入口から教室の中に足を踏み入れる。


 途端に、既に登校していた新しいクラスメイトの視線が注がれた。その視線にどうしても一瞬たじろぐものの、皆すぐに興味を失ったようで、友人との会話に戻っていく。注目から外れたことにやや安堵しつつ、自らに割り当てられた席を確認する。一列六人が六列で一クラス三十六人。自分の出席番号は三十番なので、廊下側から二列目の、一番後ろの席だった。


 目立たないようにひっそりと自分の席に座り、自然と前を見る。当然、視界に入るのは一つ前の席だ。まだ登校していないのか、その席は空席のままである。出席番号二十九番。名簿で確認した名前は。


(碧依……、ですか)


 その名前を見た時から頭を過る顔に、自然と目が細くなっていく。隣の席からやや緊張したような声で話しかけられたのは、そんな時だった。


「あの……」

「はい?」


 声がした左隣の席に目を向けると、まずスノーホワイトの髪が視界に飛び込んできた。雪のように僅かに青みを帯びた白銀の髪から視線を下ろせば、そこではコバルトブルーの瞳が不安そうに揺れていた。明らかに外国の血が混ざっている容姿だ。


「湊君……、だよね? 図書委員の」


 不安そうにそう尋ねられて、ふと思い出す。去年から所属している図書委員会で、同じ色を何度も見かけたことがある。携わっていた役割が違い、結局直接話したことは一度もなかったはずだ。


「羽崎悠君、ですよね。確か」

「あ……! 覚えててくれたんですね!」


 自身の名前が出てきたことで一気に緊張が解れたのか、その声は柔らかなものへと変化する。それと同時に、不安の色が抜けた顔には、嬉しそうな笑みが現れる。


「委員会の集まりの時、髪と目の色が綺麗で印象に残ってたんです」


 一度も話したことがない相手の名前を覚えていた理由。それは、やはり日本人離れした髪と瞳の影響が大きい。大して深く考えもせずにそのことを口にしたのだが、対する悠はやや面食らった表情を浮かべていた。良いイメージのつもりだったのに、そんな表情をされると、何か気に障ることを言ってしまったのかと少し不安になってしまう。


「え? ど、どうかしました……?」

「あ、いや……、そんな風に言ってもらえたのが初めてだったので……」


 照れたように、それでも嬉しそうに頬を赤らめながら呟く悠の様子は、とても可愛らしいものだった。髪と瞳の色のイメージだけが強く残りがちだったが、よくよく見れば、その顔立ちは自分と同じくらいには女性寄りだということに今更気付く。


(ちょっとした仕草も可愛いですし、これまで何人か新しい道に引きずり込んでいそうな気が……)


 自分のことを完全に棚に上げてそんなことを考えながら、気になっていたことを口にする。


「僕は誰が相手でも敬語で話しますけど、羽崎君は別に気を遣わなくても大丈夫ですよ?」

「そ、そう? じゃあ、ちょっとだけ頑張ってみようかな? あんまり慣れてないけど……」


 苦笑いを浮かべる悠は、やはり可愛かった。


(何人どころじゃないのでは……?)


 失礼な思考のレベルを勝手に一段上げながら会話を続けていると、いつの間にか始業の時間を迎えていたようで、今年の担任の教師が教室の扉を開いた。


「はいはい、皆席に着いてねー」


 そう言いながら教壇に立って挨拶と自己紹介を始めたのは、一年生の時から名前を知っている平原先生だった。現代文や古文、漢文を担当している、もうすぐ還暦を迎える女性教師で、普段は穏やかでありながら時々茶目っ気もあり、生徒からの人気が高い先生の一人だった。


 そんな先生が担任であることに周囲が喜ぶ中、自分の意識がふと前の席に向く。その席は、依然として空席のままだ。


(遅刻? いや、欠席……?)


 そんな自分の疑問に答えてくれたのは、平原先生だった。


「色々と連絡しないといけないことがありますけど、その前に紹介する転校生がいます。先月こちらに引っ越してきたばかりだそうなので、皆さん気にかけてあげてくださいね」


 新学期始まってすぐの、間違いなく誰も想像していなかったニュースに、教室全体がその騒がしさの質を変える。これまでは喜びが大半を占めていたとしたら、今の騒がしさは期待一色である。


「ほら、あんまり騒いでいたら紹介しにくいでしょ」


 そんな空気を優しく落ち着かせるような、軽く手を叩きながらの注意だった。生徒の間に広がっていた騒めきが凪いでいくのを待ってから、平原先生が件の転校生を招き入れる。


「お待たせ、水瀬さん。入ってきて」


 呼びかけを受けて、教室の扉がゆっくりと開かれていった。その扉から少し緊張した面持ちの転校生の姿が現れた途端、多くの男子生徒が色めき立つ。


 肩の少し下あたりまで伸びた飴色の髪が柔らかそうに揺れ、優しげな雰囲気を滲ませるはしばみ色の瞳は、若干不安そうに教卓を見つめていた。緊張していてもはっきりと分かる程に整ったその顔立ちは、これからたくさんの人を惹きつけることが簡単に想像できる。


 ほんの少しだけ早足で教卓の傍まで辿り着いた転校生が、そこで立ち止まってこちら側を向く。改めて正面から見ても、誰もが第一印象で「可愛い」という感情を抱くであろう容姿だ。


 未だに緊張の色が抜けきらない転校生が、平原先生に促されて自己紹介を始める。


「初めまして、水瀬碧依です。お父さんの仕事の都合でこちらに引っ越してきました。こちらのことはまだまだ分からないことだらけで、たくさん迷惑をかけるかもしれませんけど、色々教えてもらえると嬉しいです。これから一年間、よろしくお願いします」


 ありふれた自己紹介を端的に終え、その後丁寧に頭を下げた碧依に、教室全体から自然と拍手が起こった。そんな光景に幾分か緊張が解れた様子の碧依が、平原先生と二言三言会話を交わしてから自分の前の席へ向かってきた。


 何を考えるでもなくぼんやりと眺めていると、不意に一瞬だけ目が合った。その目がどことなく面白がっているように見えたのは、自分の気のせいだろうか。そうして不思議に思っているうちに、碧依が自らの席の椅子を引いて着席する。一連の動きで揺れた髪からは、ほんの僅かだが甘い香りがした。


「それじゃあ、水瀬さんの紹介も済んだし、今日の連絡に移ります」


 その様子を確認してから、教室全体の意識を碧依から引き離すように、平原先生が切り出した。


「って言っても、今日はほとんど始業式に参加するだけですけどね。始業式が終わった後に、全員の自己紹介と明日以降のお話を少しして、今日は解散です。水瀬さんと色々お話するのは、それまで我慢してくださいね」


 せっかく引き離した意識を、早速元に戻していた。こういったところも、人気を支える一端なのだろう。


「ちょうどいい時間ですし、体育館に向かいましょうか」


 その一言を皮切りに、何人かが席を立って移動し始めた。一斉に移動が始まらなかったのは、大半がまだ詳しく知らない新しいクラスメイトの様子を窺っていたからだろう。かく言う自分も、その一人である。


 しばらくして、ようやくほとんどのクラスメイトが席を立つ。その流れに乗って廊下に出てみれば、そこも教室と同じく、体育館に向かう他のクラスの生徒で賑わっていた。そんな中で、つい先程の平原先生の一言も何のその、碧依は既に何人かの女子に囲まれている。


 たくさんの生徒が生み出す喧噪の中でも、やはり碧依は注目を集めていた。転校生だということはまだ他のクラスには伝わっていないはずなので、それだけ人目を引く雰囲気を放っているということだろう。


「早速囲まれちゃってま……、るね」


 一緒に歩いていた悠が、その様子を窺うようにして話しかけてきた。途中で言い直したのは、思わず敬語を使ってしまいそうになったのを止めたからに違いない。


「転校生の宿命みたいなものですからね、ああいうのは」

「そうだね。仕方ないことだけど、もし僕があんな風に囲まれたらって思うと、ちょっとね……」

「苦手ですか?」

「うん。自分で言うのもあれだけど、人見知り気味だから」

「ですよね。何となく気付いてました」

「え? どうしてで……、何で?」


 言い直す度に、少し恥ずかしそうに頬を赤らめる悠。やたらと可愛くて戸惑うので、できるなら是非やめてほしかった。


「何となく雰囲気がそうというか……」

「僕ってそんな風に見られてるの……?」

「誰が見てもそうだと思いますよ」

「そんなぁ……」


 そう呟いて、悠が少し肩を落とす。雰囲気も含めて全てが人見知りに見えると、そう気付いていないのは本人だけだ。たった今、本人も気付いたのだが。


「まぁ、僕も人に囲まれるのは苦手ですけどね」

「慰め、ありがとうね……」


 苦手なのは本当だが、タイミングが悪かったのか、悠にはそう聞こえたらしい。


 そんな話をしながら体育館の入り口を抜け、二年二組の列へと向かう。前から出席番号順に並ぶので、悠とはここでお別れだ。


 列の後ろの方へと歩いていくと、自分が並ぶべき場所の一つ前に、既に碧依が並んでいた。道中早くも数人に囲まれていた碧依も、流石にここでは誰にも囲まれていない。


 その横を通り過ぎて、碧依の一つ後ろに並ぶ。三十六人中三十人目ともなると、列のかなり後ろの方になる。前の碧依がやや小柄とはいえ、自分も百六十三センチと、男子としてはかなり小柄な部類だ。これだけ後ろだと、前の方の様子はほとんど見えなかった。


「……」


 背が低くて分かりやすく苦労したことはあまりないが、こういった細かなところで不便なことは多々あった。もう少しだけ成長していればと思いつつも、もう身長の伸びはほぼなくなってしまったので、これほど悲しい願いもなかなかない。


 何とはなしにそんなことを考えながら、碧依の後ろで始業式が始まるのを待つのだった。




「続いては、生徒会からのお知らせです」


 始業式が始まってから、しばらく経った。お決まりの校長先生の話はほとんど右から左へ聞き流し、その後も続く様々な話を、欠伸を我慢しながら聞くだけの時間が流れていく。周囲の生徒からも退屈そうな雰囲気が漂っていて、立って聞いていなければ寝てしまいそうな生徒もちらほら見受けられる。


 生徒会から意外なお知らせがあったのは、そんなタイミングだった。


「次で最後のお知らせです。一、二年生の宿泊学習と三年生の修学旅行に関してですが、これまで九月と十月に実施していたものを、今年度から五月に行うこととなりました」


 これには、退屈そうにしていた生徒達も流石に驚かされたようだった。九月、十月は体育祭や文化祭といった行事が行われ、並行しての準備が大変だという意見が以前からあったこと、加えて、三年生は受験が近いことが変更の理由らしい。だが、生徒達の関心はそこではないのは明らかだった。


 クラス替えからそこまで時間が経ってないので、人間関係が固まっていないかもしれないのが気になる。


 大半の生徒が気にしているところはそこだろうと、ほとんど確信を持って想像する。せっかくなら親しい友人と班を組みたいと考えるのが当然だろうが、五月までにそれができるか不安なのだろう。しかも、班決めは当日にあるわけではなく、更に早い時期にあるのだから、尚更不安を抱くのも無理もない。


 そんな小波のように広がる騒めきを残して始業式の全工程が終わり、そして解散となった。




「五月って早くない?」

「ねー。いきなり過ぎて、ちょっと不安かも」

「俺は別にどっちでもいいかなー?」

「お前みたいに友達が多いのは気楽でいいよなぁ」


 始業式後の自己紹介と連絡も終わり、普段よりもかなり早い放課後となった教室の中には、まだ大半の生徒が残っていた。一年生の時に同じクラスだったらしい数人で会話を交わしている集団が、教室のあちこちで生まれている。その話題は、やはり始業式でされた話についてらしい。今頃、他のクラスでも同じような会話一色になっていることだろう。


 しかし、このクラスだけはやや例外だった。


「水瀬さんってどこ出身?」

「生まれは……」


 目の前の席から、遠く離れた県の名前が聞こえてきた。漏れ聞こえてくる話によると、父親の転勤に伴う転校は、これが二回目らしい。


「行ったことない県だ」

「いい所だから、いつか是非」

「どこか名所とかある?」


 教室内の会話を二分しているもう一方。その答えがこれだった。


 宿泊学習も気になるが、「転校生」という言葉の誘惑には勝てなかったクラスメイトが、碧依の周りに集まっていた。積極的なのは大半が女子で、男子は尻込み気味である。可愛い女子とは親しくしたいものの、その勇気が出ないという葛藤がありありと伝わってくる。


 そんな様子を尻目に、帰り支度を終えて席を立つ。真後ろの席が空いていた方が、色々と気を遣わなくていいだろう。そもそも、これ以上残っていてもすることがない。


 一応、名前のことも含めて気にならないこともないのだが、わざわざ集団を掻き分けて声をかけるようなことを、自分がするはずがない。どうせ真後ろの席に座っているのだから、会話を交わす機会はこの先いくらでもあるだろう。


 あるいは、自分が興味を失う方が早いか、だ。


「あ、一緒に帰ろ、湊君」


 教室の後方の扉に向かって歩き出したところで、そう口にしながら悠が追いかけてきた。特に断る理由もないので、そのまま並んで学校を出る。


「隣の席が話しやすい人でよかったよ」

「どうして話しやすそうって思ったんですか? こんな話し方ですし、他人とは距離があると思うんですけど」

「え? あぁ、それは……、……えっと」


 自分では誰かに「話しやすそう」と思ってもらえるとは考えていなかったので、純粋に疑問に感じただけだった。だが、急に悠の歯切れが悪くなり、さらに目が泳ぎ出す。明らかに何かを隠している仕草だ。


「顔」

「うっ……」


 もしやと思って小さく呟いた一言に、悠が呻き声を上げた。


「自分と同じ女顔だから、何となく親近感が湧いたってところですか」

「うぅ……、正解です……」


 その反応で正解であることを半ば確信したものの、万が一ということもあり得るので、念のため確認してみる。だが、案の定答えは自分が想像した通りのものだった。


「何で分かったの?」

「まぁ、僕もそうでしたから」

「あ、ほんと?」


 そんな特殊過ぎる答えを、何故すぐに思い付くことができたのか。悠が不思議そうに問いかけてくるが、その理由は変わったものではない。単に、自分も悠に対して同じ思いを抱いていたからというだけである。


「これまで、周りに同じような人なんていませんでしたし」

「だよねぇ。色々からかわれたりもしたよ……」

「こんな顔をしてたら、仕方のないことだとは思うんですけどね」

「あ、もう諦めてるんだ?」

「いや、まだ諦めてはないです」

「どう考えても諦めてる人の言い方だったよ」

「気のせいじゃないですか?」


 滅多に共有できない思いを悠と共有しつつ、今朝も歩いた駅までの道をゆっくりと歩いていく。一人で歩いていると二十分の道程は長いものだが、取り留めのない話をしながらだとあっという間だ。気が付けば、向かう先にもう駅が見えている。


「羽崎君はどの方面ですか?」

「僕はこっち」

「じゃあ、僕とは違う電車ですね」


 駅の改札前まで来てから確認してみると、どうやら悠とは乗る電車が違うようだった。自分が利用している路線の途中で分岐する、もう一つの主要な路線である。まだどちらの電車も姿が見えず、改札すらも始まっていない状況だったが、数分もしないうちに悠が乗る電車がホームに滑り込んできた。


 それから程なくして、改札が始まったことを知らせるアナウンスが構内に流れる。


「それじゃ、また明日ね」


 既に定期券を用意していた悠が、小さく手を振りながら改札へ向かって歩いていく。


「えぇ、また明日」


 柔らかな表情を浮かべる悠にそう告げ、小柄な後ろ姿を見送る。そんな自分の視線の先で、この一年で聞き慣れた電子音を響かせながら、悠が改札を通り抜けていった。


「また明日、ですか……」


 何気なくそう返したが、それが久しぶりに口にした言葉だったことに、今更気が付いた。


 慣れないやり取りにどんな表情を浮かべるべきだったのかを迷っているうちに、自分が乗る予定の電車もその姿を現す。どうやら、思っていたよりも長い時間、あれこれと考えていたらしい。


 このまま悩んでいても仕方がないので、一旦もやもやを頭の中から追い出して改札を抜ける。向かって左端のホームに停車している電車に近付いていく途中で、悠が乗った電車がゆっくりとホームを出ていった。




 最寄りの駅で電車を降りれば、あとはマンションまで歩くだけだ。こんな早い時間に制服を着てこの道を歩くことなど、そうあることではない。少しだけ気分が浮ついているように感じられるのはそのせいか。それとも、あの言葉のせいなのか。


 数時間ぶりとなる河川敷には、今朝も見た桜の木が立ち並んでいる。この数時間で様子が大きく変わるはずもなく、目に見えない速度でゆっくりと満開への道を歩んでいるようだった。


 その河川敷を歩いていく途中で、今朝見かけた制服の中学校が現れる。ここまで来れば、マンションまではあと少しだ。まだまだ授業が始まっていなかった朝とは違って、校庭では体育の授業が行われていた。生徒が全体的に小柄であることを考えると、授業を受けているのは入学したての一年生だろうか。元気そうに校庭を駆け回っている様子は、これからの成長を予感させる。


「……」


 そこまで考えたところで、自分があまり成長しなかったことを思い出して、それ以上の思考を止める。自分はもうどうしようもないが、彼らの未来はまだ分からない。若干複雑な思いを抱えながら校庭から視線を外して、残り僅かとなった帰路を歩いていく。


 中学校が視界の外に消えた辺りで、校庭の方から一際大きな歓声が上がった。




 帰り着いた部屋は、朝とは違って鈍色に染まっていた。照明を点けると、壁紙の白が目に映る。あまり飾り気がなく、やや殺風景な何の変哲もない1Kの部屋だ。


 時刻はまだまだ午後に入ったばかりだ。冷蔵庫に残っていた材料で手早く昼食を済ませると、早速手持ち無沙汰になってしまった。


『……県内の観測地点のうち、数か所で桜が満開に近くなっています。これからの天候次第ですが、一週間もしないうちに、全域で見頃を迎える見込みです』


 帰ってきた直後に無意識で電源を入れたテレビからは、県内ニュースが流れていた。県内のどこかの公園で、桜がほぼ満開になっている様子が映し出されていた。河川敷で見た通り、県内全域での桜の満開宣言はもうすぐのようだ。


 そんな平和なニュースを横目で見ながら、明日から始まる授業の予習を進めるべく、教科書やノートの準備を始める。


『続いてのニュースです。県内で発生した児童連続誘拐事件の終息から今日で七年が経ち、今年も犠牲となった六人の遺族や近隣の住民が献花に訪れています。現場となった住宅があった場所は、現在空き地となっており……』


 引き続き県内ニュースを流しているテレビの電源を消して、音がなくなった部屋の中で机に向かう。奨学生制度を利用している自分にとって、良い成績を維持するのは大事なことだ。予習は必須ではないが、しておいて悪いことは一つもないだろう。


 教科書を開く前に頭の中に浮かんだ光景が、問題に没入するにつれて、少しずつ薄らいでいった。




 机に向かって早数時間。適度に休憩を挟みつつ、ついでに一年生の年度末あたりの復習まで行っているうちに、思いの外時間が経っていた。窓の外の空は藤紫色とオレンジ色が混ざり合っていて、既に日が地平線に沈んでいることが窺える。


「んぅ……!」


 大きく腕を伸ばし、小さく呻き声を漏らす。凝り固まっていた体が一気に解れ、それと同時に疲れが少しずつ押し寄せてきた。これ以上机に向かっていても、集中が続かないだろう。こんな時は、潔く切り上げるに限る。


 そんな訳で勉強を切り上げ、夕食の準備のためにキッチンへと向かう。高校に入学するのと同時に一人暮らしを始めた訳だが、実はそれより前から家事全般が得意で、料理は中でも得意な方だった。根本的に家事が好きだということもあるが、そうならざるを得ない事情があったのも確かだ。


 とはいえ、自分一人が食べるだけなら、そこまで手をかけないこともある。今日がまさにそんな日で、簡単に夕食を済ませて残った家事を済ませれば、あとは寝るまで自由な時間である。既に、明日の準備も終わっていた。


「あ……」


 何をしようかと殺風景な部屋を眺めて、買ってきてまだ開いていない本が何冊かあることを思い出す。ある程度まとまった時間というのは、築き上げた本の塔を切り崩すのには最適な時間だ。


 とりあえず、塔の一番下にある、読んでいない本の中では最も古い一冊を取り出す。自分の唯一の趣味と言っても過言ではない読書の時間の訪れに、予習と復習による疲れを自然と意識しなくなっていく。


 再度机に向かい、手にした本を開く。買ってからしばらく経っているのでもう忘れてしまっていたが、どうやらミステリーに分類される一冊のようだった。




「……」


 時計の秒針が動く音すら聞こえそうな静寂の中に、ページを捲る音だけが不規則に響く。自分でもトリックを考えつつ読み進めていくが、全ての真相を当てることはまず不可能だ。トリックの一部に気付くことができるだけでも嬉しいものだが、生憎話はまだ解答編まで進んでいない。


 これまで読んでいた章が終わり、切りがいいということで顔を上げてみれば、またもや思いの外時間が経っていた。一度集中すると、それが中々途切れないのが自分だった。


 時計は大分遅い時間を指している。そろそろ入浴を済ませて寝る支度をしないと、明日に響いてしまう。そう考えて、手早く入浴の準備を進めていく。取り出す着替えがとても綺麗に畳まれているところに、自分の性格が表れているような気がした。




 入浴と寝る支度を終え、しばらく体を休めてからベッドに入る。普段ならまだ眠気が訪れるような時間ではないのだが、今日は既に程よい眠気に包まれている。肉体的な疲れはそうでもないが、進級したての初日は、思った以上に精神的に疲れているらしかった。


 照明を消して真っ暗になった部屋の中、やや駆け足で近付いてきた眠気に身を委ねるようにして目を閉じる。


「……」


 寝る直前に交わす挨拶を口にしようとして、寸前のところで止める。自分以外の誰もいない部屋でそんなことを言ったところで、物悲しさが増すだけだ。それならば、余計なことはせずに早く寝てしまった方がいい。


 そんなようなことをぼんやりと考えているうちに、意識が徐々に暗闇の中へと落ちていく。


 心地よい眠りの世界が、すぐそこまで迫っていた。


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