第五話
彼女の心は、大きく揺れ動いていた。このままこの事務所にいても大成はする自信はある。
だがそれには多大な時間を割かなければいけないとも思っていた。
シンデレラストーリーのように、大抜擢される可能性を除いて、確実なキャリアアップをしていくには、認知度を上げるのに数年。そこから映画やドラマの主役を任して貰えるまで、少なく見積もって10年は要すると踏んでいた。
そうすると年は40手前になる。
脂の乗った渋い演技はできそうだが、恋愛もののキャピキャピしたヒロインはギリかもな、という思いもあった。あくまで最短の予想なので、ずれ込む可能性も考慮している。
みなみは自分が美形というのは、自覚しているため、恋する乙女を演じたい願望は常々あった。
恋愛系のヒロインに顔の整った女性が抜擢されるのは、不文律であり名誉な風潮とされているからだ。
役者人生の、女性として獲得したいステータスである。
ある時からかラブストーリー系の漫画や小説を買いあさり、家の本棚は収まりきらないぐらい溢れかえっていた。未来の自分が演じるんだと妄想しながら読み込んでいた。想いは募り、今や宿願といっていいだろう。
移籍すればその夢が実現する確率が上がるのは明白だった。打席が多ければ、多いほどチャンスを掴める。ロッドアミューズのような大手に推されれば、計画は大幅に短縮され、若くてハリのある肌を保ったまま、演技する事が出来るだろう。
彼女は決心がついたのか、顔を上げて息を吸い込んだ。肺に空気が送られ胸が膨らむ。
今か今かと待望した面持ちで、園田達は息を呑んだ。決意を固めた表情でみなみは口を開く。
「この話、謹んでお断りさせていただきます」
一瞬にして空虚な時間が流れた。断られると思っていなかったのだろう。園田は目を剥いて唖然としている。
すかさず、その顔を横目で見た岡部が、傍らから素っ頓狂な声で「なんでですか?あなたにとってプラスな話ですよ」疑問を呈した。
彼女は姿勢を正して答える。
「確かにこの話は魅力的ではあります。そちらの事務所にいけば、私が熱望してる役も、舞い込んでくる可能性も高いでしょう」
「だったらどうして?今の会社に骨を埋める気ですか?」
あなたは間違ってるよ、と言わんばかりに岡部は顔をしかめた
「そんな大層なものは持ってはいません。私の人生を使ってまでも、事務所に貢献して大きくしたいという野望なんてないです。ですが、、、」胸の中に想い出が込み上がってくる。
みなみの心を踏み止まらせたのは、苦楽を共にした、神崎 詩織という存在だ。
今までやってこれたのは詩織の支えが大きかった。
みなみが問題起こしても後処理をそつなくこなし丸く収める。
そしてみなみのワガママに根気よく応え、いきすぎた言動、行動には身を呈して指導し改善を促す。
暴君気質のみなみが、少しづつ丸みを帯び人間的に成長できたのは彼女のおかげと言っていいだろう。
みなみもその事実は心得ている。
「今の事務所には裏切れない人がいるんです。だから移籍できません。ごめんなさい」
深々と頭を下げた。以前のみなみなら、こうべを垂れる行為自体を否定して、突っぱねていたことだろう。社会的マナーが身についている事に自分でも驚いている。
園田は口をあけ瞬きを繰り返して、狼狽の雰囲気を見せていたが、急に我に帰り、近くにあったグラスを飲み干した。そして水分を纏った口元から言葉を放つ。
「左様ですか。双方にとって利害が一致する提案だと思ってましたので、舞い上がっていたのは自分たちだけでしたか」
「すいません。でもお話を頂いた時は自分が大手に認められたと、心躍らせたのも事実です。いいかなって、何回も傾きましたし最後まで悩みました」
「では翻意される可能性は、まだおありで?」
「いえ、それはないです。もう覚悟を決めたので」
最後の灯火とも言える質問に、みなみはピシャっと答えた。
先ほどまでの戸惑いを纏っていた表情から一変して、毅然とした顔付きになっている。
「そうですか」彼女の面を凝視して、決心を変えることはないなと悟った園田は、残念そうにうな垂れた。
「人様の人生を、無理強いして変えるつもりは御座いませんので、残念ですが諦める事にしましょう」顔をゆっくりあげた。
気持ちを切り替えたみたく微笑んでみせたが、無理やり笑った為、若干頬が引きつっている。
せっかくなので料理とお酒を楽しみましょう、と園田の気を利かせての発言により、
話題を変えて、残りの料理と追加で頼んだワインボトルを嗜み、談笑した。
話題を変えたといっても結局は業界の話に戻り、みなみの役者論を長々と聞く羽目になるのだが。
「今日は素敵な料理をありがとうございました。ご期待には沿えませんでしたけど」
店をでて一階の出入り口のすぐ脇にあるタクシー乗り場で、みなみはぺこりと頭を下げた。
「いえいえ、こちらもいい経験になりました。陰ながら相楽さんの事は応援致しますので、また機会があればお願いします」
「同じ業界なので現場でヒョッコリ会うかもしれませんね」
「その時は他人のフリをしてくれると有難い」
「私を誰だと思ってるんですか?どんな役でもこなす演技派女優ですよ」
そう言って彼女はにっこりと笑った。
「ハハ、それは恐れ入りました。ではお気をつけて」微笑みを返して園田は頷く。
彼女はタクシーに乗り込み「ではまた」と言って発進した。
園田達が見えなくなるまで、窓ガラス越しに手を振り続けていた。
「いやー見事にフラれちゃいましたね」
タクシーが交差点を曲がり、見えなくなった所で、岡部が呟いた。
「いけると思ってたんだがな、こういう事もあるさ」
そう言って園田はポケットからタバコを取り出し火を付けた。
相楽の手前、喫煙を遠慮していたのだろう。
ひと吸いの量が大きく吐き出した煙は、狼煙をあげたかのように、立ち込めっていった。
「よし仕切り直してもう一軒飲みに行くぞ」
「はい。お供しますよ」
2人は歓楽街を目指して歩を進める。一軒とは言ったが、反省と愚痴の論じ合いで朝までコースになるだろうなと、今までの経験から推測した。スマホを取り出し、妻に遅くなる旨を簡易に伝えた。
自宅のベットの上に寝転びながら、みなみは先ほどの一軒を思い返していた。
本当にこれでよかったのだろうか?こんなチャンスもう二度とやってこないんじゃないだろうか。
いろんな考えが脳の中を駆け巡った。しばらく瞑想にふけっていたが、やがて大きくガブリを振った。これが最良な選択だったんだと自分の体に言い聞かすかの如く。
まぁなるようになるか、とポジティブな独り言を呟いて、ゆっくりと瞼を閉じた。