12.そのころ、雲の王国では
ーーシガーラのせいだ。
あたしはくちびるを噛んだ。ぎりぎりと歯が食い込んだせいで、せっかく手入れをしているくちびるが切れてしまった。
「ねえ、マリポーサ王女。
あたし、ファング様と結ばれるのはあなたをおいて居ないと思うのです」
彼女は、心酔したような目をしてそう言った。
「ーー蛍姫の醜いこと。あれで王族だなんて恥ずかしい。王族の求心力は容姿にかかっています。
あの方ではだめなのです」
「そうは言っても、お父さまがどうしてか許可してくれないのよ。
あたしのお願いは何でも聞いてくれるのにね」
「それは、迷信を信じておいでなのですよ」
シガーラが声をひそめる。
「迷信ですって?」
「ええ。古い言い伝えにこのようなものがあります。
雲の王国から竜が消えたとき、国は落ちるだろう、と」
「あの人は、明らかに竜の末裔という見た目をしているものね。そんな迷信を信じているなんて迷惑だわ」
私が呆れて言うと、シガーラの目が妖しく光った。
「実は、反乱の動きがあるのをご存知ですか。人族の末裔だけで構成された者たちです」
「そんなもの、あたしだって標的にされてしまうじゃないの」
あたしが言うと、シガーラはころころと笑った。
「あら、姫さまは大丈夫ですよ」
意味はわからなかったが、あたしはなぜだか従うことにした。そして、それからは、シガーラの言う通りに振る舞えば間違いはなかった。
父から婚約結び直しの許可が出たとあの子が言うので、ファングとともにわざわざ宣言してやった。姉は苦しげに顔をゆがめていて、痛快だった。
それが姉を見た最期だった。
ようやく不安なことが無くなった。あの人の最期を見られなかったのは残念だったが。
あたしはあの人を見ているといつも不安になった。おぞましい鱗があるからこそ、あの人の上に立っていられるのだ。
本当は、あの人以上に美しい人間を見たことがない。
あたしに魔法の力はないはずだけれど、なぜだか使えた。
シガーラの言う通り、一字一句暗記して、反乱軍を前に泣き落としをかけたときだ。
それから手をかざすと、美しい空色の光があたりを満たし、どこからか光の蝶の大群がやってきた。
まるで神になったかのような光景に、一番驚いたのはあたしだと思う。
城の天井がぽっかりと消えていた。真っ青な空を、小さな竜が飛んでいく。
それは雨の日だった。白い大地から染み出した雨の雫が、空に向かって昇っていった。
「もう一度問う。謀反は自作自演だったのだろう?」
ファングとあたしの前には、魔王を名乗る美しい男が立っている。
その目は氷のようで、ーーあたしの美貌を持ってしても溶かすことができないと察した。けれども、やるしかない。
「ーーあたしは騙されていたのです。この男と、そこの侍女に」
あたしはここぞとばかりに、男の腕にしがみつく。
そうしてこれまで味方であった彼らと向かい合う格好になった。
ファングの新緑のような目は、まんまるく見開かれており、あたしを引き留めようとした手が所在なさげに宙に浮いている。
「侍女だと?」
男の眉がぴくりと動く。
「そんな! マリポーサ王女、どうしてそのような嘘をつくのですか」
シガーラはいかにも善良そうな顔をして、その目に涙を浮かべて見せた。
あたしは思わず舌打ちをする。そういう性格などではないくせに。
男はまるで何かを見定めるように、シガーラの顔をじっと見つめた。ーーややあって、ため息をついた。
「ーーこれでは彼女を喜ばせてやることはできぬな」
次の瞬間、激しい揺れに襲われた。王城はがらがらと崩れ、足元に確かにあったはずの雲たちが、霧散して消えていくのが見えた。
端のほうからどんどん人が落ちていく。
「なにをしたの」
あたしは男に聞いた。彼はふるふると首を振り「リュシィが消えたからだろう」と言った。
「リュシィですって?」
男に詰め寄ろうとたそのとき、か細い悲鳴が聞こえた。シガーラが堕ちて行く。
ーーかと思うと、その背中から蝙蝠のように大きな羽が生えた。
悔しそうに舌打ちをして、飛び去ろうとしている。
男のほうが早かった。
さっと手をかざすと、シガーラの羽には穴が開いた。そして彼女は、今度こそ、悲鳴を上げながら落ちていった。
「同胞だったか……」
男がぽつりとつぶやいた。
「迷信は本当だったんだ。正当な後継者がいなくなったから……」
誰かがそんなことをつぶやいた。
「正当な後継者はあたしよ!」
あたしが叫ぶと、誰もがこちらに冷たい眼差しを向けた。
「マリポーサ王女、……あんたに王族の血は入っていない。
なぜなら、王家の血をついでいたのは、亡くなった正妃だからだ」
魔王と名乗った美しい男は、落ちていく者たちの何人かを指で示した。
するとその者たちは、泡のようなものに包まれてゆっくりと落ちて行った。
「ーーどうして助けたり助けなかったりしているの」
あたしが訊くと、男は「記憶を読んでいる」と答えた。
ファングの足元が崩れた。
彼は大声であたしの名を呼び、こちらに懸命に手を伸ばしながら落ちていった。
「悪事を働いてこなかった者ならば助ける。妻が気にするからな」
ついにあたしの足元にもひびが入った。あたしは飛び退き、男の腕にすがりつく。
「助けて……!」
男はにっこりと笑い、ーーそれからあたしの手を振り払った。
「ーー妻を侮辱した者を助けると思うか?」
体が傾ぐ。落ちていく。
「妻の名は、リュシオラだ」
男がまるで冥土の土産だとでもいうように言った。
ぐるりと身体の向きが変わった。雨と一緒に堕ちていく。
その先には汚らしい茶色の大地が広がっているーー。




