怪来る庵②
「に、逃げなきゃ……!」
「どこに?」
「どこにって、それは」
「大丈夫だよ。あの化け物がうちに来たのは、昨日今日に始まったことじゃない」
玄関を見据えたまま、坂之井さんはまるで嘲笑うように唇を吊り上げた。
「それって、どういう」
「あいつは生きた人間に飽きたのか、曾おばあちゃんの生き人形を狙ってくるんだ」
部屋の隅に鎮座する、等身大の「活き人形」を振り返り……とっさに息を呑む。
暗闇の中で、私は確かに彼女と目が合った。
まるで生きている人間のそれのように《《内側に》》光が宿す、大きな二つの瞳と。
決して懐中電灯の反射ではない。ガラス玉のような瞳に煌々と、青白い光が宿っていた。
「曾おばあちゃん?」
坂之井さんが驚いたように、ぽつりとこぼす。
「なんで……まだ"核"は作っていないのに」
「……坂之井さん?」
おそるおそる呼びかけると、坂之井さんは我に返ったように私を振り返った。
バン、と玄関の扉が再び叩かれる。
『何が、欲しい?』
声ががらりと甲高く、まるで小さな子供のそれのように変化する。
けれど磨りガラスに浮かび上がった影はすでに、人の形を留めていなかった。
黒い巨岩のようなシルエットに、無数に散らばる真っ赤な目玉。奇妙に伸びた無数の腕――――――――
「ほ……本当に逃げないんですか!?」
「問題ないよ。こちらから招かない限りはね」
「え?」
「あいつは誰かに呼ばれたり招かれない限り……中にいる者の許可がない限り、建物の中に入れない。君の時もそうだったんだろう?」
硬直する私を、切れ長の目がちらりと横目に見遣る。
「おそらく車のすぐそばまで来ても、車内には入ってこなかったんだよね?」
誰かに呼ばれたり、招かれない限り。
不意に頭の奥底で、痺れるような感覚が走った。
あの時。
私のシュシュや人形を供え、祠に手を合わせながら、綾音は何と言っていただろう。
――――オグロサマ、オグロサマ。
しかし脳裏によみがえった声は綾音ではなく、お母さんのものだった。
――――小黒若菜をお召しください。
呼ばれたり、招かれない限り、入れない。
それは逆に考えれば、誰かがあの化け物を招いたということだ。
一体、誰が。
そこまで考えて、私の思考回路は真っ黒に塗りつぶされてゆく。
考えるまでもない。
「あ、ああああ……」
あの日、お母さんは人を呪っていた。
異形の神に呼かけ、憎んだ人間を名指しして、朗々とした声で呪詛を吐いた。
自分の夫を奪った、綾音の母親を。
ひたひたと水が浸るように、凍えるような絶望が胸に広がってゆく。
同時にとある光景が脳裏に閃く。
それは私自身が無意識のうちに目を背けて抑え込んでいた、痛みと絶望の記憶だった。
「そうだ、私は」
頭を抱え、髪を掻き毟る私を、坂之井さんは怪訝そうに振り返る。
「途中であいつに追いかけられて。とっさに逃げようとしたら、足下が崩れて」
長い雨と老朽化によって崩れた、古く狭いコンクリートの道路。足場を失って、私は――――崖から真っ逆さまに転落した。
焼け付くような激しい痛みに襲われ、自分の体がひしゃげる音を聞いたのを最後に、意識を手放した。
目を覚ました時、私の魂はとっくに、肉体という器を失っていたんだ。
しかも、自分でそれに気付くことはなく。
死後も尚、私はあの黒い異形の神に怯えて山道を彷徨っていた。
「私、私……」
震える声で呟くと同時に、涙が頬をつたってこぼれ落ちてゆく。
坂之井さんは少し気まずそうに、私から目を逸らした。
しかし、次の瞬間。
「あの時にもう、死んでたんだ……」
そう呟いたのを最後に、全ての感覚が白く塗りつぶされてゆく。
坂之井さんが私に向かって何か言っているけれど、うまく聞こえない。
何も聞こえなくなり、見えなくなって――――おそらくは私の全てが消えてなくなる寸前。
ほんの一瞬、ママがいつも作ってくれた、ハッカ油のにおいがふわりと漂ったような気がした。