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怪来る庵

「……乙黒町? 乙黒村じゃ、なくて」

 私が呆然と呟いた、次の瞬間。

 ひときわ大きな落雷とともに、蛍光灯の光がひとりでに、ふっと掻き消える。

「な、なに!?」

「停電だね。ライトを持ってくる」

 ビクビクと周囲を窺う私とは対照的に、坂之井さんは慣れた足取りで廊下に出ると、階段に備え付けられた懐中電灯を持ってくる。

 ライトの部分を天井に向けて作業机に置き、再び座布団の上に腰を下ろした。

「さて、どこまで話したんだっけな。とにかく君が言う『乙黒村』は、六年前に無くなっているんだ」

「なくなってるって、どういう……」

「そのままの意味だよ。そしてもう一つ、君に聞きたいことがある」

 頼りないオレンジの光が、坂之井さんの青白い顔を照らし出す。

 混乱を極める頭の片隅で、私は一瞬、何かを思い出しそうになった。

「聞くところによると、君は山道やトンネルをずっと逃げて来たそうだけど。どうしてそれほど過酷な運動をした後に一時間近く喋りつづけているのに、麦茶を一口も飲もうとしないのかな」

「……え?」

 私は呆然と、目の間に置かれた麦茶のグラスに右手を伸ばす。

 しかし指も手のひらもそれを掴むことは出来ず、まるで立体映像のようにグラスと麦茶をすり抜けた。

 飲みたくないわけでは、決してなかった。

 けれど私は先ほどから、全く喉が渇かない。

「私……私、は」

 何かを言わなくてはと、口を開いたその時。

 バシンと外壁に何かがぶつかるような、叩き付けるような音が、室内まで響き渡った。

 私たちはどちらからともなく顔を見合わせた。

 坂之井さんが懐中電灯を手に持った、次の瞬間、風雨の音に混じって玄関からか細く高い声が響いた。

『ごめんください』

 とっさに座布団から腰を浮かす。

『ごめんください』

 高くも低くもない、中低音の澄んだ声が、再び廊下に反響する。

 それは私にとって、ひどく馴染みのある声だった。

「うそ……ママ?」

 玄関の磨りガラスに、外から差し込む逆光を背に、ぽつりと細い人影がひとつ浮かび上がっている。

 私は立ち上がり、ふらふらと玄関に向かった。すると坂之井さんが行く手を阻むように、私の目の前に立ちはだかる。

「違う」

「え? でも、ママの声……」

「そうかもしれないね。でもこの台風の中、山に登ってくる人間がいると思うかい? 百歩譲って君の母親だと仮定しよう」

 眼鏡の奥の切れ長の瞳が、どこか鋭く冷たい色を帯びる。

 押し黙る私を、坂之井さんは低く抑えた声で続けた。

「じゃあどうして君の母親は、君がここにいると分かったんだい?」

「そ、それは……」

「母親の他に、警察や地元の青年団みたいに、君の捜索に協力してくれた人たちと一緒に行動しているならまだ分かる。でも変だね。誰一人として玄関のインターホンを押さないし、他の人の声が全然聞こえてこないよ」

 返す言葉につまると、坂之井さんは憐れむような視線を私に向ける。

「何より娘を迎えにきた親なら、まず保護をした僕に自分の名前を堂々と名乗って礼を言うんじゃないかな?」

 固く低い声がそう断じる。同時に、バシン、と叩き付けるような音とともに、玄関の引き戸がわずかに揺れた。

「じゃあ、あれは」

「覚えておくといい。あいつらは……生き物でも人間でもない《化け物》は、尋ねられても決して名乗らないそうだよ」

 夏帆がおそるおそる、玄関の方を見る。曇り空からかろうじて差し込む薄暗い光に照らされた人影が、ひしゃげるように歪み、丸く膨れ上がった。

「ひっ!?」

『ごメん、クダさ――――――――』

 その瞬間、落ち着いた中低音の声が、ぐにゃりと音程を歪めた。語尾は言葉の体を成さず、低く濁った唸り声に豹変する。

「!」

 バシン、と叩きつけるような音とともに、玄関扉の磨りガラスに真っ黒な手形が浮かび上がった。

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