怪訪
「もう駄目だと思いました。私もママや綾音みたいに、オグロサマに食べられると思った。でも目を覚ますと車の中にいて、あの怪物は忽然といなくなっていたんです」
ひと息でそう言って、少女はあえぐように息を吸った。
僕は作業机の上で肘をついたまま、肩で息をする目の前の少女をじっと見下ろす。
「目を覚ました時には辺り少しずつ暗くなりはじめていて。その時、おそるおそる外に出てみても、あの化け物の気配はありませんでした。だから」
逃げるなら今だと、少女は思い悩んだ末に決断したらしい。
とにかく山を降りて麓の町で助けを求めようと、車に備え付けの懐中電灯で周囲を照らしながら、来た道を走って山を下りようとした。
「途中で何度も迷いながらも、トンネルを抜けて、懐中電灯もいつの間にかなくしちゃったんです。途方に暮れてたらこの家が見えたから、無我夢中で……」
「なるほどね」
僕は二杯目の麦茶を飲み干し、少しずれた眼鏡を指で押し上げる。
「祭りの日に禁忌を犯す少女に、髪を巻かれたヒトガタ。異形の神をマレビトとして祀る村……なかなか示唆に満ちた、興味深い話だったよ」
「……作り話じゃありません!」
僕の言葉に、少女は耐えかねたように叫ぶ。
「嘘じゃないんです。信じてもらえないかもしれないけど、本当なんです!!」
目に涙を浮かべてまくし立て、キッと僕を睨む。
そんな少女に、僕はどこから説明すべきか少し困った。
ぽりぽりと頭を掻いて、作業机の一番下の引き出しから一冊の本を取り出す。
「まあまあ、落ち着いて。君を信じてないとも、嘘をついているとも一言も言ってないよ。作り話だとも思ってない」
「…………」
にわかに弁解すると、少女は半信半疑の眼差しを向ける。
「とりあえずこれを見てくれないかな。前に友人がうちに遊びに来た時、忘れていったガイドブックでね」
表紙をめくり、付録の地図のページを少女に向ける。
僕が指差した先を見て、彼女は怪訝そうに目をしかめた。
「え? 旧、乙黒村跡地……?」
「そう。乙黒村は六年前の市町村合併で、ここ狭竹市に合併されたんだ」
「六年前? そんなこと、私……」
聞いたことがない、と続けようとして、少女は口を閉じた。困惑しつつも再び、地図に視線を落とす。
旧乙黒村跡地と書かれた隣には「乙黒山」がある。
乙黒山に隣合う、おそらく目の前の少女が住んでいたであろう区画は、既に「乙黒郡」ではなく「狭武市」と記載が変わっている。
「跡地って、どういう」
「八年前、乙黒山に大規模な土砂崩れが起きてね。乙黒村とその周辺に、かなり大きな被害が出たんだ。村の半分は土砂に押し流され、六十人を超える死者を出した」
呆然と自分を見上げる少女に、僕は眼鏡の奥の瞳をかすかにすがめる。
「面積を半分、人口を三分の一以上も失った乙黒村は、土砂崩れの二年後にここ狭竹村に合併されることになった。かつて乙黒郡乙黒村と呼ばれていた場所は、今は狭竹市乙黒町と名前が改められたんだ」