黒き神④
それから何事もなかったかのように、ママは私を連れて山を下りる。
路肩に止めた軽自動車に乗って、二人で家に戻った。
その後も結局、優奈ちゃんから聞いたパパと綾音のママの噂を大人たちに確かめることができなかった。
噂は単なる噂にすぎなかったのか、それとも二人とも私の前では「仲の良い夫婦」演じていたのか。
両親の仲は一見、いつもと変わらないように見えた。
ただひとつ、パパが不自然なほどママに気を遣っている点を除けば。
私たち家族は引越しの準備を着々と進めながら週末を迎え、乙黒村を出て東京へと向かった。
――――――――しかし。
「……おかしいな」
山道に車を走らせていたパパが、焦ったように呟く。
助手席のママがちらりと右を向いた。
「どうしたの?」
「そろそろ下りの道が見えてきてもいい頃なのに」
言われてみると確かに、一時間ほどずっと山道を登っているような気がする。
パパはしきりに首をかしげながら、車を路肩に停めた。
スマホで地図を検索しようにも、圏外の表示が出てしまう。
とりあえず道なりに走ればどこかしらには出るだろうと、パパは気を取り直してエンジンを入れようと車のキーを回す。
しかし何度回しても、エンジンはかからない。
「あれ、エンストか? 参ったな……」
「え、どうするの?」
思わず口を挟むと、パパはシートベルトを外した。
「スマホが圏外じゃ修理業者も呼べない。この近くに公衆電話があったはずだから、それで電話してくる」
そう財布を片手に車を降り、ビニール傘を差して来た道を戻ってゆく。
「大丈夫かな……」
「大丈夫よ、公衆電話なら非常用のダイアルもあるだろうし」
ママはそう言いいながら、少し不安そうに周囲を見回した。少し強い雨がひっきりなしにフロントガラスを叩く。
ワイパーが止まった窓はあっという間に水滴で埋め尽くされ、外の景色がとたんにぼやけて輪郭が散らばってゆく。
パパが車を出ていってから、五分ほど経った頃。
どん、と雷のような轟音が、どこからか響く。同時に、足下が大きく揺れた。
「えっ、なに!?」
がくん、と縦にゆさぶられる浮遊感に見舞われ、とっさに目の前の運転席のシートにしがみつく。
ママも頭を両腕でかばい、助手席でうずくまった。
揺れは一瞬で収まり、私とママはおそるおそる顔を上げた。
遠くで轟音の余韻を引きずるような、聞いたこともないような地響きがまだ続いていた。
「今のって、地震? すごい音してたけど」
「……夏帆は車で待ってて。ちょっと様子を見てくる」
そう言って、ママはスマホを片手に助手席を降りる。
「待って、ママ」
「大丈夫、すぐ戻ってくるから」
折り畳み傘を差し、パパが降りて行った方に向かって小走りに駆け出してしまう。
不安のあまり私もドアを開けようとした、その時。
すぐ横の茂みから飛び出した「何か」が、ママの前に立ちはだかった。
「!?」
自分の目を疑った。ママが呆然と立ち止まる。
真っ黒な影にも似た何か。
それは明らかに、以前見たときより一回りも二回りも大きくなっていた。
人の何倍もの高さのある大岩のような体には、無数の赤い目玉が開いている。
「えっ……?」
ずるりと伸びた長細い腕が、ジーンズに包まれたママの右足を掴む。
「やっ……」
次の瞬間、ママの体は地面に引き倒され、化け物に向かってずるずると引きずられてゆく。
「……いやあああああ! 離して、離してええっ!!」
耳をつんざくような悲鳴とともに、ママの体は真っ黒な影に溶け込むようにして、一瞬で消える。
「うそ……」
カタンと固い音を立て、スマホが地面に転がり落ちる。
目の前で何が起きたのか、分からなかった。
ママが消えた。
茶色いウサギみたいに、綾音みたいに、あいつに吸い込まれるようにして――――
「うそでしょ……?」
無数の赤い目玉が一斉に、じろりと私を見た。
その瞬間、蛇に射すくめられた蛙のように、自分の体が硬直するのが分かった。ひゅっと空気音を立てて、喉が引き攣る。
ずるり、と真っ黒な体から次から次へと腕が突き出されてゆく。
化け物はまるで蜘蛛のように、何本もの腕で地面を這うように、明らかに私を目指して進んでくる。
「あ……ああああ……」
どうして。
ここは乙黒山じゃないのに。
あの化け物がこんなところにいるはずがないのに。