黒き神③
ここ数日降り続いた雨でぬかるむ山道を、ママはものともせず登ってゆく。
すぐに中腹にある、小屋のような社が見えてくる。
ママは立ち止まることなく、それを素通りした。
そして奥にぽつりと建つ小さな祠に向かって歩いてゆく。
私は心臓の鼓動がいよいよ早くなってゆくのを感じ、レインコートの上から胸を押さえた。
しかし祠に向かったと思いきや、ママはそこも素通りした。
更に奥へ奥へと、足元に茂る草木を踏み分けながら山道を登ってゆく。
そうしてママの後をこっそり追って二十分ほど登ったところで、前方に小さな赤い鳥居が見えた。
鳥居の向こうには遠目にもボロボロな、寂れた小さな社が経っている。
ママはこの村に来たばかりの時と同じように、鳥居をくぐる前に小さく一礼した。
もしかしてあの時と同じようにお参りに来たのかもしれないと、にわかに脱力しそうになる。
でもこんな雨の日に、わざわざ山を登るだろうか。
ママは社の前にしゃがみ込むと、背中を丸めて手を合わせた。
「オグロサマ、オグロサマ」
聞き慣れた、低くも高くもない済んだ中低音の声が、雨音の合間を縫うようにしんしんと響く。
「――――どうか小黒若菜をお召しください」
それは以前、綾音が祠の前で唱えていた言葉とひどく似通っていた。
小黒……きっと、本家のおばさんの名前だ。
社の前で手を合わせるママの後ろ姿に、不意に記憶の中の綾音のそれが重なった。
心臓の鼓動がどんどん加速してゆく。
体が地面に縫いつけられてしまったかのように動けない。
ママはしばらく手を合わせていたけれど、やがて立ち上がり、切り立った岩の上から麓の村を見下ろした。
私は木の陰から出て、ママの背後に近寄った。
社の前に置かれた何かが目に入る。それは一週間前、ママが家の前で拾ったという白いハンカチだった。
「……なにしてるの、ママ」
背後から声をかけると、ママはゆっくりと振り返り、私を見てにこりと笑う。
それはいつもと同じ、ママが私に向ける笑顔だった。
「夏帆。どうしたの、こんなところで?」
「ママこそ今、何してたの?」
「虫除けはちゃんとした?」
「虫除けって……」
レインコートの中で、背中に冷たい汗が流れ落ちる。
「ねえ、ママ。そのハンカチ」
「ママね、神様にご挨拶していたの。パパも夏帆も皆、元気で過ごさせてくださって、ありがとうございました。お世話になりましたって」
声を荒げているわけでも、まくし立てているわけでもない。いつもと変わらない調子で私の言葉を遮る。
目を見開く私に背を向けて、ママは岩の上から乙黒村を見下ろした。
「言ってなかったけどママね、子供の頃この村に住んでた時期があったの」
「……え?」
「十歳までいたけど、両親が離婚して、伯母さんの養子に引き取られて苗字が変わったから、誰も気付いてないみたい。ここは変わらないなあ。村の人もお祭りも、この山も神社も神様も、みーんな……」
そうひとりごちて、眼下に広がる小さな村を眺める。
けぶる雨に打たれて岩の上に立つママの後ろ姿は、地面から立ちのぼる霧に霞んで消えてしまいそうだった。