間章 小休止
「……それから一ヵ月後に私たち家族が乙黒村から引っ越すまで、とうとう綾音は見つかりませんでした」
私が語る言葉を、坂之井さんは口を挟まず、じっと耳を傾けてくれた。
蛍光灯をつけてはいるがどこか薄暗く、閉じた部屋の中で、雨戸を叩く雨の音が反響する。
「自分があの山で見たものを、誰にも……ママにさえ言えませんでした。正直に言ったところで、絶対に信じてもらえるわけがないと思ったから」
「…………」
「だってそうでしょ? 真っ黒な影みたいな化け物が、目の前で綾音を食べてしまいましただなんて、警察の人にも家族にも言えるわけないじゃないですか」
そこで言葉を区切ると、私はふと違和感を覚え、口を閉じた。半袖からはみ出す腕をさすり、そこはかとなく周囲を窺った。
「どうかした?」
「いえ、その……なんだか視線を感じるような」
不安そうな私に、坂之井さんは薄い唇を吊り上げる。
「ああ、気のせいじゃないよ」
「え?」
「もう一人いる。君のななめ左後ろにね」
私は怪訝に思って、後ろを振り返る。
体を半分ひねったところで、自分の顔が強張るのが分かった。
薄暗い和室の隅、障子戸と壁でそれぞれ背と左肩を支えるようにして、等身大の女性の人形が鎮座している。
そのあまりに精巧なつくりに、思わず固唾を飲む。
白磁のようになめらかな肌に、大きく見開かれた黒目がちな両目。すらりと通った鼻筋も、みずみずしく朱い唇も、生きている人間と見分けがつかない生々しさがあった。
驚くと同時に、頭の片隅に疑問が生じる。
等身大の、これほど大きな人形がすぐ近くに置かれていたのに、何故今まで気付かなかったのだろう。
「これって……人形、ですか?」
「活き人形を見るのは初めてかな」
「いき人形?」
私の反応に、坂之井さんは分厚い眼鏡の奥の目をすがめた。
「生きている人間見分けがつかないくらいとそっくりに作られた、等身大の人形をそう呼ぶんだ。これは僕の曾祖父が、曽祖母を模して作ったものでね」
おそるおそる、私は人形に目を凝らす。
「坂之井さんの、ひいおばあさんを……?」
白く、線の細い顔は、確かに坂之井さんと似ているようにも見える。
しかし、それ以上に――――――――
「……綾、音?」
この人形の顔は、あの子に似ていた。
白く小さく、人形のように整った顔に、いつも不機嫌な表情を浮かべていた女の子。
「あやね?」
「その……さっき話した私と同い年の、本家の女の子です。顔が、なんだか似てると思って」
坂之井さんは「へえ」と意外そうに身を乗り出した。
ほんの一瞬、見開かれたガラス玉のような両目と視線がかち合ったような気がした。
まるで吸い込まれそうなほど大きな、かすかに青みのかかったとび色の瞳。
こうして見ると、人形にはとても見えない。色や光沢といい、生きている人間の瞳にそっくりだった。
黒々と描かれた瞳孔の奥に、決して室内照明の反射だけではない、内側から発せられるような光が宿っているように見えて、思わず目をこする。
ふと横から視線を感じて振り向くと、坂之井さんが私をじっと見ていた。
「すみません。じろじろ見ちゃって……」
「ああ、別に気にしてないよ。この人形を見た人は大抵、あまり見ないようにするか、じろじろ見るかのどちらかの反応だからね。それに曾祖母は生前、怪談や不思議な話が大層好きだったから、きっと君を歓迎していると思うよ」
「怪談って……」
その言葉にかすかな違和感を覚えたのも束の間、水のような失望が胸の内側で広がった。
突然押しかけて助けてもらっておきながら、現実離れした話まで信じてほしいだなんて思うのは、図々しいと頭では分かっている。
実際に自分が彼の立場だったら、初対面の子供にこんな話をされてもにわかには受け入れられないだろう。
ぎゅっと唇を噛みしめ、膝の上の拳を握る。
「それで同級生の女の子を呑み込んで消えた怪物はどうして再び、君のもとに現れたのかな?」
「…………」
それでも私は心のどこかで、坂之井さんは自分の話を信じてくれるのではないかと期待していた自分に気付く。
けれどこの人は私が体験した恐怖を、単なる「怪談」だと思って面白がっている。
「……わかりません」
そう答える声が、かすれて震えた。
ここから先は、思い出すのも忌まわしい記憶しかない。
「でも、あの化け物は突然姿を現したんじゃい。たぶんあの山の中に、ずっといたんだと思います」
震える声で続けた時、遠くで落雷の音が轟いた。先ほどより更に勢いを増した雨と風が、屋根や壁を容赦なく叩き続ける。
建物全体がカタカタと震え、出された麦茶の表面が小さく揺れた。
「だってあいつは……オグロサマは」
絞り出すように続けた私の言葉に、坂之井さんは眼鏡の奥の瞳を興味深そうにすがめた。