乙黒村⑩
「じゃあ君は小黒さんの家にプリントを届けに行ったけど、綾音ちゃんの姿は見なかったんだね?」
対面に座る警察の人に尋ねられ、私はおずおずと頷いた。
「はい……」
「その時、何か変わったことはなかった? 不審な人がいたとか、見慣れない車があったとか」
少し迷ってから、一番無難だと思える答えを絞り出した。
「……わかりません。でも、特には」
その人は調書をとっていた婦警さんと目配せすると、「ご協力ありがとう」と取調室を出るよう私に促した。
取調室を出て正面玄関に向かうと、ロビーには鈴音が座っていた。
黒いベンチに腰掛け、足をぶらぶらと揺らしていたが、鈴音は私に気付くと立ち上がった。
「ありがと」
「え? 何を……」
「夏祭りの時、プリント届けてくれて」
「……そんなこと、別に」
どうってことないよと言おうとして、うまく声が出てこない。黙り込む私を気遣うように、鈴音は
「姉ちゃん、もしかすると出てっちゃったのかも」
と言ってため息をついた。
「……え?」
「口では他所者とか本家とか偉そうなこと言うけどさ、本当はずっと家からもこの村からも出ていきたがってたんだよね」
そう言って、再びベンチに腰を下ろす。
「今さらこんなこと言っても、言い訳にしかならないけどさ。あんたに意地悪したのだって、きっとうちのお母さんが喜ぶからだったと思うよ」
「そう、だったの?」
「うん。うちで一番あの人が本家とか分家とか、誰が誰より偉いとか格下だとか、お金持ちとか貧乏とか、そういのにこだわってるもん。私らの前ではずーっと誰かの家の悪口言ってるから」
ため息交じりに膝を抱える鈴音の顔は、やつれていた。
自分より年下の小学生には、とても見えないほど、色々なことに疲れ果てた、くすんだ顔をしていた。
「あんたんちのお母さん美人やったから、気に入らんかったんやと思う。だから姉ちゃんも、あんなことしたんやろうけど」
ずっと不思議だった。
どうして綾音は初対面だったはずの私に、あれほどの敵意をむき出しにしたのか。
他所もんには分かららへんわ――――そう面と向かってそう吐き捨てた綾音の声が、鼓膜の内側で不意によみがえる。
あの子は確かに私を憎んでいた。
でも同時に、他所から来て、乙黒村からまた東京に戻ってゆく私のことを羨んでもいたのかもしれない。
「髪の毛……」
鈴根が膝から顔を上げる。
「え?」
「……あの時、姉ちゃんが切ったって分かってたのに、黙っててごめん」
湿って、語尾がしぼんでゆく鈴音の声に、不意打ちのように、目の奥が痺れて熱くなる。
「いいよ。本当にもう、気にしてないよ」
諭すように言うと、鈴音は姉とはあまり似ていない浅黒い顔をくしゃりと歪め、膝に顔を埋めた。
一年前の、あの時。
私が綾音を頭から拒絶せず、少しだけでも歩み寄っていれば、もっと違う結果もあったのだろうか。
今となっては、知りようもないけれど。
唇を噛みしめると、じわりと生臭い血の味が舌の上に広がる。
鈴音が声を押し殺して泣く隣で、私は他の大人が来るまでの間、何もせずじっと座っていた。
三日後には警察の捜査が再開される。
その際に乙黒山で彼女のサンダルが片方だけ見つかると、当初は家出だろうと楽観視していた村の人たちの間に、不安と焦りが漂い始めた。
不思議なことに、綾音が供えた人形が発見されたという話は出ていない。
その後、三週間近くに及ぶ捜索や山狩りにも関わらず、綾音が発見されることはついになかった。
この山に囲まれた古い村には防犯カメラなど数えるほどしかなく、学校、お祭り会場、工事中のトンネル、国道沿いの横断歩道に設置されたいずれの機器にも彼女の姿は映っていなかったという。
そして、綾音の失踪から一ヵ月が過ぎた頃。
三ヵ月前に再開したばかりの乙黒山のトンネル工事は、再び中止となることが正式に決まった。
お父さんの転勤は切り上げとなり、私たちは乙黒村から東京に戻ることとなる。