乙黒村⑨
空気を震わせるような、低く震えた声に気圧され、体が竦むのが自分でも分かった。
「オグロサマ、って……」
「他所もんには分からへんわ。この山に昔からおるカミサマや!」
一年前のゴールデンウイークの時の不貞腐れた女の子とは、声から顔つきまでまるで別人のようだっだ。
ぎらぎらと底光りする目に追い立てられるように、私はじりじりと後退る。
すると不意に、人形のような白い顔に影が差した。
「!」
「お前らなんか、皆喰われて……」
そう詰りかけて、綾音は不意に口をつぐんだ。
私の視線の先をたどって、背後を振り返る。
「……え?」
私は一瞬、綾音の影が膨らんだのかと錯覚した。
彼女のすぐ後ろに大きな、黒い「何か」が迫っている。
それを見た瞬間に思い出したのは、引っ越してきたばかりの頃、お母さんと一緒にこの神社にお参りに来た時に見た茶色いウサギと――――それを呑み込んだ真っ黒な影のようなものだった。
ただその時と決定的に違うのは、影の大きさ、そして真っ黒な体にいくつも開いた真っ赤な目玉たちだ。
綾音の喉から「ひっ」と引き攣った悲鳴が漏れた。
ずるり、とありえない長さと方向に伸びた腕に、綾音は右手を捕まれる。
「……っあ!?」
次の瞬間、それに引きずられるように、綾音の華奢で小柄な体ががくんと傾いた。
「やめっ――――――――」
ガパ、と大きく口を開く。
本当に口かどうかはわからない。
ただ洞穴のように開いた赤黒い口内には、割れた岩のような灰色の牙が不揃いに並んでいた。
まるで掃除機に吸い込まれてゆくかように、一年前のウサギのように、綾音は音も無く、化け物の口の中に飲み込まれて消える。
彼女が履いていた茶色い革のサンダルが片方、山道を転がり落ちてゆく。
長い髪の毛がずるりと吸い込まれて見えなくなった瞬間、私は腰を抜かしてへたり込んだ。
「あ、ああ……」
無数の目玉がぎょろりと私を見た。
真っ黒な化け物がずるずると這いずるように、すぐ間近まで這って迫ってくる。
肉が腐ったようなひどく生臭い、湿った息が顔にかかった。
私も喰われるのだろうか。あのウサギや綾音のように。
しかし固く目を閉じた次の瞬間、すぐそばにあった大きな気配がふっとかき消える。
おそるおそる瞼を開くと、化け物の姿はなかった。
「…………え?」
髪の毛を首に巻かれたぬいぐるみと、片方のサンダルだけが、ぽつりと残されていた。
がくがくと震えのおさまらない体を引きずって、私は山を下りた。
家に着く頃にはあれほど晴れていた空は分厚い雲に覆われ、ぽつぽつと小雨が降り出す。
山で起きたことを誰にも話せないまま、夜が来た。
午後十時を過ぎる頃には「綾音を見なかったか」と、本家の人たちがうちにくる。
本当のことなど到底言えるわけもなく、ただ「知らない」とだけ答えた。
翌日は朝から、村中の人たち総出で綾音を探し回った。
しかし翌々日にはこの辺り一帯に台風が直撃し、警察による野外の捜査は一度中止となった。
その間、私たち家族やクラスメイトたちも事情聴取を受ける。けれど何一つとして有力な手掛かりは出てこなかったらしい。