乙黒村⑧
翌日には体調もすっかり回復し、校外研修に参加した。
この地域で夏休みの校外研修といえば、夏祭りの手伝いとぼぼ同じ意味だ。子供みこしの飾りを作ったり、ポスターを描いたり、神社の掃除や出店の手伝いをしたり。
お祭り当日よりも準備の方が楽だと聞いたから、私は優奈ちゃんと一緒に神社の掃除係を選んだ。
終了時刻の十一時より少し前に終わって、神社で解散する。帰ろうとしたその時、社の木陰に見覚えのある人影を見つけ、思わず駆け寄った。
「あの、昨日はありがとうございました」
少し緊張しつつも声をかけると、その男の人は「ああ」と振り返った。
「もう体調は大丈夫?」
改めて見ると、背の高い人だった。
165センチの私より頭一つ分高い。
そして優奈ちゃんが言った通り、確かにかっこいい。
引き締まった筋肉質な体にシンプルな黒いTシャツと、青のチノパンという組み合わせが、地味なのにすごく似合っている。
「軽い熱中症だったから、すぐ治っちゃいました。ママが何かお礼をしたいって……」
「いいよ、気にしないでくださいって親御さんに伝えておいて。俺だってここでお世話になっているからお互い様だよ」
なんでもないことのように言って、さらりと笑う。
日に焼けた肌や、屈託のない笑顔に、少しドキッとした。
こういうお兄ちゃんがいたらいいのになあとひそかに思って、頬にかっと熱がのぼる。
「お兄さん、夏祭りでオグロサマ役をするんですよね」
「うん」
「……今からでも断った方がいいと思います」
思い切ってそう言うと、お兄さんは驚いたようにぱっちりとした目を見開いた。
「去年、私のパパもオグロサマをやったんです。顔は真っ黒に塗られるし、泥だらけの着物を着なきゃいけないし、悪目立ちする役だし」
黙って聞いていたお兄さんは、小さく吹き出す。
「心配してくれたんだ?」
「小さな子供にだって大泣きされますよ。きっと誰もやりたがらない役だから、何も知らない旅行者とか、他所から来た人にやらせてるんだと思います!」
笑われてしまい、顔がカッと熱くなる。
「そっか、教えてくれてありがとう。でも他所から来た人がオグロサマの役をするのは、たぶんオグロサマが来訪神だからだよ」
「……らいほうしん?」
「地域の外からやってくる神様のこと。マレビト信仰といって、地域の外からやって来る神様が幸福をもたらしてくれるという、昔から日本各地に根付いた考え方なんだ。そういう神様は秋田のなまはげのように、恐ろしい異形の姿形をしていると考えられているから、来訪神に扮する時は仮面をかぶったり、体中に泥を塗ったりするのは珍しくないんだ」
外からやってくる、恐ろしい姿形をした異形の神様。
オグロサマに扮したお父さんが、お神輿の後について歩く姿を思い出す。顔を真っ黒に塗って、泥だらけの着物で村をそぞろ歩きする神様は、幸福をもたらすものというイメージには到底結びつかない。
にわかにお兄さんは眉をひそめ、二の腕を掻いた。
見れば陽に焼けた腕にぽつりと、虫刺されの跡が赤く膨らんでいる。
少し迷ってから、私はスポーツバッグから小さなスプレーを取り出した。
「あの。良かったら虫除け、使ってください。手作りだけどよく効くんです。かゆみ止めにもなるし」
断られるかもと思いつつもおずおず差し出す。
お兄さんは受け取り、物珍しそうにスプレーを蛍光灯の光にかざした。
「すごいな、君が作ったの?」
「ううん、ママが。うちで育てたペパーミントとセージをホホバオイルに漬けこんで、精製水と混ぜて」
お兄さんはキャップをとると腕にスプレーし、鼻を近づけてにおいを嗅ぐ。
「いいなあ、においも市販の虫除けよりきつくなくて、爽やかだし。ミントから手作りだなんて、すごいねお母さん」
お兄さんにとって、何気ない社交辞令だったかもしれない。
それでも私は嬉しくて、なんだか泣き出しそうになってしまった。
「……気分が悪いときに、おでこや首元に少しだけ吹きかけてもいいらしくて。ママがいつも持ち歩けって、うるさいんです」
「へえ。もしかすると虫除けだけじゃなくて、魔除けのお守りなのかもしれないね」
「お守り?」
「ハーブの香りは古くから色々な国で、魔除けや邪気払いに効果があると信じられてきたんだ。爽やかな香りが悪魔や妖怪を退け、健康と幸運をもたらすと」
ハーブが魔除けだなんて、初めて知った。
ふうん、と感心する私に、お兄さんはスプレーを手渡した。
二日後の夏祭り初日、お兄さんが扮する真っ黒な神様は、去年パパがしたのと同じようにお神輿の後について町中を練り歩いた。




