乙黒村⑦
「今年のオグロサマ、夏帆のパパがやるんでしょ?」
夏休み中の校外研修でそう声をかけてきたのは、私と同じように三年前に県外から引っ越してきたという真由香ちゃんだ。
「あれって大変だよねえ。知ってる? 泥だらけの着物きて、墨で顔じゅう真っ黒に塗るんだよ」
「えっ、なにそれ……」
オグロサマは神様の役だと聞いていたから、予想外だった。
泥だらけの着物だなんて、そんな汚い格好をするのかと驚く。神様ってもっと神々しくて綺麗なものだと思っていたのに。
「うちのパパも引っ越してきた年にやらされたんだよ。タオルが真っ黒になって、ママすごく怒ってた」
子供神輿の飾りつけをしながら、真由香ちゃんはさもおかしそうにケタケタ笑う。
私もつられて笑ったけれど、内心、パパは大変な役を押し付けられたんじゃないかとヒヤヒヤした。
真由香ちゃんが言っていた通り夏祭り当日、パパは真っ黒なボロボロの着物を着て、お祭りの実行委員の人たちに顔を黒く塗られていた。
習字で使う墨汁ではなく備長炭の粉を水で溶いたもので、目や口の中に入っても害はないらしい。
仕上げにと、ぞろりと裾の長い着物を着たパパは、他の人たちの手で泥や落ち葉をまぶされる。
事前に言っていた通り、パパの役はごく単純だった。
小学校の近くの神社から出発する二台のお神輿の後ろから、歩いてついていく。
ただ、それだけだったけれど……
「うわああああああん! おうち入る!」
「おかあさん、こわい! やだああああああ!!」
顔を真っ黒に染めて、ずるずると裾の長い着物を引きずって歩くパパの姿を見た小さな子たちが怯え、火が点いたように泣き出す。
とたんに甲高い泣き声が祭囃子をかき消すように響き渡り、お母さんは怖がって号泣する自分の子を必死にあやしていた。
自分に向けられる何ともいえない視線に、パパも肩身が狭そうに縮こまり、うつむいて歩く。
一緒に見物していた真由香ちゃんと優奈ちゃんが、気の毒そうな視線を向けてくる。
「……写真撮ったし、私帰るね」
なんだか見ていられなくて、私は二人に断って一足先に家に帰った。
お神輿のルートを避け、少し遠回りして、最近覚えたばかりの人通りの少ない裏道を通る。
とぼとぼと歩いていると、畑で草をむしっていた近所のおばさんがつかつかとこちらに歩み寄ってきた。
「あんた、今村さんのところの子やろ」
「は、はい」
いきなり喧嘩腰に尋ねられ、半ば気圧されるように頷いてしまう。
「あんたんちのお母さん、家の庭にミント植えとるやろ。迷惑やでやめろ言うといて。ああいう草はものすごい増えるで、早いこと除草剤撒いてもらわんと困る」
何のことを言われているか、さっぱり分からなかった。
「あの、植えてません」
「は? 嘘や、ホームセンターで種買ってはったやろ」
「ミントは家の中でしか育ててません。庭で育ててるのは他のハーブです」
お母さんは確かに、ペパーミントを育てている。ミントティーにしたり、ハッカ油を作ったり、料理に入れたり、色々なことに使う。
けれど庭の畑ではなく、個別のプランターや植木鉢に植えている。
繁殖力が強く、他の植物と一緒に育てられないからだ。
しかし、おばさんは顔をしかめて
「なんやよう分からんけど、ちゃんと言うといて。こっちの畑まで種が飛んで来たらかなわんわ」
と面倒そうに吐き捨てると、田んぼに戻っていってしまった。
私も分かってもらえるまで説明するのが面倒になって、おばさんに背を向けて四辻を曲がる。
しばらく歩くと、乙黒神社が見えてきた。
お祭りだというのに、もう一つの神社とは対照的に、ここは相変わらずひと気がない。
しかし通りすがろうとしたその時、鳥居の向こう白い人影が現れた。
「……え?」
すらりと細く小柄な体に、真っ黒な長い髪。
人形のように綺麗な、でもどこか気だるそうな、色白な横顔は、たった一度会っただけなのに忘れられない。
始めて合ったその日、私の髪を切った女の子――――綾音だ。
白いスーパーの袋を片手に提げ、真っ白なワンピースを着た綾音が、慣れた足取りでけものみちをどんどん登ってゆく。