乙黒村⑤
うちに帰る、とママは綾音に切られた毛先を整えてくれた。
翌日には引越しの片付けを後回しにして、車で一時間くらいかかる隣町の美容室まで、私を連れて行ってくれた。
「ごめんね、夏帆」
美容室の帰りにカフェでお昼ご飯を食べながら、ママはため息交じりに呟く。
「え?」
「まさかあの家の子が、あんな子だとは思わなかったの。髪を勝手に切るなんて」
「別にママは悪くないじゃん」
「でも、せっかく伸ばしてたのに」
「また伸ばせばいいんだし」
とっさにそう返してしまったけれど、気にはしていた。
昨日の変なおかっぱ頭よりは綺麗なミディアムボブにカットしてもらったけど、ずっと長かったから初めてのボブはなんだか男の子みたいで、何度鏡を見ても慣れない。
何より綾音にされたことを思い出すたびに、イライラして気が沈んだ。
「……夏帆。ちょっと寄り道してこっか」
ママは私を、帰り際にとある場所に連れて行く。
そこは山の中にある、かなり古い神社だった。
社へと続く道は舗装されておらず、周囲をぼうぼうに繁った木々に囲まれている。
石で作られた大きな灰色の鳥居は、神社の門と言うよりはまるで山への入り口みたいだ。
「まだこの土地の神様にご挨拶してなかったから。一緒にお参りしとこっか。ほら、虫除け」
ポーチから小さなスプレーを取り出し、手作りの虫除けを私の腕や足、首に吹きかける。
ペパーミントの爽やかな香りが鼻をくすぐった。
ふと、鳥居の真ん中に立てかけられた額縁のような形の石板に刻まれた「乙黒神社」の文字が目に止まる。
「乙黒って、確かパパのトンネル工事の……」
「そう、ここが乙黒山。トンネルはもう少し向こうにあるんだって。パパのお仕事が無事終わるよう、夏帆もお祈りしてあげて」
律儀だなあと、内心思う。
パパは乙黒山のトンネル工事を再開させるため、この村に転勤になった。
なんでもここ乙黒山のトンネル工事は二年ほど前に中止になっていて、それを再開させるために様々な調査や手続きをしなくてはならないらしい。
でもそれが終われば地元に戻れるのだから、私はこの村に馴染めなくても別にいいやと感じてしまう。
伸びた枝葉を避けながら、山道をのぼる。けものみちと言うのだろうか。
舗装はされていないけど、足元の草は綺麗に踏み固められていた。
十分ほど歩けば、小さな社までたどり着く。
社というより、まるで小屋のように質素な見た目の、かなり古びた建物だった。
ママはお賽銭箱に百円玉を投げ入れ、手を合わせて目を閉じる。
私もママにならって手を合わせたその時、前方からカサ、とかすかな物音がした。
顔を上げると、社の斜め奥にある小さな黒い祠の陰から、小さな茶色い影が飛び出す。
それは茶色の毛並みをした小さなウサギだった。
学校の飼育小屋で買われている白いウサギより体が大きく、耳が短い。
「……?」
不意に、どこからともなく生臭いにおいが漂った。
まるで雨のにおいと、腐った肉のにおいを合わせたような――――きょろきょろと周囲を見回すウサギの背後で丸い、真っ黒な影のような物がふわりと浮き上がる。
しかしウサギの影だろうかと怪訝に思った、次の瞬間。
丸い影のような何かがウサギにおおいかぶさると、まるで吸い込まれるように、ウサギの姿が一瞬で消えた。
「……えっ?」
「どうしたの、夏帆」
ママが不思議そうに私の方を向く。
「今、あの祠にウサギが……」
「ウサギ? どこに?」
ママがきょろきょろと周囲を見回してウサギを探す。
私もおそるおそる祠を見上げるが、真っ黒な影もウサギの姿もどこにも見当たらなかった。
――――見間違いだったんだろうか。
単にウサギが祠の陰にでも隠れて、私の位置からは見えなくなっただけだった、とか。
でも確かに、あの真っ黒な影のような「何か」に吸い込まれて消えたように見えた。
ぞわりと、腕に鳥肌が立つ。
「……お参りすんだし、帰ろうよ」
ママを急かし、鳥居を目指してきた道を戻る。
鳥居をくぐると、ママは振り返り、もう一度神社に向かって手を合わせた。
「こらっ、なにやっとるんや!」
すると突然、背後からひび割れた怒鳴り声が飛んでくる。私もママもびっくりして振り返った。
鳥居の前に停まった軽トラから、黒いキャップをかぶった作業服のおじいさんが降りてくる。
「すみません。でも私たち、お参りしてただけなんです」
ママが控え目に言い返すと、おじいさんは「ん?」と目を見開いた。
「ああ、あんたら今井さんちの……」
よく見ると、黒いキャップの下の顔には私も何となく見覚えがあった。
確か本家の食事会に来ていた、近所の人たちの中にいたような気がする。
「この山に女子供は入ったらあかん」
当然のように言われ、面喰った。
入り口は封鎖されていないし、立ち入り禁止だなんてどこにも書かれていなかった気がする。
「でも、ここって神社ですよね?」
ママが不思議そうに尋ねると、おじいさんは少し鼻白んだ。
しかしすぐ気を取り直したように
「昔からの決まりや。神様がお怒りになるで、男衆しか入れんことになっとる。まあ引っ越してきたばかりやで知らんかったやろうけど、覚えとき」
と付け足し、トラックに戻っていってしまう。
思わず私はママと顔を見合わせた。