乙黒村④
はらはらと髪が数本、足元に舞い落ちる。
半ば呆然としたまま、私は綾音の部屋を出て階段を下りた。古く黒ずんだ分厚い板が、足を乗せるたび軋んだ音を立てる。
自分の足音を聞いているうちに徐々に困惑は鎮まり、かわりに行き場のない怒りが体の内側で膨らんでゆく。
広間に戻った私を見るなり、ママはぎょっとして立ち上がった。
「夏帆!? どうしたの、その髪」
ガヤガヤと騒いでいた大人たちも、不穏な空気を察してしんと静まり返る。
「綾音ちゃんに切られた」
「切られたって、どうして」
「わかんない。髪型を真似するなって言ってきて、急に」
喋っているうちに、じわっと目の奥が熱くなってくる。
この家で泣いてたまるかと、歯をくいしばった。
手の甲でごしごしと目をこすると、ママがハッと顔を上げる。つられて私も振り返ると、広間の襖の前に事の張本人……綾音が立っていた。
「綾音ちゃん、どういうこと? 夏帆の髪を切ったって、本当なの?」
ママは顔を強張らせ、綾音に向き直る。
パパを含めた他の大人たちは困惑したように、事の成行きを窺っていた。
しかし綾音は顔色ひとつ変えず、さらりと口を開く。
「嘘つかんでよ。うちみたいな田舎者と同じ髪型なんか嫌って、夏帆ちゃんが自分で切ったくせに」
「違う!!」
間髪入れず私が否定すると、綾音はそっぽを向いた。
「そっちこそ嘘つかないでよ! タンスの上の段ボール取れって私に言って、後ろからいきなりハサミで切ったんじゃん!!」
「どういうことや、綾音。お前、まさか本当に夏帆ちゃんの髪切ったんか?」
一番奥の席に座っている綾音のお父親さんが、座ったまま口を挟んだ。
けれどその口調はどこか弱々しく、怒っているというより、困っているような声だった。
「私、そんなことしてへんし。証拠でもあるの?」
憮然としたまま否定する綾音の後ろで、妹の鈴音が神妙な顔でうつむく。
本家のおばさん……綾音のお母さんは何故か、薄ら笑いを浮かべていた。
「証拠って、そんなの」
「だいたいあんた、変なにおいするからわざわざ触ろうと思わないし。湿布みたいな、スーってするにおい」
平然と言われ、カッと頭に血がのぼった。
「変なにおいじゃないもん!」
スース―する……たぶんママが自家製のペパーミントとセージから作ってくれた虫除けのにおいだ。
大人たちは半信半疑といった表情で、私と綾音をひそかに見比べている。ママは何とも言えない顔をしていたが、広間を見渡すと私の手を掴んだ。
「とにかく、今日は帰らせてもらいます」
「ごめんねえ、夏帆ちゃん。でも綾音もああ言うし」
おばさんがへらへらと、軽い調子で謝罪とも軽口ともつかない言葉を並べ立てる。
「子供のしたことやから、許し――――」
「今日はもういいです。娘も心の整理がつかないでしょうし。でも小黒さん、謝るならきちんと綾音ちゃん本人に謝りに来させてください」
それを遮って、ママはきっぱりと言い切った。
唖然とする大人たちに「失礼します」と一礼し、ママは障子戸の近くに置いていたショルダーバッグを掴むと、私の手を引いて玄関に向かう。
我に返ったパパが立ち上がり、あわてて後をおいかけてきた。
「綾音ちゃんに髪切られたって、本当に」
ママが運転する帰りの車の中で、赤ら顔のパパが気まずそうに切り出す。
「嘘じゃないもん」
パパの言葉を途中で遮った私を、ママはバックミラー越しにちらりと窺った。
「本家か親戚か知らないけど、大っ嫌い、あんな人たち。あんな家、もう行かなくていいでしょ。料理も全っ然美味しくないし。甘いし、お醤油の味しかしないじゃん。普通にうちでご飯食べればいいじゃん」
ティッシュで鼻を噛みながら言う私に、パパは困ったように肩をすくめる。
「……それがなあ。父さん、夏祭りに出なきゃいけないんだ」
「引っ越してきたばかりなのに?」
ママが眉をひそめると、パパは「大丈夫だって」とあわてて弁解する。
「役員とか、そういう運営に関わる大変な仕事じゃない。ちょっと変わった風習で、引越してきた家とか観光客とか、他所から来た人に《乙黒様》っていう神様の役をやらせるんだ」
「オグロサマ? 神様の役って、なにそれ。演劇?」
「いや、劇じゃないよ。決まった衣装を着て、特に何もせず神輿の後についていくだけの役なんだ」
変なの、とぼんやり思う。お神輿の後ろから何もせずついてくるだけ。それってかなり悪目立ちするんじゃないかと思ったけど、口には出さなかった。