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山中の庵②

「どのみち台風が通り過ぎるまで、車を出すのは無理そうだね」

 坂之井さんはため息をつくと、布団を半分に折り畳んで部屋の隅に押しやった。

 押入れから座布団を取り出して、畳に敷くと

「散らかった部屋で申し訳ないけど、適当にくつろいでて。飲み物でも持ってくるから」

 と言い残して、部屋を出ていってしまう。

 一人取り残された私はとたんに心細くなって、蛍光灯の明かりに照らされた室内をそっと見回した。

 広くも狭くもない和室だった。

 古い畳のにおいと、かすかにヒノキのような木の香りが漂ってくる。

 壁際の桐箪笥の上に、丸い何か……拳大の丸い木彫りの猿が三つ、敷き板の上に並んでいた。

 それぞれ目と、耳と、口元を、両手で押さえている。

 確か「三猿」というやつだ。

 布団のかたわらの小さな机には彫刻刀や紙やすり、糸鋸などが散らばっていた。工作でもしていたのだろうか。

 猿たちは三匹ともおどけた表情をしているにも関わらず、なんだか妙に生々しく、私はとっさに目を逸らす。

 他にも一つ、机の中心にも小さな木彫りの像が置かれていた。

 優しい顔をした大きな猿と、その首元にしがみついた子猿。おそらく親子だろう。

 細やかに彫られた毛や生き生きとした表情は傍目にもリアルで、なんだか今にも動き出しそうだ。

 でもこちらは決してリアルなだけじゃなく、緻密に整った形の中に、なんとも言えない柔らかさがあった。

「可愛い……」

「そう? ありがとう」

 背後から聞こえた低い声にビクッと振り返ると、坂之井さんがお盆を片手に立っていた。

 机の上に散らばった工具たちを引き出しに片付け、空いたスペースに麦茶の入ったグラスを置く。

「どうぞ」

 突然押しかけてしまい、家にあがりこんで、飲み物まで出してもらった。

 そんな現状に、今更のように居た堪れなさがこみ上げてくる。態度には出してこないけど、絶対に迷惑だと思われているだろう。

「あ、ありがとうございます」

 おそるおそるお礼を言うと、坂之井さんは「どういたしまして」と自分の分の麦茶をすすった。

 それきり会話は途絶え、閉め切られた薄暗い和室はしんと静まり返ってしまう。

 けれど幸い、坂之井さんは怒っているわけではなさそうだった。

 もともとあまり表情が変わらないのか、冷静なのか、それとも単に表に出さない人なのか。

 どこか軽やかで、ゆったりとした空気を身にまとっている。

「……あの、坂之井さんはこういう木彫りの作品を作る職人さんなんですか?」

 気詰まりな沈黙に耐えかね、話を振ってみた。

「職人っていうほどじゃないよ。単なる素人の趣味だし、この程度の品なんてどこにでも売ってる」

「そんなことないと思います」

 反射的に否定してしまい、あわてて口ごもる。

 坂之井さんは少し驚いたように私を見た。

「す、すみません……。でも、すごく上手だと思います。この猿の親子とかすごく可愛いし、私はこういう物のことはよく知らないけど、お店で売っていたら純粋に欲しくなると思います」

 しどろもどろに言って後悔した。

 上手だなんて、なんだかすごく上から目線だ。

 けれど坂之井さんは気を悪くした様子もなく、寂しそうな顔で小さく笑った。

「……ありがとう。でも僕より上手い人なんて、本当にたくさんいるんだ」

 理想が高い人なのかなと、坂之井さんの横顔を眺めながらぼんやりと思った。

 確かに華やかだったり派手だったり、一見してすごい技巧がこらされていると分かるような作品ではない。

 けれどそういう分かりやすい派手さやすごさがなくても、さり気なく「いいな」と思えるもの。

 じんわりとした温かさを醸し出すものを作り出すことだって、同じくらいすごくて難しいはずだ。ママはよくそう言っていたし、私もその通りだと思う。

「ところで、君がさっき言っていた《オグロサマ》のことだけど」

 オグロサマ。

 その名前を聞いた瞬間、体からざっと血の気が引いてゆくのを感じた。

 様々な記憶がフラッシュバックして、頭の内側がチカチカと白く点滅する。

 動揺を露骨に表に出してしまったらしく、坂之井さんは私を気遣うように

「落ち着いてからでいいから、何があったのか、事情を聞かせてくれないかな」

 と、穏やかな声で付け足した。

「…………はい」

 忘れかけていた現実が、重く背中にのしかかってくる。

 思い出さないようにしていたのに、最後に見たママの姿が脳裏に浮かんで、目の前がじわりとぼやけて歪んだ。

 どうしてこんなことになったんだろう。

 答える人のいない問いが頭の中を埋め尽くす。


 私がいけなかったんだろうか。

 私が嘘をついたから?

 あの村に馴染めなかったから?

 私たちが大人の言いつけを守らなかったから?

 あの子やママを見捨てて逃げたから?


 ――――――――でもきっと、全ての間違いの始まりは一年前。

 私たち一家が乙黒村に引っ越してきたことだったのではないかと、今となっては思う。


 堰を切ったように次から次へとこぼれ落ちる涙を手でぬぐい、私は大きく息を吐いて、口を開いた。

「私は……私たち家族はオグロサマに襲われたんです」

 そう言った瞬間、喉のあたりにずっとわだかまっていた熱い何かが、体の内側を爛れさせながらお腹まで押し流されてゆくような感覚が襲ってきた。

「たぶん、ママはもう……」

 喉の奥がひどく熱い。

 体がふつふつと煮立ってゆくような感覚に、私は固く目を閉じて拳を握った。

 チカチカと白い光が点滅を繰り返す瞼の裏に、とある映像だけがやけに鮮明によみがえる。

 まるで影のように真っ黒な体に、無数に開いた真っ赤な目玉たち。

 びっしりと並ぶ岩のような牙。

 靄のような体からずるりと伸びる長い腕。

 真っ黒な大きな手のひら————

 それはママやあの子を呑み込んだ、あの忌まわしい化け物の姿だった。

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