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山中の庵①


「とりあえず、中で話を聞かせてくれるかな」


 目の前の男性がそう扉を開けてくれた瞬間、思わずその場にへたり込んでしまいそうになった。

 見たこともない真っ暗な道を抜け、山道をひたすら道なりに走って逃げて、人家を見つけて後先も考えず飛び込んだ、この庵のような小さな家。

 玄関を探す余裕なんて無くて、竹で作られた低い塀をまたいで庭に入ろうとしたら、着地に失敗して転んで――――私はしばらく気を失っていたらしい。

 でも幸いなことに私が呼ぶ前に、騒ぎを聞きつけた家の人が様子を見に来てくれた。

 着物を着た、若い男の人。

 二十代の前半くらいだろうか。

 痩せて、黒縁の眼鏡をかけていて、線の細い、大人しそうな人だった。私を家にあげると、その人は縁側の雨戸と掃き出し窓を閉め切った。

 初対面の人、しかも男の人の家に入ることの緊張や、出入り口を閉め切られてしまった不安よりも、きちんと扉の鍵を閉めてくれた安心感の方が、今の私には有り難かった。

「あ、ありがとうございます」

 男性が障子戸を開くと、外から響く雨の音が急に大きくなる。

「僕は坂之井という。坂道の坂に、井之頭の之と井の字を書くんだ。君は何というのかな」

 唐突に尋ねられ、少し面喰ってしまう。

 しかし言われてみれば、私はまだ目の前の男性に名乗っていなかった。

「今井夏帆(かほ)、です」

 男の人……坂之井さんは「そう」と頷くと、障子戸を開き、部屋の灯りをつける。

 昔ながらの和室の奥に、一組の布団が敷かれていた。枕元に転がっているスマホを拾い、待ち受け画面を私に向ける。

「悪いけど山奥だから、電波がつながりにくくてね。朝からずっと圏外なんだ。君が望むなら麓の町の交番まで車で送ってあげるけど、どうする?」

 この上なく親切な提案だったけれど、私は唇をきつく噛んでうつむいた。

「駄目なんです」

「どうして?」

 ここは山の中だ。

 家から出た瞬間、きっとあのおぞましい化け物に見つかって、追いかけられる。

 けれど冷静になった今、あの化け物を知らない人に、私たちの身に降りかかった出来事をどう説明すれば信じてもらえるのか、見当もつかなかった。

「…………家から出ると、危険なんです。信じてもらえないかもしれないけど」

 途方にくれながらも、私は苦し紛れに弁解する。

 しかし坂之井さんの反応は、予想外のものだった。

「さっき言ってた《オグロサマ》が追ってくるから?」 

「オグロサマのこと、知ってるんですか」

 弾かれたように顔を上げた私を、坂之井さんはじっと見下ろした。

「いいや、何となくそうなのかと思っただけだよ。オグロサマって何?」

 オグロサマを知らないということは、この人はたぶん乙黒村の人じゃない。

 ざわざわと落ち着かない頭の片隅で、ふと肝心なことに思い至る。

 夢中で逃げてきたけど、ここは一体どこなんだろう。乙黒山にこんな建物はあっただだろうか。

「ここ、どこですか? 乙黒山じゃないんですか?」

「ここは狭竹山(さたけやま)だよ。乙黒山の隣の」

 聞いたことのない山だった。

 昨年引っ越してきたばかりだから、まだこの辺りの地名がよく分からない。しかしここが乙黒山ではないと知って、安心のあまりその場にへたり込んでしまった。

「化け物と言っていたけど、もしかして《オグロサマ》は乙黒山と何か関係があるのかな」

 静かな声に尋ねられ、私は思わず坂之井さんを窺う。

「オグロサマは……真っ黒な怪物なんです」

 信じてもらえないだろうと思いつつも一分の期待を込めて言うと、坂之井さんは黒縁メガネの奥の瞳をわずかに瞠った。

「へえ」

「人間とか動物じゃないんです。絶対に。私もよくわからないけど、人を襲って――――」

 そこまで言いかけて、猛烈な吐き気がこみあげた。

 とっさに目を閉じると、脳裏でチカチカと点滅するように、思い出したくもない光景が一斉によみがえる。

 あの子やお母さんを飲み込んだ、真っ黒な影。

 体中に開いた真っ赤な目玉に、至る所で口を開けた――――――――

「…………っ!」

 次の瞬間、ひときわ強い風の音とともにカタカタと雨戸が揺れた。

 叩き付けるような雨の音が、勢いを増してゆく。

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