山より来たるもの④
鈍色の空は相変わらず分厚い雨雲に覆われていたが、雨はいつの間にか止んでいる。
湿った生暖かい風が、木々をせわしなく揺らしていた。暴風雨に飛ばされた落ち葉が、背の低い銀閣寺垣や苔むした庭石、雨戸や壁のいたるところにへばりついている。
濡れた土や草木のにおいに混じって、不意に爽やかな香りが鼻をかすめた。
周囲を見回したその時、視界の端をよぎった何かに、真織は分厚いメガネの奥の瞳をすがめる。
「おや?」
その正体を視認した瞬間、線の細い顔に浮かんだ警戒が驚きにとって変わる。
肩で切りそろえた黒髪に、紺のワンピース。土にまみれたボロボロのスニーカー。庭の片隅、石燈籠の足元でうずくまるようにして倒れていたのは、彼の見知らぬ、十代前半ほどの少女だった。
真織は少し迷ってから、履き物を取りに玄関に向かう。沓脱石で下駄をはいて庭に降りると、ぐったりと気を失っていた少女の目元がピクリと震えた。
「う……」
ゆるゆると目を開く少女を、真織は立ったままじっと見下ろす。
年の頃は十二から十四といったところだろうか。
幼い顔立ちに反して手足が長く、身長も高い。体格は華奢だが、おそらく百六十センチは超えているだろうと、さり気なく目測する。
ノースリーブのワンピースからはみ出す剥き出しの腕や脚は、所々に土や擦り傷がついていた。
「大丈夫?」
真織が尋ねると、華奢な体がびくっと強張る。
ひび割れた小さな唇から「ひゅっ」とかすかな空気音が鳴った。ひとしきり咳き込んだ後、少女は上体を跳ね起こし、おそるおそる声の主を見上げた。
真織と目が合うなり、あどけない顔がくしゃりと歪む。
「助けてください! あいつが、あいつがっ……」
「あいつ?」
怪訝そうな真織に焦れて、少女は声を張り上げた。
「オグロサマ……あの化け物が、追いかけてくる!!」
見開かれた両目から涙があふれ、こぼれ落ちる。
同時に真織の鼻先に、ぽつりと雫が落ちた。ゆるやかに停滞していた雲が押し流され、ぬるく湿った風に雨のにおいが混じり、少しずつ強くなってゆく。
「あいつにつかまったらおしまいなんです! こうしてる間も、きっと」
そう食い下がろうとした次の瞬間、彼女の背後に植えられた椿の木がガサ、と音を立てた。
「……っ!?」
少女が勢いよく振り返った次の瞬間、繁みから姿を現したのは小さな黒い狸だった。
狸は地面に落ちていた木の実をくわえると、再び椿の植え込みにもぐって姿をくらませる。
「はあ、はあっ……はっ…………た、たぬき……?」
少女は荒い息をひとしきり吐き切り、心底安堵したように呟いた。
真織はしばらく狸を目で追っていたが、雲行きが怪しくなりはじめた空を見上げ、少女に向き直る。
「雨が降ってきそうだから、とりあえず中で話を聞かせてくれるかな」
そう言いながら障子戸を開く真織に、少女は何度も首を縦に降った。