山より来たるもの③
むくりと立ち上がり、作りかけの親子猿を作業台に戻す。
近くにあった鉛筆でカレンダーの日付を丸く囲み、友人の苗字を書き込んだ。
「そういえば台風、順調に近づいて来てるな。こっちは朝から小雨だけど、明日の午後から東海地方でも大雨が降るみたいだ」
「そうなの? こっちは普通に晴れ……」
開け放した障子戸の合間から空を見上げると、先ほどまで青く晴れ渡っていた空は薄暗い雲に覆われ、今にも雨が降り出しそうな色をしている。
「ちょうど曇ってきた」
「おいおい、早いうちに雨戸閉めとけよ。物干し竿とか片付けたか?」
まるで母親のような物言いに、思わず「はいはい」と苦笑してしまう。
「気をつけろよ。今回の台風、結構すごいらしいぞ」
友人の予告通り、翌日は明け方から雨が降り始めた。
午前中は小雨ですんだが、午後三時を過ぎる頃には次第に風雨の勢いは増してきた。
雨戸を閉めようと窓を開ければ、生ぬるい風と横殴りの雨が容赦なく吹き付けてくる。
外出できなくなったことで更に暇を持て余し、戸締まりを済ませると、作業部屋を兼ねた自室に閉じ籠もった。
敷きっぱなしの布団に寝転がり、読みかけの文庫本を開いた。しかし妙に気のりせず、五分もたたず枕元に放り出しす。
通販サイトでもチェックしようとスマホでアプリを立ち上げるも、ネットにつながらない。
ややあって右上に「圏外」の文字が表示されたため、スマホを枕元に放り投げた。
雨戸を閉め切った室内は電灯をつけていてもどこか薄暗く、心なしかいつもより蒸し暑い。
横殴りの雨が窓を叩く音が、自分以外に人のいない家の中でやけに反響する。
雨音に耳を澄ましながら瞼を閉じると、僕はあっという間に眠りに落ちていった。
しかし一時間ほど昼寝をしたところで、ふと視線を感じて目を覚ます。
むくりと上体を起こすと、障子戸のかたわらに鎮座する人影――――とある女性を模して作られた、等身大の人形と視線が合った。
生きた人間と見まごうほど、精巧に作り込まれた顔や手足。
この山の土で作られたという顔には、線の細い美貌がかたどられている。
その昔、曾祖父が亡き妻……僕の曽祖母を再現したという「生き人形」だ。
父や自分よりずっと昔からこの別荘に住む、祖父が遺した「曽祖母」を、寝ぼけ眼をこすってぼんやりと眺める。肩に垂れ下がる黒髪の、わずかに不揃いな毛先が少し気になった。
「髪伸びてきたね、曾おばあちゃん。そろそろ切る?」
答える者のない問いかけが、閉じた部屋に響く。
暇つぶしに毛先だけでも整えてやろうかとハサミを探していると、背後で「カタン」とかすかな音が鳴った。
「ん?」
真正面を向いていたはずの生き人形が、わずかに俯き、障子戸にもたれかかる形で傾いている。
怪訝に思って元に戻そうとしたついでに、何気なくガラス玉の瞳をのぞき込み、その視線の先を追った。
ふと障子戸を開けて縁側に出て、閉め切った掃き出し窓と雨戸を開ける。
湿った土のような、妙に腥い匂いが鼻をついた。