山より来たるもの②
「いわくつき?」
何気なく相槌を打つと、店主は白いものの混ざった太い眉をかすかにひそめる。
僕は水羊羹に伸ばしかけた手を止め、平串を銘々皿に置いた。
「この工事、もう何十年以上も前から事故やら不祥事やらで、何度も頓挫しとるんです。掘りやすい山ではあるはずなんやけど」
「そうなんですか?」
「乙黒山に限らず、この辺の山はだいたい岩山やから。地盤が固いし崩れにくいんですわ」
僕たちの会話に覆いかぶさるように、外からはひっきりなしに蝉の鳴き声が響き渡る。ふとアブラゼミたちの大合唱の中に、蜩の声が混じっていることに気付いた。
店主に見送られて冷房が効いた店内を出ると、途端にうだるような熱気が襲ってくる。
車の窓を全て開け放し、紗の羽織を脱いだ。
エンジンを入れ、冷房の風力を最大値まで上げる。メーターを見れば、車内の温度計は三十六度を記録している。
山中にある自宅が無性に恋しくなった。
去年、亡き父から相続したのを期に移り住んだこの別荘は、山の中腹という立地からか、日中でも冷房がなくとも事足りるほど涼しい。
人通りの多い街中を抜けて国道に出ると、アクセルを踏み込んだ。
曲がりくねった峠道を三十分ほど登れば、わずかに木々が開けた中腹にぽつりと建つ、和風の小ぢんまりとした山荘が見えてくる。
正面を開けて玄関先を囲む竹垣に、扉へと続く灰色の敷石。
脇に植えられた紅葉は青々と若葉を茂らせている。
帰りにドラッグストアで買った食品や日用品を運びながら、思わず小さくため息が漏れた。
盆を迎える前にお手伝いさんが手入れをしたばかりの庭には、早くも雑草が伸び始めている。
面倒だが、あまり家のことを他人任せにしきるというのも気が引けた。自分でも草むしりをした方がいいのだろうかと少し悩むところではある。
「……まあ、いいか」
一分にも満たない逡巡ののち、僕はあっさりと諦め、買い溜めた冷凍食品を冷凍庫に詰め込む。
買ったものを一通り片付け、縁側の窓を開け放して空気を入れ換えると、涼しい風が吹き込んだ。
畳に寝転がり、手持ち無沙汰に天井を見上げる。
「暇だなあ」
世間は盆休みで帰省シーズンの真っ最中だが、盆入り前に母親の在所に墓参りを済ませてしまった僕には何の予定もない。
寝転がったまま右手を伸ばし、作業台の上にある作りかけの木像を手に取った。
友人のすすめで彫った、ニホンザルの親子像だ。
左手で枝にぶらさがる格好をした母猿と、その首元にしがみつく子猿。
思いのほか出来が良いため店には売らず、自分の手元に置いておこうと決めていた。
まだヤスリがけをしていない表面からはざらざらと、荒削りな手触りが伝わってくる。
子猿のあどけない顔を眺めていると、枕元でスマホの着信音が鳴った。
「もしもし」
「久しぶりだな。ちょっと今いいか?」
電話をかけてきたのは奇しくも、親子猿を彫れとすすめた張本人だった。
ここ根住荘に招いた後、今もまだ付き合いが続くという、数少ない友人のうちの一人だ。
「いいよ、暇してたところだし」
「来月、担当の作家と取材でそっちの方面に行くんだ。よければ寄ってもいいか?」
スマホから響く低い声に、知らず知らずのうちに口元がほころぶ。
告げられた日付を壁かけのカレンダーで確認すれば、今のところ何の用事もなかった。
「すっかり文芸編集者だなあ。せっかくだから、うちに泊まってきなよ」
「え?」
「ちょうど納期明けだし、週末だから観光していけばいいじゃないか。別に取材旅行だからって、作家と宿までお供しなきゃいけないわけじゃないんだろ?」
「…………」
「お手伝いさんに美味いつまみを作ってもらって、うちでゆっくり呑んでもいいし」
そのひと押しに、答えを渋っていた友人は折れた。
「……じゃあ、一泊だけ」
「飲んだ後は、怪談会をしよう」
「絶対しないからな」
即座に断られるも、あまり悪い気はしなかった。
お人好しな彼のことだ。きっと、宿代の代わりと言えば怪談のひとつや二つ、披露してくれることだろう。
「楽しみにしてるよ。ところで取材って、どこ行くの?」
スピーカーからパラパラと紙をめくるような音がかすかに響く。
「古い街並みの近くの寺とか神社とか、民俗資料館とかだな。あと乙黒山って知ってるか? お前んちから車で一時間くらいの、確かトンネル工事をしてる」
「!」
「どうした?」
怪訝そうに尋ねられ、僕は「いや」と布団から上半身を起こした。
「今日はよくその名前を聞くなと思って。納品先の店でも、ちょうど話題になったんだ」




