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怪至③

「来た……あいつだ」

「なあ、あいつって何だ」

 私の呼びかけに答えず、真織は一点を凝視したまま動かない。

「真織!」

 沈黙に耐えかねて叫ぶと同時に、バシン、と扉を叩くような音が響き渡った。

「なんだ!?」

 音がした方をとっさに見上げ、かろうじて悲鳴を飲み込んだ。

 月明かりに照らされた障子に、真っ黒な手のひらの影が浮かび上がる。

「!」

「何を言われても、決して答えないようにね」

 腰を抜かして畳にへたり込んだ私とは対照的に、真織は臆するふうでもなく、障子戸に……外にいる「何か」に正面から対峙する。

 バン、と障子戸を叩く音とともに、格子に貼られた白い和紙に黒々と、また一つ手形が浮かび上がった。

「しつこい奴だな。見ろ、友人が怯えてるじゃないか」

 真織の声に呼応するかのように、バン、バンと障子戸が揺れて音を立てるたび、ひとつ、ふたつと黒い手形が増えてゆく。

 そうしている間にも、部屋に充満する臭いはどんどん濃くなってくる。

 酒など飲むんじゃなかった。ひっきりなしにこみ上げる吐き気をこらえ、畳を這って後ずさる。

 その時、真織のものでも人形のものでも、無論私のものでもない、小山のようにこんもりと丸く大きな影が、障子《《外側から》》に浮かび上がっていることに気付く。

「ひっ!?」

「何度来ても答えは同じだ。この形代は誰にも渡さないよ」

 影に向かって、真織は傲然と言い放つ。

 薄い唇は三日月のように吊り上がり、端整な横顔には嘲るような笑みが貼り付いていた。

 友人の言葉が外にいる「何か」を激高させたのか、突然、障子戸が揺さぶられるように震えだす。

 真織は動じる様子もなく、小山のような影をじっと見下ろした。

 何故、彼は平然としていられるのか。

 障子戸を一枚隔てた外には明らかに、人でも動物でもないシルエットをもつ「何か」がいるというのに。

 ガタガタと、障子戸を小刻みに揺らす音が更に激しさを増した。

 這うようにして壁まで後退ったその時、


『……に……が……し…………』


 戸を揺らす音に混じって、奇妙に甲高い声が切れ切れに響く。

 思わず真織を窺った。

「おい。今の、まさか子供の声じゃ」

「子供じゃない。子供の声みたいに聞こえるけど、答えちゃ駄目だよ」

 すると次の瞬間、窓の外から聞こえる声がひどく明瞭に、暗がりの中で響き渡った。


『――――何が、欲しい?』


「え……」

 唐突な問いに混乱する私を一瞥し、真織が淡々と釘を刺す。

「罠だよ。答えたら、あいつは部屋に入ってくる」

 緊張する様子も泣く、障子に浮かぶ影と対峙する真織を見て、ふと思う。目の前の友人はもしや、こうなることをあらかじめ知っていたのではないかと。

 混乱、疑念、そしてわけのわからない恐怖と後悔が、体の内側でごうごうと音を立てて渦を巻く。

 いずれにしても、あんな話をするべきじゃなかった。

 気付かれないだろうとたかをくくり、もう十年以上も前の話だからと油断して――――

「そう怯えなくていいよ。こいつは家人に招かれない限り、中に入れない。せいぜい縁側までが限界なんだ」

 まるで世間話のような調子で呟いて、畳の上で腰を抜かした私を見下ろす。

 不意にもう一つ、真織とは別の視線を感じて横を向くと、活き人形と目が合った。

 私が人形の目を見ているだけではない。

 人形は確かに私を見ていた。

 先ほどまで水晶玉のようだった無機質な瞳には、蝋燭の炎の反射とは明らかに別の光が宿っている。

「…………」

 きん、と耳鳴りがした。

 人形から、黒目がちな大きな両の瞳から目をそらせず固まった、その時。

 不吉な音を立てて、障子に黒い亀裂が走る。

「!」

 破れた障子紙の隙間から、外から血走った目でこちらを覗く「何か」。

 暗がりで爛々と光る真っ赤な目玉を垣間見た瞬間、全身から音を立てて血の気が引いた。

 それは人でも動物でもない、強いて言えばこんもりと積もった泥のような形の、真っ黒な体躯をしていた。

 ずるり、と何かが這うような湿った音が鳴り響く。

 同時に、頭の奥で「ぶつり」と何かが千切れる音が聞こえた。

 目の前が暗転し、ぐらりと体が後ろに傾く。

 ひっくり返る視界の中で最後に見たのは、ひどく愉快そうな笑みを浮かべ、障子戸の外に向かって丸い玉のようなものを放り投げる友人の姿だった。


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