第一話 カンシリオの惨劇
■1941年(昭和十六年)1月 リビア エル・メキリ
黄色い砂礫の広がる大地に数十両の戦車が停まっていた。周囲に紛れる黄土色に塗られた戦車は一見全て同じ形に見える。しかしよく目を凝らせば車体に描かれた国旗には二種類ある事がわかる。
三色旗と日章旗。互いに本土から遠く離れた北アフリカのこの地に、なぜかイタリアと日本の車両が集まっていた。
「アンジョーニ!だから蕎麦にチーズとかニンニクなんて入れるなと何度も言ってるだろうが!」
「うっさい!これが俺の流儀だ!西こそパスタに変なモノかけて食べんじゃねぇヨ!」
その戦車の傍らではイタリアと日本の将兵が仲良く?食事をしていた。
イタリアの将兵は、昨年侵攻し、そしてすぐに叩き出されたエジプトから逃れてきた部隊である。元はヴァレンティーノ・バビーニ准将の率いるバビーニ装甲旅団の2個大隊70両であったが、バルディア、トブルクと続く撤退戦で常に殿を務め勇敢に戦った結果、今では三分の一以下にその数を減らしている。
一方、日本の将兵は実は正式な日本軍ではない。名目上はイタリアに対する「義勇軍」という形で、エジプト侵攻前にバビーニ装甲旅団の指揮下に編入されていた。
元は第一から第八戦車連隊から募った希望者を元に編成された二個中隊20両の規模をもっていた。部隊名は「知」。孫氏の「敵を知り己を知れば百戦危うからず」に由来している。部隊マークは渡洋部隊であることから波の上に部隊名をあしらったものとなっている。
派兵の目的は戦訓の取得と友好国との交流であった。戦争も植民地軍を相手にした気楽なもののはずだった。しかし気が付けばバビーニ旅団と共に過酷な撤退戦に巻き込まれ、今ではその数を半減させている。
今ではここに居る合計30両ほどの戦車が、イタリアがリビアに持つ機甲戦力の全てであった。
「……あーあ、やっぱり負け戦はしんどいね」
フォークでオリジナルパスタを食べる手を止めると、西がポツリと呟いた。日頃は明るい西だが、この時ばかりは見るからに意気消沈していた。
食事前の作戦会議で、彼らはこの地で出来るだけ時間を稼ぐ事を命じられていた。彼らの後方にはベンガジへ向け撤退を続ける3万の友軍が居る。その撤退時間を稼ぐ事が出来るのは彼らしかいなかった。
本来、義勇兵である西らには最後まで付き合う義理はなかった。しかしバビーニ准将はそれを理解しつつ頭を下げて協力を求めてきた。
「准将みずから泣いて頭を下げられちゃ断れないね。こりゃもう最後は突撃して清く散るしかないかな」
これまで世話になった恩義もある。どのみち補給の絶たれた今では燃料弾薬も一会戦分しかない。浪花節に弱い西ら日本人部隊は全員最後の地獄までとことん付き合う覚悟は出来ていた。そのはずだったが、いざそれに直面するとさすがに堪えた。
「あー、とりあえず蕎麦食ってから考えてもいいカ?」
深刻そうな西に対し、器用に箸を使ってオリジナル蕎麦を口にしていたアンジョーニが流暢な日本語で言った。
彼らの付き合いは長い。5年前に戦車絡みの連絡将校として来日したのがアンジョーニであった。その日本側の担当将校だったのが西である。
明るい性格の西とラテン系そのもののアンジョーニは色々と気が合った。二人の親交は続き、リビアに日本が義勇軍を派遣すると決まり希望者が募られた時、西は真っ先に手を挙げていた。
「奴らにまた見せつけてやればいいのサ。俺たちは弱くない、じゃなかった強いと言う事をナ」
蕎麦を食い終わって一息ついたアンジョーニが明るく言った。確かに撤退を重ねてはいるが彼らの戦車は決して弱くは無かった。これまで何度もイギリスの機甲部隊を撃退している。
「それに仮に負けても死ぬ必要はない。あーもちろん君らの流儀は知っているヨ。しかし今の君らは母国のために戦ってる訳じゃない。もっと気楽に考えようゼ」
「……そうだな。生き残ってこそ武子にもウラヌスにもまた会える。簡単に散ったら駄目だな」
西も笑顔で答える。
「その意気だ。俺もまた日本に行って絹枝サンに会いたい。お互い悔いのない様に戦って、そして生き残ろうゼ」
「おう」
二人は互いに拳を合わせ決意を確かめ合った。
そんな彼らの傍らに佇む戦車は、掲げる国旗こそ違うが全て同じ形をしていた。
イタリアではM16/39戦車、日本では九七式中戦車改と呼ばれるその戦車は、ある偶然により日伊両国で共同開発された戦車だった。
■1936年(昭和十一年)10月17日 ビットリオ・ベネト市 チェネーダホテル
時は5年前に遡る。
「それでは、我々の新たな発展を祈って、乾杯!」
「「「乾杯!」」」
幹事を務めるアンサルド社の開発部長の音頭で皆が杯を掲げる。
この日、市の中心部チェネーダの司教座聖堂に近いホテルのレストランには、イタリアを代表する軍需企業の実務者達が集まっていた。アンサルド社、FIAT社、SPA社、フォサッティ社、いずれもイタリア陸軍の装備、特に戦車の開発生産に携わっている企業である。
英独仏等の列強に比べ弱小軽工業国にすぎないイタリアにとって、企業単独での戦車開発は手に余る仕事だった。このため有力企業が共同事業体を形成して開発生産にあたっていた。今日ここに集まった四社はその中心となる企業群である。
彼らが集まっている理由は母国イタリアが深く関与しているスペイン内乱にあった。正確に言えば今月発生したマドリード攻防戦の結果、いわゆる「スパニッシュ・パニック」である。
この当時、イタリア陸軍が装備する戦車はC.V.33軽戦車(後にL3と改称)しかなかった。3年前に正式化された戦車だが、開発母体となった英国カーデン・ロイド豆戦車からほとんど変わっていない。10年前ならいざ知らず進化の早い現在では、とてもでないが前線で使える戦車ではなかった。
もちろんイタリア軍も本車が時代遅れである事は十分承知しており新型中戦車の開発に着手してはいた。しかしラテン系らしいおおらかさで開発は遅々として進んでいなかった。
そんな中でスペイン内乱に投入されたC.V.33は、ソ連が人民戦線政府側に供給したT-26、BT-5といった最新鋭の軽戦車にマドリード攻防戦で惨敗を喫する事となる。当然の結果であった。
慌てたイタリア陸軍は中戦車開発の加速と計画の見直しを各社に要請した。
「おまえら仕事しろ!」
「「「オッケー!」」」
つまりは新たなビジネスチャンスである(計画遅れについては微塵も反省していない)。そして今日、各社は現在進行している計画を「仕切り直し」して巻き直すと称して、担当者を一堂に介してのパーティを開いていた。
「過ぎてしまった事は仕方がない。これから世界に比肩する戦車を開発すればよいのだ!」
「我々が本気になればソ連やイギリスに負けない戦車を作る事などたやすいさ!」
北イタリアらしい甘みの強いワインをしこたま飲んで上機嫌となった各社の担当者や技術者らは、気楽な意見を口にする。そして楽しい気分のままホテルで眠りについた。
翌朝、午前4時10分。
日もまだ明けやらぬ早朝、ゴーッという音と共にイタリア北部カンシリオ高地を中心とした一帯を強い揺れが襲った。世にいうカンシリオ地震(フリウリ地震)である。規模はマグニチュード5.9。日本であればそれほど大きな地震ではない。
しかし石造りの建造物が多いイタリアでは倒壊する建物も多かった。最も大きな被害を受けたのは震源に近いビットリオ・ベネト市のチェネーダ地区であった。
警察署、税務署、司教座聖堂、タウンホールを始めとして多くの建物が倒壊または大被害をうけた。その中にはアンサルド社、FIAT社、SPA社、フォサッティ社の戦車開発担当者、技術者の宿泊するホテルも含まれていた。
この日、イタリアは国内で戦車開発に携わる担当者・技術者を一夜にして全て失った。つまりイタリア独力による戦車開発はこの日を境に完全に頓挫することとなる。
「やばいやばいやばいやばい!ドイツさん助けて!」
事態を把握し青くなったイタリアはドイツに泣きついた。戦車の共同開発か、それが駄目ならせめて購入が出来ないかと打診したのである。
「無理」
当時ドイツは二号戦車・三号戦車を開発中であった。しかし政治面、防諜面の懸念からイタリアの要請はにべもなく断られてしまう。
「大体、お前の所じゃ作れないだろ?」
しかも仮にドイツ戦車のライセンス生産が認められていたとしても、当時のイタリアの技術力では装甲板の溶接で構成された車体など、とてもでないが生産できそうもなかった。
切羽詰まったイタリアは、当時関係を深めつつあった日本に新型戦車の共同開発を打診する。
「日本さんお願い!一緒にやりませんか?」
「いいっすよ。代わりにお金と技術よろしくね♪」
日本も当時ちょうど八九式中戦車の後継となる新型中戦車の開発に着手していた。欧州から遠いため何の気兼ねも無い日本は、開発費の分担と新技術の提供を条件に共同開発に同意した。
こうして開始された日伊共同の新型戦車開発であったが、日本側の思惑は半分しか叶えられなかった。
「イタリア使えね~」
イタリアから得るつもりだった新技術が、日本が期待した程ではなかったからである。何しろ両国とも列強の端にようやくぶら下がる弱小軽工業国家に過ぎない。装甲板やディーゼルエンジン技術などはむしろ日本の方が進んでいる程だった。(イタリア海軍には見るべき技術も多々あったが、当然ながら日本海軍は本共同開発計画に全く関与していない)
もちろん全く成果が無かった訳ではない。
当時、対戦車戦闘も可能な適当な砲の無かった日本は、イタリアの32口径47mm砲(Cannone da 47/32)のライセンスを取得し備砲に採用した。日本より若干マシな通信機も得ている。スペイン内乱の戦訓が得られた事も大きい。また日本より自動車の普及が進んでいる事から、エンジンの製造やメンテナンスのノウハウも得ていた。
しかし、イタリア側の技術者が全滅してしまっている状況のため、開発はほぼ日本主導で行われた。つまり日本側としては、変な横ヤリもなく開発費が潤ったのでウハウハであった。
開発も非常に順調に進んだ。
当初、目標重量10トン/13.5トンの軽重二案あった開発案は、イタリアから齎されたスペイン内乱の戦訓から早期に13.5トン案に統一され、1937年(昭和十二年)春には試作車も完成する。
重量は当初計画を大幅に超過し15トンに達してしまったが、その性能は当時としては世界水準に達しており、日伊両国を十分満足させるものであった。そしてその年にそれぞれ九七式中戦車(チハ)、M15/37として制式採用される。
実はイタリアとしては15トンもの重量から重戦車に分類しP15/37と命名したかったが、日本が同車を中戦車に分類する以上、見栄として中戦車に分類せざるを得なかった。
本車の初陣は、1939年(昭和十四年)のノモンハン事件におけるハルハ河の戦いであった。
日本はソ連の張り巡らしたピアノ線鉄条網に苦戦したものの、ソ連の装甲車や戦車に対して圧倒的優位に戦いを進め、その優秀性を実証した。イタリアもスペインで苦渋を飲まされたT-26やBT-5に勝ったと聞いて非常に喜んだという。
その後、ノモンハンの戦訓により砲は47mmのままながら32口径から40口径に長砲身化され若干ながら攻撃力が増した。車体前面・砲塔前面に25mm厚の増加装甲がボルト止めで追加され防御力も向上している。車重も16トンに増加したが、それにあわせてエンジン出力も上がっている。
全般的に性能の向上したこのタイプは九七式中戦車改(チハ改)、M16/39と呼ばれ、以後の日伊両国の主力戦車となった。
そしてこの戦車が日伊それぞれの母国から海を渡り、北アフリカへと送られる事になるのであった。
イタリアの戦車開発を見れば、いかに日本陸軍の戦車がマシだったか分かります。どうしてドイツと組んでたのにイタリアの戦車はあんな事になったのか……